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「第一次ソロモン海戦」の版間の差分

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米軍資料から、対応部分に脚注を追記。豪州哨戒機について追記
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== 背景 ==
== 背景 ==
{{See also|ソロモン諸島の戦い}}
{{See also|ソロモン諸島の戦い}}
日本海軍は[[ニューカレドニア]]、[[フィジー]]、[[サモア]]方面への進出作戦である[[FS作戦]]の準備のため[[ガダルカナル島]]に飛行場を建設する計画をたてた。[[ミッドウェー海戦]]での敗北によりFS作戦は延期されたものの、失った[[航空母艦|空母]]の航空兵力を補うためルンガ飛行場が建設された。アメリカ軍はアメリカとオーストラリアを遮断しようとす日本軍の計画を阻止するこはもちろん、[[ソロモン諸島]]を奪還するための足場確保と[[東部ニューギニアの戦い]]の間接的支援のため、ミッドウェー海戦後にソロモン諸島と[[サンタクルーズ諸島]]の奪還と確保が研究された。7月の上旬にはフランク・J・フレッチャー中将指揮の空母[[エンタープライズ (CV-6)|エンタープライズ]]、[[サラトガ (CV-3)|サラトガ]]、[[ワスプ (CV-7)|ワスプ]]を基幹とする空母部隊、リッチモンド・K・ターナー少将指揮の約19,000名からなる海兵師団と[[巡洋艦]]8隻、[[駆逐艦]]15隻、[[掃海艇]]5隻からなる上陸部隊と支援艦隊がフィジー諸島に集結した。
日本海軍軍令部は[[ニューカレドニア]]、[[フィジー]]、[[サモア]]方面への進出作戦である[[FS作戦]]をたてた。[[ミッドウェー海戦]]での敗北によりFS作戦は延期された。トラック諸島防衛と失った[[航空母艦|空母]]の航空兵力を補うためルンガ飛行場が建設された。連合国軍はガダルカナルに飛行場が建設されれば、アメリカとオーストラリアを遮断され恐れがあるため、連合国軍の絶対防衛権の死守と[[ソロモン諸島]]を奪還するための足場確保と[[東部ニューギニアの戦い]]の間接的支援のため、ミッドウェー海戦後にソロモン諸島と[[サンタクルーズ諸島]]の奪還と確保が研究された。7月の上旬にはフランク・J・フレッチャー中将指揮の空母[[エンタープライズ (CV-6)|エンタープライズ]]、[[サラトガ (CV-3)|サラトガ]]、[[ワスプ (CV-7)|ワスプ]]を基幹とする空母部隊、リッチモンド・K・ターナー少将指揮の約19,000名からなる海兵師団と[[巡洋艦]]8隻、[[駆逐艦]]15隻、[[掃海艇]]5隻からなる上陸部隊と支援艦隊がフィジー諸島に集結した。


そして、8月7日早朝に[[アメリカ海兵隊|海兵隊]]約3,000名を主力とするアメリカ軍がガダルカナル島および対岸の[[ツラギ島]]に奇襲上陸した。これに対し、ツラギの日本軍守備隊は[[偵察]]部隊の[[飛行艇]]隊であった[[横浜海軍航空隊|横浜空]]要員を含めて僅か400名にしか過ぎず、奇襲を受けた日本軍守備隊は0420(4時20分、以下時間は数字表記)に敵を空母1隻、[[重巡洋艦|重巡]]4隻を含む20隻以上の[[機動部隊]]を含む上陸部隊と通報した上で、この海域の警備を担当するために同年7月14日に新設されたばかりの[[第八艦隊 (日本海軍)|第八艦隊]]に至急の救援を要請した、兵力差は圧倒的であり、0610に駐留していた横浜空司令からの「敵兵力大、最後の一兵まで守る、武運長久を祈る」との打電を最後に連絡は途絶し、守備隊はその日夕刻に[[玉砕]]した。ほぼ同時刻にガダルカナルにも米軍が上陸したが、これも奇襲となったため飛行場建設のために駐留していたガダルカナル島の日本軍守備隊は、情況連絡する余裕もなくガダルカナル島内陸部西方に撤退した。
そして、8月7日早朝に[[アメリカ海兵隊|海兵隊]]約3,000名を主力とするアメリカ軍がガダルカナル島および対岸の[[ツラギ島]]に奇襲上陸した。これに対し、ツラギの日本軍守備隊は[[偵察]]部隊の[[飛行艇]]隊であった[[横浜海軍航空隊|横浜空]]要員を含めて僅か400名にしか過ぎず、奇襲を受けた日本軍守備隊は0420(4時20分、以下時間は数字表記)に敵を空母1隻、[[重巡洋艦|重巡]]4隻を含む20隻以上の[[機動部隊]]を含む上陸部隊と通報した上で、この海域の警備を担当するために同年7月14日に新設されたばかりの[[第八艦隊 (日本海軍)|第八艦隊]]に至急の救援を要請した。さらに0535には「戦艦1隻巡洋艦3隻、駆逐艦15隻、輸送船多数」を報告した<ref>亀井宏『ガダルカナル戦記 第一巻』(光人社、1994)99頁</ref>。だが兵力差は圧倒的であり、0610に駐留していた横浜空司令からの「敵兵力大、最後の一兵まで守る、武運長久を祈る」との打電を最後に連絡は途絶し、守備隊はその日夕刻に[[玉砕]]した。ほぼ同時刻にガダルカナルにも米軍が上陸したが、これも奇襲となったため飛行場建設のために駐留していたガダルカナル島の日本軍守備隊は、情況連絡する余裕もなくガダルカナル島内陸部西方に撤退した。


ツラギからの緊急電を受けた日本海軍第八艦隊[[司令部]]この反攻作戦を単なる強行偵察程度としか認識ておらず、本格的な反攻作戦と受け止めてはいなかった。また上陸部隊の援護部隊の規模も母1隻を含む1個機動部程度の小規模なものであろうと考えていた(実際[[正規空母]]3隻[[艦]]1隻他補助艦艇多数の大部隊)従って基地航空隊で機動部隊を、第八艦隊で残る水上部隊を駆逐し、その後に1個[[大隊]]程度の[[海軍陸戦隊|陸戦隊]]を投入すれば占領された地域を早期に奪回できると考えて、第八艦隊[[参謀]][[神重徳]][[大佐]]が発案した'''殴りこみ作戦'''採用即座に出撃準備を始めた。これは[[三川軍一]][[中将]]旗下の第八艦隊[[旗艦]]重巡「[[鳥海 (重巡洋艦)|鳥海]]」と、丁度[[アドミラルティ諸島]]付近を行動中でツラギからの緊急電により[[ラバウル]]に向かって南下していた[[五藤存知]][[少将]]率いる第六戦隊の重巡4隻の計5隻でガダルカナル[[泊地]]に深夜攻撃をかける作戦であった。
ツラギからの緊急電を受けた日本海軍第八艦隊[[司令部]]は「有力なる敵機動部隊および上陸部隊出現」判断<ref>「軍艦加古戦闘詳報」第3画像</ref>、ただちに対応を開始た。第八艦隊の神重徳首席参謀と大前敏一参謀は陸軍[[第17軍 (日本軍)|第一七軍]]の司令部に飛び込み寝ていた二見秋三郎参謀長を叩き起こして米軍の本格的な上陸部隊が反攻作戦が始まったことを知らせた<ref>亀井宏『ガダルカナル戦記 第一巻』347頁</ref>第十一航参謀高橋大佐は、事態を聞くと直ちに第二五航司令官山田定義少将と協議し、事性を確認<ref>亀井宏『ガダルカナル戦記 第一巻』104頁</ref>。基地航空隊で機動部隊を、第八艦隊で残る水上部隊を駆逐し、その後に1個[[大隊]]程度の[[海軍陸戦隊|陸戦隊]]を投入すれば占領された地域を早期に奪回できると考えた。そこでラビ攻撃のために爆装しいた第二五航戦と第四航空隊の合同部隊(一式陸攻27機)を航空魚雷に換装する時間もなく直ちに発進させ台南空の零戦18機と合流させて米軍上陸部隊の迎撃に向かわせた<ref>亀井宏『ガダルカナル戦記 第一巻』105頁</ref>。この攻撃は飛行距離が長いため、米軍の迎撃による被害と燃料消費による不時着が予想された。そのため[[水上機母艦]]「[[秋津洲 (水上機母艦)|秋津洲]]」、駆逐艦「[[秋風 (駆逐艦)|秋風]]」と「[[追風 (駆逐艦)|追風]]」(第八艦隊第二九駆逐隊所属)、[[二式飛行艇|二式大艇]]が乗員回収のためにツラギ方面へ派遣された<ref>亀井宏『ガダルカナル戦記 第一巻』106-107頁</ref>。同時に第八艦隊[[参謀]][[神重徳]][[大佐]]が発案した'''殴りこみ作戦'''採用され同艦隊は出撃準備を始めた。これは[[三川軍一]][[中将]]旗下の第八艦隊[[旗艦]]重巡「[[鳥海 (重巡洋艦)|鳥海]]」と、丁度[[アドミラルティ諸島]]付近を行動中でツラギからの緊急電により[[ラバウル]]に向かって南下していた[[五藤存知]][[少将]]率いる第六戦隊の重巡4隻の計5隻でガダルカナル[[泊地]]に深夜攻撃をかける作戦であった。


しかしここでラバウルにいた第一八戦隊の軽巡「[[夕張 (軽巡洋艦)|夕張]]」「[[天龍 (軽巡洋艦)|天龍]]」と第二九駆逐隊の駆逐艦「[[夕凪 (駆逐艦)|夕凪]]」の3隻が同行を申し入れてきた。この戦隊は艦齢が古い艦で構成されており、また重巡戦隊に比べて速度も遅く練度も低いため一撃離脱の[[夜戦]]には足手まといになるとして当初の作戦計画ではラバウルに置いていく予定であったが第一八戦隊主席参謀篠原多磨夫[[中佐]]が膝詰談判を行いこれに根負けした三川中将が同行を許可することとなった。但し、本来露払いとして艦隊前衛を務めるべき軽巡、駆逐艦であるこの3隻は夜戦の邪魔にならぬように艦隊最後尾に編入された。更にこの3艦は急遽参加が決まったため、隊内連絡に使う無線電話の設定が間に合わず、作戦中は直接指示を受けられず苦労することとなる。
しかしここでラバウルにいた第一八戦隊の軽巡「[[夕張 (軽巡洋艦)|夕張]]」「[[天龍 (軽巡洋艦)|天龍]]」と第二九駆逐隊の駆逐艦「[[夕凪 (駆逐艦)|夕凪]]」の3隻が同行を申し入れてきた。この戦隊は艦齢が古い艦で構成されており、また重巡戦隊に比べて速度も遅く練度も低いため一撃離脱の[[夜戦]]には足手まといになるとされ、当初の作戦計画ではラバウルに置いていく予定であった。だが第一八戦隊主席参謀篠原多磨夫[[中佐]]が膝詰談判を行いこれに根負けした三川中将が同行を許可することとなった<ref>亀井宏『ガダルカナル戦記 第一巻』122頁</ref>。但し、本来露払いとして艦隊前衛を務めるべき軽巡、駆逐艦であるこの3隻は夜戦の邪魔にならぬように艦隊最後尾に編入された。更にこの3艦は急遽参加が決まったため、{{要出典範囲|date=2011年2月|隊内連絡に使う無線電話の設定が間に合わず}}、作戦中は直接指示を受けられず苦労することとなる。

集合した兵力は一度も合同訓練を行ったことがなく、ま回転整合<ref>艦隊の速力を等一にするため、実際に艦隊が航行してスクリュー回転数を調整する。</ref>の余裕もないため、複雑な艦隊行動は不可能だった<ref>亀井宏『ガダルカナル記 第一巻』130-131頁</ref>。そこで第八艦隊作戦参謀神大佐は出撃前の作戦会議において、もっとも単純な戦法を取ることとして以下のように作戦の要点をまとめ、各部隊指揮官に説明した。


集合した兵力は一度も合同訓練を行ったことがなかったため、出撃前会議で第八艦隊作戦参謀神大佐はもっとも単純な戦法を取ることとして以下のように作戦の要点をまとめ、各部隊指揮官に説明した。
*'''第一目標は敵[[輸送艦|輸送船]]'''であること
*'''第一目標は敵[[輸送艦|輸送船]]'''であること
*複雑な運動を避けて'''[[単縦陣]]による一航過の襲撃'''とする
*複雑な運動を避けて'''[[単縦陣]]による一航過の襲撃'''とする
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*ソロモン列島間の中央航路を通ってガダルカナル泊地まで進出する
*ソロモン列島間の中央航路を通ってガダルカナル泊地まで進出する


この作戦計画に沿い、「鳥海」「夕張」「天龍」「夕凪」の4隻は14時30分、ラバウルを出撃した<ref name="鳥海報3">「軍艦鳥海第1次ソロモン海戦戦闘詳報(1)」第3画像</ref>。16時30分頃、第六戦隊(青葉、加古、古鷹、衣笠)と合流し、24ノットでガダルカナルを目指した<ref name="鳥海報3"/>。鳥海水雷長は、乗艦していた報道班員の丹波文雄に「とても生還できない戦いだから艦を下りた方が良い」とすすめた<ref>亀井宏『ガダルカナル戦記 第一巻』123-125頁</ref>。また第八艦隊はガダルカナル、ツラギ奪還のために陸軍第一七軍司令部に陸軍兵力派遣を要請した。だが陸軍は東部ニューギニアのポートモスレビー攻略作戦に向けての準備を進めており、即座の判断が出来なかったため、海軍の申し出を断った<ref>亀井宏『ガダルカナル戦記 第一巻』118頁</ref>。そこで第八艦隊は佐世保鎮守府第五特別陸戦隊、呉鎮守府第三および第五特別陸戦隊から兵員590名をかきあつめ、輸送船「明神丸」、「宗谷」、敷設艦「津軽」、「第二一号掃海艇」をもってガダルカナル方面に投入することにした<ref>亀井宏『ガダルカナル戦記 第一巻』119頁</ref>。
この作戦計画に沿い、「鳥海」「夕張」「天龍」「夕凪」の4隻は1430、ラバウルを出撃し南下してきた第六戦隊と合流し一路ガダルカナルを目指した。

第八艦隊の作戦を聞いた大本営は、あまりにもリスクの高い作戦だとして懸念を表明した<ref>『摑めなかった勝機』103頁</ref>。米艦隊の全貌もわからず、第八艦隊のどの艦もガダルカナル周辺で行動したこともなく、参加艦艇が統一陣形を組んだことすらなかった。だがミッドウェー海戦の敗北で海軍の士気が低下していることを憂慮した山本五十六は、「連合艦隊の命令ではない」ことを明かにした上で、出撃計画を承認した<ref>『摑めなかった勝機』104頁</ref>。


== 戦闘経過 ==
== 戦闘経過 ==
===日本軍の空襲===
===日本軍の空襲===
第八艦隊の出撃と相前後して、午前8時頃ラバウルから敵空母攻撃のために[[零式艦上戦闘機|零戦]]17機、陸攻27機、[[九九式艦上爆撃機|艦爆]]9機が相次いで出撃。11時頃ガダルカナル上空に達したが空母の姿はなく、ツラギ周辺の敵艦船攻撃に移った。しかし、ツラギ上空にはブーゲンビル島監視員からの報告を受けた敵戦闘機約60機が待ち受けており、攻撃隊は駆逐艦一隻を小破させ戦闘機11機、艦爆1機を撃墜したものの、艦爆隊が全滅、陸攻5機、零戦2機を喪失する損害を受けた。また、この戦闘で[[坂井三郎]]一飛曹が被弾し重傷を負いつつも辛うじてラバウルに帰投している。翌日も零戦15機、陸攻23機で攻撃を仕掛けたが、駆逐艦「ジャービス」を大破、輸送船「ジョージ・F・エリオット」に陸攻一機が体当たりして船体放棄に追い込む戦果を挙げたが、陸攻18機未帰還、零戦1機自爆という大損害を被った。
第八艦隊の出撃と相前後して、8月7日午前8時頃ラバウルから敵空母攻撃のために台南空の[[零式艦上戦闘機|零戦]]17機、第二五航戦の陸攻27機、第二航空隊の[[九九式艦上爆撃機|艦爆]]9機が相次いで出撃。11時頃ガダルカナル上空に達したが空母の姿はなく、ツラギ周辺の敵艦船攻撃に移った。しかし、ツラギ上空にはブーゲンビル島監視員からの報告を受けた敵戦闘機約60機が待ち受けており、第一次攻撃隊は駆逐艦一隻を小破させ戦闘機11機、艦爆1機を撃墜したものの、陸攻5機、零戦2機を喪失する損害を受けた。また、この戦闘で[[坂井三郎]]一飛曹が被弾し重傷を負いつつも辛うじてラバウルに帰投している。ただし、日本軍は敵戦闘機48機、爆撃機5、中型機1を撃墜と報告した<ref>亀井宏『ガダルカナル戦記 第一巻』107頁</ref>。第二次攻撃隊の艦爆9機は巡洋艦2隻の大破を報じたが<ref name="鳥海報3"/>、4機が失われ、残る5機も予定どおりショートランド南東で着水した。米軍は急降下爆撃機10機撃墜を報じ<ref>亀井宏『ガダルカナル戦記 第一巻』108頁</ref>、駆逐艦「マグフォード」が大破した<ref>『摑めなかった勝機』73頁</ref>。翌8月8日も零戦15機、陸攻23機で攻撃を仕掛けたが、駆逐艦「ジャービス」を大破、輸送船「ジョージ・F・エリオット」に陸攻一機が体当たりして船体放棄に追い込む戦果という戦果を挙げるも、陸攻18機未帰還、零戦1機自爆という大損害を被った。ただし、日本軍は7日と8日の戦果を合計し「輸送船9隻、巡洋艦2隻、駆逐艦1隻撃沈。輸送船2隻、巡洋艦3隻撃破」と主張している<ref>高橋雄次『鉄底海峡』132頁</ref>


失敗に終わった敵攻撃であったが、米機動部隊指揮官[[フランク・J・フレッチャー]]少将は[[珊瑚海海戦]]と[[ミッドウェー海戦]]で指揮下の空母2隻を失っており、今また日本軍基地航空部隊の攻撃圏内に空母3隻を含む機動部隊を置くことに危機感を覚え一旦攻撃圏外に退避することを決断南太平洋海軍部隊指揮官R・ゴームリー中将に対して撤退する旨を伝えその回答を待たず8日夕刻上陸船団の上空援護を独断で放棄して一路南下した。
こうして日本軍の航空攻撃は失敗したが、サボ島から120海里離れたサンクリストバル島西端沖にいた米機動部隊指揮官[[フランク・J・フレッチャー]]少将は大きな不安を覚えた。彼は[[珊瑚海海戦]]と[[ミッドウェー海戦]]で指揮下の空母2隻([[レキシントン (CV-2)|レキシントン]]、[[ヨークタウン (CV-5)|ヨークタウン]])を失っており、今また二日間の戦闘で戦闘機16機、急降下爆撃機1機、偵察機1機を失った<ref>『摑めなかった勝機』84頁</ref>。フレッチャーは最初からガダルカナル島上陸作戦に反対であり、事前に海兵隊に対し二日間で撤退すると通告していた<ref>『摑めなかった勝機』58頁</ref>。日本軍基地航空部隊の攻撃圏内に空母3隻を含む機動部隊を置くことに危機感を覚え一旦攻撃圏外に退避することを決断<ref>亀井宏『ガダルカナル戦記 第一巻』135頁</ref>。南太平洋海軍部隊指揮官R・ゴームリー中将に対して撤退する旨を伝えると、その回答を待たず<ref>亀井宏『ガダルカナル戦記 第一巻』136頁</ref>、8日夕刻上陸船団の上空援護を独断で放棄して南下した。ターナー少将と上陸部隊指揮官バンデグリフト少将は、警備部隊指揮官クラッチレー少将を重巡洋艦「オーストラリア」に招き、今後の動を協議した。


===突撃準備===
===突撃準備===
進撃していた第八艦隊は一旦ブーゲンビル島東方海面で待機した。米潜水艦「S-38」は第八艦隊を発見し、司令部に「巡洋艦3隻、駆逐艦2隻」発見電報を発信した。この情報は8月8日午前7時38分に連合軍艦隊に届いた<ref>『摑めなかった勝機』22頁</ref>。この時点で第八艦隊は敵状をおおむね戦艦1隻、巡洋艦4隻、駆逐艦9隻、輸送船15隻と判断し<ref>亀井宏『ガダルカナル戦記 第一巻』133頁及び軍艦鳥海・軍艦加古戦闘詳報。</ref>していた。8月8日早朝、敵空母の位置を探るべく艦載[[水上機#第2次世界大戦中|水偵]]により索敵を開始した<ref name="鳥海報3"/>。午前9時ごろ豪州双発哨戒爆撃機[[ハドソン (航空機)|ロッキード・ハドソン]](第32飛行隊ビル・シュタッツ軍曹)に発見された。敵味方識別信号をおくった哨戒機に対して第八艦隊は対空砲火で返答し<ref>『摑めなかった勝機』10頁</ref>、北方に偽装針路をとった。シュタット機は、日本軍水上機が艦に収容されるのを見て「巡洋艦3隻、駆逐艦3隻、水上機母艦または砲艦2隻を含む8隻の艦隊」と誤認する<ref>『摑めなかった勝機』15頁</ref>。この機は、水上偵察機を零戦を水上機に改造した[[二式水上戦闘機]]と誤認して退避していった。この時、「鳥海」は豪哨戒機が発した無線を傍受したと報告した<ref name="鳥海報4">「軍艦鳥海第1次ソロモン海戦戦闘詳報(1)」第4画像</ref>。シュタッツも電報を平文で繰り返したと証言しているが<ref>『摑めなかった勝機』17頁</ref>、この電報は連合軍に共有されなかった。第八艦隊を発見したのはシュタッツ機だけではなく、米軍マーブ・ウィルマン中尉のハドソン機も発見している<ref>『摑めなかった勝機』18頁</ref>。ウィルマンは「重巡洋艦2隻、軽巡洋艦2隻、小型艦1隻」を報告した<ref name="摑め21">『摑めなかった勝機』21頁</ref>。ウィルマン機は搭載爆弾で鳥海を攻撃したが、命中しなかった<ref>『摑めなかった勝機』110頁</ref>。さらに三番目のロイド・ミルン大尉機も第八艦隊を発見した。シュタッツ機は緊急報告のために帰路につき、途中ガダルカナル島砲撃に向かう日本軍潜水艦[[呂三三型潜水艦]]と[[伊号第一二一潜水艦]]を発見。司令塔の「日の丸」を確認して爆撃を行ったが、全く損害を与えられなかった<ref>『摑めなかった勝機』19頁</ref>。シュタッツ機は12時55分にミルン基地に帰投し、紅茶も飲まず<ref>『摑めなかった勝機』20頁</ref>直ちに第八艦隊発見を報告した。3機の哨戒機から報告を受けたターナー少将は、シュタッツ機とウィルマン機の報告を比較して水上機母艦2隻が消えていることから、第八艦隊は水上機母艦を分離してラバウルに向かうものと判断した<ref name="摑め21"/>。なお、モリソンでは帰還したシュタッツが紅茶の飲んでのんびりしていたと記述するが、実際には緊急報告が行われ<ref>『摑めなかった勝機』345頁</ref>、さらに彼は紅茶が嫌いだった<ref>『摑めなかった勝機』20頁</ref>。
進撃していた第八艦隊は一旦ブーゲンビル島東方海面で待機、8日早朝から敵空母の位置を探るべく艦載[[水上機#第2次世界大戦中|水偵]]により索敵を開始した。午前9時ごろ米哨戒機に発見されるが北方へ偽装航路をとった上で対空戦闘を開始、これを追い払うことに成功した。その後偵察機の報告から250浬圏内に敵機動部隊が見つからなかったため空襲を受けることはないと判断、午前11時ごろブーゲンビル水道に向かって進撃を開始し、午後1時半過ぎに水道を無事通過すると中央航路に突入して行った。この時点で第八艦隊司令部は夜戦に関する詳細な戦闘要領を以下のように決定、各艦に通達した。

連合軍哨戒機が去った海で、第八艦隊は水偵部隊を回収したが、「加古」から発進した[[零式水上偵察機]]が未帰還となった<ref>「軍艦加古戦闘詳報」第6画像</ref>。三川は偵察機の報告から250浬圏内に敵機動部隊が見つからなかったため空襲を受けることはないと判断。午前11時ごろブーゲンビル水道に向かって進撃を開始し、13時30分過ぎに水道を無事通過すると中央航路に突入して行った<ref name="鳥海報4"/>。この際、「鳥海」は[[九四式水上偵察機]]2機を対潜水艦警戒のため発進させ、ショートランド基地に向かわせている<ref name="鳥海報4"/>。15時20分、艦隊は水平線上に煤煙を発見して針路を変えるが、これは当時の日本艦艇としては珍しく迷彩を施した水上機母艦「秋津洲」だった。第八艦隊は敵味方の区別がつかず緊張したが、「秋津洲」の方も第八艦隊を敵艦隊と思い覚悟をきめたという<ref>生出寿『ライオン艦長 黛治夫<small>ある型破り指揮官の生涯</small>』47頁。[[黛治夫]]は当時の秋津洲艦長。</ref>。両者は16時30分頃にすれ違った。この時点で第八艦隊司令部は第二五航戦の「重巡1隻火災、軽巡2隻撃沈、駆逐艦2隻撃沈、輸送船10隻撃沈。輸送船1隻火災」という誤報戦果を受取った<ref name="鳥海報5">「軍艦鳥海第1次ソロモン海戦戦闘詳報(1)」第5画像</ref>。さらに米空母の所在が不明なこと、米輸送船団がガダルカナル島沖にいるという情報を得た<ref name="鳥海報5">「軍艦鳥海第1次ソロモン海戦戦闘詳報(1)」第4画像</ref>。そこで夜戦に関する詳細な戦闘要領を以下のように決定、各艦に通達した<ref name="鳥海報5"/>。

*サボ島南側から突入しルンガ沖の主敵を雷撃後、ツラギ沖の敵を砲雷撃した後、サボ島北側から離脱する。
*サボ島南側から突入しルンガ沖の主敵を雷撃後、ツラギ沖の敵を砲雷撃した後、サボ島北側から離脱する。
*突入は一航過とし、出来る限り速やかに空襲圏外に離脱する。突入時刻はを2330以前とし、'''翌日出時(0440)にはサボ島の120浬圏外に避退する。'''
*突入は一航過とし、出来る限り速やかに空襲圏外に離脱する。突入時刻はを2330以前とし、'''翌日出時(0440)にはサボ島の120浬圏外に避退する。'''
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*右舷側への雷撃が多いと思われるので予備魚雷は全て右舷側に移すこと。
*右舷側への雷撃が多いと思われるので予備魚雷は全て右舷側に移すこと。


これらを伝え終えたうえで、日没後三川長官は以下のように戦闘前訓辞を発する。
これらを伝え終えたうえで、日没後(16時30分)三川長官は以下のように戦闘前訓辞を発する。
{{quotation|帝国海軍ノ伝統タル夜戦ニオイテ必勝ヲ期シ突入セントス。各員冷静沈着ヨクソノ全力ヲツクスベシ}}
{{quotation|帝国海軍ノ伝統タル夜戦ニオイテ必勝ヲ期シ突入セントス。各員冷静沈着ヨクソノ全力ヲツクスベシ}}


日本海軍第八艦隊は、[[重巡洋艦|重巡]][[鳥海 (重巡洋艦)|鳥海]]」を[[旗艦]]として先頭に立て、同じく重巡「[[青葉_(重巡洋艦)|青葉]]」、「[[加古 (重巡洋艦)|加古]]」、「[[古鷹 (重巡洋艦)|古鷹]]」、「[[衣笠 (重巡洋艦)|衣笠]]」、[[軽巡洋艦|軽巡]][[天龍 (軽巡洋艦)|天龍]]」、「[[夕張 (軽巡洋艦)|夕張]]」、[[駆逐艦]][[夕凪_(駆逐艦)|夕凪]]」の順に航行し、16ノットに増速して一路ガダルカナル泊地を目指した。更にニュージョージア島を通過した2100、照明隊の水偵を発進させた。
日本海軍第八艦隊は、重巡「鳥海」を[[旗艦]]として先頭に立て、同じく重巡「青葉」、「加古」、「古鷹」、「衣笠」、軽巡「天龍」、「夕張」、駆逐艦「夕凪」の順に航行し、16ノットに増速して一路ガダルカナル泊地を目指した。各艦の距離が1.2kmのため、縦列陣形は前後に延びた。17時00分、青葉偵察機より輸送船6隻炎上中との報告が入る<ref name="鳥海報6"/>。「鳥海」では激戦に備え、航空燃料や爆雷を投棄した<ref>諏訪繁治『わが重巡「鳥海」奮戦す』133頁</ref>。更にニュージョージア島を通過した21時00分、照明隊の水偵を各艦発進させた<ref name="鳥海報6">「軍艦鳥海第1次ソロモン海戦戦闘詳報(1)」第6画像</ref>。誰もが今夜こそ戦艦を沈めるのだと興奮していたという<ref>『摑めなかった勝機』119頁</ref>

泊地突入を行なった艦艇は以下の通りである。
泊地突入を行なった艦艇は以下の通りである。


* [[第八艦隊 (日本海軍)|第八艦隊]] 司令長官:[[三川軍一|三川軍一中将]]
* [[第八艦隊 (日本海軍)|第八艦隊]] 司令長官:[[三川軍一|三川軍一中将]]
** 重巡:[[鳥海 (重巡洋艦)|鳥海]]
** [[重巡洋艦]]:[[鳥海 (重巡洋艦)|鳥海]]
* 第六戦隊 司令官:[[五藤存知|五藤存知少将]]
* 第六戦隊 司令官:[[五藤存知|五藤存知少将]]
** 重巡:[[青葉 (重巡洋艦)|青葉]]、[[衣笠 (重巡洋艦)|衣笠]]、[[加古 (重巡洋艦)|加古]]、[[古鷹 (重巡洋艦)|古鷹]]
** 重巡洋艦:[[青葉 (重巡洋艦)|青葉]]、[[衣笠 (重巡洋艦)|衣笠]]、[[加古 (重巡洋艦)|加古]]、[[古鷹 (重巡洋艦)|古鷹]]
* 第一八戦隊 司令官:[[松山光治|松山光治少将]]
* 第一八戦隊 司令官:[[松山光治|松山光治少将]]
** 軽巡:[[天龍 (軽巡洋艦)|天龍]]、[[夕張 (軽巡洋艦)|夕張]]
** [[軽巡洋艦]]:[[天龍 (軽巡洋艦)|天龍]]、[[夕張 (軽巡洋艦)|夕張]]
* 第二九駆逐隊
* 第二九駆逐隊
** 駆逐艦:[[夕凪 (駆逐艦)|夕凪]]
** [[駆逐艦]]:[[夕凪 (駆逐艦)|夕凪]]


===アメリカ軍の動向===
===アメリカ軍の動向===
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** 哨戒隊:駆逐艦「ラルフ・タルボット(米)」「ブルー(米)」サボ島南北水道外側に一隻ずつ前程哨戒配備。
** 哨戒隊:駆逐艦「ラルフ・タルボット(米)」「ブルー(米)」サボ島南北水道外側に一隻ずつ前程哨戒配備。


戦力は圧倒的に上回ってはいたが、夜を徹して行なわれている物資揚陸作業と、日中の空襲により36時間にわたって戦闘配置が続けられており乗員の疲労は厳しいものがあった。また、8日午前中にブーゲンビル島近海で哨戒機が発見した日本艦隊は北方へ進路を取っおり(先述したようこれ偽装進路)、その後発見の報告はなとから距離的にも進路的にも8日中の日本艦隊の夜襲の恐れはいと安心しきていた。
戦力は圧倒的に上回ってはいたが、夜を徹して行なわれている物資揚陸作業と、日中の空襲により36時間にわたって戦闘配置が続けられており乗員の疲労は厳しいものがあった<ref>『摑めなかった勝機』25頁</ref>。また、8日午前中にブーゲンビル島近海で哨戒機3機が発見した日本艦隊につい連合軍には三通がもたらされたが、「ラバウルへ向かう」或は「島嶼間の移動」判断され、対策を怠った<ref>『摑めなった勝機』24頁</ref>。空母[[エンタープライズ (CV-6)|エンタープライズ]]と[[ワスプ (CV-7)|ワスプ]]では、第八艦隊を攻撃するかどうかで議論が起こった<ref>『摑めった勝機』26頁</ref>


また、当時南方部隊旗艦「オーストラリア」は水上部隊指揮官クラッチレー少将がターナー司令官と上陸部隊指揮官[[アレクサンダー・ヴァンデグリフト|バンデグリフト]]少将と作戦会議を行なうためにツラギ港外の旗艦輸送船「マーコレー」に向かっており、第八艦隊突入時は戦列から離れていた。そのためクラッチレー少将に代わり、一時的に米重巡「シカゴ」艦長ハワード・D・ボード大佐が南方部隊の指揮を取っていた。しかしクラッチレーは統一指揮権を誰にも移譲せぬまま戦列を離れており、これが後に連合軍の情報共有の欠如として現れることとなる。
当時南方部隊旗艦「オーストラリア」水上部隊指揮官クラッチレー少将がターナー司令官と上陸部隊指揮官[[アレクサンダー・ヴァンデグリフト|バンデグリフト]]少将と作戦会議を行なうためにツラギ港外の旗艦輸送船「マーコレー」に向かっており、第八艦隊突入時は戦列から離れていた。そのためクラッチレー少将に代わり、一時的に米重巡「シカゴ」艦長ハワード・D・ボード大佐が南方部隊の指揮を取っていた。しかしクラッチレーは統一指揮権を誰にも移譲せぬまま戦列を離れており、これが後に連合軍の情報共有の欠如として現れることとなる。


更にターナー司令官は上述の偵察機の情報より日本艦隊はガダルカナル島ではなく[[イザベル島]]に向かっていると判断しており、万が一日本艦隊が突入してきても護衛部隊で撃退できるであろうと楽観していたた、作戦会議の議題はフレッチャーの機動部隊の離脱により上空援護のなくなってしまったこの泊地での揚陸作業を如何に翌日日中の日本軍機の空襲を受ける前に終わらせるかということに集中していた。
連合軍指揮官達は、第八艦隊を迎撃するために米・豪州艦隊を派遣する案を早々に放棄した<ref name="摑め29">『摑めなかった勝機』29頁</ref>。輸送船団が丸裸になるからである。更にターナー司令官は上述の偵察機の情報より日本艦隊はガダルカナル島ではなく水上機基地建設のため[[イザベル島]]に向かっていると判断しており、万が一日本艦隊が突入してきても護衛部隊で撃退できるであろうと楽観していたた。これにより、作戦会議の議題はフレッチャーの機動部隊の離脱により上空援護のなくなってしまったこの泊地での揚陸作業を如何に早く終わらせるかということに集中していた。9日朝に予想される輸送船団の撤収後、水上部隊で迎撃する案が検討されたが、ターナーは日本艦隊に関する情報が得られるまで決定を先のばしにした<ref name="摑め29"/>。「恐怖のターナー」「米海軍のパットン将軍」と渾名されたターナーにしては珍しい決定だった<ref>『摑めなかった勝機』46頁</ref>


===泊地突入===
===泊地突入===
[[Image:SavoJapaneseChart1.jpg|250px|thumb|日本海軍艦隊の侵入路]]
[[Image:SavoJapaneseChart1.jpg|250px|thumb|日本海軍艦隊の侵入路]]
2240、第八艦隊はサボ島南方水道に突入を始めた。2243、旗艦「鳥海」見張員が右舷側距離9000mに敵艦を発見、直ちに三川長官が「戦闘」を下令。この発見した敵艦は連合軍哨戒隊の駆逐艦「ブルー」であった。しかし、「ブルー」は島影による電波の乱反射により装備していた旧式のレーダーがまともに機能していないこともあって第八艦隊に気付かず、遠ざかっていった。直後に今度は左舷前方に敵艦が現れた。これは同じく哨戒隊の駆逐艦「ラルフ・タルボット」でこの艦も第八艦隊に気付かず遠ざかっていった。この2艦は第八艦隊突入前の2145頃、ガ島泊地へ向けて低空で飛び去る敵味方不明の水偵1機を目撃して全艦隊へ警報を発していたが、警報に航空しか触れておらず、肝心"水偵"である旨が欠如していたため連合軍はこれ日本隊来襲前兆であることを逃してしまった<!---出典は参考文献、佐藤和正太平洋海戦2 激闘篇 P.172」による。--->。
この日の月出は日付変更後0159で、夜戦当夜は暗闇だった<ref name="鳥海報9"/>。2220、「鳥海」偵察機がサボ島南に軽巡洋艦3隻確認と報告<ref name="鳥海報6"/>。「鳥海」偵察機はガダルカナル泊地に輸送船20隻<ref>「軍艦鳥海第1次ソロモン海戦戦闘詳報(1)」第13画像</ref>、「加古」偵察機はツラギ泊地に輸送船10隻を確認したが<ref>「軍艦加古戦闘詳報」第22画像</ref>、母艦に確認したかは不明。2240、第八艦隊はサボ島南方水道に突入を始めた。2243、旗艦「鳥海」見張員が右舷側距離9000mに敵艦を発見、直ちに三川長官が「戦闘」を下令。この発見した敵艦は連合軍哨戒隊の駆逐艦「ブルー」であった。しかし、「ブルー」は島影による電波の乱反射により装備していた旧式のレーダー第八艦隊に気付かず、また同僚艦「ラルフ・タルボット」と誤認し<ref>『摑めなかった勝機』123頁</ref>、遠ざかっていった。直後に今度は左舷前方に敵艦が現れた。これは同じく哨戒隊の駆逐艦「ラルフ・タルボット」でこの艦も第八艦隊に気付かず遠ざかっていった。この2艦は第八艦隊突入前の2145頃、ガ島泊地へ向けて低空で飛び去る敵味方不明の水偵1機を目撃して全艦隊へ警報を発していたが、応答なかった<ref>『摑めなかった勝』125頁</ref>。「サン・ファン」はレーダーで水偵を探知たが、飛行機と船の区別がつかず、行動を起こさなかった。「キャンベラ」は飛行機爆音を聞いた味方機と間違えた。唯一副長起きて、艦の見張り所に入った<ref name="摑め126">『摑めなかった勝機』126頁</ref>。ビンセンスも同様であり、艦長は休憩室下がった<ref name="摑め126"/>。突入当時の天候は曇、東南東の風5メートル、視程10kmであったという
突入当時の天候は曇、東南東の風5メートル、視程10kmであったという。


サボ島南方に到達した2331、三川長官により「全軍突撃せよ」が下令され全艦一斉に襲撃運動に入った。この下令直後、「鳥海」の見張員が左舷約15,000mに駆逐艦「ジャービス」を発見。4,500mまで接近した後「鳥海」は魚雷4本を発射したがこれは命中しなかった。この発射直後に今度は右舷方向に巡洋艦2隻を発見、水偵に命じて吊光弾による背景照明を行なわせた。そして先頭艦の豪重巡「キャンベラ」に向けて2347、距離3,700mで魚雷を4本発射。2本の命中を確認後主砲10門による射撃を開始し多数を命中させた。後続の重巡4隻も「キャンベラ」と米重巡「シカゴ」、これらに随伴していた米駆逐艦「パターソン」に向けて砲雷撃を開始していた。
サボ島南方に到達した2331、三川長官により「全軍突撃せよ」が下令され全艦一斉に襲撃運動に入った<ref name="鳥海報7">「軍艦鳥海第1次ソロモン海戦戦闘詳報(1)」第7画像</ref>。この下令直後、「鳥海」の見張員が左舷約15,000mに駆逐艦「ジャービス」を発見(鳥海はアキリーズ型軽巡洋艦と誤認<ref name="鳥海報7"/>)。4,500mまで接近した後「鳥海」は魚雷4本を発射したがこれは命中しなかった。古鷹も魚雷4発を発射し、同じく命中しなかった<ref>『摑めなかった勝機』136頁</ref>。この発射直後に今度は右舷方向に巡洋艦2隻を発見。2343、水偵に命じて吊光弾による背景照明を行なわせた<ref name="鳥海報8">「軍艦鳥海第1次ソロモン海戦戦闘詳報(1)」第8画像</ref>。そして先頭艦の豪重巡「キャンベラ」に向けて2347、距離3,700mで魚雷を4本発射。2本の命中を確認後(轟沈と誤認<ref name="鳥海報8"/>)、主砲10門による射撃を開始し多数を命中させた。後続の重巡4隻も「キャンベラ」と米重巡「シカゴ」、これらに随伴していた米駆逐艦「パターソン」に向けて砲雷撃を開始していた。日本艦隊は主砲に加えて高角砲と25㎜機銃の水平射撃を行い<ref>「軍艦加古戦闘詳報」第8画像</ref>、「キャンベラ」と「シカゴ」を圧倒した。


一方で米軍は「パターソン」が接近する第八艦隊を発見、直ちに警報を全軍に送るとともに照明弾を打ち上げ主砲により応戦を開始したが、間もなく2発20センチ砲弾が立て続艦橋、第4砲塔に命中。艦長が戦死し中破した「パターソン」は戦列を離脱していった。
一方で米軍は「パターソン」が接近する第八艦隊を発見、直ちに警報を全軍に送るとともに照明弾を打ち上げ主砲により応戦を開始したが、間もなく「天龍」探照灯射撃を受艦橋、第3、4砲塔に命中<ref name="摑め142">『摑めなかった勝機』142頁</ref>。艦長が戦死し中破した「パターソン」は戦列を離脱していった。「パターソン」は[[最上型重巡洋艦]]、[[川内型軽巡洋艦|神通型巡洋艦]]、[[香取型練習巡洋艦]]と交戦したと報告したが、実際は古鷹、天龍、夕張だった<ref name="摑め142"/>。この際、「夕張」に反撃し命中弾を与えている<ref>『摑めなかった勝機』143頁</ref>。「古鷹」と「天龍」も「パターソン」を撃沈したと思い込んだ<ref name="摑め142"/>
「キャンベラ」は「パターソン」の警報により即座に「総員戦闘配置」が下令されたが、この配置が完了する前に「鳥海」が放った魚雷2本が命中。息つく暇もなく20センチ砲弾を雨霰と浴びせられ僅か2分間で2本の魚雷と24発の20センチ砲弾を浴びて航行不能に陥った(翌日自沈処分)。
「シカゴ」も警報と同時に対応を始めたが、態勢が整う前に左舷艦首に魚雷1本が命中。直径5mの大穴が空いて浸水が始まると続いて砲撃を浴びせられ、ろくな反撃も出来ずに大破してしまった。


「キャンベラ」は「パターソン」の警報により即座に「総員戦闘配置」が下令されたが、この配置が完了する前に「鳥海」が放った魚雷2本が命中。息つく暇もなく20センチ砲弾を雨霰と浴びせられ、僅か3分間で2本の魚雷と28発の20センチ砲弾を浴びて航行不能に陥った。搭載航空機も炎上した<ref>『摑めなかった勝機』159頁</ref>。艦長は致命傷を負い、治療を断って部下の救助を優先させた<ref>『摑めなかった勝機』152頁</ref>。「シカゴ」も警報と同時に対応を始め、少なくとも2本の魚雷を回避し、艦首と右舷に照明弾を発射した<ref>『摑めなかった勝機』162頁</ref>。さらに探照灯照射を行ったところ、左舷艦首に魚雷1本が命中。直径5mの大穴が空いて浸水が始まると続いて砲撃を浴びせられ、艦上構造物が破壊されていった。別の魚雷一発が右舷に命中したが、これは不発だった<ref>『摑めなかった勝機』164頁</ref>。シカゴは25ktを発揮してスコールの中に逃げ込んだ<ref>『摑めなかった勝機』166頁</ref>。
随伴の米駆逐艦「バッグレイ」は敵発見と同時に左急回頭を行い戦闘配置についた、日本軍からの砲撃はなく、また行なった砲雷撃は「夕張」に命中した一発の盲弾を除いて外れたため完全に戦闘の蚊帳の外であった。


随伴の米駆逐艦「バッグレイ」は敵発見と同時に左急回頭を行い戦闘配置についた。天龍夕張、古鷹、衣笠を「天龍型軽巡」2隻、「妙高型重巡洋艦」2隻と誤認し、魚雷4発を発射<ref>『摑めなかった勝機』168頁</ref>。だが日本軍からの砲撃はなく、また行なった砲雷撃は「夕張」に命中した一発の盲弾を除いて外れたため完全に戦闘の蚊帳の外であった。
こうして連合軍南方部隊は壊滅し、第八艦隊はツラギ港外に向かった。「パターソン」が第八艦隊を発見してから戦闘が終了するまでの間僅か6分、第八艦隊は「夕張」が一発被弾した以外全く被弾せず一方的な攻撃に終始した。ただ、駆逐艦「夕凪」が電源故障により自艦位置不明となり戦闘海域から離脱し「天龍」[[羅針儀]]が振動で故障して自艦針路不明となり、また「古鷹」が「キャンベラ」との衝突を避けるために変針し、これに従った「天龍」「夕張」と共に「鳥海」等とは別行動をとることになった。二手に分かれて北上した第八艦隊であったが、これが後に思いもかけない効果を生む。


こうして連合軍南方部隊は壊滅し、第八艦隊はツラギ港外に向かった。「パターソン」が第八艦隊を発見してから戦闘が終了するまでの間僅か6分、第八艦隊は「天龍」と「夕張」が被弾した以外全く被弾せず一方的な攻撃に終始した。鳥海と第六戦隊は魚雷17本を発射し、2本が命中した。ただ、駆逐艦「夕凪」が電源故障により自艦位置不明となり、「夕張」と衝突しかけた。「夕凪」は単艦行動し、キャンベラ([[オマハ級軽巡洋艦]]と誤認)に魚雷6発を発射し、撃沈したと信じて<ref>『摑めなかった勝機』172頁</ref>戦闘海域から離脱した。「天龍」では[[羅針儀]]が振動で故障して自艦針路不明となり、また「古鷹」が「キャンベラ」との衝突を避けるために変針し、これに従った「天龍」「夕張」と共に「鳥海」等とは別行動をとることになった。二手に分かれて北上した第八艦隊であったが、これが後に思いもかけない効果を生む。
「鳥海」は「キャンベラ」に対して雷撃を終えた直後、艦首左方向に全く別の敵部隊がいるのを発見。これに対して探照灯を照射して敵部隊の全貌を明らかにするとともに味方に対して注意を促し、突撃に移った。新たに現れたこの部隊は米重巡「ヴィンセンス」艦長リーフコール大佐率いる連合軍北方部隊であった。リーフコールはこの頃既に当直士官に艦橋を任せて仮眠に入っており、第八艦隊と南方部隊の戦闘の砲火を見た「ヴィンセンス」見張員の報告によって叩き起こされた。自分の眼でその砲火を確かめた先述した統一指揮権の問題により南方部隊の状況が全く不明であったため、それを南方部隊によるガ島への艦砲射撃か、侵入してきた少数の日本駆逐艦と南方部隊の戦闘であろうと思い、状況の整理がついた時点で戦闘参加すべく準備始めようとしていた。そこへ突然左舷後方から3本の探照灯により照射されたため、彼は味方が混乱して自艦隊を照射したのだろうと思い、信号手に直ちに後方の照射艦に対し「照射を止めよ、われ味方なり」と通報するように命じ、20ノットに増速して一旦態勢を立て直してから南方部隊の増援に赴こうとしていた。彼にとって誤算だったのは、後方から接近していたのは第八艦隊主力の重巡4隻だったことである。


「鳥海」は「キャンベラ」に対して雷撃を終えた直後、艦首左方向に全く別の敵部隊がいるのを発見。これに対して探照灯を照射して敵部隊の全貌を明らかにするとともに味方に対して注意を促し、突撃に移った<ref name="鳥海報8"/>。新たに現れたこの部隊は米重巡「ヴィンセンス」艦長リーフコール大佐率いる連合軍北方部隊であった。「ヴィンセンス」は南方部隊と違って、砲撃準備を整えていた<ref>『摑めなかった勝機』177頁</ref>。リーフコールは射撃指揮アダムス少佐に艦橋を任せて仮眠に入っており、第八艦隊と南方部隊の戦闘の砲火を見た「ヴィンセンス」見張員の報告によって叩き起こされた。リーフコールはスリッパのまま艦橋に戻り、自分の眼でその砲火を確かめた先述した統一指揮権の問題により南方部隊の状況が全く不明であったため、それを南方部隊によるガ島への艦砲射撃か、侵入してきた少数の日本駆逐艦と南方部隊の戦闘であろうと思い、「オーストラリア」に乗るクラッチレー提督に連絡とろうとした<ref>『摑めなかった勝機』182頁</ref>。そこへ突然左舷後方から「鳥海」の探照灯により照射された彼は味方が混乱して自艦隊を照射したのだろうと思い、隊内無線電話で後方の照射艦に対し「照射を止めよ、われ味方なり」と通報、さらに旗流信号をあげた<ref>『摑めなかった勝機』184頁</ref>。そして20ノットに増速して一旦態勢を立て直してから南方部隊の増援に赴こうとしていた。彼にとって誤算だったのは、後方から接近していたのは第八艦隊主力の重巡4隻だったことである。
2353、「鳥海」はまず一番近い北方部隊3番艦の米重巡「アストリア」に対し距離5000mで主砲を斉射、第5斉射で命中弾を得た。また、後続の各艦も次々と「アストリア」に対して砲撃を加え、完全に機先を制された「アストリア」は一方的に攻撃を受け殆ど有効な反撃の出来ぬまま航行不能に陥り、翌朝転覆沈没した。「アストリア」に対して有効な打撃を与えたと判断した「鳥海」は2番艦米重巡「クインシー」に対して砲撃を開始する。3斉射目で「クインシー」は艦中央部の艦載機に直撃弾を受けこれが炎上。格好の標的となった。多数の命中弾を浴び、炎上していたところに先の南方部隊との戦闘で分離した「古鷹」以下3隻が左舷方向から突入してきた。「古鷹」隊は「鳥海」が照射した敵艦隊を認めて突入して来たのである。北方部隊は右舷側から「鳥海」隊に、左舷側から「古鷹」隊に挟撃される形となってしまった。「古鷹」隊は火災を起こしていた「アストリア」に対して砲撃を浴びせると「クインシー」に対して砲雷撃を開始。この放った魚雷が「クインシー」左舷に命中。「クインシー」は被弾しつつも「鳥海」目掛けて砲撃をしながら突撃したが、集中する砲弾のためにたちまち戦闘不能に陥り、翌9日0035、左に転覆、沈没した。残った一番艦「ヴィンセンス」も反撃態勢を取る間もなく、日本軍の砲撃を浴び艦載機が炎上。これが好目標となり集中砲火を浴びたため面舵反転離脱を図るべく転舵した直後、「鳥海」隊から発射された魚雷が3本左舷に立て続けに命中、さらに「夕張」が発射した魚雷のうち1本が命中し翌9日0003、航行不能に陥った。この後も更に砲撃を浴びて0050、転覆沈没した。日本軍ではこの間に重巡「衣笠」がツラギ港外の輸送船団目掛けて長距離調定した魚雷4本を発射したがこれは命中しなかった。また、北方部隊随伴の「ヘルム」「ウィルソン」はいち早く南方部隊の応援に駆けつけるべく航行していた所、日本艦隊と高速ですれ違った。あわてて反転してこれを追うも間に合わず、両艦とも無傷であったものの戦闘に殆ど参加できなかった。


2353、「鳥海」はまず一番近い北方部隊3番艦の米重巡「アストリア」(鳥海はサンフランシスコ型と誤認<ref name="鳥海報8"/>)に対し距離5000mで主砲を斉射、すぐに命中弾を得た<ref name="鳥海報8"/>。また、後続の各艦も次々と「アストリア」に対して砲撃を加え、完全に機先を制された「アストリア」は一方的に攻撃を受けた。アストリアは「鳥海」に向けて二斉射を放ったが、艦長は友軍艦を射撃していると考え、射撃をやめさせた<ref>『摑めなかった勝機』229頁</ref>。友軍艦の正体に気付いた時は既に遅く、「アストリア」は多数の20cm砲弾を被弾した。「衣笠」に対して射撃した砲弾が「鳥海」の一番砲塔を破壊したが、それ以上の戦果を出すことはなく、翌朝転覆沈没した。「アストリア」に対して有効な打撃を与えたと判断した「鳥海」は2番艦米重巡「クインシー」に対して砲撃を開始する。3斉射目で「クインシー」は艦中央部の艦載機に直撃弾を受けこれが炎上。格好の標的となった。これが8月9日0004頃の出来事である<ref name="鳥海報9">「軍艦鳥海第1次ソロモン海戦戦闘詳報(1)」第9画像</ref>。多数の命中弾を浴び、炎上していたところに先の南方部隊との戦闘で分離した「古鷹」以下3隻が左舷方向から突入してきた。「古鷹」隊は「鳥海」が照射した敵艦隊を認めて突入して来たのである。北方部隊は右舷側から「鳥海」隊に、左舷側から「古鷹」隊に挟撃される形となってしまった。
9日0023、三川長官は戦闘終了と判断、「全軍引け」の命令を下す。バラバラになっていた各艦は単縦陣を作り直しで30ノットで高速避退に移るべくサボ島北方の集結地点に移動し始めた。軽巡「夕張」も集結すべく航行していたが、そこへ哨戒隊の一艦、米駆逐艦「ラルフ・タルボット」がひょっこり現れた。「夕張」は直ちに「ラルフ・タルボット」に対して砲撃を開始。突然砲撃を受け、全く情況の飲み込めない「ラルフ・タルボット」は味方識別灯を点灯して合図するとともに無線電話で「貴艦は味方に発砲中なり、砲撃を中止せよ」と連呼したが、これを見た「夕張」艦長阪匡身大佐は敵艦が誤認していると判断、猛撃を加えたのである。「ラルフ・タルボット」は立て続けに命中弾を浴びて戦闘不能に陥ったが、幸運なことにスコールに包まれたため、離脱することが出来た。

「古鷹」隊は火災を起こしていた「アストリア」に対して砲撃を浴びせると「クインシー」に対して砲雷撃を開始。この放った魚雷が「クインシー」左舷に命中。「クインシー」は被弾しつつも「鳥海」目掛けて砲撃をしながら突撃したが、艦載機が炎上し、これが好目標となって砲弾が集中し、翌9日0035、左に転覆、沈没した。残った一番艦「ヴィンセンス」は第八艦隊の砲撃を浴び、やはり艦載機が炎上。集中砲火を浴びたため面舵反転。「衣笠」を砲撃し、これを撃沈したと信じた<ref name="摑め187">『摑めなかった勝機』187頁</ref>。「衣笠」は操舵装置に損害を受け、主機械での操舵を余儀なくされた<ref name="摑め187"/>。直後、「鳥海」隊から発射された魚雷が3本左舷に立て続けに命中、さらに「夕張」が発射した魚雷のうち1本が命中し翌9日0003、航行不能に陥った。この後も更に砲撃を浴び、「青葉」の発射した20cm砲弾が艦橋と艦首脳を吹き飛ばした<ref>『摑めなかった勝機』215頁</ref>。0050、転覆沈没した。日本軍ではこの間に重巡「衣笠」がツラギ港外の輸送船団目掛けて長距離調定した魚雷4本を発射したがこれは命中しなかった。さらに0005分には鳥海の一番砲塔が「アストリア」の主砲弾直撃で破壊され<ref>『摑めなかった勝機』241頁</ref>、後部艦橋には「クインシー」の主砲弾が命中<ref>『摑めなかった勝機』214頁</ref><ref name="鳥海報9"/>。青葉でも小火災が発生した。また、北方部隊随伴の「ヘルム」「ウィルソン」はいち早く南方部隊の応援に駆けつけるべく航行していた所、日本艦隊と高速ですれ違った。あわてて反転してこれを追うも間に合わず、両艦とも無傷であったものの戦闘に殆ど参加できなかった。

8月9日0012、「鳥海」は主砲38斉射302発、高角砲120発、魚雷8本の発射を記録して<ref>「軍艦鳥海第1次ソロモン海戦戦闘詳報(1)」第15画像</ref>射撃を中止した<ref name="鳥海報9"/>。0023、三川長官は戦闘終了と判断、「全軍引け」の命令を下す。バラバラになっていた各艦は単縦陣を作り直し、サボ島北方の集結地点に移動し始めた。軽巡「天龍」と「夕張」も集結すべく航行していたが、そこへ哨戒隊の一艦、米駆逐艦「ラルフ・タルボット」が出現した。同艦は米駆逐艦「ウィルソン」から逃れるために隊内無線通話で「友軍から砲撃されている」と放送していた<ref>『摑めなかった勝機』251頁</ref>。「天龍」と「夕張」は直ちに「ラルフ・タルボット」に対して探照灯射撃を開始<ref name="摑め253">『摑めなかった勝機』253頁</ref>。砲撃を受けた「ラルフ・タルボット」は[[利根型重巡洋艦]]から砲撃されているとし、即座に魚雷4本を発射した<ref name="摑め253"/>。だが軽巡洋艦2隻には勝てなかった。「ラルフ・タルボット」は立て続けに命中弾を浴び、主砲塔は8発を撃った時点で破壊され、魚雷発射管、海図室、アイスクリームを積んだ食糧庫も吹き飛んで操舵不能・傾斜20度となった。幸運なことにスコールに包まれたため、よろめきながら離脱することが出来た。


===艦隊反転せず===
===艦隊反転せず===
海戦は日本軍の大勝利に終わり初期に離脱した「夕凪」も含めてサボ島北方で集結した第八艦隊では、一つの議論が「鳥海」の艦隊司令部で起きていた。現在までガダルカナル失陥の最大原因とも言われる第八艦隊再突入問題である。大きく分けて意見は二つあり、「艦隊はほぼ無傷であり、直ちに反転して連合軍輸送船団攻撃に向かうべし」、という泊地再突入論と「上空援護がない限り、艦上機の攻撃を受ける愚を犯すべきではない」という早期撤退論であった。「鳥海」艦長[[早川幹夫]]大佐が、「眼前の大輸送船団を放置して帰れば、飛行基地は敵の手に陥って、大変なことになる。司令部は旗艦を他に移して帰れ。鳥海一艦で敵輸送船団を撃滅する」と、特に前者を強く主張したが、[[大西新蔵]]参謀長と[[神重徳]]先任参謀が後者を進言し、結局後者を三川長官が容れて帰投命令を発した。
海戦は日本軍の大勝利に終わり初期に離脱した「夕凪」も含めてサボ島北方で集結した第八艦隊では、一つの議論が「鳥海」の艦隊司令部で起きていた。第八艦隊再突入問題である。大きく分けて意見は二つあり、「艦隊はほぼ無傷であり、直ちに反転して連合軍輸送船団攻撃に向かうべし」、という泊地再突入論と「上空援護がない限り、艦上機の攻撃を受ける愚を犯すべきではない」という早期撤退論であった。「鳥海」艦長[[早川幹夫]]大佐が、「眼前の大輸送船団を放置して帰れば、飛行基地は敵の手に陥って、大変なことになる。司令部は旗艦を他に移して帰れ。鳥海一艦で敵輸送船団を撃滅する」と、特に前者を強く主張したが<ref>亀井宏『ガダルカナル戦記 第一巻』165頁</ref>、[[大西新蔵]]参謀長と[[神重徳]]先任参謀が後者を進言し<ref name="摑め364">『摑めなかった勝機』364頁</ref>、結局後者を三川長官が容れて帰投命令を発した。殊勲の水上偵察機隊は、一旦ショートランド泊地に降りて燃料補給をおこない、日の出後に各艦に帰艦した。


===「加古」撃沈===
===「加古」撃沈===
第八艦隊はソロモン中央水道を30ノットの高速で避退し、夜明けまでに無事攻撃圏外に達した。9日0800、三川長官は同隊の解列を命じ、第六戦隊の重巡4隻は[[ニューアイルランド島]]西端の[[カビエン]]へ、「夕張」と「夕凪」はショートランド泊地へ、そして「鳥海」「天龍」はラバウル泊地へ各々分離して向かった。10日朝、第六戦隊はカビエンまで残り100浬のニューアイルランド島北方海域を航行していた。上空には対潜哨戒機が1機前路警戒についており、既に味方の制空圏内でもあった。
第八艦隊はソロモン中央水道を30ノットの高速で避退し、夜明けまでに無事攻撃圏外に達した。9日0800、三川長官は同隊の解列を命じ、第六戦隊の重巡4隻は[[ニューアイルランド島]]西端の[[カビエン]]へ、「夕張」と「夕凪」はショートランド泊地へ、そして「鳥海」「天龍」はラバウル泊地へ各々分離して向かった。10日朝、第六戦隊はカビエンまで残り100浬のニューアイルランド島北方海域を航行していた。上空には「青葉」から発進した九四式水偵が1機前路警戒についており、既に味方の制空圏内でもあった。第六戦隊司令官五藤存知少将は各艦の速力を16ノットに落とさせ、対潜水艦運動である「之字運動」をやめさせていた<ref>亀井宏『ガダルカナル戦記 第一巻』177頁</ref>


16ノットで航行していた重巡「加古」の見張り員が「右舷に雷!近っ!」と絶叫した時にはもう遅かった。「加古」の艦首、艦中央部、艦尾に1本ずつ、計3本被雷した「加古」は僅か5分で沈没した。艦長 高橋雄次大佐の対処が素早かったために犠牲者は67名で済んだが、一瞬の気の緩みを衝かれた損害であった。「加古」を雷撃したのは米潜水艦「S44(SS-155)」で距離650mから魚雷4本を発射したのである
7時10分、16ノットで航行していた重巡「加古」の見張り員が「右50度、1000m、のようなものがる!<ref>高橋雄次『鉄底海峡』172頁</ref>と絶叫した時にはもう遅かった。加古艦長 高橋雄次大佐は即座に面舵としたが、外軸2軸運転だっため舵の効きが悪く<ref>高橋雄次『鉄底海峡』174頁</ref>、結局「加古」の艦首、艦中央部、艦尾に1本ずつ、計3本が命中した。被雷した「加古」は僅か5分で沈没した。高橋の対処が素早かったために犠牲者は67名で済んだが、一瞬の気の緩みを衝かれた損害であった。救出された高橋に、五藤は自らの判断が誤りだったと謝罪している<ref>高橋雄次『鉄底海峡』192頁</ref>。「加古」を雷撃したのは米潜水艦「S44(SS-155)」である。この潜水艦は潜望鏡を出さず、聴音を頼りに距離650mから魚雷4本を発射し、即座に退避していっ<ref>亀井宏『ガダルカナル戦記 第一巻』179頁</ref>


== 結果と影響 ==
== 結果と影響 ==
{{multiple image
[[画像:Damaged HMS Canberra-Savo Island-9Jun42.jpg|250px|left|thumb|炎上するキャンベラの救出、護衛をするブルー、パターソン]]
| align = left
本海戦では日本海軍が一方的な勝利を収め、その夜戦能力の高さを示した。しかし、本来の主目的であったはずの上陸船団への攻撃は行われなかったため、まだ揚陸されていなかった重装備などは無傷であった。日本軍が大戦果に沸き返っ、米軍は膨大な軍需品のガダルカナル揚陸に成功し、飛行場および橋頭堡が強化された。まもなく敵飛行部隊が進出。米軍は、この基地をカクタス基地、飛行場はヘンダーソン飛行場と名づけた。日本軍のガダルカナル作戦失敗の最大原因である。こういった見地から、この海戦は日本側の戦術的勝利、戦略的敗北となり、後の一連のソロモンの戦い([[第二次ソロモン海戦]]、[[第三次ソロモン海戦]])に大きな影響を与えることとなる。急遽ガダルカナル奪回作戦当てられ陸軍第17軍参謀長[[二見秋三郎]]少将は、「みんを取り実を残して皮だけ取って帰ったか」
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| image1 = USS Quincy CA-39 savo.jpg
| caption1 = 探照灯を照射されるクインシー
| image2 = Damaged HMS Canberra-Savo Island-9Jun42.jpg
| caption2 = 炎上するキャンベラの救出、護衛をするブルー、パターソン
| image3 = SavoIslandCanberraSinking.jpg
| caption3 = 沈没するキャンベラ
}}


本海戦では日本海軍が一方的な勝利を収め、その夜戦能力の高さを示した<ref>『摑めなかった勝機』337頁</ref>。第八艦隊は「重巡洋艦4隻、軽巡洋艦1隻、駆逐艦6隻撃沈。軽巡洋艦1隻、駆逐艦2隻撃破」を主張した<ref>生出寿『ライオン艦長 黛治夫』50-51頁</ref>。これを受けた大本営は、第二五航戦があげた誤認戦果をあわせ、「戦艦1隻、重巡洋艦4隻、軽巡洋艦4隻、輸送船10隻撃沈。重巡洋艦3隻、駆逐艦2隻、輸送船1隻撃破。戦闘機32機、爆撃機9機撃墜。航空機7機喪失、巡洋艦2隻損傷」と発表した。そして今海戦を「第一次ソロモン海戦」と発表する<ref>亀井宏『ガダルカナル戦記 第一巻』180頁</ref>。
この、今後のガダルカナル島での戦いの帰趨を変える可能性のあった船団への攻撃が行われなかった理由は、アメリカ空母部隊による航空攻撃への恐れより、早期退避の必要があったという有力な見方がある。一方、[[海軍反省会]]は、[[海軍兵学校]]での伝統教育である海上決戦至上主義的心理が司令官の判断に与えた影響が大きかったのではないかと振り返っている。また、当時の[[永野修身]]軍令部総長が第八艦隊司令長官三川中将に対して「無理な注文かもしれんが日本は工業力が少ないから、極力艦を毀(こわ)さないようにして貰いたい」という注意を与えていたことが早期退避の決定に影響を与えたという説もある。艦隊参謀であった大前敏一の戦後の証言によると「米空母部隊の無線交信が『鳥海』でも盛んに聞こえていたことが敵空母が近距離に存在していると判断する材料になり、早期撤退の結論に達した」ということであるが、敵機動部隊は南方洋上遠くにあり戦闘圏内にはいなかった。


実際の戦果は、豪重巡洋艦「キャンベラ」、米重巡洋艦「アストリア」、「クインシー」、「ビンセンス」を撃沈し、重巡洋艦「シカゴ」、駆逐艦「ラルフ・タルボット」、「パターソン」が大破というものだった<ref>『摑めなかった勝機』289頁</ref>。また翌日、駆逐艦「ジャービス」(戦死247)がターナーの命令に背いて独自に戦場を離脱し、第二五航空戦隊に撃沈された<ref>『摑めなかった勝機』288頁</ref>。米軍は、この艦も第一ソロモン海戦の被害に加えている。連合軍艦隊は471発を発射して最低10発が命中した<ref>『摑めなかった勝機』291頁</ref>。
また、この海戦勝利の影で夜戦での探照灯による照射砲撃が持つ危険性(照射艦が敵艦隊から集中砲撃を浴びる)というものが戦訓として考慮されなかった。重巡「鳥海」は小破で済んではいるが、20センチ砲弾6発、12.7センチ砲弾4発を被弾しており、この頃の連合の砲弾の信管が粗悪で正常作動しなかったことと、鳥海の主砲塔が無装甲であったことでたまたま命中した砲弾が全て盲弾となって艦上で爆発せず、損傷が軽微で済んだだけの話であり、3砲塔を貫通、砲員を全滅させた砲弾がもし炸裂していたら艦橋にいた司令部などは無事ではすまなかったであろうし、最悪場合爆沈もありえた。もし作戦室を貫通した砲弾が炸裂していたら壁一枚隔てて艦橋内にいた司令部メンバーはほぼ全員戦死していたであろうといわれている。実際、これらの盲弾の命中だけで艦は小破で済んでいるにもかかわらず鳥海だけで戦死34名、重軽傷48名という人的損害を出している。


日本側の損害は、「鳥海」が一番砲塔と後部艦橋を破壊された。「青葉」は魚雷発射管が原因不明の故障を起こし、「風のため」に数箇所で火災が発生した。「加古」と「古鷹」については、被害報告はなかった。なお古鷹の[[戦闘詳報]]は戦後米国におくられ、返還されなかった<ref>『摑めなかった勝機』340頁</ref>。「衣笠」は左舷舵取機室が故障し、第一機械室に火災が発生した。「天龍」と「夕張」の被害は最小だった。第八艦隊は1844発を発射し、159~223発を命中させた<ref>『摑めなかった勝機』290頁</ref>。
この海戦での鳥海の損傷が味方の大勝に隠れて軽視され、また連合軍の弾薬が粗悪なのを連合軍に気づかせぬ為にこの損傷結果を三川長官が緘口令を敷いて極秘にした結果が、第3次ソロモン海海戦での戦艦「比叡」「霧島」喪失に結びつくこととなった。
とはいえ、連合軍側でも弾薬の問題は気付いており、米重巡「シカゴ」が戦闘時に発射した照明弾は44発発射して僅か6発しか炸裂せず、また8日の航空攻撃で損傷、放棄された輸送船「ジョージ・F・エリオット」を処分するために米駆逐艦から発射された魚雷4本は全弾命中したにもかかわらず、炸裂したのは僅か一発であった。この弾薬問題はこの後も暫く米軍を悩ませるが、根本的な対策を取ったため一年もするとこの問題を解決して以後問題は起きなくなったという。


この攻撃では、本来の主目的であったはずの上陸船団への攻撃は行われなかったため、まだ揚陸されていなかった重装備などは無傷であった。だが連合軍は日本軍の攻撃を懸念し、輸送船団はレーダーや重装備を積みこんだまま退避した<ref>亀井宏『ガダルカナル記 第一巻』181頁</ref>。結として、第八艦隊の攻撃は一定の効果をあげた。取り残された米軍海兵隊の物資は欠乏し、1日の食事は2食制限されしまう。このように海兵隊が危機に晒されなか、米軍は膨大な軍需品のガダルカナル揚陸に成功し、飛行場および橋頭堡が強化された。まもなく敵飛行部隊が進出。米軍は、この基地をカクタス基地、飛行場はヘンダーソン飛行場と名づけた。{{要出典範囲|date=2011年2月|日本軍のガダルカナル作戦失敗の最大原因である}}。こういった見地から、この海戦は日本側の戦術的勝利、戦略的敗北(限定的な戦略的成功)となり、後の一連のソロモンの戦い([[第二次ソロモン海戦]]、[[第三次ソロモン海戦]])に影響を与えることとなる。しかし、たとえ第八艦隊が揚陸物資と輸送船団を完全破壊したところで、連合軍の圧倒的物量と輸送能力、ガダルカナル島がオーストラリア近いという地理的関係上、また[[零式艦上戦闘機]]の航続距離の関係ら制空権掌握限界があた以上最終的な結果は変わらなかったという意見もある<ref>亀井宏『ガダルカナル戦記 第一巻』174頁</ref>
日本軍ではミッドウェーの大敗北で士気が下がっていたところにこの大勝利があり大いに士気が上がったという。この作戦立案をした神重徳大佐は「作戦の神様」として祭り上げられることとなり、後々の彼の立てた無謀な作戦も比較的容易に採用されるようになる。


陸軍では、{{要出典範囲|date=2011年2月|急遽ガダルカナル奪回作戦に当てられた陸軍第一七軍参謀長[[二見秋三郎]]少将は、「みかんを取りにいって、実を残して皮だけ取って帰ったか」と嘆いたという}}。二見の日記には、第八艦隊が空母を恐れて退避した事への不満と、ポートモスレビーの占領を急がねばならないという決意が書かれている<ref>亀井宏『ガダルカナル戦記 第一巻』350頁</ref>。海軍では敵輸送船を結果として殲滅出来なかった(最終目的を果たさなかった)事に、当時[[大和型戦艦]]「[[大和 (戦艦)|大和]]」に乗艦してトラックに赴いていた連合艦隊司令長官の山本五十六は激怒。後に海戦の功績明細書が八艦隊より提出された際、「こんなものに勲章をやれるか」とその報告書を握り潰そうとしたが、連合艦隊参謀の説得を受け功績を認めたという<ref>吉田俊雄『四人の連合艦隊司令長官』133頁</ref>。ただし、山本五十六は8月7日の三川が提出した第八艦隊の夜間強襲作戦に消極的であり、打って変わったような対応となった<ref name="摑め364"/>。
一方で米軍はこの敗北に対してヘプバーン委員会として知られる米海軍の本海戦に関する公式の調査委員会が組織され、引き続いて海戦に関する報告書を作成した。委員会は1942年12月以降海戦に関わった殆どの連合軍将校から数ヶ月かけて事情聴取を行った。委員会は、唯一シカゴのボード艦長のみ懲戒処分にあたると勧告した。報告は他の連合軍将校達、すなわちフレッチャー、ターナー、マッケーン、クラッチレーの各提督とリーフコール艦長については処分を求めなかった。ターナー、クラッチレー、マッケーンの各提督の以後の経歴は本海戦の敗北や、その中での失策によって影響されなかった。しかしながらリーフコールは二度と艦長になることはなかった。ボードは、委員会の報告がとりわけ彼に対して批判的であると知ると、1943年4月19日にパナマ運河地帯にある基地で自殺を図り、翌日死亡した。

今後のガダルカナル島での戦いの帰趨を変える可能性があった船団への攻撃が行われなかった理由は、アメリカ空母部隊による航空攻撃への恐れより、早期退避の必要があったという有力な見方がある。「鳥海」の戦闘報告書は「小成に甘んじてしまった」と評している<ref>「軍艦鳥海第1次ソロモン海戦戦闘詳報(1)」第20画像</ref>。[[海軍反省会]]では、[[海軍兵学校]]での伝統教育である海上決戦至上主義的心理が司令官の判断に与えた影響が大きかったのではないかと振り返っている。日本海軍は「艦隊決戦主義」を標方しており、輸送船破壊等の通商破壊活動を全く考慮しないという風土があった。その為、山本が指示した輸送船殲滅という目的の本質を八艦隊の幕僚は理解しておらず、山本自身も、輸送船破壊の目的と意図を八艦隊に説明しなかった為、結果として敵戦闘艦の殲滅だけで目的を達成したと八艦隊は勘違いしたという事である。

一方で、当時の[[永野修身]]軍令部総長が第八艦隊司令長官三川中将に対して「無理な注文かもしれんが日本は工業力が少ないから、極力艦を毀(こわ)さないようにして貰いたい」という注意を与えていたことが早期退避の決定に影響を与えたという説もある<ref>亀井宏『ガダルカナル戦記 第一巻』171-172頁</ref>。艦隊参謀であった大前敏一の戦後の証言によると「米空母部隊の無線交信が『鳥海』でも盛んに聞こえていたことが敵空母が近距離に存在していると判断する材料になり、早期撤退の結論に達した」ということであるが、敵機動部隊は南方洋上遠くにあり戦闘圏内にはいなかった。だが搭載索敵機を全て発進させてしまった第八艦隊に、米空母の不在を知ることは不可能だった。

また、この海戦勝利の影で夜戦での探照灯による照射砲撃が持つ危険性(照射艦が敵艦隊から集中砲撃を浴びる)というものが戦訓として考慮されなかった。重巡「鳥海」は小破で済んではいるが、20センチ砲弾6発(1番砲塔、艦橋3、煙突上部、マスト)、12.7センチ砲弾4発を被弾していた<ref>「鳥海第1次ソロモン海戦戦闘詳報(1)」第18画像</ref>。特に鳥海艦橋後方の作戦室を貫通した砲弾が炸裂していたら壁一枚隔てて艦橋内にいた司令部メンバーはほぼ全員戦死していたであろうといわれている。実際、これらの盲弾の命中だけで艦は小破で済んでいるにもかかわらず鳥海だけで戦死34名、重軽傷48名という人的損害を出している。死傷者の中には第一砲塔内で戦死した15名の他、旗甲板で戦闘を観戦していた非戦闘配置員が多数含まれていた<ref>諏訪繁治『わが重巡「鳥海」奮戦す』149、166頁</ref>

さらに青葉では、第二次戦闘中に機銃弾が魚雷に命中し、火災が発生した<ref>亀井宏『ガダルカナル戦記 第一巻』150頁</ref>。杉浦一等水兵の決死消火作業により火災は収まったが、轟沈の可能性もあった<ref>亀井宏『ガダルカナル戦記 第一巻』151頁</ref>。青葉の戦闘詳報は、この事について触れていない。

この海戦での鳥海の損傷が味方の大勝に隠れて軽視され、また連合軍の弾薬が粗悪なのを連合軍に気づかせぬ為にこの損傷結果を三川長官が緘口令を敷いて極秘にした結果が、第3次ソロモン海海戦での戦艦「[[比叡 (戦艦)|比叡]]」喪失に結びつくこととなった。とはいえ、連合軍側でも弾薬の問題は気付いており、米重巡「シカゴ」が戦闘時に発射した照明弾は44発発射して僅か6発しか炸裂せず、また8日の航空攻撃で損傷、放棄された輸送船「ジョージ・F・エリオット」を処分するために米駆逐艦から発射された魚雷4本は全弾命中したにもかかわらず、炸裂したのは僅か一発であった。{{要出典範囲|date=2011年2月|この弾薬問題はこの後も暫く米軍を悩ませるが、根本的な対策を取ったため一年もするとこの問題を解決して以後問題は起きなくなったという。}}

日本軍ではミッドウェーの大敗北で士気が下がっていたところにこの大勝利があり大いに士気が上がったという。この作戦立案をした神重徳大佐は「作戦の神様」として祭り上げられることとなり、後々の彼の立てた無謀な作戦も比較的容易に採用されるようになる。一方、日本軍航空隊で顕著だった戦果誤認問題は尾をひいた。輸送船1隻、駆逐艦2隻大破の戦果に「輸送船9隻、巡洋艦2隻、駆逐艦1隻撃沈。輸送船2隻、巡洋艦3隻撃破」と報告した日本軍航空隊の認識力は、[[台湾沖航空戦]]が[[レイテ沖海戦]]に繋がったように、日本軍の作戦そのものに影響を与え続けた

米軍はこの敗北に対してヘプバーン委員会として知られる米海軍の本海戦に関する公式の調査委員会が組織され、引き続いて海戦に関する報告書を作成し<ref>『摑めなかった勝機』297頁</ref>た。委員会は1942年12月以降海戦に関わった殆どの連合軍将校から数ヶ月かけて事情聴取を行った。委員会は、唯一シカゴのボード艦長のみ懲戒処分にあたると勧告した。報告は他の連合軍将校達、すなわちフレッチャー、ターナー、マッケーン、クラッチレーの各提督とリーフコール艦長については処分を求めなかった。ターナー、クラッチレー、マッケーンの各提督の以後の経歴は本海戦の敗北や、その中での失策によって影響されなかった。しかしながらリーフコールは二度と艦長になることはなかった。ボードは、委員会の報告がとりわけ彼に対して批判的であると知ると、1943年4月19日にパナマ運河地帯にある基地で自殺を図り、翌日死亡した。


戦術的に完敗した米軍は苦渋に満ちており、戦後、太平洋戦史を纏めたS.E.モリソンは以下のようにこの海戦を纏めている
戦術的に完敗した米軍は苦渋に満ちており、戦後、太平洋戦史を纏めたS.E.モリソンは以下のようにこの海戦を纏めている
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** 重巡:加古
** 重巡:加古
* 小破
* 小破
** 重巡:鳥海
** 重巡:鳥海(戦死34、負傷48)、青葉(戦死1、負傷1)、衣笠


=== 連合軍 ===
=== 連合軍 ===
* 沈没喪失
* 沈没喪失
** 重巡:[[キャンベラ (ケント級重巡洋艦)|キャンベラ]] (''HMAS Canberra, D33'')(戦死84、負傷109)、[[ヴィンセンス (重巡洋艦)|ヴィンセンス]] (''USS Vincennes, CA-44'')(戦死332、負傷258)、[[クインシー (CA-39)|クインシー]] (''USS Quincy, CA-39'')(死者370、負傷167)、[[アストリア (重巡洋艦)|アストリア]] (''Astoria, CA-34'')(戦死216、負傷186)
** 重巡:キャンベラ(自沈処分)、ヴィンセンス、クインシー、アストリア
* 大破
* 大破
** 重巡:シカゴ
** 重巡:[[シカゴ (CA-29)|シカゴ]] (''USS Chicago, CA-29'')
** 駆逐艦:ラルフ・タルボット
** 駆逐艦:ラルフ・タルボット(戦死16、負傷23)
* 中破
* 中破
** 駆逐艦:パターソン
** 駆逐艦:パターソン(戦死8、負傷11)

== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2}}


== 参考書籍 ==
== 参考書籍 ==
* [http://www.jacar.go.jp/index.html アジア歴史資料センター(公式)](防衛省防衛研究所)
*[[丹羽文雄]]『海戦』(中公文庫、ISBN 978-4-12-203698-7) 従軍記者として「鳥海」に同乗した丹羽が、作戦準備と戦闘の模様を活写している。
**Ref.C08030747300「昭和17年8月8日~昭和17年8月9日 軍艦鳥海第1次ソロモン海戦戦闘詳報(ツラギ海峡夜戦)(1)」
**Ref.C08030747400「昭和17年8月8日~昭和17年8月9日 軍艦鳥海第1次ソロモン海戦戦闘詳報(ツラギ海峡夜戦)(2)」
**Ref.C08030571500「昭和17年8月7日~昭和17年8月10日 軍艦加古戦闘詳報」
*[[丹羽文雄]]『海戦』(中公文庫、ISBN 978-4-12-203698-7<br> 従軍記者として「鳥海」に同乗・負傷した丹羽が、作戦準備と戦闘の模様を活写している。
*佐藤和正『太平洋海戦2 激闘篇』ISBN 4-06-203742-4
*佐藤和正『太平洋海戦2 激闘篇』ISBN 4-06-203742-4
*雑誌「丸」編集部編『写真集・日本の重巡<small>「古鷹」から「筑摩」まで全18隻の全て</small>』(光人社、1972)146-149頁。掛札健次「鳥海」見張員
*亀井宏『ガダルカナル戦記 <small>第一巻</small>』(光人社、1994)<br> 鳥海砲術長、鳥海水雷長、青葉主砲発令所勤務兵、青葉電報伝令兵、丹波文雄の証言がおさめられている。
*デニス・ウォーナー/ペギー・ウォーナー著 妹尾作太男翻訳『摑めなかった勝機 <small>サボ島海戦50年目の雪辱</small>』(光人社、1994)<br> 米軍側から見た本海戦。第八艦隊参加者の証言の他、海外公文書館の資料も列挙。
*高橋雄次『鉄底海峡<small>重巡「加古」艦長回想記</small>』(光人社、1994)
*[[吉田俊雄]]『四人の連合艦隊司令長官』(文春文庫、1995)
*諏訪繁治『わが重巡「鳥海」奮戦す』(光人社、2006)第一次ソロモン海戦参加。


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
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* [[海軍]] - [[大日本帝国海軍]]- [[アメリカ海軍]]
* [[海軍]] - [[大日本帝国海軍]]- [[アメリカ海軍]]


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[[cs:Bitva u ostrova Savo]]
[[cs:Bitva u ostrova Savo]]

2011年3月3日 (木) 10:04時点における版

第一次ソロモン海戦

探照灯に照らされる米海軍の重巡クインシー
戦争太平洋戦争
年月日:1942年8月8日-9日
場所:ソロモン諸島、サボ島周辺
結果:日本の勝利
交戦勢力
大日本帝国 アメリカ合衆国
オーストラリア
イギリス
指導者・指揮官
三川軍一中将 クラッチレー少将
戦力
重巡洋艦5
軽巡洋艦2
駆逐艦1
重巡洋艦6
軽巡洋艦2
駆逐艦8
損害
重巡洋艦1沈没
重巡洋艦1小破
重巡洋艦4沈没
重巡洋艦1大破
駆逐艦2中破
ソロモン諸島の戦い

第一次ソロモン海戦(だいいちじソロモンかいせん)とは、太平洋戦争時、1942年8月8日~9日に日本海軍連合国軍(アメリカ海軍イギリス海軍オーストラリア海軍)の間で行われた海戦。連合軍の呼称はサボ島沖海戦 (Battle of Savo Island)。

背景

日本海軍軍令部はニューカレドニアフィジーサモア方面への進出作戦であるFS作戦をたてた。ミッドウェー海戦での敗北によりFS作戦は延期された。トラック諸島防衛と失った空母の航空兵力を補うためルンガ飛行場が建設された。連合国軍はガダルカナルに飛行場が建設されれば、アメリカとオーストラリアを遮断される恐れがあるため、連合国軍の絶対防衛権の死守とソロモン諸島を奪還するための足場確保と東部ニューギニアの戦いの間接的支援のため、ミッドウェー海戦後にソロモン諸島とサンタクルーズ諸島の奪還と確保が研究された。7月の上旬にはフランク・J・フレッチャー中将指揮の空母エンタープライズサラトガワスプを基幹とする空母部隊、リッチモンド・K・ターナー少将指揮の約19,000名からなる海兵師団と巡洋艦8隻、駆逐艦15隻、掃海艇5隻からなる上陸部隊と支援艦隊がフィジー諸島に集結した。

そして、8月7日早朝に海兵隊約3,000名を主力とするアメリカ軍がガダルカナル島および対岸のツラギ島に奇襲上陸した。これに対し、ツラギの日本軍守備隊は偵察部隊の飛行艇隊であった横浜空要員を含めて僅か400名にしか過ぎず、奇襲を受けた日本軍守備隊は0420(4時20分、以下時間は数字表記)に敵を「空母1隻、重巡4隻を含む20隻以上の機動部隊を含む上陸部隊」と通報した上で、この海域の警備を担当するために同年7月14日に新設されたばかりの第八艦隊に至急の救援を要請した。さらに0535には「戦艦1隻、巡洋艦3隻、駆逐艦15隻、輸送船多数」を報告した[1]。だが兵力差は圧倒的であり、0610に駐留していた横浜空司令からの「敵兵力大、最後の一兵まで守る、武運長久を祈る」との打電を最後に連絡は途絶し、守備隊はその日夕刻に玉砕した。ほぼ同時刻にガダルカナルにも米軍が上陸したが、これも奇襲となったため飛行場建設のために駐留していたガダルカナル島の日本軍守備隊は、情況連絡する余裕もなくガダルカナル島内陸部西方に撤退した。

ツラギからの緊急電を受けた日本海軍第八艦隊司令部は「有力なる敵機動部隊および上陸部隊出現」と判断し[2]、ただちに対応を開始した。第八艦隊の神重徳首席参謀と大前敏一参謀は陸軍第一七軍の司令部に飛び込み、寝ていた二見秋三郎参謀長を叩き起こして米軍の本格的な上陸部隊が反攻作戦が始まったことを知らせた[3]。第十一航空艦隊参謀高橋大佐は、事態を聞くと直ちに第二五航戦司令官山田定義少将と協議し、事の重大性を確認[4]。基地航空隊で機動部隊を、第八艦隊で残る水上部隊を駆逐し、その後に1個大隊程度の陸戦隊を投入すれば占領された地域を早期に奪回できると考えた。そこでラビ攻撃のために爆装していた第二五航戦と第四航空隊の合同部隊(一式陸攻27機)を航空魚雷に換装する時間もなく直ちに発進させ、台南空の零戦18機と合流させて米軍上陸部隊の迎撃に向かわせた[5]。この攻撃は飛行距離が長いため、米軍の迎撃による被害と燃料消費による不時着が予想された。そのため水上機母艦秋津洲」、駆逐艦「秋風」と「追風」(第八艦隊第二九駆逐隊所属)、二式大艇が乗員回収のためにツラギ方面へ派遣された[6]。同時に第八艦隊参謀神重徳大佐が発案した殴りこみ作戦が採用され、同艦隊は出撃準備を始めた。これは三川軍一中将旗下の第八艦隊旗艦重巡「鳥海」と、丁度アドミラルティ諸島付近を行動中でツラギからの緊急電によりラバウルに向かって南下していた五藤存知少将率いる第六戦隊の重巡4隻の計5隻でガダルカナル泊地に深夜攻撃をかける作戦であった。

しかしここでラバウルにいた第一八戦隊の軽巡「夕張」「天龍」と第二九駆逐隊の駆逐艦「夕凪」の3隻が同行を申し入れてきた。この戦隊は艦齢が古い艦で構成されており、また重巡戦隊に比べて速度も遅く練度も低いため一撃離脱の夜戦には足手まといになるとされ、当初の作戦計画ではラバウルに置いていく予定であった。だが第一八戦隊主席参謀篠原多磨夫中佐が膝詰談判を行いこれに根負けした三川中将が同行を許可することとなった[7]。但し、本来露払いとして艦隊前衛を務めるべき軽巡、駆逐艦であるこの3隻は夜戦の邪魔にならぬように艦隊最後尾に編入された。更にこの3艦は急遽参加が決まったため、隊内連絡に使う無線電話の設定が間に合わず[要出典]、作戦中は直接指示を受けられず苦労することとなる。

集合した兵力は一度も合同訓練を行ったことがなく、また回転整合[8]の余裕もないため、複雑な艦隊行動は不可能だった[9]。そこで第八艦隊作戦参謀神大佐は出撃前の作戦会議において、もっとも単純な戦法を取ることとして以下のように作戦の要点をまとめ、各部隊指揮官に説明した。

  • 第一目標は敵輸送船であること
  • 複雑な運動を避けて単縦陣による一航過の襲撃とする
  • 翌朝までに敵空母の攻撃圏外に避退すること(ミッドウェーの二の舞を避けるため)
  • ソロモン列島間の中央航路を通ってガダルカナル泊地まで進出する

この作戦計画に沿い、「鳥海」「夕張」「天龍」「夕凪」の4隻は14時30分、ラバウルを出撃した[10]。16時30分頃、第六戦隊(青葉、加古、古鷹、衣笠)と合流し、24ノットでガダルカナルを目指した[10]。鳥海水雷長は、乗艦していた報道班員の丹波文雄に「とても生還できない戦いだから艦を下りた方が良い」とすすめた[11]。また第八艦隊はガダルカナル、ツラギ奪還のために陸軍第一七軍司令部に陸軍兵力派遣を要請した。だが陸軍は東部ニューギニアのポートモスレビー攻略作戦に向けての準備を進めており、即座の判断が出来なかったため、海軍の申し出を断った[12]。そこで第八艦隊は佐世保鎮守府第五特別陸戦隊、呉鎮守府第三および第五特別陸戦隊から兵員590名をかきあつめ、輸送船「明神丸」、「宗谷」、敷設艦「津軽」、「第二一号掃海艇」をもってガダルカナル方面に投入することにした[13]

第八艦隊の作戦を聞いた大本営は、あまりにもリスクの高い作戦だとして懸念を表明した[14]。米艦隊の全貌もわからず、第八艦隊のどの艦もガダルカナル周辺で行動したこともなく、参加艦艇が統一陣形を組んだことすらなかった。だがミッドウェー海戦の敗北で海軍の士気が低下していることを憂慮した山本五十六は、「連合艦隊の命令ではない」ことを明かにした上で、出撃計画を承認した[15]

戦闘経過

日本軍の空襲

第八艦隊の出撃と相前後して、8月7日午前8時頃、ラバウルから敵空母攻撃のために台南空の零戦17機、第二五航戦の陸攻27機、第二航空隊の艦爆9機が相次いで出撃。11時頃ガダルカナル上空に達したが空母の姿はなく、ツラギ周辺の敵艦船攻撃に移った。しかし、ツラギ上空にはブーゲンビル島監視員からの報告を受けた敵戦闘機約60機が待ち受けており、第一次攻撃隊は駆逐艦一隻を小破させ戦闘機11機、艦爆1機を撃墜したものの、陸攻5機、零戦2機を喪失する損害を受けた。また、この戦闘で坂井三郎一飛曹が被弾し重傷を負いつつも辛うじてラバウルに帰投している。ただし、日本軍は敵戦闘機48機、爆撃機5、中型機1を撃墜と報告した[16]。第二次攻撃隊の艦爆9機は巡洋艦2隻の大破を報じたが[10]、4機が失われ、残る5機も予定どおりショートランド南東で着水した。米軍は急降下爆撃機10機撃墜を報じ[17]、駆逐艦「マグフォード」が大破した[18]。翌8月8日も零戦15機、陸攻23機で攻撃を仕掛けたが、駆逐艦「ジャービス」を大破、輸送船「ジョージ・F・エリオット」に陸攻一機が体当たりして船体放棄に追い込む戦果という戦果を挙げるも、陸攻18機未帰還、零戦1機自爆という大損害を被った。ただし、日本軍は7日と8日の戦果を合計し「輸送船9隻、巡洋艦2隻、駆逐艦1隻撃沈。輸送船2隻、巡洋艦3隻撃破」と主張している[19]

こうして日本軍の航空攻撃は失敗したが、サボ島から120海里離れたサンクリストバル島西端沖にいた米機動部隊指揮官フランク・J・フレッチャー少将は大きな不安を覚えた。彼は珊瑚海海戦ミッドウェー海戦で指揮下の空母2隻(レキシントンヨークタウン)を失っており、今また二日間の戦闘で戦闘機16機、急降下爆撃機1機、偵察機1機を失った[20]。フレッチャーは最初からガダルカナル島上陸作戦に反対であり、事前に海兵隊に対し二日間で撤退すると通告していた[21]。日本軍基地航空部隊の攻撃圏内に空母3隻を含む機動部隊を置くことに危機感を覚え、一旦攻撃圏外に退避することを決断[22]。南太平洋海軍部隊指揮官R・ゴームリー中将に対して撤退する旨を伝えると、その回答を待たず[23]、8日夕刻、上陸船団の上空援護を独断で放棄して南下した。ターナー少将と上陸部隊指揮官バンデグリフト少将は、警備部隊指揮官クラッチレー少将を重巡洋艦「オーストラリア」に招き、今後の行動を協議した。

突撃準備

進撃していた第八艦隊は一旦ブーゲンビル島東方海面で待機した。米潜水艦「S-38」は第八艦隊を発見し、司令部に「巡洋艦3隻、駆逐艦2隻」発見電報を発信した。この情報は8月8日午前7時38分に連合軍艦隊に届いた[24]。この時点で第八艦隊は敵状をおおむね戦艦1隻、巡洋艦4隻、駆逐艦9隻、輸送船15隻と判断し[25]していた。8月8日早朝、敵空母の位置を探るべく艦載水偵により索敵を開始した[10]。午前9時ごろ豪州双発哨戒爆撃機ロッキード・ハドソン(第32飛行隊ビル・シュタッツ軍曹)に発見された。敵味方識別信号をおくった哨戒機に対して第八艦隊は対空砲火で返答し[26]、北方に偽装針路をとった。シュタット機は、日本軍水上機が艦に収容されるのを見て「巡洋艦3隻、駆逐艦3隻、水上機母艦または砲艦2隻を含む8隻の艦隊」と誤認する[27]。この機は、水上偵察機を零戦を水上機に改造した二式水上戦闘機と誤認して退避していった。この時、「鳥海」は豪哨戒機が発した無線を傍受したと報告した[28]。シュタッツも電報を平文で繰り返したと証言しているが[29]、この電報は連合軍に共有されなかった。第八艦隊を発見したのはシュタッツ機だけではなく、米軍マーブ・ウィルマン中尉のハドソン機も発見している[30]。ウィルマンは「重巡洋艦2隻、軽巡洋艦2隻、小型艦1隻」を報告した[31]。ウィルマン機は搭載爆弾で鳥海を攻撃したが、命中しなかった[32]。さらに三番目のロイド・ミルン大尉機も第八艦隊を発見した。シュタッツ機は緊急報告のために帰路につき、途中ガダルカナル島砲撃に向かう日本軍潜水艦呂三三型潜水艦伊号第一二一潜水艦を発見。司令塔の「日の丸」を確認して爆撃を行ったが、全く損害を与えられなかった[33]。シュタッツ機は12時55分にミルン基地に帰投し、紅茶も飲まず[34]直ちに第八艦隊発見を報告した。3機の哨戒機から報告を受けたターナー少将は、シュタッツ機とウィルマン機の報告を比較して水上機母艦2隻が消えていることから、第八艦隊は水上機母艦を分離してラバウルに向かうものと判断した[31]。なお、モリソンでは帰還したシュタッツが紅茶の飲んでのんびりしていたと記述するが、実際には緊急報告が行われ[35]、さらに彼は紅茶が嫌いだった[36]

連合軍哨戒機が去った海で、第八艦隊は水偵部隊を回収したが、「加古」から発進した零式水上偵察機が未帰還となった[37]。三川は偵察機の報告から250浬圏内に敵機動部隊が見つからなかったため空襲を受けることはないと判断。午前11時ごろブーゲンビル水道に向かって進撃を開始し、13時30分過ぎに水道を無事通過すると中央航路に突入して行った[28]。この際、「鳥海」は九四式水上偵察機2機を対潜水艦警戒のため発進させ、ショートランド基地に向かわせている[28]。15時20分、艦隊は水平線上に煤煙を発見して針路を変えるが、これは当時の日本艦艇としては珍しく迷彩を施した水上機母艦「秋津洲」だった。第八艦隊は敵味方の区別がつかず緊張したが、「秋津洲」の方も第八艦隊を敵艦隊と思い覚悟をきめたという[38]。両者は16時30分頃にすれ違った。この時点で第八艦隊司令部は第二五航戦の「重巡1隻火災、軽巡2隻撃沈、駆逐艦2隻撃沈、輸送船10隻撃沈。輸送船1隻火災」という誤報戦果を受取った[39]。さらに米空母の所在が不明なこと、米輸送船団がガダルカナル島沖にいるという情報を得た[39]。そこで夜戦に関する詳細な戦闘要領を以下のように決定、各艦に通達した[39]

  • サボ島南側から突入しルンガ沖の主敵を雷撃後、ツラギ沖の敵を砲雷撃した後、サボ島北側から離脱する。
  • 突入は一航過とし、出来る限り速やかに空襲圏外に離脱する。突入時刻はを2330以前とし、翌日出時(0440)にはサボ島の120浬圏外に避退する。
  • 狭隘な水道内戦闘であるので混乱防止のために各艦距離1200メートルの単縦陣とし、反転突入は全く考慮しない
  • 使用速力は燃料消費率も考慮し26ノットとする。
  • 水偵をガダルカナル泊地に3機、ツラギ港外に1機進出させ吊光弾による背景照明を実施する。
  • 敵味方識別のためマスト両舷に白色吹流を掲げる
  • 右舷側への雷撃が多いと思われるので予備魚雷は全て右舷側に移すこと。

これらを伝え終えたうえで、日没後(16時30分)三川長官は以下のように戦闘前訓辞を発する。

帝国海軍ノ伝統タル夜戦ニオイテ必勝ヲ期シ突入セントス。各員冷静沈着ヨクソノ全力ヲツクスベシ

日本海軍第八艦隊は、重巡「鳥海」を旗艦として先頭に立て、同じく重巡「青葉」、「加古」、「古鷹」、「衣笠」、軽巡「天龍」、「夕張」、駆逐艦「夕凪」の順に航行し、16ノットに増速して一路ガダルカナル泊地を目指した。各艦の距離が1.2kmのため、縦列陣形は前後に延びた。17時00分、青葉偵察機より輸送船6隻炎上中との報告が入る[40]。「鳥海」では激戦に備え、航空燃料や爆雷を投棄した[41]。更にニュージョージア島を通過した21時00分、照明隊の水偵を各艦発進させた[40]。誰もが今夜こそ戦艦を沈めるのだと興奮していたという[42]

泊地突入を行なった艦艇は以下の通りである。

アメリカ軍の動向

アメリカの上陸部隊はその物資揚陸に手間取っており、どんなに急いでも9日早朝までかかる見込みであった。この輸送船団を護衛するために米水上部隊は以下の三群に分かれて泊地の3つの出入り口で警戒配備についていた。

  • 第62任務部隊(ターナー少将(米))部隊司令官
    • 南方部隊(V・A・C・クラッチレー少将(英)(水上部隊指揮官))サボ島とガ島の間の南水道警備
    • 北方部隊(フレデリック・F・リーフコール大佐(米))サボ島とフロリダ島の間の北水道警備
    • 東方部隊(スコット少将(米))ツラギ島東方とガ島の間のシーラーク水道警備
      • 軽巡「サン・ファン(米)」「ホバート(豪)」
      • 駆逐艦「モンセン(米)」「ブキャナン(米)」
    • 哨戒隊:駆逐艦「ラルフ・タルボット(米)」「ブルー(米)」サボ島南北水道外側に一隻ずつ前程哨戒配備。

戦力は圧倒的に上回ってはいたが、夜を徹して行なわれている物資揚陸作業と、日中の空襲により36時間にわたって戦闘配置が続けられており乗員の疲労は厳しいものがあった[43]。また、8日午前中にブーゲンビル島近海で哨戒機3機が発見した日本艦隊について連合軍には三通の情報がもたらされたが、「ラバウルへ向かう」或いは「島嶼間の移動」と判断され、対策を怠った[44]。空母エンタープライズワスプでは、第八艦隊を攻撃するかどうかで議論が起こった[45]

当時、南方部隊旗艦「オーストラリア」では、水上部隊指揮官クラッチレー少将がターナー司令官と上陸部隊指揮官バンデグリフト少将と作戦会議を行なうためにツラギ港外の旗艦輸送船「マーコレー」に向かっており、第八艦隊突入時は戦列から離れていた。そのためクラッチレー少将に代わり、一時的に米重巡「シカゴ」艦長ハワード・D・ボード大佐が南方部隊の指揮を取っていた。しかしクラッチレーは統一指揮権を誰にも移譲せぬまま戦列を離れており、これが後に連合軍の情報共有の欠如として現れることとなる。

連合軍指揮官達は、第八艦隊を迎撃するために米・豪州艦隊を派遣する案を早々に放棄した[46]。輸送船団が丸裸になるからである。更にターナー司令官は上述の偵察機の情報より日本艦隊はガダルカナル島ではなく水上機基地建設のためイザベル島に向かっていると判断しており、万が一日本艦隊が突入してきても護衛部隊で撃退できるであろうと楽観していたた。これにより、作戦会議の議題はフレッチャーの機動部隊の離脱により上空援護のなくなってしまったこの泊地での揚陸作業を如何に早く終わらせるかということに集中していた。9日朝に予想される輸送船団の撤収後、水上部隊で迎撃する案が検討されたが、ターナーは日本艦隊に関する情報が得られるまで決定を先のばしにした[46]。「恐怖のターナー」「米海軍のパットン将軍」と渾名されたターナーにしては珍しい決定だった[47]

泊地突入

日本海軍艦隊の侵入路

この日の月出は日付変更後0159で、夜戦当夜は暗闇だった[48]。2220、「鳥海」偵察機がサボ島南に軽巡洋艦3隻確認と報告[40]。「鳥海」偵察機はガダルカナル泊地に輸送船20隻[49]、「加古」偵察機はツラギ泊地に輸送船10隻を確認したが[50]、母艦に確認したかは不明。2240、第八艦隊はサボ島南方水道に突入を始めた。2243、旗艦「鳥海」見張員が右舷側距離9000mに敵艦を発見、直ちに三川長官が「戦闘」を下令。この発見した敵艦は連合軍哨戒隊の駆逐艦「ブルー」であった。しかし、「ブルー」は島影による電波の乱反射により装備していた旧式のレーダーで第八艦隊に気付かず、また同僚艦「ラルフ・タルボット」と誤認し[51]、遠ざかっていった。直後に今度は左舷前方に敵艦が現れた。これは同じく哨戒隊の駆逐艦「ラルフ・タルボット」でこの艦も第八艦隊に気付かず遠ざかっていった。この2艦は第八艦隊突入前の2145頃、ガ島泊地へ向けて低空で飛び去る敵味方不明の水偵1機を目撃して全艦隊へ警報を発していたが、応答はなかった[52]。「サン・ファン」はレーダーで水偵を探知したが、飛行機と船の区別がつかず、行動を起こさなかった。「キャンベラ」は飛行機の爆音を聞いたが、味方機と間違えた。唯一副長が起きて、艦の見張り所に入った[53]。「ビンセンス」も同様であり、艦長は休憩室に下がった[53]。突入当時の天候は曇、東南東の風5メートル、視程10kmであったという。

サボ島南方に到達した2331、三川長官により「全軍突撃せよ」が下令され全艦一斉に襲撃運動に入った[54]。この下令直後、「鳥海」の見張員が左舷約15,000mに駆逐艦「ジャービス」を発見(鳥海はアキリーズ型軽巡洋艦と誤認[54])。4,500mまで接近した後「鳥海」は魚雷4本を発射したがこれは命中しなかった。古鷹も魚雷4発を発射し、同じく命中しなかった[55]。この発射直後に今度は右舷方向に巡洋艦2隻を発見。2343、水偵に命じて吊光弾による背景照明を行なわせた[56]。そして先頭艦の豪重巡「キャンベラ」に向けて2347、距離3,700mで魚雷を4本発射。2本の命中を確認後(轟沈と誤認[56])、主砲10門による射撃を開始し多数を命中させた。後続の重巡4隻も「キャンベラ」と米重巡「シカゴ」、これらに随伴していた米駆逐艦「パターソン」に向けて砲雷撃を開始していた。日本艦隊は主砲に加えて高角砲と25㎜機銃の水平射撃を行い[57]、「キャンベラ」と「シカゴ」を圧倒した。

一方で米軍は「パターソン」が接近する第八艦隊を発見、直ちに警報を全軍に送るとともに照明弾を打ち上げ主砲により応戦を開始したが、間もなく「天龍」の探照灯射撃を受け、艦橋、第3、4砲塔に命中[58]。艦長が戦死し中破した「パターソン」は戦列を離脱していった。「パターソン」は最上型重巡洋艦神通型巡洋艦香取型練習巡洋艦と交戦したと報告したが、実際は古鷹、天龍、夕張だった[58]。この際、「夕張」に反撃し命中弾を与えている[59]。「古鷹」と「天龍」も「パターソン」を撃沈したと思い込んだ[58]

「キャンベラ」は「パターソン」の警報により即座に「総員戦闘配置」が下令されたが、この配置が完了する前に「鳥海」が放った魚雷2本が命中。息つく暇もなく20センチ砲弾を雨霰と浴びせられ、僅か3分間で2本の魚雷と28発の20センチ砲弾を浴びて航行不能に陥った。搭載航空機も炎上した[60]。艦長は致命傷を負い、治療を断って部下の救助を優先させた[61]。「シカゴ」も警報と同時に対応を始め、少なくとも2本の魚雷を回避し、艦首と右舷に照明弾を発射した[62]。さらに探照灯照射を行ったところ、左舷艦首に魚雷1本が命中。直径5mの大穴が空いて浸水が始まると続いて砲撃を浴びせられ、艦上構造物が破壊されていった。別の魚雷一発が右舷に命中したが、これは不発だった[63]。シカゴは25ktを発揮してスコールの中に逃げ込んだ[64]

随伴の米駆逐艦「バッグレイ」は敵発見と同時に左急回頭を行い戦闘配置についた。天龍、夕張、古鷹、衣笠を「天龍型軽巡」2隻、「妙高型重巡洋艦」2隻と誤認し、魚雷4発を発射[65]。だが日本軍からの砲撃はなく、また行なった砲雷撃は「夕張」に命中した一発の盲弾を除いて外れたため、完全に戦闘の蚊帳の外であった。

こうして連合軍南方部隊は壊滅し、第八艦隊はツラギ港外に向かった。「パターソン」が第八艦隊を発見してから戦闘が終了するまでの間僅か6分、第八艦隊は「天龍」と「夕張」が被弾した以外全く被弾せず、一方的な攻撃に終始した。鳥海と第六戦隊は魚雷17本を発射し、2本が命中した。ただ、駆逐艦「夕凪」が電源故障により自艦位置不明となり、「夕張」と衝突しかけた。「夕凪」は単艦行動し、キャンベラ(オマハ級軽巡洋艦と誤認)に魚雷6発を発射し、撃沈したと信じて[66]戦闘海域から離脱した。「天龍」では羅針儀が振動で故障して自艦針路不明となり、また「古鷹」が「キャンベラ」との衝突を避けるために変針し、これに従った「天龍」「夕張」と共に「鳥海」等とは別行動をとることになった。二手に分かれて北上した第八艦隊であったが、これが後に思いもかけない効果を生む。

「鳥海」は「キャンベラ」に対して雷撃を終えた直後、艦首左方向に全く別の敵部隊がいるのを発見。これに対して探照灯を照射して敵部隊の全貌を明らかにするとともに味方に対して注意を促し、突撃に移った[56]。新たに現れたこの部隊は米重巡「ヴィンセンス」艦長リーフコール大佐率いる連合軍北方部隊であった。「ヴィンセンス」は南方部隊と違って、砲撃準備を整えていた[67]。リーフコールは射撃指揮官アダムス少佐に艦橋を任せて仮眠に入っており、第八艦隊と南方部隊の戦闘の砲火を見た「ヴィンセンス」見張員の報告によって叩き起こされた。リーフコールはスリッパのまま艦橋に戻り、自分の眼でその砲火を確かめた。先述した統一指揮権の問題により南方部隊の状況が全く不明であったため、それを南方部隊によるガ島への艦砲射撃か、侵入してきた少数の日本駆逐艦と南方部隊の戦闘であろうと思い、「オーストラリア」に乗るクラッチレー提督に連絡をとろうとした[68]。そこへ突然左舷後方から「鳥海」の探照灯により照射された。彼は味方が混乱して自艦隊を照射したのだろうと思い、隊内無線電話で後方の照射艦に対し「照射を止めよ、われ味方なり」と通報、さらに旗流信号をあげた[69]。そして20ノットに増速して一旦態勢を立て直してから南方部隊の増援に赴こうとしていた。彼にとって誤算だったのは、後方から接近していたのは第八艦隊主力の重巡4隻だったことである。

2353、「鳥海」はまず一番近い北方部隊3番艦の米重巡「アストリア」(鳥海はサンフランシスコ型と誤認[56])に対し距離5000mで主砲を斉射、すぐに命中弾を得た[56]。また、後続の各艦も次々と「アストリア」に対して砲撃を加え、完全に機先を制された「アストリア」は一方的に攻撃を受けた。アストリアは「鳥海」に向けて二斉射を放ったが、艦長は友軍艦を射撃していると考え、射撃をやめさせた[70]。友軍艦の正体に気付いた時は既に遅く、「アストリア」は多数の20cm砲弾を被弾した。「衣笠」に対して射撃した砲弾が「鳥海」の一番砲塔を破壊したが、それ以上の戦果を出すことはなく、翌朝転覆沈没した。「アストリア」に対して有効な打撃を与えたと判断した「鳥海」は2番艦米重巡「クインシー」に対して砲撃を開始する。3斉射目で「クインシー」は艦中央部の艦載機に直撃弾を受けこれが炎上。格好の標的となった。これが8月9日0004頃の出来事である[48]。多数の命中弾を浴び、炎上していたところに先の南方部隊との戦闘で分離した「古鷹」以下3隻が左舷方向から突入してきた。「古鷹」隊は「鳥海」が照射した敵艦隊を認めて突入して来たのである。北方部隊は右舷側から「鳥海」隊に、左舷側から「古鷹」隊に挟撃される形となってしまった。

「古鷹」隊は火災を起こしていた「アストリア」に対して砲撃を浴びせると「クインシー」に対して砲雷撃を開始。この放った魚雷が「クインシー」左舷に命中。「クインシー」は被弾しつつも「鳥海」目掛けて砲撃をしながら突撃したが、艦載機が炎上し、これが好目標となって砲弾が集中し、翌9日0035、左に転覆、沈没した。残った一番艦「ヴィンセンス」は第八艦隊の砲撃を浴び、やはり艦載機が炎上。集中砲火を浴びたため面舵反転。「衣笠」を砲撃し、これを撃沈したと信じた[71]。「衣笠」は操舵装置に損害を受け、主機械での操舵を余儀なくされた[71]。直後、「鳥海」隊から発射された魚雷が3本左舷に立て続けに命中、さらに「夕張」が発射した魚雷のうち1本が命中し翌9日0003、航行不能に陥った。この後も更に砲撃を浴び、「青葉」の発射した20cm砲弾が艦橋と艦首脳を吹き飛ばした[72]。0050、転覆沈没した。日本軍ではこの間に重巡「衣笠」がツラギ港外の輸送船団目掛けて長距離調定した魚雷4本を発射したがこれは命中しなかった。さらに0005分には鳥海の一番砲塔が「アストリア」の主砲弾直撃で破壊され[73]、後部艦橋には「クインシー」の主砲弾が命中[74][48]。青葉でも小火災が発生した。また、北方部隊随伴の「ヘルム」「ウィルソン」はいち早く南方部隊の応援に駆けつけるべく航行していた所、日本艦隊と高速ですれ違った。あわてて反転してこれを追うも間に合わず、両艦とも無傷であったものの戦闘に殆ど参加できなかった。

8月9日0012、「鳥海」は主砲38斉射302発、高角砲120発、魚雷8本の発射を記録して[75]射撃を中止した[48]。0023、三川長官は戦闘終了と判断、「全軍引け」の命令を下す。バラバラになっていた各艦は単縦陣を作り直し、サボ島北方の集結地点に移動し始めた。軽巡「天龍」と「夕張」も集結すべく航行していたが、そこへ哨戒隊の一艦、米駆逐艦「ラルフ・タルボット」が出現した。同艦は米駆逐艦「ウィルソン」から逃れるために隊内無線通話で「友軍から砲撃されている」と放送していた[76]。「天龍」と「夕張」は直ちに「ラルフ・タルボット」に対して探照灯射撃を開始[77]。砲撃を受けた「ラルフ・タルボット」は利根型重巡洋艦から砲撃されているとし、即座に魚雷4本を発射した[77]。だが軽巡洋艦2隻には勝てなかった。「ラルフ・タルボット」は立て続けに命中弾を浴び、主砲塔は8発を撃った時点で破壊され、魚雷発射管、海図室、アイスクリームを積んだ食糧庫も吹き飛んで操舵不能・傾斜20度となった。幸運なことにスコールに包まれたため、よろめきながら離脱することが出来た。

艦隊反転せず

海戦は日本軍の大勝利に終わり初期に離脱した「夕凪」も含めてサボ島北方で集結した第八艦隊では、一つの議論が「鳥海」の艦隊司令部で起きていた。第八艦隊再突入問題である。大きく分けて意見は二つあり、「艦隊はほぼ無傷であり、直ちに反転して連合軍輸送船団攻撃に向かうべし」、という泊地再突入論と「上空援護がない限り、艦上機の攻撃を受ける愚を犯すべきではない」という早期撤退論であった。「鳥海」艦長早川幹夫大佐が、「眼前の大輸送船団を放置して帰れば、飛行基地は敵の手に陥って、大変なことになる。司令部は旗艦を他に移して帰れ。鳥海一艦で敵輸送船団を撃滅する」と、特に前者を強く主張したが[78]大西新蔵参謀長と神重徳先任参謀が後者を進言し[79]、結局後者を三川長官が容れて帰投命令を発した。殊勲の水上偵察機隊は、一旦ショートランド泊地に降りて燃料補給をおこない、日の出後に各艦に帰艦した。

「加古」撃沈

第八艦隊はソロモン中央水道を30ノットの高速で避退し、夜明けまでに無事攻撃圏外に達した。9日0800、三川長官は同隊の解列を命じ、第六戦隊の重巡4隻はニューアイルランド島西端のカビエンへ、「夕張」と「夕凪」はショートランド泊地へ、そして「鳥海」「天龍」はラバウル泊地へ各々分離して向かった。10日朝、第六戦隊はカビエンまで残り100浬のニューアイルランド島北方海域を航行していた。上空には「青葉」から発進した九四式水偵が1機前路警戒についており、既に味方の制空圏内でもあった。第六戦隊司令官五藤存知少将は各艦の速力を16ノットに落とさせ、対潜水艦運動である「之字運動」をやめさせていた[80]

7時10分、16ノットで航行していた重巡「加古」の見張り員が「右50度、1000m、魚のようなものがいる!」[81]と絶叫した時にはもう遅かった。加古艦長 高橋雄次大佐は即座に面舵としたが、外軸2軸運転だっため舵の効きが悪く[82]、結局「加古」の艦首、艦中央部、艦尾に1本ずつ、計3本が命中した。被雷した「加古」は僅か5分で沈没した。高橋の対処が素早かったために犠牲者は67名で済んだが、一瞬の気の緩みを衝かれた損害であった。救出された高橋に、五藤は自らの判断が誤りだったと謝罪している[83]。「加古」を雷撃したのは米潜水艦「S44(SS-155)」である。この潜水艦は潜望鏡を出さず、聴音を頼りに距離650mから魚雷4本を発射し、即座に退避していった[84]

結果と影響

探照灯を照射されるクインシー
炎上するキャンベラの救出、護衛をするブルー、パターソン
沈没するキャンベラ

本海戦では日本海軍が一方的な勝利を収め、その夜戦能力の高さを示した[85]。第八艦隊は「重巡洋艦4隻、軽巡洋艦1隻、駆逐艦6隻撃沈。軽巡洋艦1隻、駆逐艦2隻撃破」を主張した[86]。これを受けた大本営は、第二五航戦があげた誤認戦果をあわせ、「戦艦1隻、重巡洋艦4隻、軽巡洋艦4隻、輸送船10隻撃沈。重巡洋艦3隻、駆逐艦2隻、輸送船1隻撃破。戦闘機32機、爆撃機9機撃墜。航空機7機喪失、巡洋艦2隻損傷」と発表した。そして今海戦を「第一次ソロモン海戦」と発表する[87]

実際の戦果は、豪重巡洋艦「キャンベラ」、米重巡洋艦「アストリア」、「クインシー」、「ビンセンス」を撃沈し、重巡洋艦「シカゴ」、駆逐艦「ラルフ・タルボット」、「パターソン」が大破というものだった[88]。また翌日、駆逐艦「ジャービス」(戦死247)がターナーの命令に背いて独自に戦場を離脱し、第二五航空戦隊に撃沈された[89]。米軍は、この艦も第一ソロモン海戦の被害に加えている。連合軍艦隊は471発を発射して最低10発が命中した[90]

日本側の損害は、「鳥海」が一番砲塔と後部艦橋を破壊された。「青葉」は魚雷発射管が原因不明の故障を起こし、「風のため」に数箇所で火災が発生した。「加古」と「古鷹」については、被害報告はなかった。なお古鷹の戦闘詳報は戦後米国におくられ、返還されなかった[91]。「衣笠」は左舷舵取機室が故障し、第一機械室に火災が発生した。「天龍」と「夕張」の被害は最小だった。第八艦隊は1844発を発射し、159~223発を命中させた[92]

この攻撃では、本来の主目的であったはずの上陸船団への攻撃は行われなかったため、まだ揚陸されていなかった重装備などは無傷であった。だが連合軍は日本軍の攻撃を懸念し、輸送船団はレーダーや重装備を積みこんだまま退避した[93]。結果として、第八艦隊の攻撃は一定の効果をあげた。取り残された米軍海兵隊の物資は欠乏し、1日の食事は2食に制限されてしまう。このように海兵隊が危機に晒されるなか、米軍は膨大な軍需品のガダルカナル揚陸に成功し、飛行場および橋頭堡が強化された。まもなく敵飛行部隊が進出。米軍は、この基地をカクタス基地、飛行場はヘンダーソン飛行場と名づけた。日本軍のガダルカナル作戦失敗の最大原因である[要出典]。こういった見地から、この海戦は日本側の戦術的勝利、戦略的敗北(限定的な戦略的成功)となり、後の一連のソロモンの戦い(第二次ソロモン海戦第三次ソロモン海戦)に影響を与えることとなる。しかし、たとえ第八艦隊が揚陸物資と輸送船団を完全破壊したところで、連合軍の圧倒的物量と輸送能力、ガダルカナル島がオーストラリアに近いという地理的関係上、また零式艦上戦闘機の航続距離の関係から制空権掌握に限界があった以上、最終的な結果は変わらなかったという意見もある[94]

陸軍では、急遽ガダルカナル奪回作戦に当てられた陸軍第一七軍参謀長二見秋三郎少将は、「みかんを取りにいって、実を残して皮だけ取って帰ったか」と嘆いたという[要出典]。二見の日記には、第八艦隊が空母を恐れて退避した事への不満と、ポートモスレビーの占領を急がねばならないという決意が書かれている[95]。海軍では敵輸送船を結果として殲滅出来なかった(最終目的を果たさなかった)事に、当時大和型戦艦大和」に乗艦してトラックに赴いていた連合艦隊司令長官の山本五十六は激怒。後に海戦の功績明細書が八艦隊より提出された際、「こんなものに勲章をやれるか」とその報告書を握り潰そうとしたが、連合艦隊参謀の説得を受け功績を認めたという[96]。ただし、山本五十六は8月7日の三川が提出した第八艦隊の夜間強襲作戦に消極的であり、打って変わったような対応となった[79]

今後のガダルカナル島での戦いの帰趨を変える可能性があった船団への攻撃が行われなかった理由は、アメリカ空母部隊による航空攻撃への恐れより、早期退避の必要があったという有力な見方がある。「鳥海」の戦闘報告書は「小成に甘んじてしまった」と評している[97]海軍反省会では、海軍兵学校での伝統教育である海上決戦至上主義的心理が司令官の判断に与えた影響が大きかったのではないかと振り返っている。日本海軍は「艦隊決戦主義」を標方しており、輸送船破壊等の通商破壊活動を全く考慮しないという風土があった。その為、山本が指示した輸送船殲滅という目的の本質を八艦隊の幕僚は理解しておらず、山本自身も、輸送船破壊の目的と意図を八艦隊に説明しなかった為、結果として敵戦闘艦の殲滅だけで目的を達成したと八艦隊は勘違いしたという事である。

一方で、当時の永野修身軍令部総長が第八艦隊司令長官三川中将に対して「無理な注文かもしれんが日本は工業力が少ないから、極力艦を毀(こわ)さないようにして貰いたい」という注意を与えていたことが早期退避の決定に影響を与えたという説もある[98]。艦隊参謀であった大前敏一の戦後の証言によると「米空母部隊の無線交信が『鳥海』でも盛んに聞こえていたことが敵空母が近距離に存在していると判断する材料になり、早期撤退の結論に達した」ということであるが、敵機動部隊は南方洋上遠くにあり戦闘圏内にはいなかった。だが搭載索敵機を全て発進させてしまった第八艦隊に、米空母の不在を知ることは不可能だった。

また、この海戦勝利の影で夜戦での探照灯による照射砲撃が持つ危険性(照射艦が敵艦隊から集中砲撃を浴びる)というものが戦訓として考慮されなかった。重巡「鳥海」は小破で済んではいるが、20センチ砲弾6発(1番砲塔、艦橋3、煙突上部、マスト)、12.7センチ砲弾4発を被弾していた[99]。特に鳥海艦橋後方の作戦室を貫通した砲弾が炸裂していたら、壁一枚隔てて艦橋内にいた司令部メンバーはほぼ全員戦死していたであろうといわれている。実際、これらの盲弾の命中だけで艦は小破で済んでいるにもかかわらず鳥海だけで戦死34名、重軽傷48名という人的損害を出している。死傷者の中には第一砲塔内で戦死した15名の他、旗甲板で戦闘を観戦していた非戦闘配置員が多数含まれていた[100]

さらに青葉では、第二次戦闘中に機銃弾が魚雷に命中し、火災が発生した[101]。杉浦一等水兵の決死消火作業により火災は収まったが、轟沈の可能性もあった[102]。青葉の戦闘詳報は、この事について触れていない。

この海戦での鳥海の損傷が味方の大勝に隠れて軽視され、また連合軍の弾薬が粗悪なのを連合軍に気づかせぬ為にこの損傷結果を三川長官が緘口令を敷いて極秘にした結果が、第3次ソロモン海海戦での戦艦「比叡」喪失に結びつくこととなった。とはいえ、連合軍側でも弾薬の問題は気付いており、米重巡「シカゴ」が戦闘時に発射した照明弾は44発発射して僅か6発しか炸裂せず、また8日の航空攻撃で損傷、放棄された輸送船「ジョージ・F・エリオット」を処分するために米駆逐艦から発射された魚雷4本は全弾命中したにもかかわらず、炸裂したのは僅か一発であった。この弾薬問題はこの後も暫く米軍を悩ませるが、根本的な対策を取ったため一年もするとこの問題を解決して、以後問題は起きなくなったという。[要出典]

日本軍ではミッドウェーの大敗北で士気が下がっていたところにこの大勝利があり大いに士気が上がったという。この作戦立案をした神重徳大佐は「作戦の神様」として祭り上げられることとなり、後々の彼の立てた無謀な作戦も比較的容易に採用されるようになる。一方、日本軍航空隊で顕著だった戦果誤認問題は尾をひいた。輸送船1隻、駆逐艦2隻大破の戦果に「輸送船9隻、巡洋艦2隻、駆逐艦1隻撃沈。輸送船2隻、巡洋艦3隻撃破」と報告した日本軍航空隊の認識力は、台湾沖航空戦レイテ沖海戦に繋がったように、日本軍の作戦そのものに影響を与え続けた。

米軍はこの敗北に対してヘプバーン委員会として知られる米海軍の本海戦に関する公式の調査委員会が組織され、引き続いて海戦に関する報告書を作成し[103]た。委員会は1942年12月以降海戦に関わった殆どの連合軍将校から数ヶ月かけて事情聴取を行った。委員会は、唯一シカゴのボード艦長のみ懲戒処分にあたると勧告した。報告は他の連合軍将校達、すなわちフレッチャー、ターナー、マッケーン、クラッチレーの各提督とリーフコール艦長については処分を求めなかった。ターナー、クラッチレー、マッケーンの各提督の以後の経歴は本海戦の敗北や、その中での失策によって影響されなかった。しかしながらリーフコールは二度と艦長になることはなかった。ボードは、委員会の報告がとりわけ彼に対して批判的であると知ると、1943年4月19日にパナマ運河地帯にある基地で自殺を図り、翌日死亡した。

戦術的に完敗した米軍は苦渋に満ちており、戦後、太平洋戦史を纏めたS.E.モリソンは以下のようにこの海戦を纏めている

これこそ、アメリカ海軍がかつて被った最悪の敗北のひとつである。連合軍にとってガダルカナル上陸の美酒は一夜にして敗北の苦杯へと変わった。 — S.E. モリソン、アメリカ海軍作戦史

損害

日本

  • 沈没喪失
    • 重巡:加古
  • 小破
    • 重巡:鳥海(戦死34、負傷48)、青葉(戦死1、負傷1)、衣笠

連合軍

  • 沈没喪失
  • 大破
    • 重巡:シカゴ (USS Chicago, CA-29)
    • 駆逐艦:ラルフ・タルボット(戦死16、負傷23)
  • 中破
    • 駆逐艦:パターソン(戦死8、負傷11)

脚注

  1. ^ 亀井宏『ガダルカナル戦記 第一巻』(光人社、1994)99頁
  2. ^ 「軍艦加古戦闘詳報」第3画像
  3. ^ 亀井宏『ガダルカナル戦記 第一巻』347頁
  4. ^ 亀井宏『ガダルカナル戦記 第一巻』104頁
  5. ^ 亀井宏『ガダルカナル戦記 第一巻』105頁
  6. ^ 亀井宏『ガダルカナル戦記 第一巻』106-107頁
  7. ^ 亀井宏『ガダルカナル戦記 第一巻』122頁
  8. ^ 艦隊の速力を等一にするため、実際に艦隊が航行してスクリューの回転数を調整する。
  9. ^ 亀井宏『ガダルカナル戦記 第一巻』130-131頁
  10. ^ a b c d 「軍艦鳥海第1次ソロモン海戦戦闘詳報(1)」第3画像
  11. ^ 亀井宏『ガダルカナル戦記 第一巻』123-125頁
  12. ^ 亀井宏『ガダルカナル戦記 第一巻』118頁
  13. ^ 亀井宏『ガダルカナル戦記 第一巻』119頁
  14. ^ 『摑めなかった勝機』103頁
  15. ^ 『摑めなかった勝機』104頁
  16. ^ 亀井宏『ガダルカナル戦記 第一巻』107頁
  17. ^ 亀井宏『ガダルカナル戦記 第一巻』108頁
  18. ^ 『摑めなかった勝機』73頁
  19. ^ 高橋雄次『鉄底海峡』132頁
  20. ^ 『摑めなかった勝機』84頁
  21. ^ 『摑めなかった勝機』58頁
  22. ^ 亀井宏『ガダルカナル戦記 第一巻』135頁
  23. ^ 亀井宏『ガダルカナル戦記 第一巻』136頁
  24. ^ 『摑めなかった勝機』22頁
  25. ^ 亀井宏『ガダルカナル戦記 第一巻』133頁及び軍艦鳥海・軍艦加古戦闘詳報。
  26. ^ 『摑めなかった勝機』10頁
  27. ^ 『摑めなかった勝機』15頁
  28. ^ a b c 「軍艦鳥海第1次ソロモン海戦戦闘詳報(1)」第4画像
  29. ^ 『摑めなかった勝機』17頁
  30. ^ 『摑めなかった勝機』18頁
  31. ^ a b 『摑めなかった勝機』21頁
  32. ^ 『摑めなかった勝機』110頁
  33. ^ 『摑めなかった勝機』19頁
  34. ^ 『摑めなかった勝機』20頁
  35. ^ 『摑めなかった勝機』345頁
  36. ^ 『摑めなかった勝機』20頁
  37. ^ 「軍艦加古戦闘詳報」第6画像
  38. ^ 生出寿『ライオン艦長 黛治夫ある型破り指揮官の生涯』47頁。黛治夫は当時の秋津洲艦長。
  39. ^ a b c 「軍艦鳥海第1次ソロモン海戦戦闘詳報(1)」第5画像 引用エラー: 無効な <ref> タグ; name "鳥海報5"が異なる内容で複数回定義されています
  40. ^ a b c 「軍艦鳥海第1次ソロモン海戦戦闘詳報(1)」第6画像
  41. ^ 諏訪繁治『わが重巡「鳥海」奮戦す』133頁
  42. ^ 『摑めなかった勝機』119頁
  43. ^ 『摑めなかった勝機』25頁
  44. ^ 『摑めなかった勝機』24頁
  45. ^ 『摑めなかった勝機』26頁
  46. ^ a b 『摑めなかった勝機』29頁
  47. ^ 『摑めなかった勝機』46頁
  48. ^ a b c d 「軍艦鳥海第1次ソロモン海戦戦闘詳報(1)」第9画像
  49. ^ 「軍艦鳥海第1次ソロモン海戦戦闘詳報(1)」第13画像
  50. ^ 「軍艦加古戦闘詳報」第22画像
  51. ^ 『摑めなかった勝機』123頁
  52. ^ 『摑めなかった勝機』125頁
  53. ^ a b 『摑めなかった勝機』126頁
  54. ^ a b 「軍艦鳥海第1次ソロモン海戦戦闘詳報(1)」第7画像
  55. ^ 『摑めなかった勝機』136頁
  56. ^ a b c d e 「軍艦鳥海第1次ソロモン海戦戦闘詳報(1)」第8画像
  57. ^ 「軍艦加古戦闘詳報」第8画像
  58. ^ a b c 『摑めなかった勝機』142頁
  59. ^ 『摑めなかった勝機』143頁
  60. ^ 『摑めなかった勝機』159頁
  61. ^ 『摑めなかった勝機』152頁
  62. ^ 『摑めなかった勝機』162頁
  63. ^ 『摑めなかった勝機』164頁
  64. ^ 『摑めなかった勝機』166頁
  65. ^ 『摑めなかった勝機』168頁
  66. ^ 『摑めなかった勝機』172頁
  67. ^ 『摑めなかった勝機』177頁
  68. ^ 『摑めなかった勝機』182頁
  69. ^ 『摑めなかった勝機』184頁
  70. ^ 『摑めなかった勝機』229頁
  71. ^ a b 『摑めなかった勝機』187頁
  72. ^ 『摑めなかった勝機』215頁
  73. ^ 『摑めなかった勝機』241頁
  74. ^ 『摑めなかった勝機』214頁
  75. ^ 「軍艦鳥海第1次ソロモン海戦戦闘詳報(1)」第15画像
  76. ^ 『摑めなかった勝機』251頁
  77. ^ a b 『摑めなかった勝機』253頁
  78. ^ 亀井宏『ガダルカナル戦記 第一巻』165頁
  79. ^ a b 『摑めなかった勝機』364頁
  80. ^ 亀井宏『ガダルカナル戦記 第一巻』177頁
  81. ^ 高橋雄次『鉄底海峡』172頁
  82. ^ 高橋雄次『鉄底海峡』174頁
  83. ^ 高橋雄次『鉄底海峡』192頁
  84. ^ 亀井宏『ガダルカナル戦記 第一巻』179頁
  85. ^ 『摑めなかった勝機』337頁
  86. ^ 生出寿『ライオン艦長 黛治夫』50-51頁
  87. ^ 亀井宏『ガダルカナル戦記 第一巻』180頁
  88. ^ 『摑めなかった勝機』289頁
  89. ^ 『摑めなかった勝機』288頁
  90. ^ 『摑めなかった勝機』291頁
  91. ^ 『摑めなかった勝機』340頁
  92. ^ 『摑めなかった勝機』290頁
  93. ^ 亀井宏『ガダルカナル戦記 第一巻』181頁
  94. ^ 亀井宏『ガダルカナル戦記 第一巻』174頁
  95. ^ 亀井宏『ガダルカナル戦記 第一巻』350頁
  96. ^ 吉田俊雄『四人の連合艦隊司令長官』133頁
  97. ^ 「軍艦鳥海第1次ソロモン海戦戦闘詳報(1)」第20画像
  98. ^ 亀井宏『ガダルカナル戦記 第一巻』171-172頁
  99. ^ 「軍艦鳥海第1次ソロモン海戦戦闘詳報(1)」第18画像
  100. ^ 諏訪繁治『わが重巡「鳥海」奮戦す』149、166頁
  101. ^ 亀井宏『ガダルカナル戦記 第一巻』150頁
  102. ^ 亀井宏『ガダルカナル戦記 第一巻』151頁
  103. ^ 『摑めなかった勝機』297頁

参考書籍

  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • Ref.C08030747300「昭和17年8月8日~昭和17年8月9日 軍艦鳥海第1次ソロモン海戦戦闘詳報(ツラギ海峡夜戦)(1)」
    • Ref.C08030747400「昭和17年8月8日~昭和17年8月9日 軍艦鳥海第1次ソロモン海戦戦闘詳報(ツラギ海峡夜戦)(2)」
    • Ref.C08030571500「昭和17年8月7日~昭和17年8月10日 軍艦加古戦闘詳報」
  • 丹羽文雄『海戦』(中公文庫、ISBN 978-4-12-203698-7
     従軍記者として「鳥海」に同乗・負傷した丹羽が、作戦準備と戦闘の模様を活写している。
  • 佐藤和正『太平洋海戦2 激闘篇』ISBN 4-06-203742-4
  • 雑誌「丸」編集部編『写真集・日本の重巡「古鷹」から「筑摩」まで全18隻の全て』(光人社、1972)146-149頁。掛札健次「鳥海」見張員
  • 亀井宏『ガダルカナル戦記 第一巻』(光人社、1994)
     鳥海砲術長、鳥海水雷長、青葉主砲発令所勤務兵、青葉電報伝令兵、丹波文雄の証言がおさめられている。
  • デニス・ウォーナー/ペギー・ウォーナー著 妹尾作太男翻訳『摑めなかった勝機 サボ島海戦50年目の雪辱』(光人社、1994)
     米軍側から見た本海戦。第八艦隊参加者の証言の他、海外公文書館の資料も列挙。
  • 高橋雄次『鉄底海峡重巡「加古」艦長回想記』(光人社、1994)
  • 吉田俊雄『四人の連合艦隊司令長官』(文春文庫、1995)
  • 諏訪繁治『わが重巡「鳥海」奮戦す』(光人社、2006)第一次ソロモン海戦参加。

関連項目

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