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[[ファイル:Yoshitoshi Driving away the Demons.jpg|right|thumb|200px|[[月岡芳年]]画『[[新形三十六怪撰]]』より「[[#源為朝|為朝]]の武威痘鬼神を退く図」。左上に疱瘡を患った子を抱く母親、その下に疱瘡神が描かれている。]]
[[画像:Shuran Hososhin.jpg|right|thumb|180px|志水軒朱蘭『疱瘡心得草』より「疱瘡神祭る図」]]
[[ファイル:Nisshin_Shinjishi_Hososhin.jpg|right|thumb|200px|[[明治]]8年([[1875年]])の[[錦絵新聞]]『日新真事誌』の記事にある疱瘡神の目撃談。[[小林永濯|鮮斎永濯]]画。]]
'''疱瘡神'''(ほうそうがみ、ほうそうしん)は、'''疱瘡'''([[天然痘]])を擬神化した悪神で、[[疫病神]]の一種である。疱瘡神は[[貧乏神]]と同様に、破れ[[団扇]]を片手にぼろ衣を纏った老人体に描かれる事が多い
[[ファイル:Shuran Hososhin.jpg|right|thumb|200px|志水軒朱蘭『疱瘡心得草』より「疱瘡神祭る図」]]
'''疱瘡神'''(ほうそうがみ、ほうそうしん)は、'''疱瘡'''([[天然痘]])を擬神化した悪神で、[[疫病神]]の一種である。


== 概要 ==
[[ワラ]]の[[船]]に乗ってどこからともなく現れ、人間の[[夢]]の中に入り込んで取り憑くとされる。この疫病神に取り憑かれてしまった者は疱瘡や[[麻疹]]などの悪病に罹り、高熱を出してその多くが死んでしまうとされる。
[[平安時代]]の『[[続日本紀]]』によれば、疱瘡は[[天平]]7年([[735年]])に[[朝鮮半島]]の[[新羅]]から伝わったとある。当時は外交を司る[[大宰府]]が[[九州]]の[[筑前国]](現・[[福岡県]])[[筑紫郡]]に置かれたため、外国人との接触が多いこの地が疱瘡の流行源となることが多く、大宰府に左遷された[[菅原道真]]や[[藤原広嗣]]らの[[御霊信仰]]とも関連づけられ、疱瘡は[[怨霊]]の祟りとも考えられた<ref name="狂歌百物語">{{Cite book|和書|author=[[多田克己]]|title=[[#狂歌百物語|妖怪画本 狂歌百物語]]|pages=295頁|chapter=『妖怪画本・狂歌百物語』 妖怪総覧}}</ref>。近世には疱瘡が新羅が来たということから、[[三韓征伐]]の[[神]]として[[住吉三神|住吉大明神]]を祀ることで平癒を祈ったり、病状が軽く済むよう疱瘡神を祀ることも行われていた<ref name="民間信仰">{{Cite book|和書|author=宮本袈裟雄|title=[[#民間信仰辞典|民間信仰辞典]]|pages=262-263頁|chapter=疱瘡神}}</ref>。[[寛政]]時代の古典『叢柱偶記』にも『叢柱偶記』にも「本邦患<sub>レ</sub>痘家、必祭<sub>二</sub>疱瘡神夫妻二位於堂<sub>一</sub>、俗謂<sub>二</sub>之裳神<sub>一</sub>(『我が国で疱瘡を患う家は、必ず疱瘡神夫妻お2人を御堂に祭り、民間ではこれを裳神という』の意)」と記述がある<ref name="民間信仰" />。


笠神、芋明神(いもみょうじん)などの別名でも呼ばれるが、これは疱瘡が激しい瘡蓋を生じることに由来する<ref name="頼れる神様">{{Cite book|和書|title=[[#頼れる神様|「頼れる神様」大事典]]|pages=115頁|chapter=疱瘡神 疫病除け・病気平癒の神様}}</ref>。
疱瘡神は[[犬]]や[[赤|赤色]]を苦手とするという伝承があるため、「疱瘡神除け」として[[張子]]の犬人形を飾ったり、赤い[[御幣]]や赤一色で描いた[[鍾馗]]の絵を[[お守り]]にしたりするなどの風習を持つ地域も存在した。また祀りもてなす事で疱瘡神に手加減をしてもらい、災厄を軽く抑えようとする風習(疱瘡神送り)をする村も多かった。


かつて医学の発達していなかった時代には、根拠のない流言飛語も多く、疱瘡を擬人化するのみならず、実際に疱瘡神を目撃したという話も出回った。明治8年([[1875年]])には、[[本所 (墨田区)|本所]]で人力車に乗った少女がいつの間にか車上から消えており、あたかも後述する疱瘡神除けのように赤い物を身に付けていたため、それが疱瘡神だったという話が、当時の[[錦絵新聞]]『日新真事誌』に掲載されている(右側の画像を参照)<ref>{{Cite book|和書|author=悳俊彦|title=妖怪曼陀羅 幕末明治の妖怪絵師たち|year=2007|publisher=[[国書刊行会]]|isbn=978-4-336-04945-2|pages=102頁}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=湯本豪一|title=図説 江戸東京怪異百物語|year=2007|publisher=[[河出書房新社]]|series=ふくろうの本|isbn=978-4-309-76096-4|pages=91頁}}</ref>。
疱瘡神は[[庚申塔]]のように村のはずれに石塔を立てて祀られる事が多い。かつて疱瘡にかかった者やその家族の多くは、少しでも疱瘡の苦しみを軽くしてもらおうと、これらの石塔に祈りをささげていたが、[[種痘]]の普及により天然痘が激減すると、それにともないこうした風習も廃れていった。


== 風習 ==
さらに戦後は道路拡張や[[宅地造成]]の邪魔とされ、周辺の寺社に移設されたり、破却される例も増えた。
疱瘡神は[[犬]]や[[赤|赤色]]を苦手とするという伝承があるため、「疱瘡神除け」として[[張子]]の犬人形を飾ったり、赤い[[御幣]]や赤一色で描いた[[鍾馗]]の絵を[[お守り]]にしたりするなどの風習を持つ地域も存在した。疱瘡を患った患者の周りには赤い品物を置き、未患の子供には赤い玩具、下着、置物を与えて疱瘡除けのまじないとする風習もあった<ref name="狂歌百物語" />。赤い物として、[[タイ]]に車を付けた「鯛車」という玩具や、[[猩々]]の人形も疱瘡神よけとして用いられた<ref name="日本の神さま">{{Cite book|和書|title=[[#日本の神さま|「日本の神さま」おもしろ小事典]]|pages=65-69頁|chapter=疱瘡神 死の病から救う神!}}</ref>。疱瘡神除けに赤い物を用いるのは、疱瘡のときの赤い発疹は予後が良いということや、健康のシンボルである赤が病魔を払うという俗信に由来するほか、生き血を捧げて悪魔の怒りを解くという意味もあると考えられている<ref>{{Cite web|url=http://www.lib-murakami.jp/t/kyoudo/awasima/awasima2.htm |title=あわしま風土記 粟島の信仰|publisher=[http://www.lib-murakami.jp/t/index.html 村上市立中央図書館]|accessdate=1月17日|accessyear=2011年}}</ref>。[[江戸時代]]には赤色だけで描いた「赤絵」と呼ばれるお守りもあり、絵柄には[[源為朝]]、[[鍾馗]]、[[金太郎]]、[[獅子舞]]、[[達磨]]など、子供の成育にかかわるものが多く描かれた<ref name="頼れる神様" />。為朝が描かれたのは、かつて[[八丈島]]にに配流された為朝が疱瘡神を抑えたことで島に疱瘡が流行しなかったという伝説にも由来する<ref name="江戸時代館">{{Cite book|和書|title=[[#江戸時代館|ビジュアル・ワイド江戸時代館]]|pages=220頁|chapter=流行病の恐怖}}</ref>。「もて遊ぶ犬や達磨に荷も軽く湯の尾峠を楽に越えけり」といった和歌もが赤絵に書かれることもあったが、これは前述のように疱瘡神が犬を苦手とするという伝承に由来する<ref name="日本の神さま" />。

[[江戸時代]]の[[読本]]『[[椿説弓張月]]』においては、源為朝が八丈島から痘鬼(疱瘡神)を追い払った際、「二度とこの地には入らない、為朝の名を記した家にも入らない」という証書に痘鬼の手形を押させたという話があるため、この手形の貼り紙も疱瘡除けとして家の門口に貼られた。[[浮世絵|浮世絵師]]・[[月岡芳年]]による『[[新形三十六怪撰]]』に「為朝の武威痘鬼神を退く図」と題し、為朝が疱瘡神を追い払っている画があるが、これは疱瘡を患った子を持つ親たちの、強い為朝に疱瘡神を倒してほしいという願望を表現したものと見られている<ref>{{Cite book|和書|author=悳俊彦編|title=芳年妖怪百景|year=2001|publisher=国書刊行会|isbn=978-4-336-04202-6|pages=82頁}}</ref>(冒頭画像参照)。貼り紙の事例としては「子供不在」と書かれた紙の例もあるが、これは子供が疱瘡を患いやすかったことから「ここには子供はいないので他の家へ行ってくれ」と疱瘡神へアピールしていたものとされる<ref name="日本の神さま" />。

疱瘡は伝染病であり、発病すれば個人のみならず周囲にも蔓延する恐れがあるため、単に物を飾るだけでなく、土地の人々が総出で疱瘡神を鎮めて外へ送り出す「疱瘡神送り」と呼ばれる行事も、各地で盛んに行われた。鐘や太鼓や笛を奏でながら村中を練り歩く「疱瘡囃子」「疱瘡踊り」を行う土地も多かった<ref name="日本の神さま" />。

また、地方によっては疱瘡神を悪神と見なさず、疱瘡のことを人間の悪い要素を体外に追い出す通過儀礼とし、疱瘡神はそれを助ける神とする信仰もあった。この例として[[新潟県]][[中頚城郡]]では、子供が疱瘡にかかると藁や笹でサンバイシというものを作り、発病の1週間後にそれを子供の頭に乗せ、母親が「疱瘡の神さんご苦労さんでした」と唱えながらお湯をかける「ハライ」という風習があった<ref name="日本民俗事典" />。

医学の発達していない時代においては、人々は病気の原因とされる疫病神や悪を祀り上げることで、病状が軽く済むように祈ることも多く、疱瘡神に対しても同様の信仰があった。疱瘡神には特定の祭神はなく、自然石や石の祠に「疱瘡神」と刻んで疱瘡神塔とすることが多かった。疫病神は異境から入り込むと考えられたため、これらの塔は村の入口、神社の境内などに祀られた。これらは前述のような疱瘡神送りを行う場所ともなった<ref name="頼れる神様" />。

幕末期に[[種痘]]が実施された際には、外来による新たな予防医療を人々に認知させるため、「牛痘児」と呼ばれる子供が牛の背に乗って疱瘡神を退治する様が引札に描かれ、[[牛痘]]による種痘の効果のアピールが行われた<ref name="日本の神さま" /><ref name="江戸時代館" />。種痘による疱瘡の予防が一般化した後も、地方によっては[[民間伝承]]における疱瘡神除けの習俗が継承されていた。例として[[兵庫県]][[多紀郡]][[篠山町]](現・[[篠山市]])では、予防接種から1週間ほど後、御幣を立てた桟俵に笹の葉、[[赤飯]]、水引などを備え、道端に送る風習があった<ref name="民間信仰" />。[[大阪府]][[豊能郡]][[能勢町]]でも「湯がけ」といって、同様に種痘から12日目に紐を通した桟俵に赤い紙と赤飯を備えて疱瘡神を送った<ref name="日本民俗事典">{{Cite book|和書|author=紙谷威広|title=[[#民俗事典|日本民俗事典]]|pages=649-650頁|chapter=疱瘡神}}</ref>。[[千葉県]][[印旛郡]]では疱瘡流行時、子女が万灯を肩に鼓を打ちながら村を囃して歩くことが[[明治]]10年頃まで続けられていた<ref name="民間信仰" />。接種の際に赤い御幣、赤飯、[[食紅]]の印を付けた[[饅頭]]などが供えられることも多かった<ref name="日本の神さま" />。

[[21世紀]]に入っても、赤い御幣などの疱瘡神を家庭で祀っている例があり、疱瘡神の加護によって疱瘡を患うことのなかったことの感謝の念が今なお残っているものと見られている<ref>{{Cite book|和書|author=[[三橋健 (神道学者)|三橋健]]|title=神道の常識がわかる小事典|year=2007|publisher=PHP研究所|series=PHP新書|volume=|isbn=978-4-569-64452-3|pages=58頁|chapter=神道と日本人の生活の道}}</ref>。前述の疱瘡囃子や疱瘡踊りが伝統行事として行われている土地も多く、[[茨城県]]では[[土浦市]]田宮地区の疱瘡囃子が<ref>{{Cite web|date=2010-06-14|url=http://www.joyoliving.co.jp/topics/201006/tpc1006035.html |title=天まで響け!! おじちゃんが遺した郷土のリズム|publisher=[http://www.joyoliving.co.jp/index.html 常陽リビング]|accessdate=2月12日|accessyear=2011年}}</ref>、[[鹿児島県]]では[[薩摩郡]][[入来町]](現・[[薩摩川内市]])や[[大浦町]](現・南さつま市)などで行われていた疱瘡踊りが、それぞれ県の無形[[民俗文化財]]に指定されている<ref>{{Cite web|url=http://www.pref.kagoshima.jp/kyoiku-bunka/bunka/museum/shichoson/satumasendai/irikihoso.html |title=入来町の疱瘡踊|publisher=[[鹿児島県]]|accessdate=2月12日|accessyear=2011年}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://www.pref.kagoshima.jp/kyoiku-bunka/bunka/museum/shichoson/minamisatuma/housou.html |title=大浦町の疱瘡踊|publisher=鹿児島県|accessdate=2月12日|accessyear=2011年}}</ref>。


== 疱瘡神を祀る主な日本の社寺 ==
== 疱瘡神を祀る主な日本の社寺 ==
* [[本光寺 (市川市)|本光寺]]([[千葉県]][[市川市]])
* [[本光寺 (市川市)|本光寺]]([[千葉県]][[市川市]])


== 参考文献 ==
== 脚注 ==
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*[[根岸鎮衛]] 『[[耳嚢]]』全3冊 [[長谷川強]]校注、[[岩波書店]]〈[[岩波文庫]]〉、1991年。 - 江戸時代の随筆。疱瘡神についての逸話を収録。
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== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=青木直己他|editor=[[大石学]]・小澤弘・[[山本博文]]編|others=[[竹内誠]]監修|title=ビジュアル・ワイド江戸時代館|year=2002|publisher=[[小学館]]|isbn=978-4-09-623021-3|ref=江戸時代館}}
* {{Cite book|和書|author=大塚民俗学会編|title=日本民俗事典|year=1994|publisher=[[弘文堂]]|isbn=978-4-335-57050-6|ref=民俗事典}}
* {{Cite book|和書|author=[[京極夏彦]]|editor=[[多田克己]]編|title=妖怪画本 狂歌百物語|year=2008|publisher=[[国書刊行会]]|isbn=978-4-3360-5055-7|ref=狂歌百物語}}
* {{Cite book|和書|author=久保田裕道|title=「日本の神さま」おもしろ小事典 氏神、道祖神から狛犬、ナマハゲまで|year=2008|publisher=PHPエディターズ・グループ|isbn=978-4-569-70460-9|ref=日本の神さま}}
* {{Cite book|和書|author=[[桜井徳太郎]]編|title=民間信仰辞典|year=1980|publisher=[[東京堂出版]]|isbn=978-4-490-10137-9|ref=民間信仰}}
* {{Cite book|和書|author=戸部民夫|title=「頼れる神様」大事典 縁結び、商売繁盛だけじゃない!|year=2007|publisher=[[PHP研究所]]|isbn=978-4-569-65829-2|rew=頼れる神様}}


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2011年2月19日 (土) 22:37時点における版

月岡芳年画『新形三十六怪撰』より「為朝の武威痘鬼神を退く図」。左上に疱瘡を患った子を抱く母親、その下に疱瘡神が描かれている。
明治8年(1875年)の錦絵新聞『日新真事誌』の記事にある疱瘡神の目撃談。鮮斎永濯画。
志水軒朱蘭『疱瘡心得草』より「疱瘡神祭る図」

疱瘡神(ほうそうがみ、ほうそうしん)は、疱瘡天然痘)を擬神化した悪神で、疫病神の一種である。

概要

平安時代の『続日本紀』によれば、疱瘡は天平7年(735年)に朝鮮半島新羅から伝わったとある。当時は外交を司る大宰府九州筑前国(現・福岡県筑紫郡に置かれたため、外国人との接触が多いこの地が疱瘡の流行源となることが多く、大宰府に左遷された菅原道真藤原広嗣らの御霊信仰とも関連づけられ、疱瘡は怨霊の祟りとも考えられた[1]。近世には疱瘡が新羅が来たということから、三韓征伐として住吉大明神を祀ることで平癒を祈ったり、病状が軽く済むよう疱瘡神を祀ることも行われていた[2]寛政時代の古典『叢柱偶記』にも『叢柱偶記』にも「本邦患痘家、必祭疱瘡神夫妻二位於堂、俗謂之裳神(『我が国で疱瘡を患う家は、必ず疱瘡神夫妻お2人を御堂に祭り、民間ではこれを裳神という』の意)」と記述がある[2]

笠神、芋明神(いもみょうじん)などの別名でも呼ばれるが、これは疱瘡が激しい瘡蓋を生じることに由来する[3]

かつて医学の発達していなかった時代には、根拠のない流言飛語も多く、疱瘡を擬人化するのみならず、実際に疱瘡神を目撃したという話も出回った。明治8年(1875年)には、本所で人力車に乗った少女がいつの間にか車上から消えており、あたかも後述する疱瘡神除けのように赤い物を身に付けていたため、それが疱瘡神だったという話が、当時の錦絵新聞『日新真事誌』に掲載されている(右側の画像を参照)[4][5]

風習

疱瘡神は赤色を苦手とするという伝承があるため、「疱瘡神除け」として張子の犬人形を飾ったり、赤い御幣や赤一色で描いた鍾馗の絵をお守りにしたりするなどの風習を持つ地域も存在した。疱瘡を患った患者の周りには赤い品物を置き、未患の子供には赤い玩具、下着、置物を与えて疱瘡除けのまじないとする風習もあった[1]。赤い物として、タイに車を付けた「鯛車」という玩具や、猩々の人形も疱瘡神よけとして用いられた[6]。疱瘡神除けに赤い物を用いるのは、疱瘡のときの赤い発疹は予後が良いということや、健康のシンボルである赤が病魔を払うという俗信に由来するほか、生き血を捧げて悪魔の怒りを解くという意味もあると考えられている[7]江戸時代には赤色だけで描いた「赤絵」と呼ばれるお守りもあり、絵柄には源為朝鍾馗金太郎獅子舞達磨など、子供の成育にかかわるものが多く描かれた[3]。為朝が描かれたのは、かつて八丈島にに配流された為朝が疱瘡神を抑えたことで島に疱瘡が流行しなかったという伝説にも由来する[8]。「もて遊ぶ犬や達磨に荷も軽く湯の尾峠を楽に越えけり」といった和歌もが赤絵に書かれることもあったが、これは前述のように疱瘡神が犬を苦手とするという伝承に由来する[6]

江戸時代読本椿説弓張月』においては、源為朝が八丈島から痘鬼(疱瘡神)を追い払った際、「二度とこの地には入らない、為朝の名を記した家にも入らない」という証書に痘鬼の手形を押させたという話があるため、この手形の貼り紙も疱瘡除けとして家の門口に貼られた。浮世絵師月岡芳年による『新形三十六怪撰』に「為朝の武威痘鬼神を退く図」と題し、為朝が疱瘡神を追い払っている画があるが、これは疱瘡を患った子を持つ親たちの、強い為朝に疱瘡神を倒してほしいという願望を表現したものと見られている[9](冒頭画像参照)。貼り紙の事例としては「子供不在」と書かれた紙の例もあるが、これは子供が疱瘡を患いやすかったことから「ここには子供はいないので他の家へ行ってくれ」と疱瘡神へアピールしていたものとされる[6]

疱瘡は伝染病であり、発病すれば個人のみならず周囲にも蔓延する恐れがあるため、単に物を飾るだけでなく、土地の人々が総出で疱瘡神を鎮めて外へ送り出す「疱瘡神送り」と呼ばれる行事も、各地で盛んに行われた。鐘や太鼓や笛を奏でながら村中を練り歩く「疱瘡囃子」「疱瘡踊り」を行う土地も多かった[6]

また、地方によっては疱瘡神を悪神と見なさず、疱瘡のことを人間の悪い要素を体外に追い出す通過儀礼とし、疱瘡神はそれを助ける神とする信仰もあった。この例として新潟県中頚城郡では、子供が疱瘡にかかると藁や笹でサンバイシというものを作り、発病の1週間後にそれを子供の頭に乗せ、母親が「疱瘡の神さんご苦労さんでした」と唱えながらお湯をかける「ハライ」という風習があった[10]

医学の発達していない時代においては、人々は病気の原因とされる疫病神や悪を祀り上げることで、病状が軽く済むように祈ることも多く、疱瘡神に対しても同様の信仰があった。疱瘡神には特定の祭神はなく、自然石や石の祠に「疱瘡神」と刻んで疱瘡神塔とすることが多かった。疫病神は異境から入り込むと考えられたため、これらの塔は村の入口、神社の境内などに祀られた。これらは前述のような疱瘡神送りを行う場所ともなった[3]

幕末期に種痘が実施された際には、外来による新たな予防医療を人々に認知させるため、「牛痘児」と呼ばれる子供が牛の背に乗って疱瘡神を退治する様が引札に描かれ、牛痘による種痘の効果のアピールが行われた[6][8]。種痘による疱瘡の予防が一般化した後も、地方によっては民間伝承における疱瘡神除けの習俗が継承されていた。例として兵庫県多紀郡篠山町(現・篠山市)では、予防接種から1週間ほど後、御幣を立てた桟俵に笹の葉、赤飯、水引などを備え、道端に送る風習があった[2]大阪府豊能郡能勢町でも「湯がけ」といって、同様に種痘から12日目に紐を通した桟俵に赤い紙と赤飯を備えて疱瘡神を送った[10]千葉県印旛郡では疱瘡流行時、子女が万灯を肩に鼓を打ちながら村を囃して歩くことが明治10年頃まで続けられていた[2]。接種の際に赤い御幣、赤飯、食紅の印を付けた饅頭などが供えられることも多かった[6]

21世紀に入っても、赤い御幣などの疱瘡神を家庭で祀っている例があり、疱瘡神の加護によって疱瘡を患うことのなかったことの感謝の念が今なお残っているものと見られている[11]。前述の疱瘡囃子や疱瘡踊りが伝統行事として行われている土地も多く、茨城県では土浦市田宮地区の疱瘡囃子が[12]鹿児島県では薩摩郡入来町(現・薩摩川内市)や大浦町(現・南さつま市)などで行われていた疱瘡踊りが、それぞれ県の無形民俗文化財に指定されている[13][14]

疱瘡神を祀る主な日本の社寺

脚注

  1. ^ a b 多田克己「『妖怪画本・狂歌百物語』 妖怪総覧」『妖怪画本 狂歌百物語』、295頁頁。 
  2. ^ a b c d 宮本袈裟雄「疱瘡神」『民間信仰辞典』、262-263頁頁。 
  3. ^ a b c 「疱瘡神 疫病除け・病気平癒の神様」『「頼れる神様」大事典』、115頁頁。 
  4. ^ 悳俊彦『妖怪曼陀羅 幕末明治の妖怪絵師たち』国書刊行会、2007年、102頁頁。ISBN 978-4-336-04945-2 
  5. ^ 湯本豪一『図説 江戸東京怪異百物語』河出書房新社〈ふくろうの本〉、2007年、91頁頁。ISBN 978-4-309-76096-4 
  6. ^ a b c d e f 「疱瘡神 死の病から救う神!」『「日本の神さま」おもしろ小事典』、65-69頁頁。 
  7. ^ あわしま風土記 粟島の信仰”. 村上市立中央図書館. 1月17日閲覧。accessdateの記入に不備があります。
  8. ^ a b 「流行病の恐怖」『ビジュアル・ワイド江戸時代館』、220頁頁。 
  9. ^ 悳俊彦編『芳年妖怪百景』国書刊行会、2001年、82頁頁。ISBN 978-4-336-04202-6 
  10. ^ a b 紙谷威広「疱瘡神」『日本民俗事典』、649-650頁頁。 
  11. ^ 三橋健「神道と日本人の生活の道」『神道の常識がわかる小事典』PHP研究所〈PHP新書〉、2007年、58頁頁。ISBN 978-4-569-64452-3 
  12. ^ 天まで響け!! おじちゃんが遺した郷土のリズム”. 常陽リビング (2010年6月14日). 2月12日閲覧。accessdateの記入に不備があります。
  13. ^ 入来町の疱瘡踊”. 鹿児島県. 2月12日閲覧。accessdateの記入に不備があります。
  14. ^ 大浦町の疱瘡踊”. 鹿児島県. 2月12日閲覧。accessdateの記入に不備があります。

参考文献