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==人物評==
==人物評==
*橋本の兄貴分である竹下登元首相が生前、「怒る、威張る、拗ねるが橋本になければ、とっくの昔にアイツは総理になっていた」と揶揄したように、自民党屈指の政策通でありながら、鼻っ柱の強い性格のため、党内に積極的な支持者は少ない。
*橋本の兄貴分である竹下登元首相が生前、「怒る、威張る、拗ねるが橋本になければ、とっくの昔にアイツは総理になっていた」と揶揄したように、自民党屈指の政策通でありながら、鼻っ柱の強い性格のため、党内に積極的な支持者は少ない。

*「見識はあるが、人望はない」が党内での一般的な評価。何かわからないことを聞いたりすると「おや、そんなこともおわかりにならない?」、「あなたが知らないことを、どうして私が知っていると思うのです?」などと必ず嫌味な返答をする。花街で最も嫌われている政治家という不名誉な噂もある。


==主な政策==
==主な政策==

2005年9月13日 (火) 12:53時点における版

橋本 龍太郎(はしもと りゅうたろう、1937年7月29日 - )は、日本政治家、元衆議院議員で、第82代・第83代内閣総理大臣、第17代自由民主党総裁。慶應義塾大学法学部卒業。学位は法学士。保有する段位称号剣道錬士五段。東京都生まれ。端整なマスクとポマード頭が特徴で、ニックネームはハシリュウ高知県知事・橋本大二郎(元NHKキャスター)は異母弟。

略歴

  • 1956年麻布高等学校卒業。
  • 1960年慶應義塾大学法学部政治学科卒業(学位は法学士)。呉羽紡績(現、東洋紡績)に入社。
  • 1963年4月衆議院議員西村英一秘書。同年7月厚生大臣秘書官。同年11月、父の急死に伴い衆議院岡山2区より出馬。26歳で当選。
  • 1970年1月、第3次佐藤内閣の厚生政務次官。
  • 1976年12月、衆議院社会労働委員長。
  • 1977年11月、自民党政務調査会社会部会長。
  • 1978年12月、厚生大臣(第1次大平内閣)
  • 1985年2月、竹下登蔵相(当時)を中心とする創世会の結成に参加。副会長となる。
  • 1986年7月、運輸大臣(第3次中曽根内閣)
  • 1987年11月、自民党幹事長代理(竹下内閣)
  • 1989年6月、自民党幹事長(宇野内閣)。選挙後、辞任。同年8月、大蔵大臣(第1次海部俊樹内閣)
  • 1992年2月 自民党環境基本問題懇談会(後に環境基本問題調査会)会長。
  • 1993年 7月の衆議院総選挙における自民党の敗北・下野を受けて、河野洋平総裁の下、自民党政調会長に就任。
  • 1994年6月 通商産業大臣(村山内閣)
  • 1995年9月 自民党総裁選に出馬。河野総裁を不出馬に追い込み、河野総裁の代わりに対抗馬として立候補した小泉純一郎元厚相に大差をつけて第17代総裁に就任する。河野外相・副総理の後任として村山内閣の副総理を兼任。
  • 1996年1月、村山内閣退陣をうけ、後任の総理大臣に就任。
  • 1998年7月、参議院議員選挙の敗北を受けて辞任を表明した。 小渕内閣で外交最高顧問に就任。
  • 2000年7月 平成研究会会長就任。
  • 2000年12月、行政改革担当大臣・沖縄開発庁長官(第2次改造内閣)
  • 2001年1月には、省庁再編により行政改革担当大臣、沖縄・北方対策担当大臣に規制改革担当大臣を兼ねる。同年4月、森総裁の後任の自民党総裁選に出馬したが、小泉首相に敗れた。
  • 2004年7月、日本歯科医師連盟(日歯連)からの1億円献金疑惑が浮上し、平成研究会の会長を辞任し、同派から離脱。 次期総選挙での小選挙区岡山4区からの出馬を辞退する意向を示した。
  • 2005年8月衆院解散後、総選挙不出馬=政界引退を表明。14回連続当選。次男・岳が後継者となる。

人物像

  • 小児麻痺を患い苦学して慶應義塾大学を卒業、大蔵省を経て吉田学校の一員として文部大臣厚生大臣を歴任した父・橋本龍伍の意中の後継者は、弟・大二郎であり、本人も政界に進むつもりはなかった。
  • 作家の安部譲二とは麻布中時代の同級生である。
  • 初登院の時に母・正を連れて行ったことから、マスコミに「国会議員も母親同伴」と揶揄されたが、本人は、秘書代わりに選挙で苦労した母に対して、ねぎらいの気持ちから出た行動であると説明している。
  • 父は佐藤栄作と吉田学校の仲間であった関係で佐藤派に所属した。 69年(昭44)の総選挙では、選挙直前まで国会活動で多忙を極め、苦戦が予想されたが、自民党幹事長・田中角栄や佐藤派の中堅だった竹下登のてこ入れで3選を果たした。 この事により、佐藤派内で田中・竹下に傾倒することになり、佐藤引退を受けての総裁選挙では、恩師であり、父代わりとも言うべき佐藤が福田赳夫を支持するように示唆するのを断り、田中を支持することになる。
  • 典型的な厚生族議員としてキャリアを積む。一方で、水俣病患者に対して対応が冷酷・倣岸であるとの批判を浴びたりしたが、厚生族のドンとも言うべき存在になる。
  • 自民党政調会長の就任祝いに対して「何がめでたいものか」と野党の政策責任者に落ちぶれたことをぼやく。
  • 野党時代に小沢の「日本改造計画」に触発されて、「政権奪還論」を著す。
  • 趣味は、剣道登山写真など多彩。特に剣道は政界きっての腕前で、剣道錬士五段である。
  • 阪神タイガースの元監督・星野仙一は岡山の後輩にあたる。
  • 1996年ペルー日本大使公邸占拠事件の際、外務省の対策本部に木村屋のアンパンを大量に差し入れたことから、「アンパン総理」という蔑称が生まれた。
  • 大東亜戦争の意義について韓国・中国に対して謝罪外交をくり返し、小林よしのりから『足下総理』と一刀両断された。

人物評

  • 橋本の兄貴分である竹下登元首相が生前、「怒る、威張る、拗ねるが橋本になければ、とっくの昔にアイツは総理になっていた」と揶揄したように、自民党屈指の政策通でありながら、鼻っ柱の強い性格のため、党内に積極的な支持者は少ない。
  • 「見識はあるが、人望はない」が党内での一般的な評価。何かわからないことを聞いたりすると「おや、そんなこともおわかりにならない?」、「あなたが知らないことを、どうして私が知っていると思うのです?」などと必ず嫌味な返答をする。花街で最も嫌われている政治家という不名誉な噂もある。

主な政策

  • 運輸大臣(中曽根内閣)として、国鉄分割民営化の総仕上げを行った。
  • 自民党幹事長代理(竹下内閣)として、消費税導入や昭和天皇の大葬の礼に対して党側の実務を担当した。リクルート事件で、実力者が逼塞を余儀なくされる中、首相候補として取りざたされるようになる。
  • 大蔵大臣就任後(海部内閣)、政策通として海部内閣を実質副総理として支えた。この頃から、幹事長に就任した小沢一郎との間の「一龍戦争」が喧伝されはじめた。 湾岸戦争では90億ドルを拠出。(しかし、諸外国からは全く評価されず。) 加熱気味の不動産価格をソフトランディングするべく、不動産の総量規制を行うもバブル崩壊を招き引責辞任。
  • 首相在任中は、「六大改革」を唱え、構造改革・行政改革を進めていた。消費税率を5パーセントに上げるが、これは、消費を冷え込ませ、バブル経済崩壊後、緩やかに回復軌道に乗りつつあった日本経済の足を引っ張る結果になった。
    アメリカ合衆国から沖縄普天間基地移転についての同意を取り付けたが、代替の基地の場所や借用期限の問題でうまく進んでいない。対ロシア外交では、エリツィン大統領との間に個人的な信頼関係を結び、エリツィンの訪日を実現、川奈合意の実現を見た。
    しかし、長引く不況と失業率の増加に加え、選挙中の橋本の発言が二転三転したことに国民の橋本不信が高まり辞任に追い込まれることとなる。

関連項目

外部リンク


先代
村山富市
内閣総理大臣
8283代: 1996 - 1998
次代
小渕恵三
先代
河野洋平
自由民主党総裁
第17代: 1995 - 1998
次代
小渕恵三