鶴ヶ城 (美濃国)
鶴ヶ城 (岐阜県) | |
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別名 | 神篦城、国府城、高野城 |
城郭構造 | 山城 |
天守構造 | なし |
築城主 | 土岐光衡 |
主な城主 | 土岐氏 |
廃城年 | 1600年(慶長5年) |
遺構 | 曲輪、土塁、堀切 |
指定文化財 | 県指定の史跡 |
鶴ヶ城(つるがじょう)は、美濃国(現・岐阜県瑞浪市土岐町鶴城)にあった日本の城。別名は神篦城、国府城、高野城。
概要
鎌倉時代
鎌倉時代初期に、源頼朝に仕えて功を挙げた土岐光衡によって築城されたと伝わる。 光衡は、麓の一日市場館(瑞浪市土岐町)を本拠として「土岐」を号したとされ[1]、土岐氏発祥の地と云われている。
承久3年(1221年)の「承久の乱」では、光衡の子・土岐光行(土岐左衛門尉)は幕府方、土岐光時(土岐判官代)は上皇方についたと考えられる[2]。 光行の孫・土岐頼貞の代でも一日市場館を本拠としており、元亨4年9月(1324年)の「正中の変」の直前には、日野資朝が土岐館(一日市場館)に訪れた[3]。
建武の新政後
建武の新政の後、土岐頼貞は美濃守護となり本拠地を長森城に移し、更に孫の頼康が川手城に移している[4]。 土岐氏が川手城に去った後は庶流の延友氏が入った。
戦国時代
天正2年(1575年)正月6日には織田信長が明知城救援のため鶴ヶ城に入った[5]。 慶長5年(1600年)の関が原の合戦の後、廃城となったとされる。
遺構
歴代城主
土岐氏とその一族
- 土岐光衡:土岐氏の祖。源頼朝に仕えた。
- 土岐光行:光衡の子。
- 土岐光定:光行の子。得宗家から妻を迎えた。
- 土岐頼貞:光定の子。後醍醐天皇の詔を受け、討幕軍に加わった。
- 延友信光:織田家に属し岩村城の秋山信友と対峙した。
織田氏家臣
森氏家臣
出典
参考文献
- 『瑞浪市史 歴史編』(瑞浪市、1974年)
- 『土岐市史 第1巻』(土岐市教育委員会、1970年)
- 『岐阜市史 通史編』(岐阜市、1928年)
- 谷口研語『美濃・土岐一族』(新人物往来社、1997年、ISBN 9784404024985)