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'''地図混乱地域'''とは一定の地域において、登記所の[[公]]と実際の土地の位置形状など著しく相違している地域を指し登記実務上の呼称して用いられ(出典:[[測量用語辞典]])
'''地図混乱地域'''(ちずこんらんちいき)とは一定の地域において、登記所に備え付けられている地図と実際の土地の位置形状が相違している地域をいう。必要に応じて'''公図混乱''''''字図混乱'''なども表記する。
[[画像:Kozu1.jpg|thumb|350px|地図混乱地域における公図の一部]]
== 概要 ==
不動産登記事項証明書(登記簿謄本)に記載されている土地が、実際には存在せず、[[法務局]]が管理する[[公図|地図]](地図に準ずる図面を含む)にも掲載されていない事例を主とする。具体的には、「地権者不明の土地」、「所在地不明の地番」、「複数の地番が重なり合う土地」などの事例がみられる。発生原因としては次の通り考えられる<ref>[[#森下1995|森下1995]] p.103</ref><ref name="dpj1">{{PDFlink|[http://www.dpj.or.jp/policy/houmu/images/090624pt_teigen.pdf 民主党 地籍調査・登記所備付地図整備の促進策に関する提言]}}</ref><ref>[[衆議院]][[予算委員会]]第三分科会 平成16年3月2日 法務省民事局長 房村精一政府参考人</ref>。
{{Quotation|*宅地造成で登記手続はされているが、その登記に対応する土地の位置区画が地図と現地とで相違しているもの。
*自作農創設特別措置法([[農地改革]]の根拠法)による、売り渡し図面の不備によるもの<ref group="†">全国に点在していた未開墾地13,000km²が6年間で測量され、約4千枚の地図が作られた。こうして約14万戸の[[自作農]]が生まれた。</ref><ref>[[#森下1997|森下1997]] p.24</ref>。
*民間による[[土地区画整理事業]]が途中で中止され、登記手続はされていないが現地の形状が変更されているもの。
*水害、地震、山崩れなどの災害の後、任意に土地を区画して居住したことによるもの。
*軍用地として強制買収された民有地が、境界不明のまま返還されたため、原状回復が不可能になったもの。
*地図自体が、作製当初からまったく現地の土地の位置区画を反映していないもの。}}


地図混乱地域にいては、以下に挙げる問題が懸念される。これらの発生により、地域住民の財産権や生活環境などが著しく侵害、制約される事態も招いている<ref name="dpj1" />。
== 主な発生要因 ==
{{Quotation|*土地の売買はもちろん、土地を担保とする融資が実行されにくい。
*[[土地改良事業]]や[[区画整理事業]]などによる登記手続の過程で起きるケース。
*同一の土地の上に複数の登記記録が存在する場合、地権者も複数存在することから、権利紛争の原因となる。
*[[がけ崩れ]]などの[[自然災害]]による[[地形]]変化を[[土地所有者]]が[[登記]]手続をせずに後々問題となるケース。
*官民境界が確定できず、自治体が管理する道路として収容されないため、地域内の私道部分には、自治体による道路整備や公共下水道の敷設が行われない。
*[[軍用地|旧軍用地]]として強制買収された民有地が、戦後に境界不明のまま返還され問題となったケース
*正確な土地の面積が不明なため、適正な固定資産税を課税できない。}}
*[[高度成長期]]を中心に急な[[宅地造成]]にともない、登記手続をしなかったために発生したケース<ref>莫大な費用と時間がかかる為に開発業者が行わず、[[法務局]]も確認をしなかった</ref>
*作成された公図自体が適切ではなく現地の位置や形状を反映していなかった為に発生したケース。


[[1979年]]([[昭和]]54年)に実施された法務局の調査によると、地図混乱地域は日本全国に831地区、面積781k㎡、40万筆あまり。地域内の土地所有者は14万人に及ぶことが分かった<ref>[[#森下1995|森下1995]] p.62</ref>。
== 主な発生地域 ==
*'''[[神奈川県]]'''
:[[川崎市]][[岡上地区]]


問題の解消には、地図の訂正が欠かせない。ただし、地域内の利害関係者全員が現況を認める(その土地に居住している人を所有権者とし、現況における境界線を採用する)ことが、その前提条件となる。一筆の土地に地権者が複数存在するこの地域で、関係者全員が現況を認めることは極めて困難であり、合意形成のための膨大な労力と時間が必要になる<ref>[http://www.zensokuren.or.jp/kozu.html 社団法人全国測量設計業協会連合会 公図混乱解消への道 -1万筆の境界線を追う- 著者:森下秀吉]</ref>。
*'''[[東京都]]'''
:[[港区 (東京都)|港区]][[六本木]]


== 時代背景 ==
*'''[[千葉県]]'''
[[太平洋戦争]]の終結直後の日本は、[[インフラストラクチャー|産業基盤]]が壊滅された状況下にあり、大多数の国民が衣食住に事欠いた困窮生活を強いられた。しかし、[[朝鮮戦争]]特需に始まる戦後の復興によって、人口が急増するとともに、所得や消費が急激に活発化されていった。1950年代半ばには、人口や産業の大都市圏への集中が進み、その結果による住宅需要も急増。「衣食足り、次はマイホーム」と、持ち家を夢見る多くの人が世にあふれる時期であった。一方、住宅が絶対的に不足する中で、良好な住宅地環境を形成するうえでの必要な計画および法整備は、大きく立ち遅れていた<ref>[[#森下1997|森下1997]] pp.10-11</ref>。
:[[船橋市]]・[[市川市]]境界の未確定地


そのような状況において、一部の宅地造成業者により、区画整理や地図訂正などの業務が適正に行われないままに、造成や販売が行われた事例が多発した。具体的には、見取り図的な山林原野の地図と、縮尺や精度の異なる平地部の地図が同時に利用され、現地照合を怠ったまま分筆され続け、土地の細分化が進められてきたのである<ref>[[#森下1997|森下1997]] pp.13-14</ref>。
*'''[[滋賀県]]'''

:[[大津市]][[住吉台 (滋賀県)|住吉台]]
== 地図と公図 ==
かつて、土地の大部分は農地であった。農地の売買は禁じられる一方、支配者がその農地を耕作する者から年貢を徴収し、その財源を賄っていた。そのため[[検地]]を行って、農業生産高を把握し、適切に年貢を徴収することが重要であった。[[大化の改新]]以降、班田収受の実行のために作られた「田図」を始め、江戸時代には「国絵図」「村絵図」「地引絵図」などが作成されたものの、[[街道]]、[[河川]]を俯瞰した見取図に過ぎなかった<ref>[[#森下1995|森下1995]] pp.26-27</ref>。

[[明治時代]]に入り、土地売買の自由が認められ、一筆の土地ごとに[[地券]](壬申地券)が発行された。この地券発行は[[地租改正]]のためである。収税を作物の生産高ではなく、土地そのものに課すことになり、全国的に土地調査、[[測量]]と地価確定がなされた。この結果、一筆の土地の位置、地番、区画形状、地目、面積、所有者を記載した[[小字|字]](あざ)単位の「[[字限図]]」(あざきりず、あざかぎりず)が作成された。これらの絵図は、土地台帳制度における旧土地台帳付属地図、すなわち「公図」の原型となった<ref>[[#森下1997|森下1997]] p.22</ref>。

当時における測量は、地元村民により1間ごとに印を付けた測量用の縄を用い、歩測や目測で行われた。生産性に乏しい山林原野については、ほとんど実測されず目測に頼った。 従って、現代の測量技術で土地の位置、形状、面積の測定を行った場合、大きな違いが出てくるのである<ref>[[#森下1995|森下1995]] pp.59-62</ref>。

[[1885年]](明治18年)から[[1889年]](同22年)にかけて、全国の約3分の1の土地について絵図の更正がなされ、新たに作成された地図は「地押調査図」(じおしちょうさず)と呼ばれた。地券制度は廃止され、土地台帳が課税台帳となり、この地押調査図(更正されなかった地域は旧来の字限図)が土地台帳付属地図、すなわち'''公図'''となった。

[[1960年]](昭和35年)、[[不動産登記法]]の改正により、土地の表示は土地台帳ではなく、登記簿の表題部に記載されることになった。これにより土地台帳及びその付属地図(公図)はその存在意義を失った。しかし、これまでの公図は、'''[[s:不動産登記法#14|不動産登記法第14条]]第1項に規定する地図'''<ref group="†">[[緯度]]や[[経度]]を基に、[[1951年]]以降に行われる各自治体の[[地籍調査]]から作成される正確な地図で、「'''14条地図'''」「'''14条1項地図'''」ともいう。もともと同法17条に規定されていたことから、かつては「'''17条地図'''」と呼称された。</ref>が整備されるまで、[[国土調査法]]に基づく「地籍図」や土地区画整理による「確定図」と併せて、地図に準ずるものと規定され、今なお法務局に保管されている<ref>[[#森下1997|森下1997]] p.136</ref>。

公図は、現代的な視点から見ると、信頼性に大きく欠ける地図である。とはいえ、土地の位置、形状、面積や境界線については一応の資料となり得る。そこで、公図が現状と異なる場合には、その部分の訂正を行わなければならない。ところが、[[高度経済成長]]期を中心に、一部の宅地造成業者により、この訂正を行うための利害関係者の同意書を得ることなく、宅地造成や販売が繰り返される事例が多発した。この結果として、地図混乱地域が続出することとなった。

== 地図混乱を解消した地域 ==
=== 万福寺 (川崎市麻生区) ===
[[小田急電鉄]][[小田急小田原線|小田原線]][[百合ヶ丘駅]]と[[新百合ヶ丘駅]]の中間に位置する、[[川崎市]][[麻生区]]内の住宅地区である。1961年(昭和36年)、宅地造成業者が当地区2.4haを買収し、隣接地1.8haの土地所有者の同意を得て、4.2haにまとめて開発された。

もともと14筆の土地で所有者は3人、地目は山林であった当地区は、宅地造成によって180筆、所有者113人の土地に生まれ変わった。が、所有者間の土地交換の手続きや工事実施計画が未完了のまま工事が施工されたため、時を経るに従って生活環境が向上する百合丘、新百合丘両団地に比べて、明らかに見劣りするようになった。

[[町内会]]の集会所も設けられず、[[水道]]は未整備。道路も[[私道]]で未舗装のまま。通過する自動車が増え、舞い上がるほこりと騒音振動に悩まされる毎日が続いたという。調査の結果、当地において法務局が管理する地図と現況が著しく食い違っている事実が判明。川崎市からは、現況通りに地図を修正し、私道を分筆したうえで寄付願を提出すれば、それを受理して道路整備を進める旨の回答が出た。

たまたま[[1984年]](昭和59年)に隣接する新百合丘地区の区画事業が完成した折であったことから、その測量の際に用いられた基準点を活用できた。当地全域180筆の境界画定を完了させ、測量作業を通じて地籍測量図を作成し、地籍更正登記申請、道路寄付申請を行った。こうして私道が市道化され、基盤整備が一気に進められることになった<ref>[[#森下1995|森下1995]] pp.83-90</ref>。

=== 観音原団地 (広島市東区) ===
[[山陽自動車道]][[広島東インターチェンジ|広島東IC]]南側、福田3丁目に位置する、[[広島市]][[東区_(広島市)|東区]]内の住宅地区である。宅地造成業者が当地区の山林や農地12haを買収し、350区画の宅地を造成した。

もともと山林24筆、農地53筆の土地で、所有者は50人あまりだった当団地は、宅地造成によってそれぞれ311筆、139筆に分筆され、合計450筆の土地に生まれ変わった。しかし、法務局にある古い公図を新しく描き変えるための地籍測量図の作成を怠った上に、宅地への転用手続きが済んでいない農地や国有地を勝手に取り込んで造成し、でたらめな地番をつけて販売した<ref group="†">農地法により、2ha以上の農地を転用する場合は、[[農林水産大臣]]による農地転用許可が必要となる。そのためには、畦畔(けいはん、あぜ道)や道路・水路の境界確定、農地所有者ごとに造成後の区画に合わせた測量と分筆、[[農業委員会]]への宅地転用許可申請を、それぞれ行わなければならない。</ref>。一方で法務局もこれを見抜けず、実態調査も行わずに登記申請を受け付けたという。

このために、登記簿に表示された地番の土地面積が実際とは食い違い、一つの宅地に複数の所有者が存在する事例や、79筆もの実際に存在しない土地が登記される事例がみられた。1970年代半ばから所有権をめぐる紛争が続発する中、地区内の私道を市道編入できず、上水道の敷設工事や道路の補修を私費で行わざるを得ないなど、日常生活に支障をきたすようになった。

この異常事態を解消するには、[[民法]]162条に基づき、土地購入後10年以上土地を占有する(その土地に住む)住民の所有権を確認したうえで、集団和解により新しい地図を作成しなければならない。そこで、[[1986年]](昭和61年)より4回にわたって、住民300人強が所有権の確認を求めて訴訟を提起。[[1991年]]([[平成]]3年)に広島地裁で判決が下り、原告住民の所有権が無事に確認された<ref>[[#森下1995|森下1995]] pp.90-98</ref>。

=== 蔵敷団地 (川崎市宮前区) ===
[[東名高速道路]][[東名川崎インターチェンジ|東名川崎IC]]北西1km、[[川崎市]][[宮前区]]菅生、犬蔵に広がる住宅地区である。[[多摩丘陵]]内の約20haに516区画の宅地が造成され、1100世帯が居住している。[[1962年]](昭和37年)からの2年間に、[[宅地造成等規制法]]に基づいて開発が行われた。

戦後の混乱期に農地解放で作成された公図が不正確だった上に、旧陸軍の演習地だった土地と民有地との境界もはっきりしなかった。このような中、宅地造成業者が実地測量をしないまま登記を行ったため、公図が現況と著しく食い違うこととなった。登記されながら、実際には存在しない土地(幽霊土地)も誕生、地区内に点在した。さらに、別の土地を見せながら架空の土地を売りつける詐欺事件まで発生した。権利上の混乱があるため、地区内の私道を市道寄付できず、何十年にわたって未舗装の砂利道のまま置かれてきた。下水道も整備されず、住民は困難を強いられてきた。土地建物の評価も低く、売買も思うようにできなかったという。

住民は1980年代初頭から解決に向けて活動を開始。過去の経緯はともかく、「実際に住宅を保有し居住している事実」をもって所有権者とし、現況における境界線を採用する方向で協議に入った。幽霊土地の所有者に登記抹消を説得したり、利害関係者の調整に手間取りながら、一人ひとりの地権者と話し合いを進め、土地の境界画定を行ってきた。この結果、約30年がかりで和解を成立。川崎市の実施する測量費用助成<ref>[http://www.city.kawasaki.jp/53/53kanri/home/sj_hp/sj_top/sj_top.htm 川崎市建設緑政局 川崎市測量助成制度]</ref>を受けて測量を完了させた<ref>[[#森下1997|森下1997]] pp.129-130</ref><ref>東京新聞1994年9月9日 宮前区の蔵敷団地 「公図混乱」12日に和解成立</ref><ref>神奈川新聞1994年9月9日 公図混乱地域の川崎・蔵敷団地 境界争い解決へ</ref>。

== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=†}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}

== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書
|editor = 森下秀吉
|year = 1995
|title = 地図の蘇生【公図混乱改称の記録】
|publisher = 毎日新聞社
|isbn = 4-620-31077-8
|ref = 森下1995
}}
*{{Cite book|和書
|editor = 森下秀吉
|year = 1997
|title = 解消した川崎の公図混乱
|publisher = 毎日新聞社
|isbn = 4-915966-30-5
|ref = 森下1997
}}


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
*[[住吉台 (大津市)]]
*[[法務局]]
*[[法治国家]]
*[[地籍調査]]
*[[地域紛争]]
*[[土地利用]]
*[[土地利用]]


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
*[http://www.dpj.or.jp/news/?num=15842 民主党「地図PT」が大津市住吉台の地図混乱域を視察]
*[http://www.eonet.ne.jp/~520sumiyosidai/ 住吉台 番整理協議会]
*[http://tochi.mlit.go.jp/tockok/know/heritage/ 国土交通省 国土調査課 19世紀の遺産 公図と地籍図の対比例]
*[http://www.eonet.ne.jp/~520sumiyosidai/ 大津市住吉台地図混乱地域 住民の活動]
*[http://www.city.kawasaki.jp/53/53kanri/home/sj_hp/sj_kaisyou/sj_kaisyou.htm 川崎市建設緑政局 道路 公図混乱はこのように解消されます!]

*{{PDFlink|[http://www.qsr.mlit.go.jp/n-event/kenkyu/pdf/iv-22.pdf 北九州国道事務所 字図混乱地域を集団和解により解決した事例]}}
== 脚注 ==
*{{PDFlink|[http://oita-kousyoku.jp/topics/chizukon.pdf 大分県公共嘱託登記土地家屋調査士協会 大分県公共嘱託登記土地家屋調査士協会 地図混乱地区の地図訂正]}}
<references/>


[[Category:社会問題|ちすこんらんちいき]]
{{DEFAULTSORT: ちすこんらんちいき}}
[[Category:登記|ちすこんらんちいき]]
[[Category:社会問題]]
[[Category:不動産|ちすこんらんちいき]]
[[Category:登記]]
[[Category:不動産]]

2011年3月15日 (火) 04:44時点における版

地図混乱地域(ちずこんらんちいき)とは、一定の地域において、登記所に備え付けられている地図と実際の土地の位置、形状が相違している地域をいう。必要に応じて公図混乱字図混乱などとも表記する。

地図混乱地域における公図の一部

概要

不動産登記事項証明書(登記簿謄本)に記載されている土地が、実際には存在せず、法務局が管理する地図(地図に準ずる図面を含む)にも掲載されていない事例を主とする。具体的には、「地権者不明の土地」、「所在地不明の地番」、「複数の地番が重なり合う土地」などの事例がみられる。発生原因としては次の通り考えられる[1][2][3]

*宅地造成で登記手続はされているが、その登記に対応する土地の位置区画が地図と現地とで相違しているもの。
  • 自作農創設特別措置法(農地改革の根拠法)による、売り渡し図面の不備によるもの[† 1][4]
  • 民間による土地区画整理事業が途中で中止され、登記手続はされていないが現地の形状が変更されているもの。
  • 水害、地震、山崩れなどの災害の後、任意に土地を区画して居住したことによるもの。
  • 軍用地として強制買収された民有地が、境界不明のまま返還されたため、原状回復が不可能になったもの。
  • 地図自体が、作製当初からまったく現地の土地の位置区画を反映していないもの。

地図混乱地域にいては、以下に挙げる問題が懸念される。これらの発生により、地域住民の財産権や生活環境などが著しく侵害、制約される事態も招いている[2]

*土地の売買はもちろん、土地を担保とする融資が実行されにくい。
  • 同一の土地の上に複数の登記記録が存在する場合、地権者も複数存在することから、権利紛争の原因となる。
  • 官民境界が確定できず、自治体が管理する道路として収容されないため、地域内の私道部分には、自治体による道路整備や公共下水道の敷設が行われない。
  • 正確な土地の面積が不明なため、適正な固定資産税を課税できない。

1979年昭和54年)に実施された法務局の調査によると、地図混乱地域は日本全国に831地区、面積781k㎡、40万筆あまり。地域内の土地所有者は14万人に及ぶことが分かった[5]

問題の解消には、地図の訂正が欠かせない。ただし、地域内の利害関係者全員が現況を認める(その土地に居住している人を所有権者とし、現況における境界線を採用する)ことが、その前提条件となる。一筆の土地に地権者が複数存在するこの地域で、関係者全員が現況を認めることは極めて困難であり、合意形成のための膨大な労力と時間が必要になる[6]

時代背景

太平洋戦争の終結直後の日本は、産業基盤が壊滅された状況下にあり、大多数の国民が衣食住に事欠いた困窮生活を強いられた。しかし、朝鮮戦争特需に始まる戦後の復興によって、人口が急増するとともに、所得や消費が急激に活発化されていった。1950年代半ばには、人口や産業の大都市圏への集中が進み、その結果による住宅需要も急増。「衣食足り、次はマイホーム」と、持ち家を夢見る多くの人が世にあふれる時期であった。一方、住宅が絶対的に不足する中で、良好な住宅地環境を形成するうえでの必要な計画および法整備は、大きく立ち遅れていた[7]

そのような状況において、一部の宅地造成業者により、区画整理や地図訂正などの業務が適正に行われないままに、造成や販売が行われた事例が多発した。具体的には、見取り図的な山林原野の地図と、縮尺や精度の異なる平地部の地図が同時に利用され、現地照合を怠ったまま分筆され続け、土地の細分化が進められてきたのである[8]

地図と公図

かつて、土地の大部分は農地であった。農地の売買は禁じられる一方、支配者がその農地を耕作する者から年貢を徴収し、その財源を賄っていた。そのため検地を行って、農業生産高を把握し、適切に年貢を徴収することが重要であった。大化の改新以降、班田収受の実行のために作られた「田図」を始め、江戸時代には「国絵図」「村絵図」「地引絵図」などが作成されたものの、街道河川を俯瞰した見取図に過ぎなかった[9]

明治時代に入り、土地売買の自由が認められ、一筆の土地ごとに地券(壬申地券)が発行された。この地券発行は地租改正のためである。収税を作物の生産高ではなく、土地そのものに課すことになり、全国的に土地調査、測量と地価確定がなされた。この結果、一筆の土地の位置、地番、区画形状、地目、面積、所有者を記載した(あざ)単位の「字限図」(あざきりず、あざかぎりず)が作成された。これらの絵図は、土地台帳制度における旧土地台帳付属地図、すなわち「公図」の原型となった[10]

当時における測量は、地元村民により1間ごとに印を付けた測量用の縄を用い、歩測や目測で行われた。生産性に乏しい山林原野については、ほとんど実測されず目測に頼った。 従って、現代の測量技術で土地の位置、形状、面積の測定を行った場合、大きな違いが出てくるのである[11]

1885年(明治18年)から1889年(同22年)にかけて、全国の約3分の1の土地について絵図の更正がなされ、新たに作成された地図は「地押調査図」(じおしちょうさず)と呼ばれた。地券制度は廃止され、土地台帳が課税台帳となり、この地押調査図(更正されなかった地域は旧来の字限図)が土地台帳付属地図、すなわち公図となった。

1960年(昭和35年)、不動産登記法の改正により、土地の表示は土地台帳ではなく、登記簿の表題部に記載されることになった。これにより土地台帳及びその付属地図(公図)はその存在意義を失った。しかし、これまでの公図は、不動産登記法第14条第1項に規定する地図[† 2]が整備されるまで、国土調査法に基づく「地籍図」や土地区画整理による「確定図」と併せて、地図に準ずるものと規定され、今なお法務局に保管されている[12]

公図は、現代的な視点から見ると、信頼性に大きく欠ける地図である。とはいえ、土地の位置、形状、面積や境界線については一応の資料となり得る。そこで、公図が現状と異なる場合には、その部分の訂正を行わなければならない。ところが、高度経済成長期を中心に、一部の宅地造成業者により、この訂正を行うための利害関係者の同意書を得ることなく、宅地造成や販売が繰り返される事例が多発した。この結果として、地図混乱地域が続出することとなった。

地図混乱を解消した地域

万福寺 (川崎市麻生区)

小田急電鉄小田原線百合ヶ丘駅新百合ヶ丘駅の中間に位置する、川崎市麻生区内の住宅地区である。1961年(昭和36年)、宅地造成業者が当地区2.4haを買収し、隣接地1.8haの土地所有者の同意を得て、4.2haにまとめて開発された。

もともと14筆の土地で所有者は3人、地目は山林であった当地区は、宅地造成によって180筆、所有者113人の土地に生まれ変わった。が、所有者間の土地交換の手続きや工事実施計画が未完了のまま工事が施工されたため、時を経るに従って生活環境が向上する百合丘、新百合丘両団地に比べて、明らかに見劣りするようになった。

町内会の集会所も設けられず、水道は未整備。道路も私道で未舗装のまま。通過する自動車が増え、舞い上がるほこりと騒音振動に悩まされる毎日が続いたという。調査の結果、当地において法務局が管理する地図と現況が著しく食い違っている事実が判明。川崎市からは、現況通りに地図を修正し、私道を分筆したうえで寄付願を提出すれば、それを受理して道路整備を進める旨の回答が出た。

たまたま1984年(昭和59年)に隣接する新百合丘地区の区画事業が完成した折であったことから、その測量の際に用いられた基準点を活用できた。当地全域180筆の境界画定を完了させ、測量作業を通じて地籍測量図を作成し、地籍更正登記申請、道路寄付申請を行った。こうして私道が市道化され、基盤整備が一気に進められることになった[13]

観音原団地 (広島市東区)

山陽自動車道広島東IC南側、福田3丁目に位置する、広島市東区内の住宅地区である。宅地造成業者が当地区の山林や農地12haを買収し、350区画の宅地を造成した。

もともと山林24筆、農地53筆の土地で、所有者は50人あまりだった当団地は、宅地造成によってそれぞれ311筆、139筆に分筆され、合計450筆の土地に生まれ変わった。しかし、法務局にある古い公図を新しく描き変えるための地籍測量図の作成を怠った上に、宅地への転用手続きが済んでいない農地や国有地を勝手に取り込んで造成し、でたらめな地番をつけて販売した[† 3]。一方で法務局もこれを見抜けず、実態調査も行わずに登記申請を受け付けたという。

このために、登記簿に表示された地番の土地面積が実際とは食い違い、一つの宅地に複数の所有者が存在する事例や、79筆もの実際に存在しない土地が登記される事例がみられた。1970年代半ばから所有権をめぐる紛争が続発する中、地区内の私道を市道編入できず、上水道の敷設工事や道路の補修を私費で行わざるを得ないなど、日常生活に支障をきたすようになった。

この異常事態を解消するには、民法162条に基づき、土地購入後10年以上土地を占有する(その土地に住む)住民の所有権を確認したうえで、集団和解により新しい地図を作成しなければならない。そこで、1986年(昭和61年)より4回にわたって、住民300人強が所有権の確認を求めて訴訟を提起。1991年平成3年)に広島地裁で判決が下り、原告住民の所有権が無事に確認された[14]

蔵敷団地 (川崎市宮前区)

東名高速道路東名川崎IC北西1km、川崎市宮前区菅生、犬蔵に広がる住宅地区である。多摩丘陵内の約20haに516区画の宅地が造成され、1100世帯が居住している。1962年(昭和37年)からの2年間に、宅地造成等規制法に基づいて開発が行われた。

戦後の混乱期に農地解放で作成された公図が不正確だった上に、旧陸軍の演習地だった土地と民有地との境界もはっきりしなかった。このような中、宅地造成業者が実地測量をしないまま登記を行ったため、公図が現況と著しく食い違うこととなった。登記されながら、実際には存在しない土地(幽霊土地)も誕生、地区内に点在した。さらに、別の土地を見せながら架空の土地を売りつける詐欺事件まで発生した。権利上の混乱があるため、地区内の私道を市道寄付できず、何十年にわたって未舗装の砂利道のまま置かれてきた。下水道も整備されず、住民は困難を強いられてきた。土地建物の評価も低く、売買も思うようにできなかったという。

住民は1980年代初頭から解決に向けて活動を開始。過去の経緯はともかく、「実際に住宅を保有し居住している事実」をもって所有権者とし、現況における境界線を採用する方向で協議に入った。幽霊土地の所有者に登記抹消を説得したり、利害関係者の調整に手間取りながら、一人ひとりの地権者と話し合いを進め、土地の境界画定を行ってきた。この結果、約30年がかりで和解を成立。川崎市の実施する測量費用助成[15]を受けて測量を完了させた[16][17][18]

脚注

注釈

  1. ^ 全国に点在していた未開墾地13,000km²が6年間で測量され、約4千枚の地図が作られた。こうして約14万戸の自作農が生まれた。
  2. ^ 緯度経度を基に、1951年以降に行われる各自治体の地籍調査から作成される正確な地図で、「14条地図」「14条1項地図」ともいう。もともと同法17条に規定されていたことから、かつては「17条地図」と呼称された。
  3. ^ 農地法により、2ha以上の農地を転用する場合は、農林水産大臣による農地転用許可が必要となる。そのためには、畦畔(けいはん、あぜ道)や道路・水路の境界確定、農地所有者ごとに造成後の区画に合わせた測量と分筆、農業委員会への宅地転用許可申請を、それぞれ行わなければならない。

出典

  1. ^ 森下1995 p.103
  2. ^ a b 民主党 地籍調査・登記所備付地図整備の促進策に関する提言 (PDF)
  3. ^ 衆議院予算委員会第三分科会 平成16年3月2日 法務省民事局長 房村精一政府参考人
  4. ^ 森下1997 p.24
  5. ^ 森下1995 p.62
  6. ^ 社団法人全国測量設計業協会連合会 公図混乱解消への道 -1万筆の境界線を追う- 著者:森下秀吉
  7. ^ 森下1997 pp.10-11
  8. ^ 森下1997 pp.13-14
  9. ^ 森下1995 pp.26-27
  10. ^ 森下1997 p.22
  11. ^ 森下1995 pp.59-62
  12. ^ 森下1997 p.136
  13. ^ 森下1995 pp.83-90
  14. ^ 森下1995 pp.90-98
  15. ^ 川崎市建設緑政局 川崎市測量助成制度
  16. ^ 森下1997 pp.129-130
  17. ^ 東京新聞1994年9月9日 宮前区の蔵敷団地 「公図混乱」12日に和解成立
  18. ^ 神奈川新聞1994年9月9日 公図混乱地域の川崎・蔵敷団地 境界争い解決へ

参考文献

  • 森下秀吉 編『地図の蘇生【公図混乱改称の記録】』毎日新聞社、1995年。ISBN 4-620-31077-8 
  • 森下秀吉 編『解消した川崎の公図混乱』毎日新聞社、1997年。ISBN 4-915966-30-5 

関連項目

外部リンク