コンテンツにスキップ

「ドラガン・ストイコビッチ」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
(25人の利用者による、間の37版が非表示)
1行目: 1行目:
{{存命人物の出典明記|date=2010年8月}}
{{独自研究|date=2010年8月}}
{{参照方法}}
{{サッカー選手
{{サッカー選手
|名前=ドラガン・ストイコビッチ
|名前=ドラガン・ストイコビッチ
|画像=
|画像=
|本名=
|本名=
|愛称=ピクシー
|愛称=PixyまたはPiksi(ピクシー、妖精)
|カタカナ表記=
|カタカナ表記=
|アルファベット表記={{lang|sr-Latn-CS|Dragan Stojković}}
|アルファベット表記={{lang|sr-Latn-CS|Dragan Stojković}}
31行目: 28行目:
|監督チーム={{flagicon|Japan}} [[名古屋グランパスエイト|名古屋グランパス]]
|監督チーム={{flagicon|Japan}} [[名古屋グランパスエイト|名古屋グランパス]]
}}
}}
'''ドラガン・ストイコビッチ'''({{Lang-sr|Драган Стојковић}} - {{ラテン翻字|sr|ISO|Dragan Stojković}}、[[1965年]][[3月3日]] - )は、[[ユーゴスラビア]](現・[[セルビア|セルビア共和国]])[[ニシュ]]出身のサッカー指導者、元[[サッカー選手]]。ニクネムは「'''Pixy'''('''ピクシー''')」または「'''ミスター'''」
'''ドラガン・ストイコビッチ'''({{Lang-sr|Драган Стојковић}} - {{ラテン翻字|sr|ISO|Dragan Stojković}}、[[1965年]][[3月3日]] - )は、[[ユーゴスラビア]](現・[[セルビア|セルビア共和国]])[[ニシュ]]出身の元[[サッカー選手]]、サ指導者


愛称の'''Pixy'''またはPiksiは少年時代に見ていたアニメ「ピクシー&ディクシー」([[:en:Pixie and Dixie and Mr. Jinks|Pixie and Dixie and Mr. Jinks]])の主人公のネズミの名前に由来している<ref>記者グループ2001、14頁</ref>。本来のつづりはPixieであり、Pixy(妖精)というつづりはメディアが付けたものである<ref>ストイコビッチ2001、77頁</ref>。
== 紹介 ==
ユーゴスラビアサッカー界の[[英雄]]のひとりであり、現役時代は[[サッカーユーゴスラビア代表|ユーゴスラビア代表]]として活躍した。また、[[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]の[[名古屋グランパスエイト]]に約7年間在籍し、外国人のJリーガーとしても長く活躍したため、日本人にとっても馴染みが深い外国人選手のひとりでもあった。


== 概要 ==
現役引退後は[[セルビア・モンテネグロ]][[サッカー]]協会会長を経て、[[レッドスター・ベオグラード]]会長を務める(2007年10月12日辞任)。その他にも[[名古屋グランパスエイト]]のアドバイザーや、日本[[外務省]]の委嘱で西[[バルカン]][[平和]]定着・[[経済]]発展のための「平和親善大使」を務めている。[[2008年]]より名古屋グランパス監督に就任している。
地元の[[ラドニツキ・ニシュ]]からプロデビューし、1986年に名門[[レッドスター・ベオグラード]]に移籍すると[[ユーゴスラビア・プルヴァ・リーガ|プルヴァ・リーガ]]で2度優勝した。1990年にフランスの[[オリンピック・マルセイユ]]に移籍し、1992-93シーズンの[[UEFAチャンピオンズリーグ|UEFAチャンピオンズカップ]]で優勝したが、八百長問題によって優勝杯が剥奪された。1994年に日本の[[名古屋グランパス]]に移籍し、[[天皇杯全日本サッカー選手権大会]]で2度優勝したが、[[Jリーグ ディビジョン1|J1]]優勝はできなかった。


現役引退後はユーゴスラビア(→セルビア・モンテネグロ)協会会長や[[レッドスター・ベオグラード]]会長を歴任し、2008年に名古屋の監督に就任。2009年に[[AFCチャンピオンズリーグ]]で準決勝へ進出、2010年にクラブ初のJ1リーグ優勝に導いた。
==略歴==
===ユースからユーゴの星人へ===
[[1965年]] [[3月3日]]、ニシュに生まれる。[[1981年]]に地元クラブ、ラドニツキ・ニシュに加入。[[1983年]]にはプロ契約へと移行し、プロとしてのキャリアをスタートさせた。[[1984年]]、弱冠19歳にして[[UEFA欧州選手権1984|EUROフランス大会]]に出場したユーゴスラビア代表に選出され、国際大会にデビューした。対[[サッカーフランス代表|フランス]]戦ではPKによってゴールを決め、当時のユーロ最年少得点記録を更新する。この記録は[[UEFA欧州選手権2004|EURO2004]]にて[[ウェイン・ルーニー|ルーニー]]に更新されるまで破られることはなかった。同年開催された[[ロサンゼルスオリンピック (1984年)|ロサンゼルスオリンピック]]にも出場し、ユーゴスラビア代表の銅メダル獲得に貢献する。


== 経歴 ==
[[1985年]]、20歳の時[[兵役]]で[[コソボ社会主義自治州]]の[[プリシュティナ]]に赴任。除隊後の[[1986年]]、国内の名門レッドスター・ベオグラードに移籍する。移籍金は当時としては破格であった。[[1987年]]にはユーゴスラビア国内リーグのMVPを獲得するなど若き天才としてその名を轟かせ、[[1988年]]にはそれまで後塵を拝していたライバル、[[パルチザン・ベオグラード]]から覇権を奪回。国内リーグ優勝を果たし、2年連続で国内リーグMVPを獲得した。一部リーグの全チームの主将と監督による選手投票でもMVPを獲得し、名実ともにユーゴスラビアのスターとしての地位を確立する。同年開催の[[ソウルオリンピック]]にもユーゴスラビア代表として出場、3試合出場で2得点1アシストと活躍。<br />
=== 選手経歴 ===
オフシーズンには後に名古屋の監督となる[[アーセン・ベンゲル]]率いる[[ASモナコ]]と親善試合を行う。この試合後、ベンゲルはストイコビッチ獲得を申し込んだが、当時のユーゴは26歳未満は移籍禁止という旧共産圏の移籍条項が残っており、移籍話は流れる。
==== ラドニツキ・ニシュ ====
1965年3月3日、セルビア共和国第2の都市[[ニシュ]]近郊に生まれ、3歳の頃からストリートサッカーに興じていたという<ref name="記者グループ16頁">記者グループ2001、16頁</ref>。14歳の時に[[ラドニツキ・ニシュ]]の下部組織に入団し、16歳でトップチームに昇格した<ref>木村1998、14-15頁</ref>。当時のユーゴスラビアには[[レッドスター・ベオグラード]]、[[パルチザン・ベオグラード]](いずれも[[セルビア共和国]])、[[ディナモ・ザグレブ]]、[[ハイデュク・スプリト]](いずれも[[クロアチア共和国]])の4つのビッグクラブがあり、それ以外のクラブから代表選手が招集されることは稀だったが、18歳の時にはじめて[[サッカーユーゴスラビア代表|ユーゴスラビア代表]]に招集され、[[サッカーフランス代表|フランス]]戦で初出場して[[ミシェル・プラティニ]]とユニフォーム交換をしている<ref>記者グループ2001、17頁</ref>。1984年6月2日、代表2キャップ目の[[サッカーポルトガル代表|ポルトガル]]戦で初得点を記録し<ref>ストイコビッチ2001、174頁</ref>、その直後の[[UEFA欧州選手権1984]]に出場するもグループリーグ3戦全敗で敗退した。[[サッカーフランス代表|フランス]]戦では大会最年少得点を記録し、[[UEFA欧州選手権2004]]にて[[ウェイン・ルーニー]]に更新されるまで破られることはなかった。同年の[[ロサンゼルスオリンピック]]では銅メダルを獲得し、大会中に召集令状が届いたため[[コソボ社会主義自治州|コソボ自治州]]に派兵されたが、彼が1年間サッカーから離れている間にラドニツキ・ニシュは2部リーグに降格した<ref name="誇り17頁">木村1998、17頁</ref>。プロサッカー選手として活動する傍ら、地元ニシュの大学で経済学を学んだ<ref name="記者グループ16頁"></ref>。


==== レッドスター・ベオグラード ====
[[1989年]] 、レッドスター・ベオグラードより「'''[[レッドスター・ベオグラード#星人|星人]]'''」(Zvezdine Zvezde)の称号を与えられる。星人とはレッドスターに大きな貢献をした偉大な選手に贈られる称号でクラブの歴史10年に対して1人の選手にしか贈られない。ストイコビッチは1980年代の星人である。このシーズンも大活躍を見せたストイコビッチはリーグ戦こそ連覇を逃すものの、3年連続でリーグMVPに輝き、選手・監督による投票でも再びMVPに選出され、そのキャリアにさらなる輝きを添えた。
1986年には[[レッドスター・ベオグラード]]に移籍し、スタジアムに照明塔を付けられるだけの巨額の移籍金とレッドスターの選手レギュラー5人が対価として支払われた<ref>木村1998、19頁</ref>。移籍直後からヴェリボル・ヴァソヴィッチ監督に実力や人間性を高く評価され、レッドスター史上最年少でキャプテンに就任すると<ref>木村1998、21頁</ref>、1986-87シーズンはリーグ2位の15得点を決め、1987-88シーズンは[[ロベルト・プロシネツキ]]や[[デヤン・サビチェビッチ]]とともに[[ユーゴスラビア・プルヴァ・リーガ|プルヴァ・リーガ]]を制した。1988-89シーズンの[[UEFAチャンピオンズリーグ|UEFAチャンピオンズカップ]]2回戦では[[ACミラン]]と対戦し、敗れはしたものの2試合で2得点を決めて自身の名前を印象付けた<ref>木村1998、37頁</ref>。1988年には[[ソウルオリンピック]]に出場し、3試合に出場して2得点1アシストと活躍した。[[1990 FIFAワールドカップ]]欧州予選では[[サッカーフランス代表|フランス]]を破る得点を決め、8勝2分0敗という圧倒的な成績で本大会出場を決めた。1989年5月には人格・人気・実力を兼ね備えた選手に贈られるクラブの「[[レッドスター・ベオグラード#星人|星人]]」(Zvezdina Zvezda)の称号を手にした<ref>木村1998、40頁</ref>。この称号はクラブに長く貢献した選手への功労賞のような側面を持っており、在籍わずか3年の24歳の若手であったストイコビッチの受賞は極めて画期的なことであった<ref>木村1998、41頁</ref>。レッドスターでは1988年から1990年まで3年連続でリーグ最優秀選手に選ばれた<ref>ストイコビッチ2001、97頁</ref>。


[[イビチャ・オシム]]が監督を務めるユーゴスラビア代表の一員として、1990年に自身初の[[FIFAワールドカップ]]に臨んだ。[[1990 FIFAワールドカップ]]グループリーグ初戦の相手は[[サッカー西ドイツ代表|西ドイツ]]であったが、[[ローター・マテウス]]に完璧に封じられた。[[サッカーコロンビア代表|コロンビア]]戦や[[サッカーアラブ首長国連邦代表|アラブ首長国連邦]](UAE)戦でも本領を発揮するには至らなかったが、決勝トーナメント1回戦の[[サッカースペイン代表|スペイン]]戦では直接フリーキックの得点を含む2得点を決め、[[ガゼッタ・デッロ・スポルト]]紙の採点で8.5の高評価を受けた<ref name="木村2001、36頁">木村2001、36頁</ref>。[[ディエゴ・マラドーナ]]との背番号10対決となった準々決勝の[[サッカーアルゼンチン代表|アルゼンチン]]戦はPK戦までもつれたが、その1番手として蹴ったキックを失敗し、そのまま敗れて大会を後にした<ref name="木村2001、36頁"></ref>。
===ワールドカップデビュー===
ユーゴスラビアのみならずヨーロッパのサッカーシーンでもその名を噂されるサッカー選手へと成長したストイコビッチだったが、母国・ユーゴスラビアは[[スロヴェニア]]・[[クロアチア]]の独立運動に大きく揺らぎ始め、国内リーグも混沌とした様相を呈し始めた([[1990年ディナモ・ザグレブ対レッドスター・ベオグラード戦での暴動|ナショナル・スタジアムの暴動]]など。詳細は[[サッカーユーゴスラビア代表#歴史|ユーゴ代表の歴史]]を参照)。政治対立に翻弄された1989-90シーズンではあったが、レッドスターは再びリーグ制覇を果たした。


==== オリンピック・マルセイユ ====
ストイコビッチはユーゴ代表として自身初のW杯に臨む。戦前の不安を振り払うかのように[[イビチャ・オシム]]率いる代表チームは躍動し、ストイコビッチもチームのベスト8進出に貢献。[[サッカースペイン代表|スペイン]]戦では2ゴールを挙げ、世界に名を知られるようになった。続く準々決勝では[[ディエゴ・マラドーナ|マラドーナ]]、[[ホルヘ・ブルチャガ|ブルチャガ]]、[[クラウディオ・カニーヒア|カニーヒア]]らを擁する前回王者、アルゼンチンと対戦。マラドーナのマークを任された[[レフィク・サバナゾヴィッチ|サバナゾビッチ]]を前半のうちに退場で失うなど苦境に立たされ、延長まで0-0で戦い抜くもののPK戦の末2-3で敗れた。ストイコビッチはユーゴの1番手で登場したが、キックをバーに当て失敗してしまう。敗北に突っ伏して泣くストイコビッチに、マラドーナは「泣くんじゃない。君はこれからの選手なんだ」と声を掛けた<ref>[http://www.sanspo.com/soccer/news/100417/scd1004171925001-n1.htm 【W杯スター列伝】ドラガン・ストイコビッチ]、sanspo.com、2010年4月17日</ref>。
FIFAワールドカップ前の1990年1月、フランス・[[リーグ・アン|ディヴィジョン・アン]]2連覇中の[[オリンピック・マルセイユ]]と移籍金500万ポンドで<ref>木村2001、32頁</ref>契約を結んだ<ref>木村1998、45頁</ref>。当時のユーゴスラビアでは26歳以下の選手は海外移籍することが許されていなかったが、特例で移籍が認められたのであった。フランス代表の[[ジャン=ピエール・パパン]]や[[エリック・カントナ]]、イングランド代表の[[クリス・ワドル]]、ガーナ代表の[[アベディ・ペレ]]など名選手が揃う中で背番号10を与えられたが、1990-91シーズン開幕早々の[[FCメス]]戦で左膝を負傷し、シーズンの大半を棒に振った<ref>木村1998、58-59頁</ref>。サッカー選手人生で幾度もの膝の負傷に悩まされたが、この時の怪我の度合いは引退を考えるほど深刻であった<ref>木村2001、53頁</ref>。UEFAチャンピオンズカップ決勝では古巣のレッドスターと対戦したが、試合終了間際の数分間しか出場できず、PK戦の末に敗れて準優勝に終わった。1991-92シーズンは[[セリエA (サッカー)|セリエA]]の[[エラス・ヴェローナFC]]にレンタル移籍したが、イタリアの守備重視の戦術になじめず、怪我の影響もあって不完全燃焼に終わった。


ユーゴスラビア代表は[[UEFA欧州選手権1992]]予選を破竹の勢いで勝ち進み、7勝1敗で楽々と通過したが、予選期間中に[[クロアチア]]がユーゴスラビアからの分離独立を宣言し、[[ズボニミール・ボバン]]、FW[[ダヴォール・シューケル]]、[[ロベルト・ヤルニ]]などの主力選手がクロアチア国籍を取得してチームを去った<ref>木村1998、67頁</ref>。代表チームは[[ストックホルム]]入りして最後の調整に励んでいたが、内戦への裁定として国連が制裁措置を取り、ユーゴスラビア代表はUEFA欧州選手権の出場停止処分を受けた<ref>木村1998、77頁</ref>。
大会終了後、当時隆盛を極めたフランスの[[オリンピック・マルセイユ]]に多額の移籍金で移籍(当時ストイコビッチの年齢は25歳だったがユーゴサッカー協会は規定の26歳より1年早い移籍を最終的に認めた。これは社会主義時代では異例の決定)。当時マルセイユ監督の[[フランツ・ベッケンバウアー|ベッケンバウアー]]が「ストイコビッチは世界でも最高の才能を持った選手。数年後にバロンドールを獲らなかったとすれば、それは何か手違いがあっての事だろう」と発言。しかし移籍初年度リーグ戦開幕直後の第2節・[[FCメス|メス]]戦でGKに足を掴まれ落下。左膝にその後の数年間彼を悩ませる怪我を負う(手術は計3回)。チームは同年リーグ優勝を飾る。また、UEFAチャンピオンズカップ決勝で古巣レッドスター・ベオグラードと対戦し、ストイコビッチは延長戦終了間際7分間出場したがチームは敗戦し準優勝で終わる。


1992-93シーズンのUEFAチャンピオンズカップでは決勝で[[ACミラン]]を破り、リーグ戦で5連覇を達成したが、[[バランシエンヌFC]]監督の[[ボロ・プリモラツ]]がマルセイユの八百長を告発し<ref>木村1998、85頁</ref>、1994年3月23日に[[リーグ・ドゥ|ディヴィジョン・ドゥ]](2部)降格・UEFAチャンピオンズカップ優勝杯剥奪が決定した<ref>木村1998、89頁</ref>。クラブは2年間の契約延長を申し出たが、ストイコビッチはそれを拒否し、半年間という期限を定めてヨーロッパを離れる決断をした<ref>木村1998、90頁</ref>。
1991-92シーズンよりイタリア [[セリエA (サッカー)|セリエA]]の[[エラス・ヴェローナ]]へレンタル移籍。しかし怪我で出場試合は少なく、ヴェローナはこのシーズン終了後セリエBに降格。シーズン終了後はオリンピック・マルセイユへ戻ることとなる。


==== 名古屋グランパス ====
[[1991年]]には[[ユーゴスラビア内戦]]が始まり、家族の生命が脅かされることを理由にユーゴ代表を辞退する選手が続出した。そんな中でも[[UEFA欧州選手権1992|EUROスウェーデン大会]]への切符を手にしたが、大会開催直前の[[1992年]][[5月28日]]、ストックホルムの[[ストックホルム・アーランダ国際空港|アーランダ国際空港]]に降り立った代表チームに対し、ユーゴスラビア内戦に対する[[国際サッカー連盟|FIFA]]の制裁措置(ユーゴスラビアの国際大会への出場停止)が開始され、EUROの出場資格剥奪と国外強制退去の通達がなされた。この大会においてユーゴスラビア代表は優勝候補の筆頭とも言われていたが、この制裁と次々に分離独立を果たすユーゴ諸国の動向に合わせて「ユーゴスラビア代表」も完全に崩壊した。ストイコビッチはその後も[[サッカーユーゴスラビア代表|ユーゴ代表]]としてプレーを続けるが、その制裁が解かれたのは[[1994年]][[12月23日]]であり、[[1994 FIFAワールドカップ|W杯・アメリカ大会]]には予選出場すら叶わなかった。
; 1994年
1994年6月13日、[[日本プロサッカーリーグ]](Jリーグ)の[[名古屋グランパスエイト]]と年俸(7ヶ月分)5000万円で契約し、マルセイユには移籍金9000万円が支払われた<ref>記者グループ2001、12頁</ref>。大物外国人として騒がれた[[ゲーリー・リネカー]]が十分に活躍できなかったこともあってか、ファンやマスコミはストイコビッチを懐疑的な目で見る者も多かった<ref>木村2001、321頁</ref>。7月16日の[[浦和レッドダイヤモンズ]]とのプレシーズンマッチでチームデビューし<ref name="木村2001、80頁">木村2001、80頁</ref>、8月10日のセカンドステージ開幕戦の[[サンフレッチェ広島]]戦でリーグ戦デビューしたが、試合開始18分で2枚のイエローカードを提示され、散々なデビュー戦となった<ref>木村1998、101頁</ref>。豪雨の中での試合となった9月17日の[[ジェフユナイテッド市原・千葉|ジェフユナイテッド市原]]戦ではリフティングドリブルで観客の度肝を抜き、さらに移籍後初得点となる直接フリーキックを決めてマン・オブ・ザ・マッチに輝いた<ref>木村1998、104-106頁</ref>。9月23日に[[ゴードン・ミルン]]が監督を辞任し、三浦哲郎が暫定監督に就き指揮を執ったが、セカンドステージは最下位に終わった<ref>木村1998、110頁</ref>。かねてより後任監督に推薦していた[[アーセン・ベンゲル]]が1994年11月に新監督として就任したため、半年間だけの在籍という予定を変更し、年俸5500万円で契約を更改した<ref name="誇り115頁">木村1998、115頁</ref>。12月にはユーゴスラビア代表への制裁措置が一部解除されたため、代表の新キャプテンとして1994年12月23日に行われた[[サッカーブラジル代表|ブラジル]]との親善試合に出場した<ref name="誇り115頁"></ref>。


; 1995年
EURO後の1992-93シーズンは怪我のため1試合もリーグ戦に出場出来ず、名誉挽回を期して臨んだ1993-94シーズンではオリンピック・マルセイユの会長による[[八百長]]疑惑が発覚。「'''クラブがこのシーズンいかなる結果を出そうとも、シーズン終了後に2部降格させる'''」との措置が執られ、ストイコビッチは代表のみならずクラブにおいても不運を味わい続けることとなった。
1995年も開幕からしばらくは下位に低迷した。ストイコビッチ自身も判定に対する苛立ちから審判に食ってかかり、出場停止が明けては退場処分を繰り返し、負けが続いたチームの足を引っ張った<ref>木村2001、40頁</ref>。しかし、5月の中断期間の間に行ったキャンプでベンゲルの戦術が再確認され、ファーストステージは15勝11敗(中断期間後は9勝1敗)の4位に躍進した。ベストイレブン投票ではミッドフィールダー部門最多の得票を集めて選出された<ref name="誇り129頁">木村1998、129頁</ref>。セカンドステージ開幕戦の[[ジュビロ磐田]]戦では1得点3アシストの活躍でマン・オブ・ザ・マッチに選ばれた<ref name="誇り130頁">木村1998、130頁</ref>。ファンは彼のプレーに魅了され、応援団のコールで叫ばれる名前は「ストイコビッチ」から「ピクシー」に変わった<ref name="誇り130頁"></ref>。[[東京ヴェルディ1969|ヴェルディ川崎]]との直接対決に敗れて優勝は果たせなかったが、17得点29アシストと獅子奮迅の活躍を見せ、得点王の[[福田正博]]に大差をつけてリーグ最優秀選手に選ばれた<ref>木村1998、144頁</ref>。天皇杯では[[ヴィッセル神戸]]や[[鹿島アントラーズ]]を退けて決勝に進出し、決勝では[[サンフレッチェ広島]]に3-0で快勝して優勝を果たした。


; 1996年
===名古屋への移籍===
1996年初の公式戦となった[[FUJI XEROX SUPER CUP|ゼロックス・スーパーカップ]]では横浜マリノスと対戦し、2-0で快勝してタイトルを獲得した<ref>記者グループ2001、103頁</ref>。彼自身は3ステージ連続でリーグ開幕戦に得点し、チームは開幕から7勝1敗と絶好調だったが、急に失速してファーストステージを10勝5敗の6位で終えた。5月26日には[[キリンカップサッカー]]にユーゴスラビア代表として出場し、キャプテンとして臨んだ日本戦で代表50キャップ目を記録した<ref>記者グループ2001、110頁</ref>。
癒えない膝のケガ、所属クラブの[[八百長]]問題、[[ユーゴスラビア紛争]]によるユーゴスラビアの国際大会への参加禁止制裁などの不運が重なり続け、輝きを失いかけていたストイコビッチの転機になったのが創設間もないJリーグへの移籍だった。元イングランド代表[[ゲーリー・リネカー]]が在籍していた事もきっかけの一つとなり、半年の期限付きで[[名古屋グランパスエイト]]へと移籍を果たす。初公式戦の広島戦では前半のうちに[[イエローカード]]2枚で退場など慣れない環境やチーム事情、外国人枠の制限もあり彼らしいプレイを見せることはできなかったが、いくつかの試合で素晴らしいプレーを披露。しかしチームは低迷し、代表クラスの選手を多く抱えながら94年2ndステージは最下位に沈むなどまたしても苦境に立たされる。


[[アトレティコ・マドリード]]などからオファーがあったが、9月12日にはクラブとの契約を2年延長して1998年いっぱいまで名古屋でプレーすることになった。セカンドステージ途中、9月28日の[[柏レイソル]]戦をもってベンゲルが監督を退任したが、最終的には21勝9敗で2位という好結果を残した<ref name="木村2001、208頁">木村2001、208頁</ref>。10月30日のV川崎戦では[[中村忠 (サッカー選手)|中村忠]]に頭突きを見舞い、3試合の出場停止処分を言い渡された<ref name="木村2001、208頁"></ref>。[[Jリーグチャンピオンシップ#サントリーカップ・96Jリーグチャンピオンズ・ファイナル|Jリーグチャンピオンシップ]]で優勝し、MVPに選ばれた<ref name="木村2001、208頁"></ref>。11月には[[アジアカップウィナーズカップ]]に出場して準優勝した。
クラブのみならずストイコビッチが輝きを取り戻す最大の切っ掛けとなったのが、1995年に名古屋の監督として招聘された[[アーセン・ベンゲル]]との出会いである。モナコ時代にストイコビッチの活躍を目にしていたベンゲルは、始めはなかなかうまくいかなかったものの、リーグ中断期間までかけてグランパスをストイコビッチを中心としたチームに作り替えることに成功した。ストイコビッチは1995年シーズンには45試合に出場し17得点29アシストと獅子奮迅の活躍を見せJリーグの年間MVPを獲得、[[1995年のJリーグ#ベストイレブン|ベストイレブン]]にも選出される。1996年には[[天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]優勝を勝ち取り、グランパスの躍進に貢献した。


; 1997年
96年シーズンを最後にベンゲルが去った後もストイコビッチは中心選手として活躍を続けた(ベンゲルが[[アーセナル]]の監督に就任した際にはストイコビッチも一緒に連れて行こうとしたという逸話もある)。[[1994年]]末に制裁の解けたユーゴ代表のキャプテンとしてもプレーし続け、FIFAの制裁措置解除後、初の[[国際Aマッチ]]となった1994年[[12月23日]]の対ブラジル戦でもプレー。このブラジル戦を貴賓席で観戦した[[ペレ]]は「もう一度W杯で彼のプレーが見たい」と絶賛した(その後ペレはイギリスのTV番組で世界最高の選手は誰か? との問いには「[[ロマーリオ]]、[[ロベルト・バッジョ]]、ストイコビッチだ」と答えている。大住良之 東京新聞コラムより[http://www.soccertalk.jp/content/soccertalk/1995/12/])
1997年3月2日、[[サンワバンクカップ]]の[[D.C. ユナイテッド]]戦では1得点2アシストの活躍で[[メジャーリーグサッカー|MLS]]王者を下した<ref>記者グループ2001、126-127頁</ref>。しかし、リーグ戦では前年の快進撃が嘘のように歯車が噛み合わず、7月9日の[[横浜F・マリノス|横浜マリノス]]戦では提示されたイエローカードを逆に主審に突きつけ、審判を侮辱する行為だとして4試合の出場停止処分を受けた<ref>中日スポーツ、1995年9月10日</ref>。 [[ヤマザキナビスコカップ]]では準決勝に進出したが、リーグ戦のファーストステージは12位、セカンドステージは5位、天皇杯は[[FC東京|東京ガスサッカー部]]に敗れて初戦敗退と振るわず、実りの少ないシーズンであった<ref>木村2001、208頁</ref>。 [[1998 FIFAワールドカップ]]欧州予選には毎回日本から駆け付け、1位通過は[[サッカースペイン代表|スペイン]]に許したが、プレーオフでは[[サッカーハンガリー代表|ハンガリー]]相手に2試合合計12-1で大勝して本大会出場を決めた。


; 1998年
ユーゴ内戦の混乱が続く中でもユーゴ代表は[[1998 FIFAワールドカップ|W杯フランス大会]]のヨーロッパ予選を突破。FIFAの制裁措置解除後初の国際大会出場となる。代表は本戦のグループリーグも突破したが、決勝トーナメント1回戦でオランダに敗れてベスト16に終わる。ストイコビッチ自身はキャプテンとして4試合全てに出場し、グループリーグで1ゴールを決めた。この時ユーゴ代表の試合で(日本代表の応援の為にフランスに来ていた)日本のサポーター達がストイコビッチの応援の為に大勢スタジアムを訪れ声援を送った事に感激し引退まで日本でいようと決心したと言われている。
1998年のファーストステージは試合ごとの浮き沈みが激しかったが、終盤の追い上げで3位に順位を上げて幕を閉じた。制裁措置解除後初の国際大会出場となった[[1998 FIFAワールドカップ]]グループリーグの[[サッカードイツ代表|ドイツ]]戦は2-2の引き分けに終わったが、ストイコビッチを中心とした華麗なパス回しでピッチを支配し、一時は2-0と優勢に試合を進めた<ref>木村2001、47頁</ref>。決勝トーナメント1回戦の[[サッカーオランダ代表|オランダ]]戦ではスロボダン・コムリエノビッチの同点弾をアシストする絶妙なフリーキックを蹴ったが、ロスタイムに決勝点を決められて敗れた<ref>木村2001、48頁</ref>。FIFAワールドカップ期間中には欧州のクラブへの復帰が噂された<ref name="木村2001、208頁"></ref>。8月16日に行われた[[Jリーグオールスターサッカー]]では同点となる得点を決めたほか2点目と3点目の起点にもなり、2年連続でMVPを受賞した<ref>記者グループ2001、157頁</ref>。セカンドステージも優勝争いからは早々に脱落。天皇杯は準決勝で[[清水エスパルス]]に敗れた。


; 1999年
続く[[1999年]]もヨーロッパと日本の往復をこなしながら精力的に活躍を続け、その年の10月9日に行われた[[EURO2000|ユーロ2000]]予選・クロアチア対ユーゴスラビア戦にも出場。[[スタディオン・マクシミール|マクシミル・スタディオン]]での因縁の1戦に臨み、引き分けて本大会出場権を勝ち取る。
1999年には[[呂比須ワグナー]]([[ベルマーレ平塚]]より)、[[山口素弘]]、[[楢崎正剛]](いずれも[[横浜フリューゲルス]]より)の3人の日本代表クラスの選手が加入し、リーグ戦初優勝が期待された<ref>記者グループ2001、176頁</ref>。3月6日、[[アビスパ福岡]]との開幕戦では3年ぶりにヘディングで得点を決め、幸先の良いスタートを切ったが、3月24日には[[北大西洋条約機構]](NATO)による母国ユーゴスラビアへの空爆が開始され、それが6月10日まで続いた。それまではできる限り政治的な発言は控えて来たストイコビッチであったが、3月27日の神戸戦後に「NATO STOP STRIKES」(NATOはユーゴスラビアへの空爆を止めよ)というアンダーシャツを見せて空爆への抗議行動をとり、Jリーグより注意を受けた<ref>記者グループ、180頁</ref>。


優勝候補筆頭に挙げられたファーストステージは7勝7敗の8位に終わったが、セカンドステージ途中に[[ジョアン・カルロス]]が監督に就任するとチームは息を吹き返し、クラブ記録を更新する10連勝でセカンドステージは11勝3敗の2位と巻き返した<ref>記者グループ2001、189-194頁</ref>。フランスやオーストリアのクラブからのオファーもあったが、約3割の減額を飲んだ年俸1億3000万円で契約を1年間延長した<ref>記者グループ2001、192頁</ref>。天皇杯決勝の[[サンフレッチェ広島]]戦では1得点1アシストの活躍を見せ、2度目のタイトルを手にした<ref>「監督1年目から結果を残したピッチ上の妖精(上)」『月刊グラン』、2009年2月号</ref>。[[UEFA欧州選手権2000]]予選は政治的理由からユーゴスラビア代表に不利なスケジュールを余儀なくされ、最終節までユーゴスラビア、[[サッカーアイルランド代表|アイルランド]]、[[サッカーチェコ代表|チェコ]]の3ヶ国が首位を争ったが、最終戦でクロアチアに引き分けて本大会出場を決めた。
===最後の国際大会と引退===
[[2000年]]元日には名古屋にて自身2度目の天皇杯優勝を飾り、個人タイトルとしてMVP獲得。幸先の良いスタートを切り、[[EURO2000]]に向けてのユーゴスラビア代表にも選出される。35歳とキャリアの晩年に差し掛かっており、欧州外のクラブでプレイしていると言うことで当時の[[ヴヤディン・ボスコフ]]監督にも冷遇されがちだったストイコビッチだったが、グループリーグの対[[サッカーノルウェー代表|ノルウェー]]戦で先発。キレのあるドリブル、ピンポイントのスルーパスを何度も通し勝利(1-0)に貢献、マン・オブ・ザ・マッチに選ばれる。グループリーグを2位で突破し臨んだ決勝トーナメント1回戦ではオランダ代表に1-6と大敗を喫してベスト8に終わったものの、NATOによるユーゴ空爆など全土が戦火に喘ぐ中、不利を予想されながら示した代表の実力は確かなものであった。そしてこれがストイコビッチの現役時代最後のビッグトーナメントとなる。


; 2000年
[[2000年]]9月末、ストイコビッチはシーズン終了後の引退を公言する。しかし名古屋サポーターの強い慰留の声とストイコビッチ自身の「名古屋でリーグ優勝したい」という思いもあり、引退を半年延長。[[2001年]]7月4日、国際親善試合・日本対ユーゴスラビア戦にて代表としてのキャリアに終止符を打ち、リーグ優勝は果たせなかったものの、[[2001年]]第1ステージを最後に引退した。最終戦は同年7月21日、対[[東京ヴェルディ1969]]戦であった。東京スタジアム(現:味の素スタジアム)でのアウェー戦だったが、ゲーム終了後はヴェルディサポーターを含む全ての観衆が[[スタンディング・オベーション]]を行い、彼の引退を惜しんだ。
2000年3月4日、[[ジュビロ磐田]]と対戦したゼロックス・スーパーカップはPK戦の末に敗れた<ref>記者グループ2001、198頁</ref>。5月6日のV川崎戦では約25mの距離から直接フリーキックを沈め、Jリーグ史上23人目となる通算50得点を達成した<ref>記者グループ2001、204頁</ref>。


[[UEFA欧州選手権2000]]では世代交代を進めたい監督の[[ヴヤディン・ボシュコヴ]]に冷遇され、控え選手の立場で大会に臨んだが、グループリーグ初戦の[[サッカースロベニア代表|スロベニア]]戦では0-3の場面で途中出場して3-3の引き分けに持ち込み、チームに欠かせない存在であることをアピールした<ref>木村2001、49頁</ref>。[[サッカーノルウェー代表|ノルウェー]]戦では先制点の起点となるフリーキックを放ってマン・オブ・ザ・マッチに選ばれ、[[サッカースペイン代表|スペイン]]戦は試合終了間際に逆転負けを喫したものの、グループリーグを2位で辛くも勝ち抜いた<ref>記者グループ2001、208頁</ref>。決勝トーナメント1回戦では2年前に敗れたオランダと対戦し、1-6の大差で敗れてベルギーとオランダを後にした。この大会がユーゴスラビア代表として臨んだ最後の主要大会となった。
===故国への帰郷から再来日~現在まで===
故国ユーゴスラビアに帰国して間もない2001年9月、ユーゴスラビアサッカー協会会長に就任。10月1日には豊田スタジアムにて引退記念試合を(名古屋グランパスエイト対レッドスター・ベオグラード)、10月30日にはニシュのチャイル・スタジアムにて引退記念試合(ラドニツキ・ニシュ対[[ヴァルダル・スコピエ]])を開催し、12月には2001年度のJリーグアウォーズにて功労選手賞を受賞する。また引退直後には名古屋グランパスとテクニカル・アドバイザーの契約を締結、日本との繋がりは途切れることなく続いていた(以降、ほぼ毎年来日している)。[[2004年]]3月には日本外務省より西バルカン平和定着・経済発展のための「平和親善大使」を委嘱される。


8月26日に行われた[[Jリーグオールスターサッカー|たらみオールスターサッカー]]では直接フリーキックを決め、1996年・1998年に続く3度目のMVPを受賞した<ref>記者グループ2001、217頁</ref>。セカンドステージ途中には[[大岩剛]]、[[望月重良]]、[[平野孝]]の3選手に突然の戦力外通告が告げられたため、ストイコビッチを含め選手たちには動揺が走り、優勝争いには全く絡まずにシーズンを終えた<ref>記者グループ2001、218頁</ref>。来日7シーズン目ではじめて退場処分を受けなかった。11月30日には契約を半年間延長し、契約が満了する2001年7月末をもって現役引退することが発表された<ref>記者グループ2001、215頁</ref>。
[[2005年]]7月6日にはレッドスター・ベオグラード会長に就任([[セルビア・モンテネグロ]][[サッカー]]協会会長は9月の任期切れを待たず辞任した)。しかし[[2007年]]10月12日、「'''人生とスポーツの両面で疲れ果て、壁にぶち当たった。何かを終わりにし、新しいことを始めるちょうどいい時だ'''」(時事通信より[http://www.jiji.com/jc/c?g=spo_30&k=2007101300125])との言葉を残して、レッドスター会長を辞任。同時にレッドスターのクラブ関係者が、ストイコビッチは12月から名古屋グランパスエイトのスポーツディレクターに就任することが決まっていると発言したとの報道がされる。


; 2001年
その後、グランパス側が[[セフ・フェルホーセン]]に代わる[[2008年]]シーズンからの監督就任を要請し、交渉に応じたがストイコビッチの持つ[[欧州サッカー連盟|UEFA]]のコーチライセンスがJリーグで監督を行なうのに必要な[[JFA 公認S級コーチ|S級ライセンス]]の資格を満たさないと判断され、10月末に交渉は中止になった。しかしグランパスがJリーグと協議した結果、コーチライセンスを取得すれば監督就任が可能であるとされ、本人も監督業に意欲を示していることから11月に入り交渉が再開され、27日に仮契約を行った。これに合わせライセンスを取得すべく講習会の受講を開始。かつての師・ベンゲルが率いる[[アーセナルFC]]での実地研修プログラムも履修している。
2001年のファーストステージは開幕から5試合で4勝1分と好調な出だしだったが、6節で磐田との直接対決に敗れたことがきっかけとなり、磐田に優勝をさらわれた。7月21日の東京V戦で名古屋のユニフォームを脱ぎ、[[キリンカップサッカー]]の[[サッカー日本代表|日本]]との親善試合でユーゴスラビア代表のユニフォームを脱いだ<ref name="記者グループ226頁">記者グループ2001、226頁</ref>。この試合後にはユニフォーム交換の依頼が殺到し、彼の人気の高さを改めて実感させた<ref name="記者グループ226頁"></ref> <ref>なお、川口能活がストイコビッチのユニフォームを譲り受けている</ref>。名古屋ではリーグ戦178試合に出場し、55得点を記録した<ref name=”木村2001、414頁”>木村2001、414頁</ref>。そのうちの14得点はペナルティキックによるものであり、6得点はフリーキックを直接決めたものであり、1得点はコーナーキックを直接決めたものである<ref name="木村2001、414頁">木村2001、414頁</ref>。木村元彦によればアシスト数は95を数え<ref>Jリーグは公式記録にアシスト数を含めていない</ref>、アシストした回数が最も多いのは[[岡山哲也]]である<ref name="木村2001、414頁"></ref>。7年間の間にもらったイエローカードは69枚、退場処分回数は13回(そのうち一発退場回数は3回)に上った<ref name="木村2001、414頁"></ref> <ref>なお、記者グループ2001、62頁によればイエローカードの枚数は71枚である</ref>。


=== 引退後 ===
年が明けた[[2008年]]1月、ライセンスを獲得。グランパス監督に正式に就任し、およそ6年半ぶりにJの現場へと復帰した。同年3月、開幕2戦目で[[浦和レッドダイヤモンズ]]に勝利し、監督として初の白星を挙げる。その後もチームは順調に勝ち点を積み上げ、またグランパスにとってチーム創設以来未だかつて勝利がなかった[[茨城県立カシマサッカースタジアム|カシマスタジアム]]での鹿島アントラーズ戦にて勝ち星を記録し、同スタジアムで初勝利を挙げた監督となった。その後故障者などが出るなどしたが、[[鹿島アントラーズ]]、[[川崎フロンターレ]]と最終節まで優勝争いを繰り広げるなどグランパスの躍進に貢献し、最終的には3位で終了して[[AFCチャンピオンズリーグ|アジアチャンピオンズリーグ]]への出場権も獲得した。
引退直後には名古屋とテクニカル・アドバイザーの契約を締結した。2001年9月には[[豊田スタジアム]]の北10番ゲートが「ピクシーゲート」と命名された。10月9日には[[豊田スタジアム]]で引退記念試合(名古屋対[[レッドスター・ベオグラード]])を行い、10月30日にはニシュのチャイル・スタジアムにて引退記念試合(ラドニツキ・ニシュ対[[ヴァルダル・スコピエ]])を行った。同年9月にはユーゴスラビアサッカー協会(のちにセルビア・モンテネグロサッカー協会)会長に就任し、2005年に[[レッドスター・ベオグラード]]会長に就任するためにサッカー協会会長を辞任した。2004年3月には日本外務省より西バルカン平和定着・経済発展のための「平和親善大使」を委嘱された。同年7月にはセルビア・モンテネグロの治安の悪さを理由に[[パリ]]に移住した。2007年10月12日、「何かを終わりにし、新しいことを始めるちょうどいい時だ」と発言してレッドスター会長を辞任した。


=== 指導者経歴 ===
2010年には、かつて所属したフランスの名門オリンピック・マルセイユがクラブ創立110周年を記念してマルセイユの公式サイトでオリンピック・マルセイユの歴代ベストイレブンを選ぶというイベントを行い見事マルセイユの歴代ドリームチームのメンバーとして選ばれた。[http://www.om110ans.net/fr/110_Ans_OM/100010/OM_110_Ans/46544/Voici_votre_Dream_Team_des_110_ans] そして監督3年目となるこのシーズンは戦力補強と戦術浸透が功を奏し、見事に優勝。ストイコビッチにとってはグランパス在籍通算11シーズン目で悲願のJリーグ制覇を果たした。
==== 名古屋グランパス ====
; 2008年
名古屋が[[セフ・フェルホーセン]]に代わる2008年シーズンからの監督就任を要請。しかし当時ストイコビッチが持っていた[[欧州サッカー連盟|UEFA]]のコーチライセンスは「UEFA A(2004年取得)」で、Jリーグで監督を行なうのに必要なJFAの[[JFA 公認S級コーチ|S級ライセンス]]に相当する「UEFA PRO」ではなかった為、これが原因で交渉は一時中断。その後、シーズン開始前までにPROライセンス取得への見通しが立った為に交渉は進捗し、2008年1月にストイコビッチはPROライセンスを取得して名古屋の監督に正式に就任した。開幕戦の[[京都サンガFC|京都パープルサンガ]]戦で初采配を取り、2節の浦和戦で初勝利を挙げた。その後もチームは順調に勝ち点を積み上げ、また名古屋にとってチーム創設以来未だかつて勝利がなかった[[茨城県立カシマサッカースタジアム|カシマスタジアム]]での[[鹿島アントラーズ]]戦に勝利、同スタジアムで初勝利を挙げた監督となった。その後故障者などが出るなどしたが、鹿島、[[川崎フロンターレ]]と最終節まで優勝争いを繰り広げるなど名古屋の躍進に貢献し、最終的には3位で終了して[[AFCチャンピオンズリーグ]]への出場権も獲得した。


; 2009年
== 選手としての特徴 ==
[[AFCチャンピオンズリーグ]]に出場し、準々決勝では川崎を破ったが、準決勝で[[アル・イテハド]]に敗れてベスト4に終わった。10月17日、横浜FM戦で相手GK[[榎本哲也]]がタッチラインへボールを蹴り出した際にベンチから駆け寄り、革靴を履いた右足でダイレクトシュートを放った<ref>[http://supportista.jp/2009/10/news22013331.html ストイコビッチ監督、幻のゴールの衝撃映像]サポティスタ、2009年10月22日</ref>。高く蹴り上げられたボールは52m先のゴールにワンバウンドで「ゴールイン」し、双方のサポーターから大歓声を受けたが、試合遅延と審判への侮辱行為として即座に退席処分を受けた。この映像は[[YouTube]]によって世界中へと配信され、[[欧州サッカー連盟|UEFA]]会長の[[ミシェル・プラティニ]]からも賞賛された<ref>[http://www.telegraph.co.uk/sport/football/international/6452423/Dragan-Stojkovic-congratulated-by-Michel-Platini-for-touchline-wonder-goal.html Dragan Stojkovic congratulated by Michel Platini for touchline 'wonder goal']Telegraph、2009年10月28日</ref>。
=== プレースタイル ===
[[トップ下|ゲームメーカー]](攻撃的[[ミッドフィールダー]])や[[フォワード (サッカー)|フォワード]]をその役割とし、キレ味鋭いドリブル・ボールコントロール・パスセンス・[[フリーキック (サッカー)|フリーキック]]・体の使い方など[[ヘディング]]を除くサッカーに必要なほとんどの要素で高レベルのプレーを見せる。ユーゴスラビア代表においては周囲からの絶大な信頼を受けた。


; 2010年
リフティングドリブルやヒールキックなどの印象が強く、曲芸師のようなイメージを抱かれがちだが、プレースタイルはシンプル。視野が広く効果的なプレーを選択できるため、ボールを滅多に失わない。
2010年1月27日、[[ジーコ]]や[[イビチャ・オシム]]らとともに[[2022 FIFAワールドカップ]]招致大使に就任した<ref>[http://www.zakzak.co.jp/sports/soccer/news/20100402/soc1004021646001-n2.htm “ピクシージャパン”誕生?! ポスト岡田に障害なし]ZAKZAK、2010年4月2日</ref>。4月24日、かつて所属したオリンピック・マルセイユの歴代ドリームチームのメンバーに選ばれた<ref>[http://www.om110ans.net/fr/110_Ans_OM/100010/OM_110_Ans/46544/Voici_votre_Dream_Team_des_110_ans Voici votre «Dream Team» des 110 ans !]OM110ans.net、2010年4月24日</ref>。[[田中マルクス闘莉王]](浦和から)、[[金崎夢生]]([[大分トリニータ]]から)、[[ダニルソン・コルドバ|ダニルソン]]([[コンサドーレ札幌]]から)などを獲得し、選手層の充実に努めた。8月14日の浦和戦に勝利し、約2年ぶりに首位に立つと、その後は首位を譲ることなく2位との勝ち点差を広げ、11月20日の[[湘南ベルマーレ]]戦に勝利し3試合を残して初優勝を決めた。同年はJリーグ最優秀監督賞を受賞し、Jリーグ史上初の「最優秀選手&最優秀監督」の両方の受賞者となった。なお同年12月には[[観光庁]]から「[[スポーツ観光マイスター]]」に任命されている<ref>[http://nagoya-grampus.jp/information/pressrelease/2010/1203post-334.php ストイコビッチ監督スポーツ観光マイスター就任のお知らせ] - 名古屋グランパス公式web、2010年12月3日</ref>。


== 人物 ==
キックの精度は極めて高く、種類も多彩。受ける相手が次のプレーをするために最適な柔らかいパスを繰り出す。繊細なコントロールができ、とくにロングパスは高い成功率で多くのチャンスを演出した。
=== プレースタイル ===

常に自分が主体となって試合を組み立てることを好み、シンプルなパス回しと変幻自在のドリブルから決定的なパスを狙うプレーが持ち味である<ref>木村2001、51頁</ref>。ボールコントロールが巧みでフリーキックも得意である。
スピードの緩急をいかしたドリブルで、相手の重心をわずかに崩して抜き去るのを得意とする。とくにサイドからセンタリングと見せかけての切り返しを得意としている。右足でも左足でも切り返しの精度が変わらないのも特徴。

一方で反則数が多く、イエローカードやレッドカードをもらうことも多かった。

=== 10番へのこだわり ===
代表では当初、もう一つのエースナンバーである7番を着けていたが、1980年代後半途中(90年W杯欧州予選のアウェーフランス戦で代表10番デビュー)から2001年に引退するまで、サッカーにおけるエースナンバーである背番号10を背負いキャプテン(初キャプテンは89年の親善試合のギリシャ戦)を務めた。

周囲からの信頼を物語るものとして、1990年代に隆盛を極めた[[イタリア]]の[[ACミラン]]で、かの[[ロベルト・バッジオ|R・バッジョ]]にすら背番号10を譲らなかったジェニオ(天才)[[デヤン・サビチェビッチ|サビチェビッチ]]もユーゴスラビア代表では友人ストイコビッチに対し、栄えある背番号10を譲っていたという[[エピソード]]もある。

クラブのレッドスターでは1988-89~1989-90シーズンに同じくユーゴスラビアを代表するトップテクニシャンのサビチェビッチ、[[ロベルト・プロシネチキ|プロシネツキ]]と共にプレーし、それぞれの個性を損なうことなく見事に共存。ユーゴリーグでは圧倒的な強さと美しいパフォーマンスを見せた(レッドスターでも10番とキャプテンマークを着けたシンボリックな存在だった)。ちなみにこの3者は時期は異なるが、後にそれぞれが所属した当時西側の代表的なビッグクラブでも10番を着けたことでも有名である(ストイコビッチは[[オリンピック・マルセイユ]]で。プロシネツキは[[レアル・マドリード]]で。そしてサビチェビッチは[[ACミラン]]で)。国名が[[ユーゴスラビア連邦共和国]](新ユーゴ)に変わってからも、当時レアル・マドリードのエースで新ユーゴ代表のエースストライカーでもあった[[プレドラグ・ミヤトヴィッチ|ミヤトヴィッチ]]は、名古屋グランパスの10番ストイコビッチに代表でのエースナンバーを譲っている。

ストイコビッチ自身も10番に強いこだわりを持っており、[[1996年]]の[[Jリーグオールスターサッカー]]では、この試合を最後に[[パリ・サンジェルマン]]への移籍が決まっていた[[レオナルド・ナシメント・ジ・アラウージョ|レオナルド]](当時[[鹿島アントラーズ]]で10番を主につけていた)に10番を譲らなかった(この試合でレオナルドは9番をつけた)。

ちなみに来日当初のストイコビッチはなかなか10番をつけることができなかった。これは当時のJリーグが背番号固定制を導入しておらず、1番から11番がスタメン、12番から16番が控えの番号(ただし1番と16番は[[ゴールキーパー (サッカー)|ゴールキーパー]])と決まっていたためで、途中出場の多かったストイコビッチは14番、またスタメンで出場しても[[ゲーリー・リネカー]]が出場する時はリネカーに10番を明け渡し、8番で出場していた。なおストイコビッチ自身は「私が名古屋に来たのはリネカーがいると言うこともあってだったし、彼なら譲ってもいいかと思っていた」そうである。

2008年名古屋グランパスの監督就任当初、チームの練習時に当時10番を付けていた[[藤田俊哉]]の練習着やコートを度々間違えて着てしまったことから(通常、Jリーグ監督には「50番」のついた練習着が用意される)、以降チームの粋な計らいとして彼の練習着にも「10」の番号が刺繍されている。なおグランパスでは以前から選手と監督・コーチで練習着のデザインは別となっている。

==人物==
=== キャリアの「明」と「暗」 ===
彼の現役生活は明暗の起伏に富んでいる。若くして自身の憧れでもあった国内の名門クラブ[[レッドスター・ベオグラード]]やユーゴスラビア代表で活躍。特に、ユーゴスラビア代表では同国内で名将との呼び声の高い[[イビチャ・オシム]]のもとで、その能力を発揮していった。[[1990 サッカー・ワールドカップ|1990年イタリアW杯]]では、「[[1986 サッカー・ワールドカップ|1986年メキシコW杯]]は“[[ディエゴ・マラドーナ|マラドーナ]]の大会”と言われたように、1990年イタリアW杯は彼の大会になる」との前評判が立つほど大いに期待され、実際にも[[スペイン]]戦での2得点や、負けはしたものの[[アルゼンチン]]との準々決勝でのプレイは国際的なプレイヤーとして評価された。

=== スポーツと政治 ===
旧ユーゴスラビア連邦出身の選手には、[[民族紛争]]や連邦分裂等の複雑な事情に対して、スポーツ選手という立場を政治的主義の主張に利用する者もいたのに対し、ストイコビッチは「スポーツと政治は無関係」という立場だったが、1999年の[[北大西洋条約機構|NATO]]の[[アライド・フォース作戦|セルビア空爆]]に対して、3月27日の[[ヴィッセル神戸]]戦の試合終了間際にアシストをした際、ユニフォームのアンダーシャツに書いた「NATO Stop Strikes」(NATOは空爆を中止せよ)のメッセージを見せるパフォーマンスを行う。これに対しUEFA(欧州サッカー連盟)は29日、「政治とフットボールを混同してはならない」という声明を出した。同日、Jリーグもスタジアムでの政治的アピールの禁止をJ1およびJ2チームに通達している。

なお、彼をこの行動に駆り立てたのは、1992年にイタリアのヴェローナへレンタル移籍されている最中に、チームメイトから「悪魔のセルビア人」「ドラガン・[[スロボダン・ミロシェヴィッチ|ミロシェヴィッチ]]」呼ばわりされたことも一因だった。1990年から始まる一連の[[ユーゴスラビア紛争]]では、独立の気概を持つ諸国が、セルビアに一方的に弾圧されているという決めつけの報道がなされており、ユーゴスラビア対岸のイタリアでさえそう受け止められていた。

=== セルビア以外の旧ユーゴ出身者との関係 ===
2004年4月7日、[[外務省]]での西バルカン平和定着・経済発展閣僚会合にて、平和親善大使としてスピーチ。その中で「クロアチアのプロシネチキ、[[シュケル]]、[[アレン・ボクシッチ|ボクシッチ]]、[[ロベルト・ヤルニ|ヤルニ]]、[[マケドニア]]の[[ボバン・バブンスキー|バブンスキー]]、[[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]のハジベキッチ、[[アルバニア]]の[[ロリック・カナ|ロリ・ツァナ]]らと変わらない友人関係を続けている」と話している。<ref>[http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/europe/w_balkans/speech_stojkovc.html ストイコビッチ平和親善大使スピーチ]</ref>また、敬愛するイビチャ・オシムもボスニア・ヘルツェゴビナ出身である。

=== ニックネーム ===
子供のころ、彼はサッカーの試合をさぼってまで、大好きだった[[アニメ]]「[[:en:Pixie and Dixie and Mr. Jinks|ピクシー&ディクシー]]<ref>日本でも1960年代に「チュースケとチュータ」の名で放映された</ref>」を見ていた。父の証言によればストイコビッチは父の腕時計を持ってサッカーに出かけ、アニメの始まる午後7時15分には必ず家に帰ってきていたという。このことから当時の友達に「Pixie」と名付けられたという。後に、これから転じて「[[ピクシー]]」 ("Pixy"または"Piksi") と呼ばれるようになった。

また、「ピクシー=[[妖精]]」と紹介されるが、ピクシーは一般的にイメージされる(例えば[[ピーター・パン]]に出てくるティンカーベルのような)羽根のある女性の姿をした妖精=[[フェアリー]]ではない。[[イングランド]]の伝説によると、眼はやぶにらみで口が大きく色白で痩せた男性の小人で、旅人を道に迷わせたり、鉱夫を騙して喜ぶなどずる賢く悪戯好きの妖精である。
実際は、テレビで彼自身が発言していたように、猫と鼠のアニメのピクシーという名前の鼠に似ていたからのようである。

名古屋の監督となってからは、チーム内では、愛称「ピクシー」ではなく、「ミスター」と呼ぶように求めている。
<ref>http://www.nikkansports.com/soccer/p-sc-tp0-20080124-311218.html</ref>

===監督として===
美しく攻撃的なフットボールが信条。

戦術としてはワンタッチ・ツータッチのパス回しによりボールポゼッションを高め、[[サイドバック]]の積極的な攻撃参加によりサイドに数的優位を作り敵陣深くまで切り込むサイド攻撃を基本にしている。<br>
積極的なサイドチェンジや、試合中に右利きの[[小川佳純|小川]]を左サイドに左利きの[[マギヌン]]を右サイドにとポジションチェンジを繰り返したり、フラットな3ラインのシステムによる[[ゾーンディフェンス]]等、現代サッカーの基本的な要素を取り入れ、長年Jリーグの中位チームだった名古屋を攻撃的なサッカーを披露する強豪チームに変貌させた。なおストイコビッチのサッカー感を言葉で表現すると「イタリア・セリエAの[[インテルナツィオナーレ・ミラノ|インテル・ミラノ]]対[[ユベントスFC|ユヴェントス]]より、イングランドプレミアリーグの[[ウィガン・アスレティックFC|ウィガン]]対[[サンダーランドAFC|サンダーランド]]の方が面白い」といい、守備的な試合運びをする前者よりも、お互いに速攻重視する後者を好むという<ref>[http://www.sponichi.co.jp/soccer/flash/KFullFlash20101120079.html ぶれないストイコビッチ監督 3年目で戦術浸透 新戦力も融合] - スポーツニッポン2010年11月20日</ref>。

後半の選手交代は、リードをしているなら守り切って勝つために守備的な選手を、リードされているなら点を取りに行くために攻撃的な選手を入れるなど、非常にシンプルで分かりやすいため、フィールド上の選手らにも瞬時に意志統一がなされる。
その策が上手く嵌って鮮やかに逆転勝ちを収めることもあるが、2010年元日の天皇杯決勝のように攻撃的な采配が大敗に繋がった試合もある。

現役時代ほどではないが、試合中のテンションの高さは相変わらず。また後述されている横浜FM戦での「スーパーゴール」やしばしば見せるリフティングのように、現役時代さながらの技を披露することもある。

リーグ開幕戦や最終戦などの節目や、[[名古屋グランパス#鬼門のカシマスタジアム|カシマスタジアムでの連敗を止めた試合]]などの後にサポーターの前まで挨拶に来ることがあり、選手よりも大きな歓声を浴びる。

外国人選手の補強にも積極的に取り組み、マギヌン以降もAFC枠を活かしてオーストラリアの[[ジョシュア・ケネディ]]を獲得。続いて自分の故郷である旧ユーゴスラビア圏でモンテネグロ代表のホープである[[イゴル・ブルザノヴィッチ]]を呼び寄せ、[[コンサドーレ札幌]]から[[ダニルソン・コルドバ]]をレンタルで獲得している。

[[玉田圭司]]にとっても現役時代の彼は憧れであり、選手とのコミュニケーションを重要視する優れた監督との評である<ref>http://number.bunshun.jp/articles/-/12345</ref>。本人も「選手が私を理解する事も重要だが、それ以上に私が選手を理解する事の方が重要」という方針である。[[田中マルクス闘莉王]]からも「普段余計なことを話さずに肝心な時に声をかけてくれる。だからこそ、言葉に重みがある。あの監督のために優勝したい」と崇拝されている。

2010年9月に名古屋グランパス歴代監督最多勝を誇る[[アーセン・ベンゲル]]のJ1通算47勝に並び[[2011年]]監督続投が決定された<ref>http://sports.yahoo.co.jp/news/20100927-00000216-sph-socc.html</ref>。


=== 革靴でスーパーゴール ===
=== 家族 ===
両親とひとりの姉がいる<ref>ストイコビッチ2001、76頁</ref>。[[レッドスター・ベオグラード]]移籍直後にファッションデザイナーをしていた現在の妻と知り合い<ref>木村2001、54頁</ref>、レッドスター時代に長女が、マルセイユ時代に次女と長男が生まれた<ref name="ストイコビッチ143頁">ストイコビッチ2001、143頁</ref>。サッカーの試合の都合で結婚式を3回キャンセルしたため、1991年6月21日にようやく妻と結婚式を挙げた<ref name="ストイコビッチ143頁"></ref>。1995年11月15日には観光のために来日していた義母が脳内出血により急逝し、それ以後は昭和区にある[[正教会]]の教会を自らの拠り所とした<ref>木村2001、21頁</ref>。監督就任後、長男のマルコ・ストイコビッチはグランパスの下部組織に在籍していたが2010年に退団した。この後マルコはパリへ戻ることになり、ストイコビッチは彼の転校手続きの為にシーズン中にも関わらずチームを離脱している<ref>[http://www.sponichi.co.jp/soccer/flash/KFullFlash20100828158.html ストイコビッチ監督 長男の転校手続きで渡仏] - Sponichi Annex 2010年8月28日配信</ref>。
[[2009年]]10月17日、対[[横浜F・マリノス]]戦の後半40分に選手が怪我をした際、プレーを切るために相手GKの[[榎本哲也]]が[[タッチライン]]へ蹴りだしたボールにベンチから飛び出して駆け寄り、雨天でピッチが滑りやすい中[[革靴]]を履いた右足でノーバウンドのボールをボレーシュート。高く蹴り上げられたボールは52m(実測)先の横浜FMゴールにワンバウンドで「ゴールイン」した。この「スーパーゴール」は、名古屋と横浜F・マリノス双方のサポーターから大歓声を受けたが、試合遅延と審判への侮辱行為として即座に退席処分を受けた。本人は試合後、「こうやって点を取るんだ、と選手に見せたかった。冗談が通じなかった」と侮辱する意図はなかった旨を述べた<ref>{{cite web | url=http://hochi.yomiuri.co.jp/soccer/jleague/news/20091018-OHT1T00005.htm | title=40メートルシュートでピクシー監督初“退場”…名古屋 | author=スポーツ報知 | date=2009年10月18日 | accessdate=2009年10月21日}}</ref>後、「悪気はなかったんだ、でもゴールは素晴らしかったでしょ?」とおどけてみせた。なお、これが監督時代における初の退席処分となった。さらに1試合のベンチ入り停止処分も受けた<ref>[http://www.j-league.or.jp/release/000/00003235.html J1第29節 退席に伴うストイコビッチ監督(名古屋)のベンチ入り停止処分について]</ref>。幻のゴールを決められた榎本は「今日は2失点だよ」「怒りを通り越してすげぇと思った」と感想を述べている。試合は1-2でマリノスが逆転勝利した。その後、2010年のリーグ戦で同じ様なシュートを[[イゴル・ブルザノヴィッチ]]が決めている。


=== 親日家 ===
この「スーパーゴール」の映像は[[YouTube]]によって世界中へと配信され、ブラジルのテレビで紹介され反響を呼んだほか、イギリスのテレグラフ紙<ref>[http://www.telegraph.co.uk/sport/football/international/6452423/Dragan-Stojkovic-congratulated-by-Michel-Platini-for-touchline-wonder-goal.html Dragan Stojkovic congratulated by Michel Platini for touchline 'wonder goal']</ref>も紹介、その記事の中で、欧州サッカー連盟[[UEFA]]の[[ミシェル・プラティニ]]会長が旧知のストイコビッチに、素晴らしいシュートを決めたことに対して祝電のメールを送ったとの逸話も紹介された。
ストイコビッチは大の親日家である。名古屋在籍時の1999年、母国セルビアのバスケットボール選手で、共に出場したロス五輪以来の親交を持つ[[ブラデ・ディバッツ]]との対談が組まれたことがあった。対談は大いに盛り上がり予定時間を超過したが、彼は神社仏閣の美しさからタクシー運転手の親切な振る舞いまで様々な事象を引き合いに出し、「いかに自分と家族が日本を好きか」ということを興奮気味に語り続けたという<ref name="number">木村元彦「ピクシーはなぜ日本を選んだのか」『Sports Graphic Number』768号、文藝春秋、2010年、p.24-26。</ref>。ベオグラードの日本大使館員に真剣に一時帰化の相談をしたというエピソードもある<ref name="number" />。趣味は[[盆栽]]で、夏には浴衣を着て家族と寺院で記念撮影をする。名古屋のゼネラルマネージャーとして共に仕事をした[[久米一正]]によれば、日本語は既に「ペラペラ」だが、選手と距離を作るために敢えて話さないという<ref name="number" />。
国内での評価も高く、2009年シーズンのベストゴールという声もある。<ref>[http://www.youtube.com/watch?v=8epeSybhcLs YouTube] リンク切れ</ref>


{{Quote_box|
また、奇しくも同じ[[10月17日]]に、[[セリエA (サッカー)|セリエA]]、[[インテルナツィオナーレ・ミラノ|インテル]]対[[ジェノアCFC|ジェノア]]の試合においてインテルのMF[[デヤン・スタンコヴィッチ]]が相手GKのゴールキックをストイコビッチさながらのダイレクトボレーで決めている。ちなみに両者は[[1998 FIFAワールドカップ|フランスW杯]]、[[EURO2000]]においてユーゴスラビア代表として共にプレーをしている。
width=30%
|align=right
|quote="'''日本のお米はファンタスティック'''"
|source=–来日から1年が経った頃に<ref>記者グループ2001、88頁</ref>}}


日本文化を愛するストイコビッチは、食生活に於いても日本料理好きを公言している。名古屋在籍時の1995年、ホテルのバイキングで[[中西哲生]]が食べていた[[納豆]]に初めてトライし<ref>木村1998、129頁</ref>、それ以後は海外キャンプに行くときも納豆を持参するようにクラブにリクエストしていたが、1997年のオーストラリアキャンプで朝食に納豆が出されなかったため激怒し、クラブスタッフを日本食食料品店に買いに行かせた<ref>中日スポーツ</ref>。生卵<ref>ストイコビッチ2001、26頁</ref>、うどん<ref name="公式サイト20050701">[http://nagoya-grampus.jp/backnumber/event/2005/0701Pixy/index.html ]</ref>、鮎の塩焼き<ref name="公式サイト20050701">[http://nagoya-grampus.jp/backnumber/event/2005/0701Pixy/index.html アドバイザー「ストイコビッチ氏」滞在の模様]名古屋グランパス公式サイト、2005年7月1日</ref>、梅干しなども好物であり、梅干はとりわけ大きくて柔らかい物が好みである<ref>木村1998、159頁</ref>。[[日本食]]やイタリア料理を好む一方で、[[中華料理]]など油を多用する料理は好まない<ref>木村2001、56頁</ref>。
これらの反響を受けてグランパスは、[[瑞穂陸上競技場]]で行われる2010年5月26日・6月9日・7月28日の平日の3試合で、仕事帰りのビジネスマンを対象にした「あのスーパーゴールにチャレンジ ビジネスシューズでゴールを狙え」と題したイベントを行うと発表した<ref>{{cite web | url=http://www.chunichi.co.jp/chuspo/article/grampus/news/201005/CK2010051902000028.html | title=ピクシー監督の革靴シュートに挑戦!! | author=中日スポーツ | date=2010年5月19日 | accessdate=2010年5月23日}}</ref>。


これら彼の日本好きというイメージから派生したものではないが、「ストイコビッチ」という名前に漢字を当てた「『須藤彦一(すどう ひこいち)』という日本名を持っている」とのネタが存在し、[[週刊朝日]]等の週刊誌で実際にこの話題が取り上げられたことがある<ref>[http://supportista.jp/2010/11/news06174143.html ポスト・ザックに須藤彦一氏浮上] - サポティスタ・2010年11月6日</ref>。しかしこれは[[木村元彦]]が「2000年頃にとあるスポーツ誌に冗談で書いたもので、本人が知るはずもなく事実ではない」とコメントしている<ref>[http://blog.shueisha.net/sportiva/jfootball/index.php?ID=164 【Jリーグ】ピクシーのもうひとつの顔。日本の良さを知るフットボーラー、ドラガン・ストイコビッチ] - Sportiva・2010年12月14日</ref>。
=== 語学力 ===
[[日本語]]は日常会話程度であるが、通常インタビューには[[英語]]で答える。その他、現役時代に居た[[フランス語]](現在自宅はフランス)と[[イタリア語]]もマスターしており母国の[[セルビア語]]と日本語を合わせて5カ国語を操る。2010年に日本代表監督に就任した[[アルベルト・ザッケローニ]]とも通訳を挟まず会談した<ref>[http://hochi.yomiuri.co.jp/soccer/japan/news/20100920-OHT1T00021.htm]</ref>。


=== その他 ===
=== その他 ===
母語のセルビア語のほかに英語、フランス語、イタリア語を話せる<ref>記者グループ2001、11頁</ref>。公式会見では英語を使用している。
家族は妻と1男2女。


[[名古屋グランパス]]でチームメイトだった[[浅野哲也]]の長男が1998年3月3日に生まれ、たまたまストイコビッチと同じ誕生日であった事から名付け親を買って出た。しかし浅野にリクエストした名前は「ドラガン」であり、日本人としては特異すぎたため、浅野は仕方なく「ガ」の一文字だけ譲り受けて息子を命名した<ref>月刊グラン、1998年5月号</ref>。
[[正教会]]を信仰し、[[セルビア正教会]]に属する([[セルビア人]]の大半はセルビア正教会に属する[[正教徒]]である)。


2011年2月6日、[[ユーロスポーツ]]他の英国各紙は、[[アーセナルFC]]監督の[[アーセン・ベンゲル]]が、自分の後任であるべきと思う人物としてストイコビッチの名前を挙げたと伝えた<ref>[http://hochi.yomiuri.co.jp/osaka/soccer/etc/news/20110207-OHO1T00121.htm ベンゲル監督が後任に“まな弟子”ピクシーを指名]スポーツ報知、2011年2月7日</ref>。ベンゲルはセルビア紙に対し、「自分の後任がストイコビッチであれば嬉しい。それには100の理由が有る」「アイディアが同じ。共に完璧なサッカーを求める」「彼がパスとプレスを多用したアタッキングサッカーを実践するチームを目指していたし、そうしていたのを知っている。それは彼が良いコーチになることを示している」と語った。
イタリア料理が好物であるが、日本の食べ物の多くも好物。「自分の経験から、[[飯|米]]は疲労回復に最適」というのが持論。また、[[うどん]]については、セルビア・モンテネグロサッカー協会会長として来日した際、多忙なスケジュールの中、わざわざ時間を作ってまで[[トヨタスポーツセンター]]の[[社員食堂]]のうどんを食べたという逸話も残っている<ref>[http://nagoya-grampus.jp/backnumber/event/2005/0701Pixy/index.html アドバイザー「ストイコビッチ氏」滞在の模様]</ref>。[[豚汁]]、[[アユ|鮎]]の塩焼きなども好物。その他、通常日本人でも苦手にすることもある食べ物も好物で、その中でも[[納豆]]については、グランパス選手時代にキャンプ中納豆を食べようとしない若手選手に食べさせようとしたばかりか、果ては納豆好きが昂じ、セルビア・モンテネグロサッカー協会会長時代に代表の食事メニューに納豆ご飯を取り入れようとし、選手から顰蹙を買ったというエピソードもある。そんな納豆好きな彼の為に現在もチームのキャンプなどの合宿の朝食時は欠かさず納豆が用意されている(無い場合は不機嫌になるのでチームのスタッフが調達してくるらしい)。ちなみに納豆は薬味など多数のものがないとおいしくないため、家ではなくホテルや合宿で食べるのが好きとのこと。


== 所属クラブ==
2004年7月、セルビア・モンテネグロの治安の悪さを理由に[[パリ]]に移住し、その後に母国で仕事をするようになってからも自宅はパリにある。
=== 選手 ===
* 1983-1986 {{flagicon|Yugoslavia}} [[ラドニツキ・ニシュ]]
* 1986-1990 {{flagicon|Yugoslavia}} [[レッドスター・ベオグラード]]
* 1990-1994 {{flagicon|France}} [[オリンピック・マルセイユ]]
: 1991-1992 →{{flagicon|Italy}} [[エラス・ヴェローナ]](Loan)
* 1994-2001 {{flagicon|Japan}} [[名古屋グランパスエイト]]


=== 指導者 ===
ちなみに少年時代のアイドルは[[ミシェル・プラティニ]]であった。ただ同時に一般論として、個人マークの厳しい現在のプレッシング・サッカーにおいて、単純にプレースタイルを比較することは出来ない、ともしている。
* 2008- {{flagicon|Japan}} [[名古屋グランパスエイト|名古屋グランパス]]


==個人成績==
ユーゴ代表時代の師匠である前日本代表監督イビチャ・オシムには絶対的な信頼を寄せ、「オシムがベストだ。」(ベンゲルとオシムが現役時代に会った最高の監督とも発言)、「どんな困難な状況でもベストの選択をする。オシムをサポートすれば日本は必ず強くなる」と太鼓判を押していた。また実現はしなかったが、その師弟関係から日本代表のコーチとしてオシムの右腕になるのではとマスコミ等で話題になった事もあった。2010年にリーグ優勝を決めた際には、ベンゲルやオシムから祝福のメッセージを受けている。<ref>[http://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2010/11/21/08.html ベンゲルも、トヨタ社長も オシムも祝福]([[スポーツニッポン]] 2010年11月21日)</ref>
=== 選手時代 ===


[[1997年]]7月9日の対[[横浜F・マリノス|横浜マリノス]]戦で、[[小幡真一郎]]主審の出したイエローカードを取り上げ、逆に主審に向かって突き付けた。その結果、審判への侮辱行為として4試合の出場停止処分となった。ちなみに、イエローカードを突き付けた後主審にレッドカードを出されたため、侮辱行為によるレッドカードと誤解されることがあるが、実際はこのイエローカードはこの試合2枚目であり、仮に突き付けなくても退場処分になっていた。

選手時代、Jリーグでは通算13回の退場処分を受けており、これはJリーグ史上最多。ちなみに、2007年シーズン終了時点での2位は8回([[大久保嘉人]]と[[松田直樹]])である。

引退後の2001年9月、[[豊田スタジアム]]の北10番ゲートがストイコビッチにちなんで「ピクシーゲート」と命名される。

[[TBSテレビ|TBS]]『[[スーパーサッカー]]』において[[小倉隆史]]は「現役時代のストイコビッチは喫煙者だが、あのレベルのプレーをしていて驚いた」と評した。なお、敬愛するプラティニも喫煙者である。

<!-- 近年はインタビューなどでは母国語のセルビア語ではなく英語で話している。 ※日本では英語を使っているだけで、日本以外の国でインタビューに応じる際にも一律英語を用いるとは限りません。-->
現役時代は数多くのゴールを挙げたが、グランパスが苦手としているカシマスタジアムではゴールを挙げられなかった。それゆえ自らが監督となった2008年に同スタジアムでの21連敗という不名誉な記録に終止符を打ったときは選手・スタッフと共に喜びを爆発させた。

日本代表監督の[[アルベルト・ザッケローニ]]と会談した際は、Jリーグと日本人選手についての知識をイタリア語で伝え、「出来る事はすべてサポートするつもりです。必要があれば、私の経験もお話しします」と語った。<ref>ピクシー監督、知識“アシスト”[http://megalodon.jp/2010-1013-1604-47/www.chunichi.co.jp/chuspo/article/grampus/news/201009/CK2010092002000006.html?ref=related]</ref>

== 所属クラブ==
* 1979年-1984年 {{flagicon|Yugoslavia}} [[FKラドニツキ・ニシュ]](1983年よりプロ契約)
* 1984年-1985年 兵役により所属クラブなし
* 1985年-1986年 {{flagicon|Yugoslavia}} FKラドニツキ・ニシュ
* 1986年-1990年 {{flagicon|Yugoslavia}} [[レッドスター・ベオグラード|FKレッドスター・ベオグラード]]
* 1990年-1991年 {{flagicon|France}} [[オリンピック・マルセイユ]]
* 1991年-1992年 {{flagicon|Italy}} [[エラス・ヴェローナ]]
* 1992年-1994年 {{flagicon|France}} オリンピック・マルセイユ
* 1994年-2001年 {{flagicon|Japan}} [[名古屋グランパスエイト]]

==個人成績==
{{:利用者:Bcjp/t/fbp国内表 top|yy}}
{{:利用者:Bcjp/t/fbp国内表 top|yy}}
{{:利用者:Bcjp/t/fbp国内表 th|ユーゴスラビア|all}}
{{:利用者:Bcjp/t/fbp国内表 th|ユーゴスラビア|all}}
|-
|-
|1981-82||[[FKラドニツキ・ニシュ|ラドニツキ・ニシュ]]||||||1||0||||||||||||
|1981-82||rowspan="4"|[[FKラドニツキ・ニシュ|ラドニツキ・ニシュ]]||||||1||0||||||||||||
|-
|-
|1982-83||ラドニツキ・ニシュ||||||17||1||||||||||||
|1982-83||||||17||1||||||||||||
|-
|-
|1983-84||ラドニツキ・ニシュ||||||27||3||||||6||2||33||5
|1983-84||||||27||3||||||6||2||33||5
|-
|-
|1985-86||ラドニツキ・ニシュ||||||25||4||||||||||||
|1985-86||||||25||4||||||||||||
|-
|-
|1986-87||[[レッドスター・ベオグラード|レッドスター]]||||||32||17||||||6||0|||39||17
|1986-87||rowspan="4"|[[レッドスター・ベオグラード|レッドスター・<br>ベオグラード]]||||||32||17||||||6||0|||39||17
|-
|-
|1987-88||レッドスター||||||28||15||||||3||1||31||16
|1987-88||||||28||15||||||3||1||31||16
|-
|-
|1988-89||レッドスター||||||29||12||||||4||3|||33||15
|1988-89||||||29||12||||||4||3|||33||15
|-
|-
|1989-90||レッドスター||||||31||10||||||6||0||37||10
|1989-90||||||31||10||||||6||0||37||10
{{:利用者:Bcjp/t/fbp国内表 th|フランス|all}}
{{:利用者:Bcjp/t/fbp国内表 th|フランス|all}}
|-
|-
|1990-91||[[オリンピック・マルセイユ|マルセイユ]]||||||11||0||||||4||0||18||0
|1990-91||[[オリンピック・マルセイユ|マルセイユ]]||||[[リーグ・アン]]||11||0||||||4||0||18||0
{{:利用者:Bcjp/t/fbp国内表 th|イタリア|all}}
{{:利用者:Bcjp/t/fbp国内表 th|イタリア|all}}
|-
|-
|[[レガ・カルチョ1991-1992|1991-92]]||[[エラス・ヴェローナ|ヴェローナ]]||||[[セリエA (サッカー)|セリエA]]||19||1||2||1||||||21||2
|1991-92||[[エラス・ヴェローナFC|ヴェローナ]]||||[[セリエA (サッカー)|セリエA]]||19||1||2||1||||||21||2
{{:利用者:Bcjp/t/fbp国内表 th|フランス|all}}
{{:利用者:Bcjp/t/fbp国内表 th|フランス|all}}
|-
|-
|1992-93||マルセイユ||||||0||0||||||||||||
|1992-93||rowspan="2"|マルセイユ||||rowspan="2"|リーグ・アン||0||0||||||||||||
|-
|-
|1993-94||マルセイユ||||||18||5||||||1||0||19||5
|1993-94||||18||5||||||1||0||19||5
{{:利用者:Bcjp/t/fbp国内表 th|日本|all}}
{{:利用者:Bcjp/t/fbp国内表 th|日本|all}}
|-
|-
|[[1994年のJリーグ|1994]]||[[名古屋グランパスエイト|名古屋]]||-||[[日本プロサッカーリーグ|J]]||14||3||1||0||2||1||16||4
|[[1994年のJリーグ|1994]]||rowspan="8"|[[名古屋グランパスエイト|名古屋]]||-||rowspan="5"|[[日本プロサッカーリーグ|J]]||14||3||1||0||2||1||16||4
|-
|-
|[[1995年のJリーグ|1995]]||名古屋||-||J||40||15||colspan="2"|-||5||2||45||17
|[[1995年のJリーグ|1995]]||-||40||15||colspan="2"|-||5||2||45||17
|-
|-
|[[1996年のJリーグ|1996]]||-||19||11||10||3||1||0||34<ref>その他に[[FUJI XEROX SUPER CUP|ゼロックス・スーパーカップ]]1試合0得点、[[Jリーグチャンピオンシップ#サントリーカップ・96Jリーグチャンピオンズ・ファイナル|サントリーカップ]]2試合1得点、[[アジアカップウイナーズカップ]]4試合2得点</ref>||16
|[[1996年のJリーグ|1996]]||名古屋||-||J||19||11||10||3||1||0||34||16
|-
|-
|[[1997年のJリーグ|1997]]||名古屋||10||J||18||2||6||1||0||0||27||3
|[[1997年のJリーグ|1997]]||10||18||2||6||1||0||0||27<ref>その他に[[サンワバンクカップ]]1試合1得点</ref>||3
|-
|-
|[[1998年のJリーグ|1998]]||名古屋||10||J||28||7||1||0||4||1||33||8
|[[1998年のJリーグ|1998]]||10||28||7||1||0||4||1||33||8
|-
|-
|[[1999年のJリーグ|1999]]||名古屋||10||[[日本プロサッカーリーグ|J1]]||24||11||5||2||5||2||34||15
|[[1999年のJリーグ|1999]]||10||rowspan="3"|[[Jリーグ ディビジョン1|J1]]||24||11||5||2||5||2||34||15
|-
|-
|[[2000年のJリーグ|2000]]||名古屋||10||J1||26||5||6||2||1||0||38||10
|[[2000年のJリーグ|2000]]||10||26||5||6||2||1||0||38<ref>その他にゼロックス・スーパーカップ1試合0得点、[[アジアカップウイナーズカップ]]2試合1得点</ref>||10
|-
|-
|[[2001年のJリーグ|2001]]||名古屋||10||J1||15||3||2||1||colspan="2"|-||17||4
|[[2001年のJリーグ|2001]]||10||15||3||2||1||colspan="2"|-||17||4
{{:利用者:Bcjp/t/fbp国内表 通算始|4|ユーゴスラビア|}}190||62||||||||||||
{{:利用者:Bcjp/t/fbp国内表 通算始|4|ユーゴスラビア|}}190||62||||||||||||
{{:利用者:Bcjp/t/fbp国内表 通算行|フランス|}}29||5||||||||||||
{{:利用者:Bcjp/t/fbp国内表 通算行|フランス|}}29||5||||||||||||
{{:利用者:Bcjp/t/fbp国内表 通算行|イタリア|セリエA}}19||1||||||||||||
{{:利用者:Bcjp/t/fbp国内表 通算行|イタリア|セリエA}}19||1||||||||||||
{{:利用者:Bcjp/t/fbp国内表 通算行|日本|J1}}184||57||||||||||||
{{:利用者:Bcjp/t/fbp国内表 通算行|日本|J1}}184||57||30||5||18||6||239||79
{{:利用者:Bcjp/t/fbp国内表 通算終}}422||125||||||||||||
{{:利用者:Bcjp/t/fbp国内表 通算終}}422||125||||||||||||
|}
|}
その他の公式戦
* 1996年
** [[FUJI XEROX SUPER CUP|スーパーカップ]] 1試合0得点
** [[Jリーグチャンピオンシップ#サントリーカップ・96Jリーグチャンピオンズ・ファイナル|サントリーカップ]] 2試合1得点
* 1997年
** [[サンワバンクカップ]] 1試合1得点
* 2000年
** スーパーカップ 1試合0得点


=== 指導者時代 ===
国際公式戦
{| class="wikitable" style="text-align: center;"
* 1996年
|- style="background-color:#DDDDDD"
** [[アジアカップウイナーズカップ]] 4試合2得点
! rowspan="2" |年度!! rowspan="2" |所属!! rowspan="2" |クラブ!! colspan="6" |リーグ戦!! colspan="3"|カップ戦
*2000年
|- style="background-color:#dddddd"
** アジアカップウイナーズカップ 2試合1得点
!順位 !!試合 !!勝点 !!勝利 !!引分 !!敗戦 !![[Jリーグカップ|ナビスコ杯]] !![[天皇杯全日本サッカー選手権|天皇杯]] !![[AFCチャンピオンズリーグ|ACL]]
|-
|[[2008年のJリーグ|2008]]||rowspan="3"|[[Jリーグ ディビジョン1|J1]] ||rowspan="3"|名古屋 ||3位 ||34 ||59 ||17 ||8 ||9 ||ベスト4 ||ベスト8 ||-
|-
|[[2009年のJリーグ|2009]]||9位 ||34 ||50 ||14 ||8 ||12 ||準々決勝敗退 ||bgcolor="silver"|準優勝 ||ベスト4
|-
|[[2010年のJリーグ|2010]]||bgcolor="gold"|優勝 ||34 ||72 ||23 ||3 ||8 ||予選リーグ敗退 ||ベスト8 ||-
|-
|colspan="3" |'''J1通算''' ||- ||'''102''' ||'''181''' ||'''54''' ||'''19''' ||'''29'''||- ||- ||-
|}

== タイトル ==
=== 選手 ===
; {{flagicon|YUG}} ユーゴスラビア代表
* [[ロサンゼルスオリンピック]]銅メダル(1984)
* [[1990 FIFAワールドカップ]]ベストイレブン(1990)


; {{flagicon|YUG}} レッドスター・ベオグラード
* [[ユーゴスラビア・プルヴァ・リーガ|プルヴァ・リーガ]]優勝:2回(1988, 1990)
* [[ユーゴスラビア・プルヴァ・リーガ|プルヴァ・リーガ]]最優秀選手賞:3回(1988, 1989, 1990)
* [[ユーゴスラブカップ]]優勝:1回(1990)


; {{flagicon|FRA}} オリンピック・マルセイユ
*プレシーズンマッチ14試合5得点2アシスト
* [[リーグ・アン|ディヴィジョン・アン]]優勝:1回(1991)
*Jリーグ通算で計239試合出場79得点134アシスト
* [[UEFAチャンピオンズリーグ|UEFAチャンピオンズカップ]]準優勝:1回(1991)
**リーグ戦187試合出場57得点96アシスト

**ナビスコ杯30試合出場5得点21アシスト
; {{flagicon|JPN}} 名古屋グランパス
**天皇杯18試合出場6得点11アシスト
* [[天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]優勝:2回(1995, 1999)
**東海CS8試合出場2得点1アシスト
* [[Jリーグアウォーズ#表彰|Jリーグベストイレブン]]:3回(1995, 1996, 1999)
*アジアCWC6試合出場3得点8アシスト
* [[Jリーグアウォーズ#表彰|Jリーグ最優秀選手賞]]:1回(1995)
* [[ゼロックス・スーパーカップ]]優勝:1回(1996)
* [[Jリーグチャンピオンシップ]]最優秀選手:1回(1996)
* [[アジアカップウィナーズカップ]]準優勝:1回(1996)
* [[Jリーグオールスターサッカー]]最優秀選手:3回(1996, 1998, 2000)
* [[サンワバンクカップ]]優勝:1回(1997)
* [[Jリーグアウォーズ#表彰|Jリーグ功労選手賞]](2001)

=== 指導者 ===
; {{flagicon|JPN}} 名古屋グランパス
* [[AFCチャンピオンズリーグ]]ベスト4:(2009)
* [[天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]準優勝:1回(2009)
* [[Jリーグ ディビジョン1|J1]]:1回(2010)


== 代表歴 ==
== 代表歴 ==
292行目: 257行目:
代表キャップ:84試合(ユーゴスラビア/セルビア・モンテネグロ歴代2位) 得点:15得点
代表キャップ:84試合(ユーゴスラビア/セルビア・モンテネグロ歴代2位) 得点:15得点


==指導者経歴==
== 出演 ==
=== CM ===
* 2008年 - 現在 {{flagicon|Japan}} [[名古屋グランパスエイト|名古屋グランパス]]:監督
; いずれも日本での出演
* [[トヨタ・カローラ|トヨタ・カローラツーリングワゴン]]
* [[名古屋市交通局]]([[ユリカ]])
* [[サークルKサンクス|サークルK]]


=== 監督成績 ===
== 著書 ==
* 『セブン・イヤーズ・イン・ジャパン』、祥伝社、2001年
{| class="wikitable" style="text-align: center;"
|- style="background-color:#DDDDDD"
! rowspan="2" |年度!! rowspan="2" |所属!! rowspan="2" |クラブ!! colspan="6" |リーグ戦!! colspan="3"|カップ戦
|- style="background-color:#dddddd"
!順位 !!試合 !!勝点 !!勝利 !!引分 !!敗戦 !![[Jリーグカップ|ナビスコ杯]] !![[天皇杯全日本サッカー選手権|天皇杯]] !![[AFCチャンピオンズリーグ|ACL]]
|-
|[[2008年のJリーグ|2008]]||[[日本プロサッカーリーグ|J1]] ||名古屋 ||3位 ||34 ||59 ||17 ||8 ||9 ||ベスト4 ||ベスト8 ||-
|-
|[[2009年のJリーグ|2009]]||J1 ||名古屋 ||9位 ||34 ||50 ||14 ||8 ||12 ||準々決勝敗退 ||準優勝 ||ベスト4
|-
|[[2010年のJリーグ|2010]]||J1 ||名古屋 ||優勝 || || || || || ||予選リーグ敗退 || ||-
|-
|colspan="3" |'''J1通算''' ||- ||'''68''' ||'''109''' ||'''31''' ||'''16''' ||'''21'''||- ||- ||-
|}


== 日本での出演CM ==
== 脚注 ==
{{Reflist|2}}
*[[トヨタ・カローラ|トヨタ・カローラツーリングワゴン]]
*[[名古屋市交通局]]([[ユリカ]]) - CM中に[[リフティング]]をしながら[[バス (交通機関)|バス]]を待つシーンがあった。
*[[サークルKサンクス|サークルK]]〔家族で出演したバージョン([[ざるそば]]編)もある〕


== 外部リンク ==
== 参考文献 ==
* 木村元彦『誇り -ドラガン・ストイコビッチの軌跡』、東京新聞出版局、1998年
*[http://homepage2.nifty.com/yugoslavia/ ユーゴスラヴィアンサッカー]
* 木村元彦『Finale Dragan Stojkovic -ドラガン・ストイコビッチ完全読本』、集英社、2001年
*[http://www2.tokai.or.jp/yuyu/ YU YU FOOTBALL MANIA]
* ピクシー担当記者グループ『ありがとうストイコビッチ』、ラインブックス、2001年
*[http://www.fsj.co.yu/ セルビア・モンテネグロサッカー協会]
* ドラガン・ストイコビッチ『セブン・イヤーズ・イン・ジャパン』、祥伝社、2001年
*[http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/europe/w_balkans/gh.html 西バルカン平和定着・経済発展閣僚会合に平和親善大使として参加-(日本外務省のWebサイト)]
*[http://nagoya-grampus.jp/ 名古屋グランパス Official Web Site]
*[http://www.om110ans.net/fr/110_Ans_OM/100010/OM_110_Ans/46544/Voici_votre_Dream_Team_des_110_ans/ オリンピック・マルセイユ創立110周年記念特設サイト]
*[http://www.soccertalk.jp/content/soccertalk/1995/12// 1995年12月26日付 大住良之 東京新聞コラム サッカーの話をしよう]


== 著書・参考文献 ==
*『セブン・イヤーズ・イン・ジャパン』ドラガン・ストイコビッチ([[祥伝社]]) ISBN 4396312563
*『誇り ドラガン・ストイコビッチの軌跡』木村元彦([[集英社]]) ISBN 4087472450
*『悪者見参 ユーゴスラビアサッカー戦記』木村元彦(集英社) ISBN 408780304X
*『廃墟からのワールドカップ』金丸知好([[NTT出版]]) ISBN 4757150016
*『幻のサッカー王国 スタジアムから見た解体国家ユーゴスラヴィア』宇都宮徹壱([[勁草書房]]) ISBN 4326851511
*『ユーゴ紛争』千田善([[講談社]]) ISBN 4061491687
*『サッカー大全集:プレーヤー&クラブ編』([[ソニー・マガジンズ]])
*『東欧を知る辞典』([[平凡社]]) ISBN 4582126308
*『ありがとうストイコビッチ』ピクシー担当記者グループ(ラインブックス) ISBN 4898090818
*『Finale Dragan Stojkovic―ドラガン・ストイコビッチ完全読本』(集英社) ISBN 4087803260

== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
{{Jリーグ監督}}
{{Jリーグ監督}}
{{名古屋グランパスエイトのメンバー}}
{{名古屋グランパスエイトのメンバー}}
361行目: 297行目:
{{Jリーグ年間最優秀選手}}
{{Jリーグ年間最優秀選手}}
{{Jリーグ ベストイレブン}}
{{Jリーグ ベストイレブン}}
{{Jリーグ最優秀監督賞}}
}}
}}


378行目: 315行目:
[[Category:サッカー組織の幹部]]
[[Category:サッカー組織の幹部]]
[[Category:セルビアの正教徒]]
[[Category:セルビアの正教徒]]
[[Category:日本の正教徒]]
[[Category:1965年生]]
[[Category:1965年生]]
[[Category:存命人物]]
[[Category:存命人物]]

2011年3月1日 (火) 13:37時点における版

ドラガン・ストイコビッチ
名前
愛称 PixyまたはPiksi(ピクシー、妖精)
ラテン文字 Dragan Stojković
セルビア語 Драган Стојковић
基本情報
国籍 セルビアの旗 セルビア
生年月日 (1965-03-03) 1965年3月3日(59歳)
出身地 ニシュ
身長 175cm
体重 72kg
選手情報
ポジション MFFW
利き足 右足
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1983-1986
1986-1990
1990-1991
1991-1992
1992-1994
1994-2001
ユーゴスラビアの旗 ラドニツキ・ニシュ
ユーゴスラビアの旗 レッドスター
フランスの旗 マルセイユ
イタリアの旗 ヴェローナ
フランスの旗 マルセイユ
日本の旗 名古屋グランパス
0700(8)
120(54)
0110(0)
0190(1)
0180(5)
184(57)
代表歴2
1983-2001 ユーゴスラビアの旗 SFRY / セルビア・モンテネグロの旗 FRY 84 (15)
監督歴
2008- 日本の旗 名古屋グランパス
1. 国内リーグ戦に限る。2001年7月21日現在。
2. 2001年7月4日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

ドラガン・ストイコビッチセルビア語: Драган Стојковић - Dragan Stojković1965年3月3日 - )は、ユーゴスラビア(現・セルビア共和国ニシュ出身の元サッカー選手、サッカー指導者。

愛称のPixyまたはPiksiは少年時代に見ていたアニメ「ピクシー&ディクシー」(Pixie and Dixie and Mr. Jinks)の主人公のネズミの名前に由来している[1]。本来のつづりはPixieであり、Pixy(妖精)というつづりはメディアが付けたものである[2]

概要

地元のラドニツキ・ニシュからプロデビューし、1986年に名門レッドスター・ベオグラードに移籍するとプルヴァ・リーガで2度優勝した。1990年にフランスのオリンピック・マルセイユに移籍し、1992-93シーズンのUEFAチャンピオンズカップで優勝したが、八百長問題によって優勝杯が剥奪された。1994年に日本の名古屋グランパスに移籍し、天皇杯全日本サッカー選手権大会で2度優勝したが、J1優勝はできなかった。

現役引退後はユーゴスラビア(→セルビア・モンテネグロ)協会会長やレッドスター・ベオグラード会長を歴任し、2008年に名古屋の監督に就任。2009年にAFCチャンピオンズリーグで準決勝へ進出、2010年にクラブ初のJ1リーグ優勝に導いた。

経歴

選手経歴

ラドニツキ・ニシュ

1965年3月3日、セルビア共和国第2の都市ニシュ近郊に生まれ、3歳の頃からストリートサッカーに興じていたという[3]。14歳の時にラドニツキ・ニシュの下部組織に入団し、16歳でトップチームに昇格した[4]。当時のユーゴスラビアにはレッドスター・ベオグラードパルチザン・ベオグラード(いずれもセルビア共和国)、ディナモ・ザグレブハイデュク・スプリト(いずれもクロアチア共和国)の4つのビッグクラブがあり、それ以外のクラブから代表選手が招集されることは稀だったが、18歳の時にはじめてユーゴスラビア代表に招集され、フランス戦で初出場してミシェル・プラティニとユニフォーム交換をしている[5]。1984年6月2日、代表2キャップ目のポルトガル戦で初得点を記録し[6]、その直後のUEFA欧州選手権1984に出場するもグループリーグ3戦全敗で敗退した。フランス戦では大会最年少得点を記録し、UEFA欧州選手権2004にてウェイン・ルーニーに更新されるまで破られることはなかった。同年のロサンゼルスオリンピックでは銅メダルを獲得し、大会中に召集令状が届いたためコソボ自治州に派兵されたが、彼が1年間サッカーから離れている間にラドニツキ・ニシュは2部リーグに降格した[7]。プロサッカー選手として活動する傍ら、地元ニシュの大学で経済学を学んだ[3]

レッドスター・ベオグラード

1986年にはレッドスター・ベオグラードに移籍し、スタジアムに照明塔を付けられるだけの巨額の移籍金とレッドスターの選手レギュラー5人が対価として支払われた[8]。移籍直後からヴェリボル・ヴァソヴィッチ監督に実力や人間性を高く評価され、レッドスター史上最年少でキャプテンに就任すると[9]、1986-87シーズンはリーグ2位の15得点を決め、1987-88シーズンはロベルト・プロシネツキデヤン・サビチェビッチとともにプルヴァ・リーガを制した。1988-89シーズンのUEFAチャンピオンズカップ2回戦ではACミランと対戦し、敗れはしたものの2試合で2得点を決めて自身の名前を印象付けた[10]。1988年にはソウルオリンピックに出場し、3試合に出場して2得点1アシストと活躍した。1990 FIFAワールドカップ欧州予選ではフランスを破る得点を決め、8勝2分0敗という圧倒的な成績で本大会出場を決めた。1989年5月には人格・人気・実力を兼ね備えた選手に贈られるクラブの「星人」(Zvezdina Zvezda)の称号を手にした[11]。この称号はクラブに長く貢献した選手への功労賞のような側面を持っており、在籍わずか3年の24歳の若手であったストイコビッチの受賞は極めて画期的なことであった[12]。レッドスターでは1988年から1990年まで3年連続でリーグ最優秀選手に選ばれた[13]

イビチャ・オシムが監督を務めるユーゴスラビア代表の一員として、1990年に自身初のFIFAワールドカップに臨んだ。1990 FIFAワールドカップグループリーグ初戦の相手は西ドイツであったが、ローター・マテウスに完璧に封じられた。コロンビア戦やアラブ首長国連邦(UAE)戦でも本領を発揮するには至らなかったが、決勝トーナメント1回戦のスペイン戦では直接フリーキックの得点を含む2得点を決め、ガゼッタ・デッロ・スポルト紙の採点で8.5の高評価を受けた[14]ディエゴ・マラドーナとの背番号10対決となった準々決勝のアルゼンチン戦はPK戦までもつれたが、その1番手として蹴ったキックを失敗し、そのまま敗れて大会を後にした[14]

オリンピック・マルセイユ

FIFAワールドカップ前の1990年1月、フランス・ディヴィジョン・アン2連覇中のオリンピック・マルセイユと移籍金500万ポンドで[15]契約を結んだ[16]。当時のユーゴスラビアでは26歳以下の選手は海外移籍することが許されていなかったが、特例で移籍が認められたのであった。フランス代表のジャン=ピエール・パパンエリック・カントナ、イングランド代表のクリス・ワドル、ガーナ代表のアベディ・ペレなど名選手が揃う中で背番号10を与えられたが、1990-91シーズン開幕早々のFCメス戦で左膝を負傷し、シーズンの大半を棒に振った[17]。サッカー選手人生で幾度もの膝の負傷に悩まされたが、この時の怪我の度合いは引退を考えるほど深刻であった[18]。UEFAチャンピオンズカップ決勝では古巣のレッドスターと対戦したが、試合終了間際の数分間しか出場できず、PK戦の末に敗れて準優勝に終わった。1991-92シーズンはセリエAエラス・ヴェローナFCにレンタル移籍したが、イタリアの守備重視の戦術になじめず、怪我の影響もあって不完全燃焼に終わった。

ユーゴスラビア代表はUEFA欧州選手権1992予選を破竹の勢いで勝ち進み、7勝1敗で楽々と通過したが、予選期間中にクロアチアがユーゴスラビアからの分離独立を宣言し、ズボニミール・ボバン、FWダヴォール・シューケルロベルト・ヤルニなどの主力選手がクロアチア国籍を取得してチームを去った[19]。代表チームはストックホルム入りして最後の調整に励んでいたが、内戦への裁定として国連が制裁措置を取り、ユーゴスラビア代表はUEFA欧州選手権の出場停止処分を受けた[20]

1992-93シーズンのUEFAチャンピオンズカップでは決勝でACミランを破り、リーグ戦で5連覇を達成したが、バランシエンヌFC監督のボロ・プリモラツがマルセイユの八百長を告発し[21]、1994年3月23日にディヴィジョン・ドゥ(2部)降格・UEFAチャンピオンズカップ優勝杯剥奪が決定した[22]。クラブは2年間の契約延長を申し出たが、ストイコビッチはそれを拒否し、半年間という期限を定めてヨーロッパを離れる決断をした[23]

名古屋グランパス

1994年

1994年6月13日、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)の名古屋グランパスエイトと年俸(7ヶ月分)5000万円で契約し、マルセイユには移籍金9000万円が支払われた[24]。大物外国人として騒がれたゲーリー・リネカーが十分に活躍できなかったこともあってか、ファンやマスコミはストイコビッチを懐疑的な目で見る者も多かった[25]。7月16日の浦和レッドダイヤモンズとのプレシーズンマッチでチームデビューし[26]、8月10日のセカンドステージ開幕戦のサンフレッチェ広島戦でリーグ戦デビューしたが、試合開始18分で2枚のイエローカードを提示され、散々なデビュー戦となった[27]。豪雨の中での試合となった9月17日のジェフユナイテッド市原戦ではリフティングドリブルで観客の度肝を抜き、さらに移籍後初得点となる直接フリーキックを決めてマン・オブ・ザ・マッチに輝いた[28]。9月23日にゴードン・ミルンが監督を辞任し、三浦哲郎が暫定監督に就き指揮を執ったが、セカンドステージは最下位に終わった[29]。かねてより後任監督に推薦していたアーセン・ベンゲルが1994年11月に新監督として就任したため、半年間だけの在籍という予定を変更し、年俸5500万円で契約を更改した[30]。12月にはユーゴスラビア代表への制裁措置が一部解除されたため、代表の新キャプテンとして1994年12月23日に行われたブラジルとの親善試合に出場した[30]

1995年

1995年も開幕からしばらくは下位に低迷した。ストイコビッチ自身も判定に対する苛立ちから審判に食ってかかり、出場停止が明けては退場処分を繰り返し、負けが続いたチームの足を引っ張った[31]。しかし、5月の中断期間の間に行ったキャンプでベンゲルの戦術が再確認され、ファーストステージは15勝11敗(中断期間後は9勝1敗)の4位に躍進した。ベストイレブン投票ではミッドフィールダー部門最多の得票を集めて選出された[32]。セカンドステージ開幕戦のジュビロ磐田戦では1得点3アシストの活躍でマン・オブ・ザ・マッチに選ばれた[33]。ファンは彼のプレーに魅了され、応援団のコールで叫ばれる名前は「ストイコビッチ」から「ピクシー」に変わった[33]ヴェルディ川崎との直接対決に敗れて優勝は果たせなかったが、17得点29アシストと獅子奮迅の活躍を見せ、得点王の福田正博に大差をつけてリーグ最優秀選手に選ばれた[34]。天皇杯ではヴィッセル神戸鹿島アントラーズを退けて決勝に進出し、決勝ではサンフレッチェ広島に3-0で快勝して優勝を果たした。

1996年

1996年初の公式戦となったゼロックス・スーパーカップでは横浜マリノスと対戦し、2-0で快勝してタイトルを獲得した[35]。彼自身は3ステージ連続でリーグ開幕戦に得点し、チームは開幕から7勝1敗と絶好調だったが、急に失速してファーストステージを10勝5敗の6位で終えた。5月26日にはキリンカップサッカーにユーゴスラビア代表として出場し、キャプテンとして臨んだ日本戦で代表50キャップ目を記録した[36]

アトレティコ・マドリードなどからオファーがあったが、9月12日にはクラブとの契約を2年延長して1998年いっぱいまで名古屋でプレーすることになった。セカンドステージ途中、9月28日の柏レイソル戦をもってベンゲルが監督を退任したが、最終的には21勝9敗で2位という好結果を残した[37]。10月30日のV川崎戦では中村忠に頭突きを見舞い、3試合の出場停止処分を言い渡された[37]Jリーグチャンピオンシップで優勝し、MVPに選ばれた[37]。11月にはアジアカップウィナーズカップに出場して準優勝した。

1997年

1997年3月2日、サンワバンクカップD.C. ユナイテッド戦では1得点2アシストの活躍でMLS王者を下した[38]。しかし、リーグ戦では前年の快進撃が嘘のように歯車が噛み合わず、7月9日の横浜マリノス戦では提示されたイエローカードを逆に主審に突きつけ、審判を侮辱する行為だとして4試合の出場停止処分を受けた[39]ヤマザキナビスコカップでは準決勝に進出したが、リーグ戦のファーストステージは12位、セカンドステージは5位、天皇杯は東京ガスサッカー部に敗れて初戦敗退と振るわず、実りの少ないシーズンであった[40]1998 FIFAワールドカップ欧州予選には毎回日本から駆け付け、1位通過はスペインに許したが、プレーオフではハンガリー相手に2試合合計12-1で大勝して本大会出場を決めた。

1998年

1998年のファーストステージは試合ごとの浮き沈みが激しかったが、終盤の追い上げで3位に順位を上げて幕を閉じた。制裁措置解除後初の国際大会出場となった1998 FIFAワールドカップグループリーグのドイツ戦は2-2の引き分けに終わったが、ストイコビッチを中心とした華麗なパス回しでピッチを支配し、一時は2-0と優勢に試合を進めた[41]。決勝トーナメント1回戦のオランダ戦ではスロボダン・コムリエノビッチの同点弾をアシストする絶妙なフリーキックを蹴ったが、ロスタイムに決勝点を決められて敗れた[42]。FIFAワールドカップ期間中には欧州のクラブへの復帰が噂された[37]。8月16日に行われたJリーグオールスターサッカーでは同点となる得点を決めたほか2点目と3点目の起点にもなり、2年連続でMVPを受賞した[43]。セカンドステージも優勝争いからは早々に脱落。天皇杯は準決勝で清水エスパルスに敗れた。

1999年

1999年には呂比須ワグナーベルマーレ平塚より)、山口素弘楢崎正剛(いずれも横浜フリューゲルスより)の3人の日本代表クラスの選手が加入し、リーグ戦初優勝が期待された[44]。3月6日、アビスパ福岡との開幕戦では3年ぶりにヘディングで得点を決め、幸先の良いスタートを切ったが、3月24日には北大西洋条約機構(NATO)による母国ユーゴスラビアへの空爆が開始され、それが6月10日まで続いた。それまではできる限り政治的な発言は控えて来たストイコビッチであったが、3月27日の神戸戦後に「NATO STOP STRIKES」(NATOはユーゴスラビアへの空爆を止めよ)というアンダーシャツを見せて空爆への抗議行動をとり、Jリーグより注意を受けた[45]

優勝候補筆頭に挙げられたファーストステージは7勝7敗の8位に終わったが、セカンドステージ途中にジョアン・カルロスが監督に就任するとチームは息を吹き返し、クラブ記録を更新する10連勝でセカンドステージは11勝3敗の2位と巻き返した[46]。フランスやオーストリアのクラブからのオファーもあったが、約3割の減額を飲んだ年俸1億3000万円で契約を1年間延長した[47]。天皇杯決勝のサンフレッチェ広島戦では1得点1アシストの活躍を見せ、2度目のタイトルを手にした[48]UEFA欧州選手権2000予選は政治的理由からユーゴスラビア代表に不利なスケジュールを余儀なくされ、最終節までユーゴスラビア、アイルランドチェコの3ヶ国が首位を争ったが、最終戦でクロアチアに引き分けて本大会出場を決めた。

2000年

2000年3月4日、ジュビロ磐田と対戦したゼロックス・スーパーカップはPK戦の末に敗れた[49]。5月6日のV川崎戦では約25mの距離から直接フリーキックを沈め、Jリーグ史上23人目となる通算50得点を達成した[50]

UEFA欧州選手権2000では世代交代を進めたい監督のヴヤディン・ボシュコヴに冷遇され、控え選手の立場で大会に臨んだが、グループリーグ初戦のスロベニア戦では0-3の場面で途中出場して3-3の引き分けに持ち込み、チームに欠かせない存在であることをアピールした[51]ノルウェー戦では先制点の起点となるフリーキックを放ってマン・オブ・ザ・マッチに選ばれ、スペイン戦は試合終了間際に逆転負けを喫したものの、グループリーグを2位で辛くも勝ち抜いた[52]。決勝トーナメント1回戦では2年前に敗れたオランダと対戦し、1-6の大差で敗れてベルギーとオランダを後にした。この大会がユーゴスラビア代表として臨んだ最後の主要大会となった。

8月26日に行われたたらみオールスターサッカーでは直接フリーキックを決め、1996年・1998年に続く3度目のMVPを受賞した[53]。セカンドステージ途中には大岩剛望月重良平野孝の3選手に突然の戦力外通告が告げられたため、ストイコビッチを含め選手たちには動揺が走り、優勝争いには全く絡まずにシーズンを終えた[54]。来日7シーズン目ではじめて退場処分を受けなかった。11月30日には契約を半年間延長し、契約が満了する2001年7月末をもって現役引退することが発表された[55]

2001年

2001年のファーストステージは開幕から5試合で4勝1分と好調な出だしだったが、6節で磐田との直接対決に敗れたことがきっかけとなり、磐田に優勝をさらわれた。7月21日の東京V戦で名古屋のユニフォームを脱ぎ、キリンカップサッカー日本との親善試合でユーゴスラビア代表のユニフォームを脱いだ[56]。この試合後にはユニフォーム交換の依頼が殺到し、彼の人気の高さを改めて実感させた[56] [57]。名古屋ではリーグ戦178試合に出場し、55得点を記録した[58]。そのうちの14得点はペナルティキックによるものであり、6得点はフリーキックを直接決めたものであり、1得点はコーナーキックを直接決めたものである[59]。木村元彦によればアシスト数は95を数え[60]、アシストした回数が最も多いのは岡山哲也である[59]。7年間の間にもらったイエローカードは69枚、退場処分回数は13回(そのうち一発退場回数は3回)に上った[59] [61]

引退後

引退直後には名古屋とテクニカル・アドバイザーの契約を締結した。2001年9月には豊田スタジアムの北10番ゲートが「ピクシーゲート」と命名された。10月9日には豊田スタジアムで引退記念試合(名古屋対レッドスター・ベオグラード)を行い、10月30日にはニシュのチャイル・スタジアムにて引退記念試合(ラドニツキ・ニシュ対ヴァルダル・スコピエ)を行った。同年9月にはユーゴスラビアサッカー協会(のちにセルビア・モンテネグロサッカー協会)会長に就任し、2005年にレッドスター・ベオグラード会長に就任するためにサッカー協会会長を辞任した。2004年3月には日本外務省より西バルカン平和定着・経済発展のための「平和親善大使」を委嘱された。同年7月にはセルビア・モンテネグロの治安の悪さを理由にパリに移住した。2007年10月12日、「何かを終わりにし、新しいことを始めるちょうどいい時だ」と発言してレッドスター会長を辞任した。

指導者経歴

名古屋グランパス

2008年

名古屋がセフ・フェルホーセンに代わる2008年シーズンからの監督就任を要請。しかし当時ストイコビッチが持っていたUEFAのコーチライセンスは「UEFA A(2004年取得)」で、Jリーグで監督を行なうのに必要なJFAのS級ライセンスに相当する「UEFA PRO」ではなかった為、これが原因で交渉は一時中断。その後、シーズン開始前までにPROライセンス取得への見通しが立った為に交渉は進捗し、2008年1月にストイコビッチはPROライセンスを取得して名古屋の監督に正式に就任した。開幕戦の京都パープルサンガ戦で初采配を取り、2節の浦和戦で初勝利を挙げた。その後もチームは順調に勝ち点を積み上げ、また名古屋にとってチーム創設以来未だかつて勝利がなかったカシマスタジアムでの鹿島アントラーズ戦に勝利、同スタジアムで初勝利を挙げた監督となった。その後故障者などが出るなどしたが、鹿島、川崎フロンターレと最終節まで優勝争いを繰り広げるなど名古屋の躍進に貢献し、最終的には3位で終了してAFCチャンピオンズリーグへの出場権も獲得した。

2009年

AFCチャンピオンズリーグに出場し、準々決勝では川崎を破ったが、準決勝でアル・イテハドに敗れてベスト4に終わった。10月17日、横浜FM戦で相手GK榎本哲也がタッチラインへボールを蹴り出した際にベンチから駆け寄り、革靴を履いた右足でダイレクトシュートを放った[62]。高く蹴り上げられたボールは52m先のゴールにワンバウンドで「ゴールイン」し、双方のサポーターから大歓声を受けたが、試合遅延と審判への侮辱行為として即座に退席処分を受けた。この映像はYouTubeによって世界中へと配信され、UEFA会長のミシェル・プラティニからも賞賛された[63]

2010年

2010年1月27日、ジーコイビチャ・オシムらとともに2022 FIFAワールドカップ招致大使に就任した[64]。4月24日、かつて所属したオリンピック・マルセイユの歴代ドリームチームのメンバーに選ばれた[65]田中マルクス闘莉王(浦和から)、金崎夢生大分トリニータから)、ダニルソンコンサドーレ札幌から)などを獲得し、選手層の充実に努めた。8月14日の浦和戦に勝利し、約2年ぶりに首位に立つと、その後は首位を譲ることなく2位との勝ち点差を広げ、11月20日の湘南ベルマーレ戦に勝利し3試合を残して初優勝を決めた。同年はJリーグ最優秀監督賞を受賞し、Jリーグ史上初の「最優秀選手&最優秀監督」の両方の受賞者となった。なお同年12月には観光庁から「スポーツ観光マイスター」に任命されている[66]

人物

プレースタイル

常に自分が主体となって試合を組み立てることを好み、シンプルなパス回しと変幻自在のドリブルから決定的なパスを狙うプレーが持ち味である[67]。ボールコントロールが巧みでフリーキックも得意である。

家族

両親とひとりの姉がいる[68]レッドスター・ベオグラード移籍直後にファッションデザイナーをしていた現在の妻と知り合い[69]、レッドスター時代に長女が、マルセイユ時代に次女と長男が生まれた[70]。サッカーの試合の都合で結婚式を3回キャンセルしたため、1991年6月21日にようやく妻と結婚式を挙げた[70]。1995年11月15日には観光のために来日していた義母が脳内出血により急逝し、それ以後は昭和区にある正教会の教会を自らの拠り所とした[71]。監督就任後、長男のマルコ・ストイコビッチはグランパスの下部組織に在籍していたが2010年に退団した。この後マルコはパリへ戻ることになり、ストイコビッチは彼の転校手続きの為にシーズン中にも関わらずチームを離脱している[72]

親日家

ストイコビッチは大の親日家である。名古屋在籍時の1999年、母国セルビアのバスケットボール選手で、共に出場したロス五輪以来の親交を持つブラデ・ディバッツとの対談が組まれたことがあった。対談は大いに盛り上がり予定時間を超過したが、彼は神社仏閣の美しさからタクシー運転手の親切な振る舞いまで様々な事象を引き合いに出し、「いかに自分と家族が日本を好きか」ということを興奮気味に語り続けたという[73]。ベオグラードの日本大使館員に真剣に一時帰化の相談をしたというエピソードもある[73]。趣味は盆栽で、夏には浴衣を着て家族と寺院で記念撮影をする。名古屋のゼネラルマネージャーとして共に仕事をした久米一正によれば、日本語は既に「ペラペラ」だが、選手と距離を作るために敢えて話さないという[73]

"日本のお米はファンタスティック"
–来日から1年が経った頃に[74]

日本文化を愛するストイコビッチは、食生活に於いても日本料理好きを公言している。名古屋在籍時の1995年、ホテルのバイキングで中西哲生が食べていた納豆に初めてトライし[75]、それ以後は海外キャンプに行くときも納豆を持参するようにクラブにリクエストしていたが、1997年のオーストラリアキャンプで朝食に納豆が出されなかったため激怒し、クラブスタッフを日本食食料品店に買いに行かせた[76]。生卵[77]、うどん[78]、鮎の塩焼き[78]、梅干しなども好物であり、梅干はとりわけ大きくて柔らかい物が好みである[79]日本食やイタリア料理を好む一方で、中華料理など油を多用する料理は好まない[80]

これら彼の日本好きというイメージから派生したものではないが、「ストイコビッチ」という名前に漢字を当てた「『須藤彦一(すどう ひこいち)』という日本名を持っている」とのネタが存在し、週刊朝日等の週刊誌で実際にこの話題が取り上げられたことがある[81]。しかしこれは木村元彦が「2000年頃にとあるスポーツ誌に冗談で書いたもので、本人が知るはずもなく事実ではない」とコメントしている[82]

その他

母語のセルビア語のほかに英語、フランス語、イタリア語を話せる[83]。公式会見では英語を使用している。

名古屋グランパスでチームメイトだった浅野哲也の長男が1998年3月3日に生まれ、たまたまストイコビッチと同じ誕生日であった事から名付け親を買って出た。しかし浅野にリクエストした名前は「ドラガン」であり、日本人としては特異すぎたため、浅野は仕方なく「ガ」の一文字だけ譲り受けて息子を命名した[84]

2011年2月6日、ユーロスポーツ他の英国各紙は、アーセナルFC監督のアーセン・ベンゲルが、自分の後任であるべきと思う人物としてストイコビッチの名前を挙げたと伝えた[85]。ベンゲルはセルビア紙に対し、「自分の後任がストイコビッチであれば嬉しい。それには100の理由が有る」「アイディアが同じ。共に完璧なサッカーを求める」「彼がパスとプレスを多用したアタッキングサッカーを実践するチームを目指していたし、そうしていたのを知っている。それは彼が良いコーチになることを示している」と語った。

所属クラブ

選手

1991-1992 →イタリアの旗 エラス・ヴェローナ(Loan)

指導者

個人成績

選手時代

国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
ユーゴスラビア リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
1981-82 ラドニツキ・ニシュ 1 0
1982-83 17 1
1983-84 27 3 6 2 33 5
1985-86 25 4
1986-87 レッドスター・
ベオグラード
32 17 6 0 39 17
1987-88 28 15 3 1 31 16
1988-89 29 12 4 3 33 15
1989-90 31 10 6 0 37 10
フランス リーグ戦 F・リーグ杯フランス杯 期間通算
1990-91 マルセイユ リーグ・アン 11 0 4 0 18 0
イタリア リーグ戦 イタリア杯オープン杯 期間通算
1991-92 ヴェローナ セリエA 19 1 2 1 21 2
フランス リーグ戦 F・リーグ杯フランス杯 期間通算
1992-93 マルセイユ リーグ・アン 0 0
1993-94 18 5 1 0 19 5
日本 リーグ戦 ナビスコ杯天皇杯 期間通算
1994 名古屋 - J 14 3 1 0 2 1 16 4
1995 - 40 15 - 5 2 45 17
1996 - 19 11 10 3 1 0 34[86] 16
1997 10 18 2 6 1 0 0 27[87] 3
1998 10 28 7 1 0 4 1 33 8
1999 10 J1 24 11 5 2 5 2 34 15
2000 10 26 5 6 2 1 0 38[88] 10
2001 10 15 3 2 1 - 17 4
通算 ユーゴスラビア 190 62
フランス 29 5
イタリア セリエA 19 1
日本 J1 184 57 30 5 18 6 239 79
総通算 422 125

指導者時代

年度 所属 クラブ リーグ戦 カップ戦
順位 試合 勝点 勝利 引分 敗戦 ナビスコ杯 天皇杯 ACL
2008 J1 名古屋 3位 34 59 17 8 9 ベスト4 ベスト8 -
2009 9位 34 50 14 8 12 準々決勝敗退 準優勝 ベスト4
2010 優勝 34 72 23 3 8 予選リーグ敗退 ベスト8 -
J1通算 - 102 181 54 19 29 - - -

タイトル

選手

ユーゴスラビアの旗 ユーゴスラビア代表
ユーゴスラビアの旗 レッドスター・ベオグラード
フランスの旗 オリンピック・マルセイユ
日本の旗 名古屋グランパス

指導者

日本の旗 名古屋グランパス

代表歴

オリンピック
サッカー
1984 サッカー

代表キャップ:84試合(ユーゴスラビア/セルビア・モンテネグロ歴代2位) 得点:15得点

出演

CM

いずれも日本での出演

著書

  • 『セブン・イヤーズ・イン・ジャパン』、祥伝社、2001年

脚注

  1. ^ 記者グループ2001、14頁
  2. ^ ストイコビッチ2001、77頁
  3. ^ a b 記者グループ2001、16頁
  4. ^ 木村1998、14-15頁
  5. ^ 記者グループ2001、17頁
  6. ^ ストイコビッチ2001、174頁
  7. ^ 木村1998、17頁
  8. ^ 木村1998、19頁
  9. ^ 木村1998、21頁
  10. ^ 木村1998、37頁
  11. ^ 木村1998、40頁
  12. ^ 木村1998、41頁
  13. ^ ストイコビッチ2001、97頁
  14. ^ a b 木村2001、36頁
  15. ^ 木村2001、32頁
  16. ^ 木村1998、45頁
  17. ^ 木村1998、58-59頁
  18. ^ 木村2001、53頁
  19. ^ 木村1998、67頁
  20. ^ 木村1998、77頁
  21. ^ 木村1998、85頁
  22. ^ 木村1998、89頁
  23. ^ 木村1998、90頁
  24. ^ 記者グループ2001、12頁
  25. ^ 木村2001、321頁
  26. ^ 木村2001、80頁
  27. ^ 木村1998、101頁
  28. ^ 木村1998、104-106頁
  29. ^ 木村1998、110頁
  30. ^ a b 木村1998、115頁
  31. ^ 木村2001、40頁
  32. ^ 木村1998、129頁
  33. ^ a b 木村1998、130頁
  34. ^ 木村1998、144頁
  35. ^ 記者グループ2001、103頁
  36. ^ 記者グループ2001、110頁
  37. ^ a b c d 木村2001、208頁
  38. ^ 記者グループ2001、126-127頁
  39. ^ 中日スポーツ、1995年9月10日
  40. ^ 木村2001、208頁
  41. ^ 木村2001、47頁
  42. ^ 木村2001、48頁
  43. ^ 記者グループ2001、157頁
  44. ^ 記者グループ2001、176頁
  45. ^ 記者グループ、180頁
  46. ^ 記者グループ2001、189-194頁
  47. ^ 記者グループ2001、192頁
  48. ^ 「監督1年目から結果を残したピッチ上の妖精(上)」『月刊グラン』、2009年2月号
  49. ^ 記者グループ2001、198頁
  50. ^ 記者グループ2001、204頁
  51. ^ 木村2001、49頁
  52. ^ 記者グループ2001、208頁
  53. ^ 記者グループ2001、217頁
  54. ^ 記者グループ2001、218頁
  55. ^ 記者グループ2001、215頁
  56. ^ a b 記者グループ2001、226頁
  57. ^ なお、川口能活がストイコビッチのユニフォームを譲り受けている
  58. ^ 木村2001、414頁
  59. ^ a b c 木村2001、414頁
  60. ^ Jリーグは公式記録にアシスト数を含めていない
  61. ^ なお、記者グループ2001、62頁によればイエローカードの枚数は71枚である
  62. ^ ストイコビッチ監督、幻のゴールの衝撃映像サポティスタ、2009年10月22日
  63. ^ Dragan Stojkovic congratulated by Michel Platini for touchline 'wonder goal'Telegraph、2009年10月28日
  64. ^ “ピクシージャパン”誕生?! ポスト岡田に障害なしZAKZAK、2010年4月2日
  65. ^ Voici votre «Dream Team» des 110 ans !OM110ans.net、2010年4月24日
  66. ^ ストイコビッチ監督スポーツ観光マイスター就任のお知らせ - 名古屋グランパス公式web、2010年12月3日
  67. ^ 木村2001、51頁
  68. ^ ストイコビッチ2001、76頁
  69. ^ 木村2001、54頁
  70. ^ a b ストイコビッチ2001、143頁
  71. ^ 木村2001、21頁
  72. ^ ストイコビッチ監督 長男の転校手続きで渡仏 - Sponichi Annex 2010年8月28日配信
  73. ^ a b c 木村元彦「ピクシーはなぜ日本を選んだのか」『Sports Graphic Number』768号、文藝春秋、2010年、p.24-26。
  74. ^ 記者グループ2001、88頁
  75. ^ 木村1998、129頁
  76. ^ 中日スポーツ
  77. ^ ストイコビッチ2001、26頁
  78. ^ a b [1] 引用エラー: 無効な <ref> タグ; name "公式サイト20050701"が異なる内容で複数回定義されています
  79. ^ 木村1998、159頁
  80. ^ 木村2001、56頁
  81. ^ ポスト・ザックに須藤彦一氏浮上 - サポティスタ・2010年11月6日
  82. ^ 【Jリーグ】ピクシーのもうひとつの顔。日本の良さを知るフットボーラー、ドラガン・ストイコビッチ - Sportiva・2010年12月14日
  83. ^ 記者グループ2001、11頁
  84. ^ 月刊グラン、1998年5月号
  85. ^ ベンゲル監督が後任に“まな弟子”ピクシーを指名スポーツ報知、2011年2月7日
  86. ^ その他にゼロックス・スーパーカップ1試合0得点、サントリーカップ2試合1得点、アジアカップウイナーズカップ4試合2得点
  87. ^ その他にサンワバンクカップ1試合1得点
  88. ^ その他にゼロックス・スーパーカップ1試合0得点、アジアカップウイナーズカップ2試合1得点

参考文献

  • 木村元彦『誇り -ドラガン・ストイコビッチの軌跡』、東京新聞出版局、1998年
  • 木村元彦『Finale Dragan Stojkovic -ドラガン・ストイコビッチ完全読本』、集英社、2001年
  • ピクシー担当記者グループ『ありがとうストイコビッチ』、ラインブックス、2001年
  • ドラガン・ストイコビッチ『セブン・イヤーズ・イン・ジャパン』、祥伝社、2001年