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'''キーストン'''は、25戦18勝2着2回の戦績を残した[[日本]]の[[競走馬]]である。
特に重、不良馬場では6戦5勝2着1回([[東京優駿]](日本ダービー)、[[菊花賞]]2着を含む)の戦績を残し、無類の強さを発揮した。ほとんどのレースで逃げており、日本ダービーも逃げ切っている。名前の由来は、アメリカで[[ニューヨーク]]から[[ペンシルベニア州|ペンシルベニア]]を結ぶ特急列車の愛称(現在も[[アムトラック]]が運行している)から。[[馬主]]の伊藤由五郎は[[鉄道ファン]]としても有名で、[[1960年]]の[[二冠馬]][[コダマ (競走馬)|コダマ]]・その弟で[[皐月賞]]を制した[[シンツバメ]]の所有者でもあった。


'''キーストン'''は、[[日本]]の[[競走馬]]である。
== 戦績 ==
不良馬場で2着馬に10馬身差もの大差を付けたデビュー戦の圧勝を皮切りに京都3歳ステークスや[[弥生賞]]を含む無傷の6連勝を続けるが、[[スプリングステークス]]では[[ダイコーター]]の2着となり初黒星を喫する。そして、迎えた[[皐月賞]]では[[ダイコーター]]に次ぐ2番人気に支持されるも14着と惨敗。その後、叩き台のオープン戦を勝利し、大一番である[[東京優駿]](日本ダービー)に臨む。ここでも[[皐月賞]]と同じく[[ダイコーター]]に次ぐ2番人気に支持されたものの、[[皐月賞]]時と比べて両馬の支持率の差は大きく開いていた。しかし、得意とする不良馬場と好枠順を味方に[[ダイコーター]]を2着に破る逃げ切り勝ちを決めて、見事に雪辱を果たす。そして、菊花賞では宿敵[[ダイコーター]]の2着に敗れるも、心配された距離(3000メートル)を克服し、ダービー馬としての実力を示した。


デビュー年の1964年に5連勝を挙げて[[JRA賞最優秀2歳牡馬|啓衆社賞最優秀3歳牡馬]]を受賞、翌1965年の[[中央競馬クラシック三冠|クラシック戦線]]では[[ダイコーター]]とライバル関係を築き、[[東京優駿|東京優駿(日本ダービー)]]に優勝して[[JRA賞最優秀3歳牡馬|最優秀4歳牡馬]]と[[JRA賞最優秀短距離馬|最良スプリンター]]に選出された。1967年に出走した[[阪神大賞典]]の競走中に左前脚を[[脱臼]]し、[[予後不良 (競馬)|予後不良]]と診断されて[[安楽死]]の措置がとられた。故障発生後、自身の苦痛をおして馬場上で昏倒する[[騎手]]・[[山本正司]]の様子を気遣うような仕種を見せたことが、美談として取り上げられている。
明け4歳を迎え、[[京都競馬場]]の[[京都金杯|金杯]]を快勝するが、続く[[大阪杯]]を7着と取りこぼし、春の大目標であった[[天皇賞|春の天皇賞]]でも5着に敗れるなど、本来の実力を発揮出来ず、その後、脚部不安のため約1年半の長期休養を挟む事となった。そして、復帰後、休養明け緒戦のオープン戦でこそ2着に敗れたものの、その後、4連勝し復活を遂げた。


== 経歴 ==
440kgそこそこの小柄な馬体で常にハナを切りひたむきに走る姿は快速馬でありながら華麗さよりも懸命さを感じさせるものであったという。
1962年、[[北海道]][[浦河町]]の高岸繁牧場に生まれる。父は1959年に[[アイルランド]]から輸入された[[ソロナウェー]]、母リットルミッジはイギリスからの輸入馬で、本馬は日本における2番仔であった。幼名は「高敏」<ref name="keystone">『サラブレッド101頭の死に方』64頁。</ref>。競走年齢の3歳となった1964年、当時有力馬主の一名であった[[伊藤由五郎]]の所有馬となり、「キーストン」と改名されて[[京都競馬場]]の[[松田由太郎]][[厩舎]]に入った。馬名は[[アメリカ合衆国|アメリカ]]で[[ニューヨーク]]から[[ペンシルベニア]]を結ぶ[[特急]][[列車]]の愛称「Keystone」に由来する<ref name="keystone" />。


[[主戦騎手]]を務める山本正司によれば、キーストンは「体は小さいし、気質も大人しく、なんの特徴もな」い馬で、また動きは固くぎこちなかった。[[歩法 (馬術)#駈歩|駈歩]]では良好な動きを見せたが、それを踏まえても大きな期待を抱かせる馬ではなかったという<ref>渡辺(2004)74-75頁</ref>。
=== 最後のレース・1967年阪神大賞典 ===
6歳から[[種牡馬]]入りすることが決定していたキーストンは現役最後のレースとして大レースである[[有馬記念]]ではなく地元[[阪神競馬場]]で開かれる[[阪神大賞典]](2007年現在の3月開催の芝3000mと異なり当時は12月開催の芝3100m)に出走し、5頭立ての少頭数ではあったが、堂々の1番人気に支持されていた。


=== 戦績 ===
キーストンはいつものようにスタートから快調に逃げ続けた。4コーナーを回った時点では、他馬に差を詰められたものの、まだ手応えには余裕があった。しかしながら、直線を向いて追い出しを図った一瞬、ゴール手前約300mの地点で突然キーストンは「左前第一指関節完全脱臼」を発症、前のめりにバランスを崩して、騎乗していた[[山本正司]]は落馬してその衝撃で[[脳震盪]]を起こして意識を失った。
==== 皐月賞まで ====
1964年7月12日、[[函館競馬場]]で山本を鞍上にデビュー。この初戦を10馬身差で圧勝すると、以後これを含め5連勝。レコード優勝3回うち2つはコースレコードという成績で3歳シーズンを終え、この年の最優秀3歳牡馬に選出された。当初の印象を覆す活躍について、山本は「馬の個性も色々あって、最初からいいのもいるけど、初めはなんだかよくわからなくて、時間が経つに連れていいところが出てくる馬がいるものです。キーストンもそういうタイプだったんですね」と語っている<ref>渡辺(2004)75頁</ref>。


名実ともに翌年のクラシックに向けての有力候補に数えられたが、距離適性について「1600mまでの馬」との見方もあり、中長距離となるクラシックへの距離不安も囁かれていた<ref>渡辺(2004)81頁。</ref>。
キーストンの左前足は、かろうじて皮一枚でつながっている状態であったが、残る3本の脚で昏倒する山本の元へと近付いて行き、まるで安否を気遣うかのように鼻面を摺り寄せた。それにより意識を回復した山本は、キーストンが激痛で暴れないようにと手綱を抑えて首を抱き、近づいてきた来た馬場係員に手綱を預けたのち、再び意識を失って倒れた。


3ヶ月の休養後、クラシック三冠初戦の[[皐月賞]]に備え東上、前哨戦の[[弥生賞]]を3馬身差で制し、重賞初勝利を挙げた。山本にとっても、これがデビュー10年目での重賞初勝利であった。この同日に京都競馬場で行われた[[きさらぎ賞]]で、デビュー前からクラシック候補と注目され、キーストンが2戦目に負かしていた[[ダイコーター]]が優勝。鞍上は山本の兄弟子である[[栗田勝]]が務めており、競走後、栗田から山本へ「キーストンオメデトウ コチラモラクシヨウ コンドワマカス」という電報が届けられた<ref>『サラブレッド101頭の死に方』65頁。</ref>。
本命馬の競走中止という事態に、観客席は騒然となったが、この出来事を目にした観客達は、やがて息を呑み沈黙したという。また、[[関西テレビ放送|関西テレビ]]のアナウンサー・[[松本暢章]]による実況も、次第に涙声になっていった。そして、キーストンはその日のうちに、[[予後不良 (競馬)|予後不良]]として安楽死の処置を施された。


次走の[[スプリングステークス]]で東上してきたダイコーターと再戦。当日はキーストンが単勝支持率65.9%という圧倒的1番人気に支持されたが、栗田の予告通り、1馬身強の差でダイコーターが勝利。キーストンは6戦目で初めての敗戦を喫した。スプリングステークスはキーストンの限界と見られた距離より200m長い1800mの競走であり、マスコミからは「距離の差で負けた」という見方が伝えられ、皐月賞に向けて評価を落とす結果となった<ref>渡辺(2004)81頁。</ref>。
その後山本は騎手に復帰し、数年後には騎手を引退して調教師に転身したが、それからも、山本はキーストンの事を思い出すと、涙が止まらなくなってしまうと語っている。


20日後に迎えた皐月賞では、ダイコーターが50%超の単勝支持を受けて1番人気、キーストンは2番人気となった。レースでは20頭立ての19番枠から逃げを打ったが、最後の直線を前に失速、ダイコーターを破った[[チトセオー]](7番人気)の14着に終わった。前走から14kg減という馬体の細化が大敗の要因とされている<ref>『日本の名馬・名勝負物語』298頁。</ref><ref>今井昭雄『ダービー馬の履歴書』(1987年、保育資料社。ISBN 978-4829302170)155頁。</ref>。
このエピソードは人と馬の絆の深さを象徴するものとして現在でも語り継がれている。

競走後、馬主の伊藤が調教師の松田と、山本の師匠・[[武田文吾]]に騎手交代の是非を問うた。しかし松田は「キーストンには山本が一番合っている」と伊藤を説得し、武田も「山本に乗せてやって下さい」と頼んだことから、キーストンの鞍上は山本のまま据え置かれた。山本はこの数年前まで武田厩舎の所属であったが、騎乗機会に恵まれないことに不満を抱いて松田厩舎へ移籍した経緯があり、後にこの話を聞いた際に「松田先生に感謝すると同時に、武田さんには本当に厩舎を飛び出したことを申し訳なく思いました」と述懐している<ref>渡辺(2004)84-86頁。</ref>。

==== 日本ダービー優勝 ====
その後キーストンは体調を戻し、オープン戦勝利を経て、日本ダービーを迎えた。直前にはダイコーターが[[橋元幸吉]]から[[上田清次郎]]へ、ダービー1着賞金の倍額以上となる2500万円(2000万円とも)で[[トレード]]され、「ダービーを金で買えるか」という論争が湧き起こっていた<ref>渡辺(2004)82-83頁。</ref>(上田は皐月賞前にキーストン買収を申し入れていたが、拒否されていた<ref>松永郁子『名馬は劇的に生きる』(2000年、講談社。ISBN 978-4062102803)308頁。</ref>)。騒動の中、当日は血統的特徴から距離延長(2400m)が歓迎されたダイコーターが圧倒的1番人気に支持され、逆に距離不安を抱え、当日雨による不良馬場で持ち味のスピードも活かせないと見られたキーストンは離れた2番人気となった<ref>『菊花賞十番勝負』71頁。</ref>。レースではキーストンが2番枠から先頭に立ち、後続を引き離して逃げを打った。後続はこれに競り掛けず、キーストンは単騎のまま楽なペースで道中を進んだ。ダイコーターは不良馬場の上で追走に苦労しており、キーストンは2番手に数馬身の差を付けたまま最終コーナーを回ると、最後の直線を逃げ切り、追い込んだ2着ダイコーターに1馬身3/4差を付けてダービー優勝を果たした。[[ダービージョッキー]]となった山本は、これが騎手生活を通じて唯一の[[八大競走]]優勝となった。後にレースを回顧し、不良馬場がキーストンには有利に、ダイコーターには不利に働いたこと、ダービー初騎乗のため、却って緊張感なく乗ることができた点などを勝因として挙げ、またダイコーターと互角に渡り合うため、「最後の1マイル(1600m)だけ全力で出し切る」という作戦で乗っていたと語っている<ref>渡辺(2004)88-92頁。</ref>。

==== 日本ダービー以降、阪神大賞典まで ====
ダービーの後は休養に入り、9月に函館で復帰。緒戦から3連勝を挙げ、[[菊花賞]]を迎えた。ダイコーターもダービー後の休養・復帰から3連勝で臨み、当日はダイコーター1番人気、キーストン2番人気となった。レースは先行するキーストンの直後で栗田ダイコーターが徹底的なマークを続け<ref>『菊花賞十番勝負』76頁。</ref>、キーストンはゴール前で3/4馬身かわされて2着となった。

12月にはオープン戦に勝利したが、調子が落ちていると判断され、年末の[[グランプリ (中央競馬)|グランプリ]]・[[有馬記念]]を回避してシーズンを終えた。ダービー優勝と年間10戦7勝の安定した成績が評価され、翌1月には当年の最優秀4歳牡馬と最良スプリンターのタイトルを受賞した。なお、[[フリーハンデ]]<ref group="注">[[斤量]]数値で馬の能力を表し、比較する評価方法。</ref>ではダイコーターの方が上位に据えられており<ref>『日本の名馬・名勝負物語』299頁。</ref>、翌シーズンに向けての期待はダイコーターの方が高かったとされている<ref>『菊花賞十番勝負』77頁。</ref>が、ダイコーターは翌年以降不振に陥り、最終的に[[障害競走|障害馬]]としてキャリアを終えた。その後[[種牡馬]]として成功を収めている。

キーストンは年明けの[[京都金杯|金杯(西)]]から復帰し、3馬身差で勝利。しかし続く[[大阪杯]]で7着と敗れると、オープン戦勝利から春の目標とした[[天皇賞]]は、1歳上の[[ハクズイコウ]]らに完敗し、5着となった。さらに秋に備えて休養に入った先で脚を傷めて長期の休養を余儀なくされ、療養は1年以上に及んだ<ref>『日本の名馬・名勝負物語』300-301頁。</ref>。

6歳となった1967年7月に[[函館競馬場]]で復帰する。復帰戦こそ2着となったが、以後夏から秋にかけて得意の短中距離で4連勝を遂げる。復活と見た陣営は、年末の[[有馬記念]]への登録を行ったが、遠征が脚への負担となると考え予定を変更し、地元関西の阪神大賞典<ref group="注">当時は12月開催の芝3100m。</ref>に出走した<ref>『日本の名馬・名勝負物語』301頁。</ref>。

==== 第15回阪神大賞典 ====
有力馬の多くが有馬記念に向かっていたこともあり、5頭立ての少頭数で行われ、キーストンは1番人気に支持されていた。スタートが切られると常の通り逃げを打ち、周回2周目の最終コーナーを回った時点では、スパートを掛けてきた後続に対して、山本は手綱を抑えたままであった<ref>渡辺(2004)100頁。</ref>。しかし直線を向いてスパートを掛けた際、ゴール手前約300mの地点で故障を発生。キーストンは前のめりにバランスを崩し、落馬した山本は頭を強打して[[脳震盪]]を起こし、一時的に意識を失った<ref>渡辺(2004)100-101頁。</ref>。キーストンは惰性で数十メートルを進んだ後に転倒したが、立ち上がった後に昏倒する山本を振り返り、故障した左前脚を浮かせた3本脚の状態で傍らへ歩いていった。この時、山本は一時的に意識を取り戻しており、以降の出来事について以下のように語っている。
{{Quotation|「あー、えらいことになった、と思いましたが、気がつくとすぐそばに、キーストンがいたんです。ということは、そこから離れていったのに、また僕のところに帰ってきたわけですよね。そういうことは朧げに理解できました。<br />それからキーストンは膝をついて、僕の胸のところに顔を持ってきて、鼻面を押しつけてきました。ぼくはもう、夢中でその顔を抱きましたよ。<br />そのあと誰かが来たので(中略)その人に手綱を渡して『頼むわ』と言ったまでは覚えてるんですが、また意識がなくなりました」|渡辺敬一郎『強すぎた名馬たち』101-102頁|}}

この様子を目の当たりにしたのは場内のファンに留まらず、テレビ中継においても一部始終が放映されており、実況を担当していた[[関西テレビ放送|関西テレビ]][[アナウンサー]]・[[松本暢章]]は、涙声になりながら様子を伝えた<ref>渡辺(2004)103頁。</ref>。キーストンは山本の手を離れて馬運車に収容された後、左第一指関節完全脱臼で予後不良と診断され、直後に[[安楽死]]の処置を施された。山本が再び意識を回復したのはキーストンが薬殺された後であった<ref>渡辺(2004)102頁。</ref>。

=== 死後 ===
キーストンの事故、山本との最後の様子はファンの間で反響を呼んだ。競馬ファンであった文筆家の[[寺山修司]]はキーストンをテーマに「夕陽よ、急ぐな」というエッセイを書き、阪神大賞典でテレビ中継の解説者として事故に遭遇した詩人の[[志摩直人]]は、「ソロナ家の紋章」という詩を発表、また、[[タレント]]・[[歌手]]の[[諸口あきら]]は、自身のレコードアルバムで「キーストン・ブルース」という曲を発表した。キーストンの「物語」は、往時を知らないファンにも広く伝えられており、競馬漫画家の[[よしだみほ]]は、競馬を知り始めたファンが触れる「教科書系名馬」と評している<ref>よしだみほ『よしだみほの20世紀の100名馬』(ワニブックス、2000年。ISBN 978-4847013744)134頁。</ref>。

山本は1973年をもって騎手を引退、調教師に転身した。調教師としては、その引退までに通算555勝、GI級競走8勝を含む重賞32勝と、第一線で活動を続けた。山本は「キーストンが生きていれば、その子に跨ることを楽しみに、もっと長く騎手を続けていた」と語る<ref>木村(1997)376頁。</ref>一方で、自身の調教師活動に関するキーストンの影響について、以下のようにも語っている。
{{Quotation|「騎手として、たぶん多くの人の印象にはのこらないタイプだった僕が、キーストンでダービーに勝てて、あの日の事故で、これは不幸をキーストンがひとりで背負ったんだけど、人の心に僕のことも印象づけてくれた。それが調教師になったあとの僕をどれほど後押ししてくれたか分からない。馬主からの救援や依頼が絶えないのも、本当にあの子のおかげだと心から感謝しています……」|木村幸治『調教師物語』376頁|}}

2000年に日本中央競馬会が行ったファン投票による名馬選定企画「[[Dream Horses 2000]]」では、1264票を集めて69位に付けられた<ref>『優駿』2000年10月号(日本中央競馬会)115頁。</ref>。同時期に競馬会の機関広報誌『[[優駿]]』が発表した「20世紀のベストホース100」にも名を連ね<ref>『優駿』2000年11月号(日本中央競馬会)17頁。</ref>、また同誌が2010年に通巻800号記念として行った「The Greatest Horses100」では、識者・読者の投票で48位に据えられている<ref>『優駿』2010年8月号(日本中央競馬会)10頁。</ref>。


== 競走成績 ==
== 競走成績 ==
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※2 太字の競走は[[八大競走]]。
※2 太字の競走は[[八大競走]]。


== 主な勝ち鞍 ==

*(GI級) - 東京優駿(日本ダービー)
*(GII級) - [[弥生賞]]、[[京都新聞杯|京都杯]]
*(GIII級) - 金杯(西)(現・[[京都金杯]])
*(OP)- [[京都2歳ステークス|京都3歳ステークス]]

== エピソード ==
* 皐月賞前、[[上田清次郎]]から伊藤由五郎に対してキーストンの買収提案があったが、伊藤はこれを拒否<ref>松永郁子『名馬は劇的に生きる』(2000年、講談社。ISBN 978-4062102803)p.308</ref>。上田は代わりにダイコーターを買収した。
* 競馬ファンでもあった劇作家の[[寺山修司]]はキーストンをテーマに「夕陽よ、急ぐな」というエッセイを書いている。[[諸口あきら]]は楽曲「キーストン・ブルース」を発表した。
== 血統表 ==
== 血統表 ==
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姉の孫にあたるネオキーストン([[福島記念]]、種牡馬)を筆頭に、リットルミッジの子孫には「キーストン」の名を受け継いだ馬が多かった。しかし現在はリットルミッジの子孫すっかり衰退してしまっている。
姉の孫にあたるネオキーストン([[福島記念]]、種牡馬)を筆頭に、リットルミッジの子孫には「キーストン」の名を受け継いだ馬が多かった。しかし現在はリットルミッジの系統は衰退している。


一方、いとこのマーシュメドウ([[朝日杯フューチュリティステークス|朝日杯三歳ステークス]]馬ミノル、[[桜花賞]]2着馬ニットウヤヨイの母)の子孫は近年もユーセイトップランや[[ウイングアロー]]が活躍を見せている。
一方、いとこのマーシュメドウ([[朝日杯フューチュリティステークス|朝日杯三歳ステークス]]馬ミノル、[[桜花賞]]2着馬ニットウヤヨイの母)の子孫は近年もユーセイトップランや[[ウイングアロー]]が活躍を見せている。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
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== 主要参考文献 ==
*中央競馬ピーアール・センター編『日本の名馬・名勝負物語』(中央競馬ピーアール・センター、1980年)ASIN B000J86XWM
*木村幸治『調教師物語』(洋泉社、1997年)ISBN 978-4896912920
*[[寺山修司]]、[[志摩直人]]ほか『「優駿」観戦記で甦る菊花賞十番勝負』(小学館、1998年)ISBN 978-4094024821
*[[大川慶次郎]]ほか『サラブレッド101頭の死に方(文庫版)』(徳間書店、1999年)ISBN 4198911851
*渡辺敬一郎『強すぎた名馬たち』(講談社、2004年)ISBN 978-4062722407


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2010年10月18日 (月) 07:47時点における版

キーストン
品種 サラブレッド
性別
毛色 鹿毛
生誕 1962年3月15日
死没 1967年12月17日
(5歳没・旧6歳)
ソロナウェー
リットルミッジ
母の父 ミゴリ
生国 日本の旗 日本北海道浦河町
生産者 高岸繁
馬主 伊藤由五郎
調教師 松田由太郎京都
競走成績
生涯成績 25戦18勝
獲得賞金 4245万3400円
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キーストンは、日本競走馬である。

デビュー年の1964年に5連勝を挙げて啓衆社賞最優秀3歳牡馬を受賞、翌1965年のクラシック戦線ではダイコーターとライバル関係を築き、東京優駿(日本ダービー)に優勝して最優秀4歳牡馬最良スプリンターに選出された。1967年に出走した阪神大賞典の競走中に左前脚を脱臼し、予後不良と診断されて安楽死の措置がとられた。故障発生後、自身の苦痛をおして馬場上で昏倒する騎手山本正司の様子を気遣うような仕種を見せたことが、美談として取り上げられている。

経歴

1962年、北海道浦河町の高岸繁牧場に生まれる。父は1959年にアイルランドから輸入されたソロナウェー、母リットルミッジはイギリスからの輸入馬で、本馬は日本における2番仔であった。幼名は「高敏」[1]。競走年齢の3歳となった1964年、当時有力馬主の一名であった伊藤由五郎の所有馬となり、「キーストン」と改名されて京都競馬場松田由太郎厩舎に入った。馬名はアメリカニューヨークからペンシルベニアを結ぶ特急列車の愛称「Keystone」に由来する[1]

主戦騎手を務める山本正司によれば、キーストンは「体は小さいし、気質も大人しく、なんの特徴もな」い馬で、また動きは固くぎこちなかった。駈歩では良好な動きを見せたが、それを踏まえても大きな期待を抱かせる馬ではなかったという[2]

戦績

皐月賞まで

1964年7月12日、函館競馬場で山本を鞍上にデビュー。この初戦を10馬身差で圧勝すると、以後これを含め5連勝。レコード優勝3回うち2つはコースレコードという成績で3歳シーズンを終え、この年の最優秀3歳牡馬に選出された。当初の印象を覆す活躍について、山本は「馬の個性も色々あって、最初からいいのもいるけど、初めはなんだかよくわからなくて、時間が経つに連れていいところが出てくる馬がいるものです。キーストンもそういうタイプだったんですね」と語っている[3]

名実ともに翌年のクラシックに向けての有力候補に数えられたが、距離適性について「1600mまでの馬」との見方もあり、中長距離となるクラシックへの距離不安も囁かれていた[4]

3ヶ月の休養後、クラシック三冠初戦の皐月賞に備え東上、前哨戦の弥生賞を3馬身差で制し、重賞初勝利を挙げた。山本にとっても、これがデビュー10年目での重賞初勝利であった。この同日に京都競馬場で行われたきさらぎ賞で、デビュー前からクラシック候補と注目され、キーストンが2戦目に負かしていたダイコーターが優勝。鞍上は山本の兄弟子である栗田勝が務めており、競走後、栗田から山本へ「キーストンオメデトウ コチラモラクシヨウ コンドワマカス」という電報が届けられた[5]

次走のスプリングステークスで東上してきたダイコーターと再戦。当日はキーストンが単勝支持率65.9%という圧倒的1番人気に支持されたが、栗田の予告通り、1馬身強の差でダイコーターが勝利。キーストンは6戦目で初めての敗戦を喫した。スプリングステークスはキーストンの限界と見られた距離より200m長い1800mの競走であり、マスコミからは「距離の差で負けた」という見方が伝えられ、皐月賞に向けて評価を落とす結果となった[6]

20日後に迎えた皐月賞では、ダイコーターが50%超の単勝支持を受けて1番人気、キーストンは2番人気となった。レースでは20頭立ての19番枠から逃げを打ったが、最後の直線を前に失速、ダイコーターを破ったチトセオー(7番人気)の14着に終わった。前走から14kg減という馬体の細化が大敗の要因とされている[7][8]

競走後、馬主の伊藤が調教師の松田と、山本の師匠・武田文吾に騎手交代の是非を問うた。しかし松田は「キーストンには山本が一番合っている」と伊藤を説得し、武田も「山本に乗せてやって下さい」と頼んだことから、キーストンの鞍上は山本のまま据え置かれた。山本はこの数年前まで武田厩舎の所属であったが、騎乗機会に恵まれないことに不満を抱いて松田厩舎へ移籍した経緯があり、後にこの話を聞いた際に「松田先生に感謝すると同時に、武田さんには本当に厩舎を飛び出したことを申し訳なく思いました」と述懐している[9]

日本ダービー優勝

その後キーストンは体調を戻し、オープン戦勝利を経て、日本ダービーを迎えた。直前にはダイコーターが橋元幸吉から上田清次郎へ、ダービー1着賞金の倍額以上となる2500万円(2000万円とも)でトレードされ、「ダービーを金で買えるか」という論争が湧き起こっていた[10](上田は皐月賞前にキーストン買収を申し入れていたが、拒否されていた[11])。騒動の中、当日は血統的特徴から距離延長(2400m)が歓迎されたダイコーターが圧倒的1番人気に支持され、逆に距離不安を抱え、当日雨による不良馬場で持ち味のスピードも活かせないと見られたキーストンは離れた2番人気となった[12]。レースではキーストンが2番枠から先頭に立ち、後続を引き離して逃げを打った。後続はこれに競り掛けず、キーストンは単騎のまま楽なペースで道中を進んだ。ダイコーターは不良馬場の上で追走に苦労しており、キーストンは2番手に数馬身の差を付けたまま最終コーナーを回ると、最後の直線を逃げ切り、追い込んだ2着ダイコーターに1馬身3/4差を付けてダービー優勝を果たした。ダービージョッキーとなった山本は、これが騎手生活を通じて唯一の八大競走優勝となった。後にレースを回顧し、不良馬場がキーストンには有利に、ダイコーターには不利に働いたこと、ダービー初騎乗のため、却って緊張感なく乗ることができた点などを勝因として挙げ、またダイコーターと互角に渡り合うため、「最後の1マイル(1600m)だけ全力で出し切る」という作戦で乗っていたと語っている[13]

日本ダービー以降、阪神大賞典まで

ダービーの後は休養に入り、9月に函館で復帰。緒戦から3連勝を挙げ、菊花賞を迎えた。ダイコーターもダービー後の休養・復帰から3連勝で臨み、当日はダイコーター1番人気、キーストン2番人気となった。レースは先行するキーストンの直後で栗田ダイコーターが徹底的なマークを続け[14]、キーストンはゴール前で3/4馬身かわされて2着となった。

12月にはオープン戦に勝利したが、調子が落ちていると判断され、年末のグランプリ有馬記念を回避してシーズンを終えた。ダービー優勝と年間10戦7勝の安定した成績が評価され、翌1月には当年の最優秀4歳牡馬と最良スプリンターのタイトルを受賞した。なお、フリーハンデ[注 1]ではダイコーターの方が上位に据えられており[15]、翌シーズンに向けての期待はダイコーターの方が高かったとされている[16]が、ダイコーターは翌年以降不振に陥り、最終的に障害馬としてキャリアを終えた。その後種牡馬として成功を収めている。

キーストンは年明けの金杯(西)から復帰し、3馬身差で勝利。しかし続く大阪杯で7着と敗れると、オープン戦勝利から春の目標とした天皇賞は、1歳上のハクズイコウらに完敗し、5着となった。さらに秋に備えて休養に入った先で脚を傷めて長期の休養を余儀なくされ、療養は1年以上に及んだ[17]

6歳となった1967年7月に函館競馬場で復帰する。復帰戦こそ2着となったが、以後夏から秋にかけて得意の短中距離で4連勝を遂げる。復活と見た陣営は、年末の有馬記念への登録を行ったが、遠征が脚への負担となると考え予定を変更し、地元関西の阪神大賞典[注 2]に出走した[18]

第15回阪神大賞典

有力馬の多くが有馬記念に向かっていたこともあり、5頭立ての少頭数で行われ、キーストンは1番人気に支持されていた。スタートが切られると常の通り逃げを打ち、周回2周目の最終コーナーを回った時点では、スパートを掛けてきた後続に対して、山本は手綱を抑えたままであった[19]。しかし直線を向いてスパートを掛けた際、ゴール手前約300mの地点で故障を発生。キーストンは前のめりにバランスを崩し、落馬した山本は頭を強打して脳震盪を起こし、一時的に意識を失った[20]。キーストンは惰性で数十メートルを進んだ後に転倒したが、立ち上がった後に昏倒する山本を振り返り、故障した左前脚を浮かせた3本脚の状態で傍らへ歩いていった。この時、山本は一時的に意識を取り戻しており、以降の出来事について以下のように語っている。

「あー、えらいことになった、と思いましたが、気がつくとすぐそばに、キーストンがいたんです。ということは、そこから離れていったのに、また僕のところに帰ってきたわけですよね。そういうことは朧げに理解できました。
それからキーストンは膝をついて、僕の胸のところに顔を持ってきて、鼻面を押しつけてきました。ぼくはもう、夢中でその顔を抱きましたよ。
そのあと誰かが来たので(中略)その人に手綱を渡して『頼むわ』と言ったまでは覚えてるんですが、また意識がなくなりました」 — 渡辺敬一郎『強すぎた名馬たち』101-102頁

この様子を目の当たりにしたのは場内のファンに留まらず、テレビ中継においても一部始終が放映されており、実況を担当していた関西テレビアナウンサー松本暢章は、涙声になりながら様子を伝えた[21]。キーストンは山本の手を離れて馬運車に収容された後、左第一指関節完全脱臼で予後不良と診断され、直後に安楽死の処置を施された。山本が再び意識を回復したのはキーストンが薬殺された後であった[22]

死後

キーストンの事故、山本との最後の様子はファンの間で反響を呼んだ。競馬ファンであった文筆家の寺山修司はキーストンをテーマに「夕陽よ、急ぐな」というエッセイを書き、阪神大賞典でテレビ中継の解説者として事故に遭遇した詩人の志摩直人は、「ソロナ家の紋章」という詩を発表、また、タレント歌手諸口あきらは、自身のレコードアルバムで「キーストン・ブルース」という曲を発表した。キーストンの「物語」は、往時を知らないファンにも広く伝えられており、競馬漫画家のよしだみほは、競馬を知り始めたファンが触れる「教科書系名馬」と評している[23]

山本は1973年をもって騎手を引退、調教師に転身した。調教師としては、その引退までに通算555勝、GI級競走8勝を含む重賞32勝と、第一線で活動を続けた。山本は「キーストンが生きていれば、その子に跨ることを楽しみに、もっと長く騎手を続けていた」と語る[24]一方で、自身の調教師活動に関するキーストンの影響について、以下のようにも語っている。

「騎手として、たぶん多くの人の印象にはのこらないタイプだった僕が、キーストンでダービーに勝てて、あの日の事故で、これは不幸をキーストンがひとりで背負ったんだけど、人の心に僕のことも印象づけてくれた。それが調教師になったあとの僕をどれほど後押ししてくれたか分からない。馬主からの救援や依頼が絶えないのも、本当にあの子のおかげだと心から感謝しています……」 — 木村幸治『調教師物語』376頁

2000年に日本中央競馬会が行ったファン投票による名馬選定企画「Dream Horses 2000」では、1264票を集めて69位に付けられた[25]。同時期に競馬会の機関広報誌『優駿』が発表した「20世紀のベストホース100」にも名を連ね[26]、また同誌が2010年に通巻800号記念として行った「The Greatest Horses100」では、識者・読者の投票で48位に据えられている[27]

競走成績

年月日 競馬場 競走名

人気 着順 距離 タイム 騎手 着差 勝ち馬/(2着馬)
1964 7. 12 函館 オープン 4 2 1人 1着 芝1000m(不) 1.02.3 山本正司 10馬身 (ラッキーダブル)
7. 25 函館 3歳特別 3 3 1人 1着 芝1000m(良) R59.6 山本正司 7馬身 (シルバーヘア)
8. 15 札幌 3歳特別 6 4 1人 1着 ダ1200m(不) R1.12.3 山本正司 10馬身 (ヤマヒサクイン)
11. 15 京都 オープン 6 6 2人 1着 芝1200m(稍) 1.14.0 山本正司 2馬身 ベロナ
11. 29 京都 京都3歳S 12 2 1人 1着 芝1500m(良) R1.32.0 山本正司 1 1/2馬身 (キョウエイホマレ)
1965 2. 28 東京 弥生賞 16 1 1人 1着 芝1600m(良) 1.36.9 山本正司 3馬身 (ヒガシソネラオー)
3. 28 中山 スプリングS 11 2 1人 2着 芝1800m(良) 1.51.2 山本正司 -0.3秒 ダイコーター
4. 18 中山 皐月賞 20 19 2人 14着 芝2000m(良) 2.06.3 山本正司 -1.2秒 チトセオー
5. 16 東京 オープン 6 6 1人 1着 芝1800m(稍) 1.52.8 山本正司 1馬身 (マサユキ)
5. 30 東京 東京優駿 22 2 2人 1着 芝2400m(不) 2.37.5 山本正司 1 3/4馬身 (ダイコーター)
9. 4 函館 オープン 5 4 1人 1着 芝1800m(不) 1.59.2 山本正司 2 1/2馬身 (ワイエムトルコ)
10. 16 阪神 オープン 7 1 1人 1着 芝1600m(良) 1.38.4 山本正司 2 1/2馬身 (シルバーヤング)
10. 31 京都 京都杯 7 7 1人 1着 芝1800m(稍) 1.49.9 山本正司 1/2馬身 (カワサキオー)
11. 14 京都 菊花賞 18 7 2人 2着 芝3000m(重) 3.13.5 山本正司 -0.1秒 ダイコーター
12. 12 阪神 オープン 8 8 1人 1着 芝1850m(稍) 1.55.8 武田博 5馬身 (シルバーヤング)
1966 1. 3 京都 金杯 6 5 1人 1着 芝2000m(良) 2.05.8 山本正司 3馬身 (リユウドルガ)
3. 20 阪神 サンケイ大阪杯 15 9 1人 7着 芝1900m(良) 1.57.5 山本正司 -1.1秒 バリモスニセイ
4. 16 京都 オープン 8 6 1人 1着 芝1600m(重) 1.39.6 武田博 1 1/4馬身 (ブルタカチホ)
4. 29 京都 天皇賞(春) 16 2 2人 5着 芝3200m(良) 3.21.0 山本正司 -1.6秒 ハクズイコウ
1967 7. 29 函館 オープン 5 2 2人 2着 芝1700m(良) 1.44.0 増田久 -0.4秒 ニツトエイト
8. 18 札幌 オープン 5 5 1人 1着 ダ1700m(良) 1.45.7 井高淳一 3馬身 (キヤツトエイト)
10. 22 京都 オープン 8 8 1人 1着 芝1600m(良) 1.36.3 武田博 4馬身 (ムネヒサ)
11. 11 京都 オープン 5 2 1人 1着 芝1700m(良) 1.43.5 武田博 2 1/2馬身 (ニホンピローホマレ)
12. 3 阪神 阪神競馬創設60周年記念 7 4 1人 1着 芝1900m(良) 1.56.6 山本正司 1 1/2馬身 (シバフジ)
12. 17 阪神 阪神大賞典 5 3 1人 競走中止 芝3100m(良) - 山本正司 - フイニイ

※1 タイム欄のRはレコード勝ちを示す。

※2 太字の競走は八大競走

血統表

キーストン血統フェアウェイ系ファラリス系)/Polymelus5×5=6.25%、Orby5×5=6.25%) (血統表の出典)

*ソロナウェー
Solonaway
1946 鹿毛
父の父
Solferino 1940
鹿毛
Fairway 1925 Phalaris
Scapa Flow
Sol Speranza 1934 Ballyferis
Sunbridge
父の母
Anyway 1935
鹿毛
Grand Glacier 1923 Grand Parade
Glaspia
The Widow Murphy 1927 Pomme-de-Terre
Waterwitch

*リツトルミツジ
Little Midge
1957 鹿毛
Migoli 1944
芦毛
Bois Roussel 1935 Vatout
Plucky Liege
Mah Iran 1939 Bahram
Mah Mahal
母の母
Valerie 1939
鹿毛
Sir Cosmo 1926 The Boss
Ayn Hali
Dereham 1931 Friar Marcus
Lysandra F-No.11-f


姉の孫にあたるネオキーストン(福島記念、種牡馬)を筆頭に、リットルミッジの子孫には「キーストン」の名を受け継いだ馬が多かった。しかし現在はリットルミッジの系統は衰退している。

一方、いとこのマーシュメドウ(朝日杯三歳ステークス馬ミノル、桜花賞2着馬ニットウヤヨイの母)の子孫は近年もユーセイトップランやウイングアローが活躍を見せている。

脚注

  1. ^ 斤量数値で馬の能力を表し、比較する評価方法。
  2. ^ 当時は12月開催の芝3100m。
  1. ^ a b 『サラブレッド101頭の死に方』64頁。
  2. ^ 渡辺(2004)74-75頁
  3. ^ 渡辺(2004)75頁
  4. ^ 渡辺(2004)81頁。
  5. ^ 『サラブレッド101頭の死に方』65頁。
  6. ^ 渡辺(2004)81頁。
  7. ^ 『日本の名馬・名勝負物語』298頁。
  8. ^ 今井昭雄『ダービー馬の履歴書』(1987年、保育資料社。ISBN 978-4829302170)155頁。
  9. ^ 渡辺(2004)84-86頁。
  10. ^ 渡辺(2004)82-83頁。
  11. ^ 松永郁子『名馬は劇的に生きる』(2000年、講談社。ISBN 978-4062102803)308頁。
  12. ^ 『菊花賞十番勝負』71頁。
  13. ^ 渡辺(2004)88-92頁。
  14. ^ 『菊花賞十番勝負』76頁。
  15. ^ 『日本の名馬・名勝負物語』299頁。
  16. ^ 『菊花賞十番勝負』77頁。
  17. ^ 『日本の名馬・名勝負物語』300-301頁。
  18. ^ 『日本の名馬・名勝負物語』301頁。
  19. ^ 渡辺(2004)100頁。
  20. ^ 渡辺(2004)100-101頁。
  21. ^ 渡辺(2004)103頁。
  22. ^ 渡辺(2004)102頁。
  23. ^ よしだみほ『よしだみほの20世紀の100名馬』(ワニブックス、2000年。ISBN 978-4847013744)134頁。
  24. ^ 木村(1997)376頁。
  25. ^ 『優駿』2000年10月号(日本中央競馬会)115頁。
  26. ^ 『優駿』2000年11月号(日本中央競馬会)17頁。
  27. ^ 『優駿』2010年8月号(日本中央競馬会)10頁。

主要参考文献

  • 中央競馬ピーアール・センター編『日本の名馬・名勝負物語』(中央競馬ピーアール・センター、1980年)ASIN B000J86XWM
  • 木村幸治『調教師物語』(洋泉社、1997年)ISBN 978-4896912920
  • 寺山修司志摩直人ほか『「優駿」観戦記で甦る菊花賞十番勝負』(小学館、1998年)ISBN 978-4094024821
  • 大川慶次郎ほか『サラブレッド101頭の死に方(文庫版)』(徳間書店、1999年)ISBN 4198911851
  • 渡辺敬一郎『強すぎた名馬たち』(講談社、2004年)ISBN 978-4062722407