鬼畜系

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鬼畜系/悪趣味系
まぼろし博覧会内の常設展示「村崎百郎館」に設置されている村崎百郎の等身大人形
様式的起源
文化的起源 日本の旗 日本東京都
1920年代 - 1990年代
エログロナンセンスカストリ雑誌カウンターカルチャー自販機本サブカル→悪趣味系
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
MONDOCHANカルチャー
サブジャンル
関連項目
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    鬼畜系(きちくけい、Demon style)は、悪趣味系サブカルチャーのサブジャンルであり[4]、1990年代の鬼畜・悪趣味ブームにおいて電波系やゴミ漁りで知られた鬼畜ライター・村崎百郎が自分自身を指すのに提唱した造語である[5]。ブームを代表する鬼畜系ムック『危ない1号』のキャッチコピーは「妄想にタブーなし」「この世に真実などない。だから、何をやっても許される[6]

    なお、これは成人漫画などにおける反社会的行為、ないし残酷描写が含まれる作品、またその作家を指す言葉としても用いられている。

    語義[編集]

    エロティシズム文化に詳しい伴田良輔は「悪趣味」の起源そのものは「キッチュ」「マニエリスム」「バロック」「グロテスク」といったヨーロッパ文化にあると指摘し、それが大量消費時代を迎えた1950年代以降のアメリカで「モンド」「スカム」「キャンプ」「ビザール」「ローファイ」「バッド・テイスト」に発展し、それが米国での流行の経緯とは無関係に日本で新しい意味や機能が付け加えられて蘇ったと解説している[7]ただし、伴田の定義する「悪趣味」とは、ある範囲の事物に共通して見られる「けばけばしさ」「古臭さ」「安っぽさ」の類型的特徴を意味しており、最初から「悪趣味」とされるものを享楽的に消費する、あるいは露悪的なスタイルを積極的に志向するような「鬼畜系」は含まれていない。[要出典]

    1995年の『ユリイカ』臨時増刊号「悪趣味大全」において、文学・音楽・漫画・映画などの芸術文化でも、ほとんど無視されてきたダークサイドな側面が一括りに特集され、同特集で鬼畜ライターの村崎百郎が本格デビューしたことが、ブームの直接的なはじまりとみなされている。同年7月には、鬼畜系ムック『危ない1号』が青山正明らによって創刊され、ゲスな文体で悪趣味を消費する、卑近なスタイルが若年層にも受け入れられたことで、ベストセラーとなる。

    「鬼畜系」という言葉が活字出版物上に現れるようになったのは「鬼畜系カルチャー&アミューズメント入門講座」と銘打たれた『危ない1号』第2巻「特集/キ印良品」(データハウス/東京公司)や新宿ロフトプラスワンで開催されたトークイベント本『鬼畜ナイト』(同)が刊行された、1996年頃からとみられている(いずれも村崎百郎が企画立案を行った)[8]

    こうしたサブカルを統合するカテゴリーとして範囲「鬼畜系」「電波系」「悪趣味系」という用語が90年代に広まったが[要出典]、一部の読者が数々の事件を起こし、1997年までにブームは終焉を迎えた。[要出典]

    戦前[編集]

    人類と社会〜個人の欲望と社会の規範、そして社会的承認欲求(権力欲)[編集]

    人類は社会的な動物であり、武力や暴力ではなく法や徳による社会制度・規範などによって個人の欲望を抑制し、社会秩序を保つ術を発展させてきた。そのような法や徳の下では、利己的な性衝動や暴力は反倫理的・反社会的とみなされる傾向があった(権威主義)。とは言え、性は生物にとって根本的なもの(繁殖)であり、差別や暴力もまた人類に刷り込まれている本能(自己防衛)である。そのため、社会規範による民衆の抑圧に対する抵抗が歴史上繰り広げられてきた(反権威主義)。また、宗教や学問による利他的道徳心および理性的啓蒙思想が枢軸時代に花開いてからも、現代の感覚では鬼畜(反倫理的)とみなされるような野蛮きわまりない習慣は世界中で普遍的に行われていた。具体的には少年愛や児童性的虐待、女性差別、人種差別、階級差別(奴隷制、身分制)、障害者差別、人肉食、生物種の大量絶滅、戦争による虐殺、拷問、残虐処刑などが挙げられる。これらはむしろ、社会や文化における倫理規範として、異なる集団を異端視・悪魔化して排除するために行われていた側面がある。近代以降は、人権に関する社会意識が高まり、芸術や思想の創作や発信活動においての急速な民主化や大衆化が進んだ。こうして、肉体的な権利の侵害は厳しく規制されたものの、思想的な個人の自由の追求はどこまでも進み、ポストモダン(≓価値相対主義)へと行き着くこととなった。結果、社会的価値における確定的な「善悪」「美醜」「真偽」などの二元論が崩れ、複雑に錯綜するようになっていき、現在に至る。

    本節では、その時々の社会的権威による「真・善・美」の価値観に反する芸術・運動・事件の歴史を記す。

    近世以前[編集]

    性に関する文化として、日本列島および世界の各地では生殖器崇拝が行われていた他、さまざまな性愛にまつわる絵画、文学、彫刻などが作成・消費されてきた。日本エロ文化の始祖的存在である春画は、から医学書と共に伝わった房中術の挿絵「偃息図」(えんそくず/おそくず)やから伝わった春宮画に起源を持つとされる。平安時代からは、縁起物を象徴する男性器がグロいほどに誇張して描かれていたという見方もある[9]。海外でも「カーマ・スートラ(性愛経典)」や「イ・モーディ(性愛図)」のような性愛芸術がある。

    また、暴力的で残酷な芸術としては、天国(平和と繁栄)と地獄(暴力と破壊)という、宗教的な善悪二元論を反映した地獄絵図がある。例えば、12世紀の「餓鬼草紙」「地獄草紙」や「快楽の園(16世紀版)」「快楽の園(12世紀版)」などがある。また、宗教的権威においては、神の神聖さを汚す冒涜は最大の罪の一つとみなされていた。

    江戸時代[編集]

    月岡芳年英名二十八衆句』(慶応3年・1867年)内の「稲田九蔵新助」図。裸のを逆さ吊りにして鮟鱇斬りにする様子を描いた無残絵

    日本におけるエログロ文化は、大衆文化が花開いた江戸時代後期の艶本・春画においても見出すことができる。鳥居清信の春画の一つ(1700年頃)には性的倒錯の一種の裸の男と服を着た女のシチュエーションがある[10]。同性愛を描いた春画(枕絵)も多々知られている[11]葛飾北斎の艶本『喜能会之故真通』(1814年頃)における「蛸と海女」は、獣姦アートの中でも蛸が相手というかなりのキワモノであった[12]

    西洋ではルネッサンス以降、医学書・解剖図[13] や解剖図を反映した等身大の人体蝋人形などが数々制作された。中でも、Marie Marguerite Bihéron (1719 - 1795) の作品が有名であり、妊婦の解剖人形などは非常に精巧だったとされる[14][15][16]。日本でも、蘭学の医学書の翻訳本『解体新書』(1774年)など、漢学蘭学の医学書・解剖図に倣った書籍が幾らか発行された。中でも、渓斎英泉の艶本『閨中紀聞 枕文庫』(1822年)は、当時の性の医学書・百科事典にして性奥義の指南書であり、同時に、奇書の中の奇書として知られている(特に膣の内部に大きな関心が抱かれている)[17]

    幕末期には浮世絵師の月岡芳年落合芳幾が「無惨絵」という歌舞伎の殺陣や鮮血などの残酷描写を主題にした扇情的な浮世絵を発表した。これは幕末という不穏当な時代世相を背景に制作されたともいわれる。なお、無残絵は江戸時代後期の廃仏毀釈の流れもあり、九相図など仏教絵画に見られる宗教色が一掃されている。つまり無残絵は宗教的文脈を逸脱し、純粋な娯楽として制作および鑑賞されていたことがわかる。以降、無残絵はエログロの古典的地位を確立し、責め絵の草分け的存在である伊藤晴雨は、芳年の無残絵を模した緊縛絵や緊縛写真を多数制作した。また芳年と芳幾が幕末に発表した競作無惨絵『英名二十八衆句』(1866年 - 1867年)は、非商業的な漫画雑誌『ガロ』(青林堂)などで活躍した丸尾末広花輪和一によって昭和末期にリメイクされており、無残絵を原点とするエログロ文化の精神的な流れは、後々のサブカルチャーに脈々と受け継がれた。

    また、幽霊画というホラージャンルも存在し、月岡芳年作の女性器が顔についている幽霊など、エログロセンスの絵画もあった[18][19]ピーテル・パウル・ルーベンスのメドューサの頭部も古典的グロ画である。

    拷問は世界各地で行われていた習慣であったため、さまざまな文化において拷問シーンやを描いた絵画が見られる[20][21]。また、放尿脱糞などの排泄シーンを描いた絵画も、歴史上にいくらか残されている[22][23][24]

    1785年にはマルキ・ド・サドが鬼畜SM小説『ソドム百二十日あるいは淫蕩学校』を著した(初版は1904年)。マゾ文学は1871年の『毛皮を着たヴィーナス』にて開花したと言われている。死や汚穢趣味[25]エロティシズムを見出す文学は世界各地に見られる。また1812年にヨーロッパで刊行された『グリム童話』は、民衆文化の中から成立し、残酷・性的な描写も散見された。

    文明開化[編集]

    宮武外骨「頓智研法発布式」(安達吟光画)。大日本帝国憲法に擬した「頓智研法」を骸骨(=外骨)が下賜する場面。また条文の「第一條 大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」をもじり「第一條、大頓知協会ハ讃岐平民ノ外骨之ヲ統括ス」とした。奥に立つ骸骨は明治天皇であるとして外骨は不敬罪で逮捕され、投獄は3年8ヶ月に及んだ。
    妊婦の腹を裂いて喰い殺す黒塚鬼婆伝説を描いた月岡芳年奥州安達がはらひとつ家の図』(明治18年・1885年
    明治政府風俗壊乱の廉で発禁とした。

    16世紀半ばに始まったヨーロッパとの交流は、江戸時代(1603 - 1868年)には鎖国によって細まったが、黒船来航(1853年)および明治維新(1868年)後には再び強力に推進された。日本の幕末・明治時代に相当する欧米のビクトリア朝時代は、市民革命(イギリス革命アメリカ革命フランス革命)・産業革命がもたらした急速な社会変革(民主化や資本主義化)が進んだはけ口か、さまざまな悪趣味・不気味な習慣が知られていた[26][27][28]文明開化の裏側では、これらの習慣も何らかの形で日本にも伝わった。

    1839年に実用的な写真技術が発明されて以来、そのような奇怪な物の写真(髭の生えた女性、シャム双生児小人症、4本足の人物など)や排便[29]、ヌード・ポルノ写真(児童ヌードも数多く制作されていた[30])も巷に出回り、人々の好奇を集めていた。19世紀終盤に映画が発明されると、すぐにポルノ映画が地下で制作されるようになったが、欧米や日本では公権力の下では非合法だった。

    以前は絵画で表現されていた死の風景や残酷描写が写真記録としても残されるようになったことで、外科手術(癌で顔面が奇形化した写真も多々残されている)[31][32][33]、事故、殺人事件[34][35][36]、戦争(南北戦争ではすでにカメラが広く商用化されていたため、千切れた手足や損壊した顔面など多くの肉体損傷写真が残されている)[37][38][39][40][41]、果ては清朝時代の残酷極まりない拷問写真(特に凌遅刑[42][43][44][45][46] や死体写真[47] が出回るようになった。その他にも、故人を生きているかのようにポーズを取らせて写真を取ることも流行した[48] が、これは葬儀の風習の一環である。1880年頃からから商用で使われ始めたハーフトーンという印刷法によって、白黒写真を雑誌に印刷できるようになったことでヌード写真が雑誌に掲載できるようになったが、同様にグロ写真が一般の出版物として写真集や雑誌の形で発行されていたかは、追加調査が必要で待たれる。

    快楽主義・虚無主義とオカルティズムの萌芽[編集]

    薬物(ドラッグ)が成分抽出・化学合成される以前は、向精神物質は自生植物から調合され世界中の文化で宗教的儀式において使用されていた。

    19世紀にはドイツなどで化学が発展し、さまざまな向精神物質が植物より成分抽出・化学合成された。モルヒネ(1804年)、カフェイン(1820年)、ニコチン(1828年)、コカイン(1860年)など。1888年に長井長義がドイツ留学中に漢方薬の麻黄から抽出に成功したメタンフェタミン(商品名ヒロポン)は、第二次世界大戦中に兵士の疲労回復や士気向上に用いられ、戦後に多くの中毒者を出した。戦前は中毒性の強い薬物でも、エネルギー剤として市販されていたりした。戦後のアメリカでは、若者の間のドラッグ中毒が蔓延している。

    1904年には、オカルティストのアレイスター・クロウリーが『法の書』を出版し、「汝の意志することを行え」というセレマ思想を提唱した。クロウリーは『法の書』(II,28) に対する「新しい注釈」の中でこう書いている。

    「これが正しい」という基準などない。倫理とは戯言である。それぞれの星は独自の軌道を行くべきである。「道徳原理」などクソ食らえ。そんなものはどこにもないのだ[49]

    古代から存在する、自己の快楽(欲望)を追求する利己的快楽主義は、19世紀・20世紀初頭のオカルティズムにて再解釈され宗教・社会的道徳に反逆する悪魔崇拝カルトなども生まれ、20世紀後半のカウンターカルチャー運動によって再評価されるようになった[50][51][52]。例えば、快楽主義の一派キュレネ派ヘゲシアスは、人生は苦痛であり、自殺こそが快楽を追求する道だと説いた[53]。利己的快楽主義者では、極端なケースでは、自己の快楽のためならば姦淫、同性愛、児童性愛、近親相姦、快楽殺人[54]、自殺[55]、安楽死、などなんでも正当化され許されてしまうことが議論されてきた。また、悪魔崇拝では、自己の快楽が目的ではなくても、積極的に社会に対するあらゆる悪(破壊[56]、殺人[57]、強姦[58]、暴力、強奪、拷問、裏切り、虚言)を働くことが推奨される(自殺をすると悪を働けなくなるため自殺を推奨しない一派もあるし、より強力な悪に生まれ変わるため自殺を推奨する一派もある[59])。自殺予防の観点では、悪魔崇拝への傾倒は自殺の前兆の一つとも考えられている[60]

    19世紀のもう一つのトレンドは、ニーチェによって有名になった虚無主義神の死)である。これは、人生に意味はない、世界に価値はない、客観的な真実や善悪(道徳)など存在せず全ては相対的である、全ては無に帰するため無意味である、すなわち「事実などない。あるのは解釈だけだ」などという態度である。たとえば1912年に刊行された『変身』は、ある男が目覚めるとグロテスクな虫になるという不条理なストーリーであったが、これはカフカなりのニヒリズムが反映された寓話と見る向きもある。

    疑似科学・フリンジ科学の勃興[編集]

    19世紀には様々な科学・技術が発達した一方で、副産物として疑似科学・境界科学も多く発生した。たとえば、脳を外科的にいじって精神障害を治療するロボトミー、受精のメカニズムの発見と聖母マリアの処女懐胎崇拝が融合した反中絶思想[61]、血液型の発見と欧米系にA型が多くアジアにB型が多いことからくるB型血液型差別[62]ダーウィンの進化論の提唱から派生した社会進化論メンデルの遺伝学から派生した優生学などからくる人種差別や障害者差別、女性医療における膣鏡の一般化からくる女性支配思想[63]などがある。日本でも19世紀以降に血液型差別やアイヌ[64]・韓国差別[65][66]、女性差別[67][68]などが明示的になり、これには西洋制度の影響がうかがわれる[69](もちろん、江戸時代にも穢多・非人などの身分差別や遊郭などの女性差別は存在した[70][71])。さらに、ユングによる「分析心理学」、フロイトによる「精神分析学」(鬼畜系の二本柱である死への衝動・デストルドータナトス)と性への衝動リビドーエロス)の理論も含まれる)、フレデリック・マイヤーズによる「超心理学」(超能力)の研究も19世紀末から20世紀初頭に発表され、日本にもすぐさま伝わった。

    さらに、長らく西洋世界の中心的宗教であったキリスト教では、各宗派の教主が神学解釈や異端審議を行なっていたが、宗教改革以降、権威が失われた。以後、万人司祭の潮流から様々な聖書解釈が花開き、怪しい新興キリスト教宗派が数多く誕生する(たとえば、非キリスト教者は終末戦争で皆殺しにされるというカルト的・差別的で悪名高いディスペンセーション主義などのクリスチャン・シオニズム福音派[72]エホバの証人モルモン教など現代で言うキリスト教保守派)。19世紀には、東洋宗教の神秘思想が西洋にも持ち込まれ、東西宗教の融合した新興宗教も生まれた。19世紀アメリカの民衆宗教思想「ニューソート」は、引き寄せの法則ポジティブシンキング(積極思考)など、自己啓発の源流とも言われている[73][74]。これらの理論は、オカルトにて好まれて用いられている。また自らの魂・霊性を進化・向上させることを説く「神智学」の思想もこの時期に生まれた。

    反ユダヤ主義陰謀論[編集]

    19世紀には反ユダヤ主義のプロパガンダとして、フリーメイソンイルミナティが世界支配(新世界秩序、NWO)をもくろむ悪魔崇拝結社とする陰謀論も生まれた[75]。このプロパガンダはナチスにも利用され、ポグロムホロコーストの一因ともなった(詳細は「シオン賢者の議定書」および「ナチズムにおけるオカルティズム」も参照)。1950年代にはウィリアム・ガイ・カーが同様の陰謀論「影の政府」を普及させた(後にディープステート/DSとも)。このスキームは、ユダヤ教、共産主義、合衆国政府、国際金融機関などを攻撃するプロパガンダとしても利用されることになる[76]

    反ユダヤ主義は、ヨーロッパの歴史において根深く、数々の陰謀論(ユダヤ教徒がキリスト教徒の子供を誘拐して、儀式殺人を行なっているという血の中傷陰謀論や、ユダヤ人が毒を撒いて黒死病などパンデミックの原因を作っているといった陰謀論)によって、歴史上多くのユダヤ人が攻撃・迫害されてきた(詳細は反ユダヤ主義を参照)。血の中傷陰謀論は、20世紀後半に生じた児童人身売買陰謀論やピザゲートと同様に、子供の人権侵害をでっち上げて、嫌悪感を煽る構造となっている。また、ユダヤ人がパンデミックを意図的に引き起こしているという陰謀論は、コロナ禍に流布されたグレートリセット陰謀論の原型とも言える。こうした差別の根底には、キリスト教によるユダヤ教への宗教差別のみではなく、ヨーロッパ白人の中東系人種に対する人種差別も起因しており、これは現代の白人至上主義につながるものである[77]

    明治期の社会風刺[編集]

    イギリスでは風刺漫画雑誌『パンチ』が1841年に刊行され、社会を面白おかしく皮肉的に風刺した。またこの頃の日本でも、時には不謹慎とも見なされた社会風刺雑誌として、野村文夫の『團團珍聞』や宮武外骨の『滑稽新聞』のようなものがあった。特に「癇癪と色気。過激にして愛嬌あり」をキャッチコピーに足掛け8年で全173号を刊行した宮武外骨の『滑稽新聞』は1901年の創刊以来、政府や役人の汚職や醜聞、既成ジャーナリズムの腐敗などを容赦なく暴き出し、歯に衣着せぬ過激な社会風刺が人気を集め、当時としては驚異的な8万部を発行した[78][79]。同紙は発刊中だけでも、外骨本人の入獄2回、関係者の入獄3回、罰金刑16回、発禁印刷差押え処分20回以上という壮絶な筆禍を受けたが、外骨は全く懲りることなく「寧ろ悪を勧めよ」「法律廃止論」「検事には悪い奴が多い」などの過激な持論を紙面に掲げた[78][80][81]。当然、検事からは「無政府主義の社会主義を理想とする新聞であり、国家秩序を甚だしく害するものだから、この際、発行禁止処分にするのが適当」と弾劾されるも[82]、不当に高額な罰金刑を下した検事を紙上でさらに攻撃し、大阪地裁による発行禁止命令[81] に先手を打つ形で最終的に「自殺号」(1908年10月20日付)を出すに至る。これには「権力に殺されたのではなく、自らの意志で自殺廃刊を選んだ」という外骨なりの自負とユーモアが込められている(さらに翌月『大阪滑稽新聞』を創刊して戦いを継続)[79]。以後も外骨は権威に屈せず、反骨と諧謔のパロディストであることを生涯を通してつらぬいた[83]

    発行禁止命令に先んじて自殺廃刊した『滑稽新聞』の後継誌『大阪滑稽新聞』創刊号(1907年11月3日号)表紙。通巻24号(1909年10月15日号)では伊藤博文の最期を当てるという不謹慎な懸賞企画を行い、その直後に伊藤博文暗殺事件が起きると「女ずき者の最後」と題した風刺画を通巻26号(11月15日号)に載せ、繰り返し発禁となった。

    大正デモクラシーと変態性欲の通俗化[編集]

    大正時代に入ると、明治維新による国内産業の近代化の恩恵もあり、中産階級層が厚くなり消費文化を形成するようになった(江戸時代の大衆文化は江戸や大坂などの大都市の庶民が中心であった)。特権階級が欧米から学んで社会制度を制定した明治時代からさらに発展し、民衆が政治参加によって社会制度を制定するための大正デモクラシーという運動が盛んになり、1925年にはアジアで初の男子普通選挙が法定されたことで、戦後民主主義の礎を築いた。この時代は、軍国主義が台頭した昭和初期とは対照的に、官憲や大衆は性にもおおらかだった時代であったとされる。

    遡ること明治時代には、James Ashtonによる『The Book of Nature』(1865年)[84] の翻訳本『造化機論』が1875年に刊行され、近代の言葉と論理で性を解き明かした記念碑的な書物となった。当時の一般人にはなじみのなかった精子と卵子のことなども解説されていた。「造化機」とは、当時の用語で「生殖器・性器」のことを指した。この書物を皮切りに、「造化機」について論じた書物は明治期には大量に刊行され、類本・異本・二番煎じを含めれば、優に100種類以上の「造化機論」が存在していた[85]。しかし、明治期は道徳的には保守的で、科学書であったため発刊が許されたが、男女の性器の図解等もあり、現在のエロ本のような関心で見られた側面もあった。明治末から大正になると、その種の本も次第に娯楽的な彩りを持つようになった。

    ドイツの精神医学者・クラフト=エビングが性的倒錯について書いた『性的精神病理』(1886年)は、日本における変態性欲ブームの火付け役ともされている[86]。この書物は、1894年に『色情狂編』として和訳されたが明治政府に発禁とされた後、大正時代の1913年に解禁され、大日本文明教会から『変態性欲心理』と題して刊行された。この書籍中では「ひとりエッチ(クリオナ)」「性欲減退」「ホモセクシュアル」といった、現在では普遍的な性のトピックも紹介されているが[87]、それだけでなく「折檻プレイ」「露出狂プレイ」「放置プレイ」「イメージプレイ」「コスプレ」などアブノーマルな性癖も取り上げられていた。本書を嚆矢として科学の分野では「性科学」と呼ばれる学問分野が確立することになり[87]、日本においても学術的そして通俗的な「変態」考察がすぐに盛んになった[88]。「変態」という語は、1909年に刊行された小説『ヰタ・セクスアリス』で有名になったとされる。

    中村古峡によって創刊された研究雑誌『変態心理』(1917 - 1926年)では、変態性欲論が議論され、男性同性愛者の読者たちによってゲイ解放区構想も議論された[89][90]。また田中香涯(田中祐吉、医学博士)によって刊行された『変態性欲』(1922年)では、それまで狭義の心理学用語として使用されてきた変態の通俗化が行われ[91]羽太鋭治澤田順次郎といったセクソロジストたちによる性科学の通俗化も起こった[92] 。変態という言葉自体も広く社会に浸透した流行語となり、宮武外骨は『変態知識』(1924年)を、梅原北明は『変態十二史』『変態・資料』(1926 - 1928年)を刊行するに至った[93][94]。特に梅原北明が企画した叢書『変態十二史』(文藝資料研究会)は合計15巻(12巻+付録3巻)という破格のシリーズとなった。このシリーズは「性」に限定されてきた「変態」の範囲をさらに拡張し、全巻のタイトルに「変態」を冠するという徹底ぶりと珍奇ぶりが大いに受け、500部限定の会員誌にもかかわらず、申し込みは4000〜6000部を突破した[95][96]。あらゆる事象に「変態」を当てはめようとするスタイルは時に牽強付会ですらあり、第8巻『変態仇討史』を著した梅原北明も同書の序文で「普通の仇討から特に変態と云う奴を選ぶことに務めただけですから、多少こぢつけたものもあります。/尤も、こぢつければ仇討と云う存在は確かに変態です」と言い訳している[97]。この時点で「変態」という用語は実態を失い、普通ではないものに対する曖昧な印象を包括するイメージとして流用されることになる[96]

    こうした戦前の変態言説の多くは、北明一味の「趣味的研究」を除けば、生半可な性知識に振り回される人々を啓蒙するという至って真面目な学問であった[98][99]。あくまで変態は「客体的な研究対象」であり、そこにはLGBTQに代表される性のアイデンティティなど存在せず、変態性欲者や性的逸脱者は「矯正されるべき存在」として扱われた。これは1868年の明治維新後、西側の性規範が輸入される過程で「性の近代化」が進み、性に対する保守化・均質化・標準化・規格化、すなわち「正常志向」が強調された為である[98][99]。そこから逸脱する存在は、しばしば蔑みの対象となった。これに関して『変態十二史』の編集発行人である上森子鉄ですら「我々まで変態だと思われたら困る」と発言しているほどである[100]。変態性欲者が当事者として主体となった「変態による変態のためのマニア雑誌」が登場するのは、戦後の『奇譚クラブ』(1947-1975年)を待つことになる[101]

    こうして変態文化は広がりを見せたものの、それを理論的に支える学問領域は未成熟なままであった。人間の根源である性的欲望が自然科学の分野で明確に確立するのは、クラフト=エビングの『変態性欲心理』から1世紀近く経った1979年、自然人類学者のドナルド・サイモンズ英語版が発表した『The Evolution of Human Sexuality英語版』(性的欲望の進化)からである[102]。本書は人間の性行動の形成過程、たとえばオーガズム、同性愛、性的乱交、レイプなどを進化論的な枠組みで史上初めて体系化したもので、あらゆる学問(進化生物学、人類学、生理学、心理学、文献学)を統合して分析した点でも画期的だった。本書は後続の研究にも大きな影響を与えており、たとえばレイプにまつわる性的衝動を進化生物学で分析し、フェミニストとの間で大論争にもなった問題作『人はなぜレイプするのか―進化生物学が解き明かす英語版』(2000年)も本書の絶大な影響下にある。もっとも、自然科学の観点から性的逸脱の研究が本格化し始めたのは、つい最近のことであり、依然として追加調査が待たれる。

    その間、日本発の変態文化は「おたく」の出現にともない、二次元のコンテンツに比重を置くことになる。またインターネットが急速に発達した1990年代には、米裁判所がオンライン上のわいせつ表現をゆるやかに解釈するようになり、日本のアダルトアニメは世界に開放された[103]。2000年代には、日本のアダルトアニメやキワモノAV、アダルトゲームのジャンル(ロリ異種姦ぶっかけごっくんなど)を表す言葉として「Hentai」というキーワードが世界中に広まっている[104]

    人間動物園・衛生博覧会[編集]

    19世紀のイギリスアメリカでは、フリーク・ショウと呼ばれる見世物小屋にて世の中の奇怪なもの(奇形、部族の全身入れ墨や身体改造など)を、人間動物園では西洋文化以外の部族・人種や非健常者を見せ物にしていた。日本でも、欧米の植民地帝国主義の流儀に倣って、20世紀初頭に台湾人アイヌ人など、弱小民族の人間動物園的展示を博覧会にて行っている。これらは現代の人権感覚に照らすと差別極まりないものであった。

    また、19世紀は都市人口の増加と劣悪な環境に住まう労働者が増え、コレラなどの伝染病も蔓延した。これを背景として、欧米では「衛生知識普及」のための催事である衛生博覧会が19世紀半ばに始まった。大きなものでは、1883年のロンドン万国衛生博覧会、1883年にベルリンで「全ドイツ街生・救命覧会」が、1903年にはドレスデン都市博覧会の特別展として「国民病とその克服」が開催されている。アメリカでも同様に博覧会における衛生展示が行われ、人体解剖模型の鑑賞ブームが起こった[105]。19世紀後半のパリで開催された解剖蝋模型展覧会は大人気を博し、ヨーロッパを移動する展覧会になった。そこでは結合双生児と呼ばれた身体の一部が結合している双子の模型も展示されていた[106]。1911年のドレスデン国際衛生博覧会では、大衆向けアトラクションも数々設置され、中でも人体展示館の性病ブースなどの精巧な蝋人形は国際的な評判を呼んだ[107]

    日本でも1887年の「衛生参考品展覧会」(東京・築地)を皮切りに、昭和初期まで全国各地で衛生博覧会が開催された(戦後も再開されているが、現在では保健衛生思想が行きわたったことでこの展覧会の役割は終えている)。大正期になると、見せ物的エログロ要素が白熱し、ビール過飲心臓、子宮炸裂、コレラ小腸、天然痘皮膚、トラホーム模型、花柳病模型、淋病男局部のウミ、寄生虫模型、梅毒になった女性器、強姦殺人の現場再現のようなものが公然と展示され鑑賞されていた[108]。1914年の東京大正博覧会の衛生展示は、生身の人間から疾病・臓器・死体・ミイラにいたるまでなんでもありの企画となり、保存液につけた生首10級、刑死した高橋お伝の性器や刺青を入れた皮膚なども展示されたという。東京大正博覧会の展示物はその後更に充実し、「大阪衛生博覧会」(1915)、「戦捷記念全国衛生博覧会」(1919)、「児童衛生博覧会」(1920)、「大正衛生博覧会」(1921)、「平和記念東京博覧会」(1922)、「名古屋衛生博覧会」(1926)などへと引き継がれた[109]

    衛生博覧会は、1985年にも、本来純粋なはずの芸術を取り戻すために「制約やモラルなどの精神的な不衛生を排し、本能のおもむくままに創作に取り組もう」との趣旨で有志のアーティストたちによってリバイバルした[110]。好奇のための人体展示という意味では、人体の不思議展目黒寄生虫館、温泉観光地にみられる秘宝館(性のミュージアム)、閉館した元祖国際秘宝館の展示物を引き継いだまぼろし博覧会は、衛生展覧会の系譜に連なるものと捉えることもできる[111]

    第一次世界大戦後から世界恐慌まで[編集]

    欧米における1920年代は、毒ガス兵器など非人道的兵器や大量破壊兵器も登場し破滅的だった第一次世界大戦(1914 - 1918年)からの反動で、既存の権威に対する不信感が高まり、冷笑主義や反権威主義が蔓延し、より自由な社会を望む風潮が世界的に高まった。アメリカでは婦人の参政権が成立し、女性の服装や髪型は動きやすいボーイッシュなものが流行した。狂騒の20年代を背景として登場したフラッパーなどのファッションスタイルは、モボ・モガとして日本にも伝わった。バーレスクもこの頃には、ストリップショーがメインの出し物に成り下がった。また、ティファナ・バイブルと呼ばれる、粗雑な画風のポルノ漫画誌もこの頃に出回るようになった。

    世界では、ダダイズムなどの反芸術の流れが起き、マルセル・デュシャン小便器を芸術作品(1917年)として発表し、マン・レイは性交中の結合部のアップの写真を芸術作品として1920年代に発表した。この流れは、シュールレアリズムアバンギャルドなどの前衛芸術に連なる伝統的な系譜でもある。また1929年には実験映画の『これがロシヤだ』と『アンダルシアの犬』が公開され、前者では出産シーンが映されたほか、後者では女性が剃刀で眼球を切り裂かれるという衝撃的なイメージが描写された。

    1929年の世界恐慌によって社会・政治が保守化したことで、解放的なムードは戦後まで抑圧されることになった。その後、不謹慎とみなされる文化の多くは地下へ潜ることになり、ドイツではナチスによって前衛芸術は退廃芸術という烙印を押され、徹底的に弾圧された。

    エログロナンセンスと梅原北明の時代[編集]

    雑誌『グロテスク』1929年1月新年号の発禁処分に対抗して梅原北明が『読売新聞1928年12月30日朝刊に出した死亡広告。通知によると「愚息『グロテスク』新年号儀サンザン母親に生みの苦しみを味わわせ、漸く出産致せし甲斐もなく、急性發禁病の爲め、昭和三年十二月廿八日を以て『長兄グロテスク十二月號』の後を追い永眠仕り候……」。この新年号は372ページの増大号で、グラビアに狸の睾丸八畳敷きの画集を添え、記事内容は「聖天秘抄」(酒井潔)、「阿片考」(北明)、「世界残虐刑罰史」(才田礼門)、「日本残虐刑罰史」(高田義一郎)、「童貞論」(浅田一)、「近世詐欺取物考」(北明)などの他、特別付録として生方敏郎大泉黒石随筆などを載せている[112]
    梅原北明1928年に起こした27件の筆禍事件(出版法違反)の決着を祝って1929年3月20日に関係者40数名を集めて華々しく催された「梅原北明罰金刑祝賀会」の様子[113]。北明は官憲相手に諧謔エログロで無意味なまでに対抗する姿勢を見せつけたことで「猥本の出版狂」とも呼ばれていた。
    『グロテスク』復活記念号(1931年4月号)。表紙には「侮り難きヨタ雑誌」「エログロの総本山」という言葉が並び、内容的にも華々しさより焼け糞さが目立つ復刊であった。

    世界恐慌が起こった1929年から1936にかけてエログロナンセンスと呼ばれる退廃文化日本でブームとなった。時代的背景として関東大震災(1923年)による帝都壊滅、官憲のファシズム台頭プロレタリア文化運動の弾圧、恐慌による倒産や失業の増加、凶作による娘の身売りや一家心中などで社会不安が深刻化しており、出口のない暗い絶望感とニヒリズムが世相に充満していた[114]。大衆は刹那的享楽に走り、共産主義革命を翼賛する“反体制的反骨”のプロレタリア文化運動も行き詰まりの果てに、常識を逸脱するエログロナンセンスへと流れていった[115][116]

    このブームの中心人物こそ「エログロナンセンスの帝王」「地下出版の帝王」「猥本出版の王」「発禁王」「罰金王」「猥褻研究王」などと謳われたエログロナンセンスのオルガナイザー梅原北明である。北明は『デカメロン』『エプタメロン』の翻訳で知られる出版人で、1925年11月にはプロレタリア文芸誌の体裁を取った特殊風俗誌『文藝市場』(文藝市場社)を既成文壇へのカウンターとして創刊。創刊号では「文壇全部嘘新聞」と題して田山花袋岡本一平辻潤春画売買容疑で取調べられている横で、菊池寛邸が全焼し、上司小剣が惨殺されるという過激な虚構新聞を見開き一頁を割いて掲載した。それら内容はいずれも冗談と諧謔の精神に満ち溢れており、既成権威に対してイデオロギーを持たず[117][118][119] 無意味なまでに反抗するような姿勢は、当時の同人からも「焼糞の決死的道楽出版」と評された[120][121][122]

    1926年12月、北明が出版した会員誌『変態・資料』(文藝資料編輯部)4号では、月岡芳年画『奥州安達がはらひとつ家の図』と共に、伊藤晴雨が撮影した「逆さ吊りの妊婦」(1921年)が本人に無断で掲載された。その上「この寫眞は画壇の變態性慾者として有名な伊藤晴雨畫伯が、臨月の夫人を寒中逆様に吊るして虐待してゐる光景」「恐らく本人の伊藤畫伯もこれを見たら、寫眞の出處に驚くだらう」という事実無根の解説文を載せ、大いに物議を醸した[注 1]。なお、北明と晴雨は留置場で同室した仲であり、互いの性格をよく知っていたことから、晴雨は写真の無断転載について「北明という男は罪のない男で腹も立たない」と述べている[123]。以降も同誌には過激なグラビアが掲載され、9号(27年6月)には反戦写真集『戦争に対する戦争』(1924年)から負傷兵のえぐれた顔写真を無断転載し、チューブで食事する写真に「何と芸術的な食べかただろう!」「手数はかかるが彼の生活は王侯のそれと匹敵している」など本来の文脈から完全に逸脱した不謹慎なキャプションを添えた。この他にもミイラや手足のホルマリン漬けなどグロ写真が終刊まで無意味に掲載され続けた。

    この間にも北明の出版物は、立て続けに発禁・摘発・押収を喰らうようになる[注 2]。次第に北明の目的は、変態雑誌を世に送り出すことなのか、それとも「変態」を用いて官憲への抵抗を周囲に見せびらかすことなのか、いまいち判然としなくなっていった。これについて竹内瑞穂は「彼が〈変態〉を用いて行ったのは、“〈普通〉であれ”と高圧的に命じてくる公権力への抵抗であった」と指摘している[125]。しかし「変態」を用いた抵抗もむなしく、1928年までに『変態・資料』および『文藝市場』とその後継誌『カーマシャストラ』は徹底的な発禁処分により廃刊に追い込まれ、北明本人も出版法19条「風俗壊乱」の疑いで市ヶ谷刑務所に投獄され前科一犯となる。

    限界を感じた北明は「エロ」から「グロ」に転向し、仮出獄後すぐに猟奇雑誌『グロテスク』(1928-1931年、グロテスク社→文藝市場社→談奇館書局)を創刊する。

    さっそく新年号が発禁になると、北明はそれを逆手にとって読売新聞に「急性發禁病の爲め、昭和三年十二月廿八日を以て『長兄グロテスク十二月號』の後を追い永眠仕り候」というユニークな死亡広告を出し、世人の注目を集めた。また北明は度重なる発禁を「金鵄勲章ならぬ禁止勲章授与、数十回」と声高らかに喧伝し[127]、警察からは「正気だか気ちがいだか、わけのわからぬ猥本の出版狂」と見なされた[122]。発禁本研究家の斎藤昌三は「軟派の出版界に君臨した二大異端者を擧げるなら、梅原北明宮武外骨老の二人に匹敵する者はまずない。その実績に於て北明は東の大関である」と評価している[128]。結果、北明は生涯で家宅捜索数十回、刑法適用25回、出版法適用12回、罰金刑十数回、体刑5年以下の筆禍を受けることになった[129]

    与太雑誌『グロテスク』自体は度重なる発禁と罰金で、ほとんど採算無視の放漫経営状態にあったが、発行部数だけは伸び続け、1929年4月号で部数は遂に1万部を突破した。同誌は『変態・資料』と違って一般に市販されたこともあってか、文献研究雑誌の趣が強く、北明自身も「文献趣味雑誌」と自認していたため、後の視点で見ると決してグロテスクなわけではないが、戦前の抑圧社会で「グロ」を主題にした軟派雑誌が公刊で1万部を売ったという事実は、それだけで驚異的だった[130]。結果的に『グロテスク』は出版界にグロ旋風を巻き起こし、数多くの亜流本を生みだした(後述)。

    1931年に北明は、菊判2100頁にも及ぶ古新聞漁りの集大成『近世社会大驚異全史』[131]を刊行する。しかし今度検挙されたら保釈がきかないと弁護士から宣告された北明は当局から逃れるため上海大阪に逃がれ、ほどなく艶本出版から完全に手を引き、靖国神社の職員となった[122][132]。また二・二六事件以降は国内での検閲発禁が激化していき、一連のムーブメントは1936年頃を境に終息していった。この年、日本三大奇書の一つ『ドグラ・マグラ』を著した夢野久作も急逝する。

    猟奇ブーム─エロからグロへ[編集]

    エログロの極み、阿部定事件1936年)。この2年前には世紀の猟奇殺人犯と呼ばれたアルバート・フィッシュの逮捕騒動もあった。

    出版界は1929年から1931年頃にかけて「変態ブーム」に代わり、拷問刑罰や犯罪科学にまつわる学術書籍が相次いで刊行されるなど「猟奇ブーム」で沸いた。これは「エロ」が露骨な弾圧を食らうようになってきた背景があり、エロが駄目なら「グロ」を主軸に展開しようということだった[注 3]

    当時流行した「刑罰もの」のモチーフは、刑罰史から姦淫刑罰、宗教刑罰、歌舞伎の残酷演劇、伊藤晴雨の責め絵まで幅広く、変態風俗本と同様に各ジャンルを横断的に網羅していた。また、刑罰ものは単に猟奇趣味の好奇を煽るだけでなく、歴史風俗史料という言い訳が可能で、図版に修正を入れなくても当局の監視下で堂々と出版できるという抜け道があった(性科学系の文献雑誌は、学術誌であると同時に性的欲望を満たすエロ本としても機能していた)。

    日本の近代司法における第一号の犯罪心理学者は寺田精一と言われており、1910年代から22年まで研究成果を発表している[133]。変態心理学や精神病理学では1910年代に民間学者による「変態性欲」の通俗的研究が行われた[134] ように、犯罪心理学も猟奇犯罪心理の通俗的研究の対象となった。1930年には犯罪心理学を建前とした猟奇雑誌『犯罪科学』(武侠社)が創刊され、1932年まで続刊した。主幹の田中直樹はその後も後継誌『犯罪公論』(文化公論社)を発刊し、エログロ雑誌界を風靡した[135]

    特に有名なものが、各界の権威を招いて1929年から全16巻を刊行した犯罪科学全集『近代犯罪科学全集』(武俠社)である。秋田昌美は著書『性の猟奇モダン』で「この全集が出たこと自体、日本の出版界においての大事件だったというべきだろう。それを可能にしたこの時代がエロ・グロ・ナンセンスに沸き立った熱い戦前の一時代だったのである」と評価している[136]

    1930年頃には、エログロナンセンスが頂点に達し、死体写真集に相当する奇書が出回った。同年3月、武侠社の柳沼澤介[137] は『近代犯罪科学全集』の別巻として、図版中心の非公開資料集『刑罰変態性欲図譜』(刑罰及変態性欲写真集/DIE BILDER UBER DIE STRAFE UND ABNORMER GESCHLECHTS TRIEB)を少数頒布した(1996年6月に皓星社から復刊)。本書は「刑罰」「性犯罪」「文身」「責め」の4章から構成され、豊富な写真と図版が300点あまり掲載された。序文には「犯罪科学の研究の資料として世の真摯なる研究家の参考に…」とあるが、実態は今で言うところのSM本であった。刑罰の章では、1868年に発禁となった『徳川刑罰図譜』からの転写、幕末の刑罰/処刑写真、宗教的迫害を描いた拷問絵巻、世界各地の刑罰図譜などが掲載された。また性犯罪の章では、1917年に起こった下谷サドマゾ事件(日本初のSM怪死事件)[注 4]で無残な死体となったマゾヒストの人妻・ヨネの裸体写真が掲載された。さらに文身の章では責め絵、無残絵伊藤晴雨緊縛写真が多数紹介された(晴雨自身も「責めの研究」と題したSM論を寄稿している)。

    1930年8月には『刑罰変態性欲図譜』と同じ発行元(正確には武俠社内犯罪科学同好研究会)から『犯罪現場写真集』(BILD DES VERBRECHENS IN ELAGRANTI)が発行された[注 5]。これは日本初の本格的な死体写真集とされている[138]。本書の序文には「主として強盗殺人、強姦致死並びにその疑ある犯行等の現場写真を収載した」とあり、実に100枚もの死体写真を掲載した。また扱われた61件の事件中15件が日本のもので、書籍の後半では日本人の死体写真も扱われており、これは海外の死体写真を差し置いて抜きん出た臨場感を放っていた。小田光雄は「無残な写真のオンパレードで、まさに『グロ』そのもの」と評している[137]

    しかし、グロには寛容であった官憲とはいえ、やはり本書の内容は目に余る代物だったようで、刊行翌月には「風俗禁止」で発禁となった[138][137]。結果的に『犯罪現場写真集』の前後が犯罪・猟奇ブームのピークとなり、1935年に中央公論社が出した『防犯科学全集』では性犯罪がわずかに扱われるだけで、基本的には防犯教育を説く内容であり、猟奇的なムードは一掃された。

    1936年には社会を震撼させた二・二六事件が起こり、日本社会は暗い雰囲気に包まれるが、そのわずか3か月後に大島渚監督『愛のコリーダ』のモチーフとなった阿部定事件が起こる[139]。「性愛の極北」としか表現しようのない猟奇的犯行と、阿部定の妖艶な魅力に人々は熱狂した[140][141]。この事件は結果的に、エログロナンセンス時代最末期の掉尾を飾ることになる。

    対抗文化の登場[編集]

    第二次世界大戦後から冷戦時代へ[編集]

    第二次世界大戦では、世界は有史以来の残忍な状況に突入し、人類史上最悪の犠牲者を出した世界大戦は1945年に終結した。

    枢軸国の打倒が達成された後も、資本主義陣営と共産主義陣営との冷戦時代に突入した。そのため日米もまだ保守性が強く残り、既存の社会規範を打ち破ろうとする運動が社会全体に広がるのは、1960年代のカウンターカルチャー・ムーブメントを待つことになる。とはいえ、戦時中と比べると、前衛芸術の復興や、反抗音楽(ロックフォークソング)の勃興、局地的カウンターカルチャー(ビートジェネレーション)、若者文化ビート族太陽族)の台頭などが起こり始める。また、ロカビリーミュージシャンのエルヴィス・プレスリーは、女性の髪型であった煌びやかなポンパドールスタイルと、ストリッパーのような性的腰振りダンスパフォーマンスで、これまでのタブーを破り、一躍若者の人気を博した。日本においても、ロックとリーゼントを愛好する後のヤンキー文化に大きな影響を与えた。

    カストリ雑誌ブーム[編集]

    カストリ雑誌ブームを決定づけた『獵奇』創刊號(1946年10月)表紙。キャッチコピーは「夜る読むな」。第二號は、わいせつ物頒布等の罪による戦後初の摘発・発禁を受けた[142]

    終戦後は言論統制が解放され、出版自由化に同調する形で、大衆の好奇心・覗き見趣味を煽る娯楽雑誌が大量に濫造された。これらの多くはエロ(性・性風俗)やグロ(猟奇・犯罪)に特化した低俗な内容で、たいてい3号で廃刊したことから、3合飲むと酔い潰れる粗悪なカストリ酒にかけて「カストリ雑誌」と総称された。発行されたタイトル数は2000とも4000とも推測されている[143]。また雑誌の内容には、快楽殺人や強姦、近親相姦、阿部定に代表される死体損壊など、非常に多くの倒錯性が含まれていた。凄惨な戦争から解放されたにもかかわらず、大衆がエログロを求めた理由については諸説があるものの、いまだに明らかではない[144]

    周囲からは「これからが梅原北明の真の出番だ」と期待されたが、すでに北明にその意志はなく、1946年に発疹チフスであっけなく逝去する[145]。終戦でエロ産業は一挙に解放され、巷は第二の桃色風俗出版ブームの華々しい黄金時代を迎えようとしていた[146]

    1946年1月には菊池寛の命名で『りべらる』(太虚堂書房)が発刊され、創刊号は1万部を売った[147]。同年10月にはカストリ雑誌ブームの火付け役となる『獵奇』(茜書房)が創刊され、発売から2時間で2万部を売り尽くした[142][148]。創刊の辞は「平和国家建設のために心身共に、疲れ切った、午睡の一刻に、興味本位に読捨て下されば幸いです」と、至って低姿勢なものであった[142]

    『獵奇』は、編集発行人の加藤幸雄いわく「梅原北明のような出版活動が戦後も堂々と出来るのか」という意図で創刊された[149]。実際、本誌には北明周辺の作家も積極的に起用されており、2号からは北明の盟友だった花房四郎、明治大学教授で『変態十二史』シリーズを3冊も執筆した藤沢衛彦(本誌の顧問も兼任)[150]、同じく本誌の顧問で北明とは深い交流があった古書研究家の斎藤昌三[151]が編集者兼作家として参加した[152][153][154]。それ以外の執筆陣としては、SM界の巨匠と名高い伊藤晴雨[155]生殖器崇拝研究の大家である久保盛丸[156]、北明の雑誌『文藝市場』同人の青山倭文二[157]ら錚々たるメンバーが名を連ねた。『猟奇』が出版史に名を残したのは、カストリ雑誌のスタイルを確立し、数万部を売ったこともあるが、注目すべきは第2号(1946年12月)に北明の遺作『ぺてん商法』と彼の訃報が掲載されたこと[152][158]、そして北川千代三の官能小説『H大佐夫人』が問題視され、戦後はじめてわいせつ物頒布等の罪(刑法175条)による摘発・発禁を受けたことである[159][160]。これは結果として『獵奇』の名声を高め[142]、ここから戦前の性文献によく見られた考証や研究によらない「エロ読物を中心としたカストリ雑誌」への胎動が始まったとされる[161]。亜流誌としては『新獵奇』『オール獵奇』『獵奇読物』『獵奇実話』『獵奇世界』『獵奇倶楽部』『獵奇ゼミナール』『獵奇雑誌・人魚』など「獵奇」を冠したカストリ雑誌がとにかく雨後の筍のように創刊された[162]

    また戦後は阿部定リバイバルとも言うべきブームが起き、1947年3月に織田作之助が発表した『妖婦』を皮切りに阿部定事件を興味本位で扱ったカストリ本(お定もの)が相次いで出版される。木村一郎著『昭和好色一代女 お定色ざんげ』(石神書店・同年6月)は、地下出版された定の供述調書『予審訊問調書』[141] を告白文体で官能的に脚色したもので、発行2か月で公称10万部以上を売った[163]。しかし、再び好奇の視線に晒された定は憤慨し、版元を名誉棄損で告訴する[164]。その後、開き直った定は変名での生活を捨て、坂口安吾と対談したり、阿部定劇の主演女優となって全国を巡業したり、浅草の料亭で看板仲居を勤めたりするなど、波瀾万丈の生涯を送った[139][163]。一人の男との愛と情欲に生きた阿部定の消息は現在も不明で、その最期を知るものは誰もいない。

    このカストリ雑誌ブームは1947年にピークを迎えた。ほどなく露悪的でも猟奇的でもなく「夫婦間の性生活」という大衆的な目線でエロ(性)を打ち出した『夫婦生活』が大ヒットし、摘発と隣り合わせのアンダーグラウンドなカストリ雑誌は時代遅れになっていく[165][166][167]。結局、ブームは1950年頃までに終息し[166]、カストリ雑誌に関わったライター、編集者、デザイナーたちは無名のまま忘れ去られ、ほとんどの雑誌は公共図書館に所蔵されることなく散逸した[143]。わずか数年で幻のように消えたカストリ雑誌は、現在もなお戦後出版史のミッシングリンクとみなされている[143]。その後、カストリ雑誌を構成する「読物」「風俗」「実話」などの要素は、その後の週刊誌に吸収されていった[166]

    なお、夫婦雑誌と前後してブームとなったのが、高橋鐵の性科学解説書『あるす・あまとりあ』の大ヒットを契機に創刊された『あまとりあ』『人間探求』『風俗科学』などの性科学研究誌である[168]。これら雑誌は官憲の摘発を逃れるため、知的・高踏趣味のスタイルをとっており、娯楽要素は極力排除されていたが、わずかに残存していたカストリ雑誌も含め、1955年の悪書追放運動と官憲による弾圧でほぼ壊滅に追いやられた[169][170][171]。また1960年代末にはカウンターカルチャー・ムーブメントの流れで、澁澤龍彥編集の耽美雑誌『血と薔薇』(天声出版)、ブラックユーモアドラッグ・カルチャーを紹介した『黒の手帖』(檸檬社)、元『あまとりあ』編集長がプランニングした『えろちか』(三崎書房)などのインテリ向けエロ本が相次いで創刊されるが、売上不振により1970年代前半までに姿を消した。その後、元『えろちか』編集部の明石賢生佐山哲郎は、従来のエロ本に対するオルタナティブとして伝説的自販機本『Jam』(1979)を創刊する[172]

    一方、欧米では1930年代から活動しているフェティッシュ・アーティストジョン・ウィリーによるSM雑誌『Bizarre』(1946 - 1959)やGene Bilbrewによる『ENEG』、『Exotique』(1956 - 1959)などが出版されている。中でも有名なSM雑誌は、イギリスの『AtomAge』(1957年刊)である。SM雑誌以外にも、アメリカでは「パルプ・マガジン」と呼ばれる安価で低俗な娯楽雑誌が大衆の人気を集めた。

    1960年代には特殊効果を用いた実写の猟奇映画が多数登場したが、それ以前の1940年 - 1950年代はECコミックなどのホラー漫画が残酷描写を担っており、これらの作品では「拷問」「猟奇殺人」「四肢切断」「眼球・内臓摘出」などの猟奇的テーマをはじめ、アメリカで根強い人気があるゾンビなど、数々のグロモンスターがアメコミタッチで描写された。日本では、日野日出志楳図かずお古賀新一丸尾末広が猟奇ホラーの重鎮である。猟奇やホラーに特化したイラストレーションは、1980年 - 1990年代のメタルやパンク・ロックバンドのジャケットでも数多く制作されている。

    SMマニア誌の幕開け[編集]

    SMマニア専門誌の第1号は、1947年にカストリ雑誌として大阪で創刊された『奇譚クラブ』(曙書房天星社暁出版)である。創刊当初は単なる大衆向け娯楽誌であったが、1950年頃を境にカストリ雑誌ブーム自体が下火になり、さらには性交描写への厳しい取り締まりの影響もあって、ほとんどのカストリ雑誌は姿を消していった。そこで同誌は須磨利之の提案で1952年5・6月合併号から変態路線に転向する。転向の背景には、同性愛SM女斗美切腹屍体愛好といった変態性欲は「特殊な趣味」として官憲側に過小評価されていたという事情もあった[168]。だが、エロを売り物にしている大衆雑誌でも「変態」に対しては客観的立場から嘲笑、あるいは差別・罵倒するニュアンスが含まれており、マニアからは大変不評であった[173]

    『奇譚クラブ』が画期的だったのは、編集者自身がSMや変態性欲に造詣が深かったことにある。特に編集部に在籍していた須磨利之は、ライター・イラストレーター・編集者として1人3役をこなし、マニア向けSM専門誌のスタイルをほぼ1人で築き上げた[174][175]。また須磨は「喜多玲子」という筆名で「責め絵」「縛り絵」も大量に手がけており、責め絵の第一人者である伊藤晴雨に才能をほれ込まれるほどの人気作家となった[176][177]。須磨は自身の性的嗜好について次のように語っている。「ぼくは女色男色すべて好き。正常異常みんな好き。人が人を好きになってセックスを楽しむことみんな好き。ぼくが体験していないのは、レズのセックスだけだ。ぼくは男だから、彼女たちの心はわかっても、あれだけは経験できない。あとは何でもやってるよ」[178]。須磨と交流があった濡木痴夢男は、喜多玲子の登場を「アブノーマル雑誌における驚嘆すべき出来事だった」と語っている[177]

    その後、須磨利之は『奇譚クラブ』から『裏窓』(久保書店)へ移籍し[179]、1970年代以降は『S&Mコレクター』(サン出版)に緊縛師や責め絵師として携わるなど、名実ともに戦後SM文化の立役者となった。『裏窓』2代目編集長の濡木痴夢男は「日本にただ一人、あるいは世界に一人の存在」「須磨のように異常性欲に関して万感の理解力と、表現能力をもつ画家はめったにいるものでない」と評している[180]

    須磨の敷いた「誤解なし」「手抜きなし」「曖昧さなし」という誠実な編集体制は、レベルの高い誌面を形成し、文化人からの注目も集めた。『奇譚クラブ』の愛読者には川端康成三島由紀夫澁澤龍彥寺山修司らがいる[181]。同誌は1953年頃までに10万部を突破し、東京では便乗誌『風俗草紙』が創刊され、性風俗誌は黄金時代を迎えた[168]

    『奇譚クラブ』は須磨が去った後も、日本中の変態読者から小説の寄稿が相次いだ。また滝麗子秋吉巒四馬孝中川彩子古庄英生畔亭数久などの優秀なSM画家が登場したこともあり[176]、ハイレベルなアブノーマル路線は維持された。途中、発禁による影響でビジュアル面の大幅な縮小があったものの[176]沼正三の鬼畜SM小説『家畜人ヤプー』や団鬼六花と蛇』など歴史上に残るSM文学を輩出し、発行人の急逝によって1975年に休刊するまで同誌は日本のSM文化を支え続けた。

    カウンターカルチャー・ムーブメント[編集]

    1950年代から盛んになった社会の構造的差別に抵抗する公民権運動の流れに続き、1960年代には世界的にカウンターカルチャームーブメントが広がり、既存の社会規範から解放されようという動きが一般にも浸透した。以降は、平等主義・個人主義(自己中心主義)、個人の権利と自由・快楽を追求する志向性が社会に到来し、社会や家庭よりも個人の利益を追求するライフスタイルが定着した[182][183]。この時代には、それまでアンダーグラウンドだったエロやグロの表現も徐々に表立つようになり、後にはさらに過激化させる方向に進んでいくことになる。そうして、さまざまなサブカルチャーが生まれた。

    一方で、カウンターカルチャー運動によって否定された伝統的な家庭観、性道徳、キリスト教的倫理観を重視する保守派は、これまでの反共に加えて、反カウンターカルチャーや反リベラルの草の根運動、そしてキリスト教原理主義運動などを活発化させることとなった[61]。またリベラル層の自壊も進み、たとえばカウンターカルチャーの流れで登場したフェミニズム環境主義などを絶対視する急進派は、偏狭で反知性主義的という指摘[184]もあるポリコレの押し付け、ないしキャンセル・カルチャーに陥ることにもなった。一方、差別的表現やヘイトスピーチなども許容する表現の自由派・貧富の差や環境破壊など経済活動の自由派は、リバタリアンとして、反リベラルの社会保守派と政治共闘することになった(文化・政治戦争)。

    1960年代には反戦フォークなどカウンターカルチャー性を強く持ったコンテンツが多かったが、1970年代以降の学生運動の過激化(特に日本の学生運動に特徴的な内ゲバ闘争)によって支持を失った。そのため日本において「サブカルチャー」と名乗る文化は政治性やカウンターカルチャー性、「何か大義を掲げて運動することそのもの」の否定から生まれ、反政治的でラジカルなニヒリズムがそこに君臨した[185][186]

    日本のパンクロックと過激パフォーマンス[編集]

    ザ・スターリンじゃがたら非常階段ハナタラシTACOガガーリンゲロゲリゲゲゲハイテクノロジー・スーサイドなどがいる。たとえば遠藤ミチロウは観客に豚の臓物や汚物などを投げ込み、江戸アケミは流血・放尿のほかニワトリシマヘビの首を生きたまま食いちぎり、山塚アイユンボでライヴハウスの壁を壊し、非常階段の女性メンバーはステージで放尿し、田口トモロヲは炊飯器に脱糞し、山崎春美自殺未遂ギグを決行した。

    ピンク映画の勃興とポルノ解禁[編集]

    悪趣味ブーム[編集]

    自販機本-悪趣味カルチャーのゆりかご[編集]

    1976年頃、それまでの出版文化とは全く異なる出自をもつ自販機本が、旧来のエロ本へのアンチテーゼとして突如登場した[187]。自販機本は、街角に設置された自動販売機のみで販売されていたアンダーグラウンドなエロ本で、出版業界の最底辺に属する存在であり[188]、出版取次を介さず自主規制とは全く無縁という自由なメディアでもあった。主力ジャンルは写真誌・実話誌・劇画誌だが、編集者には全共闘世代も多く、既存の枠に収まらない作家や表現が積極的に採用された結果、ニューウェーブ系のサブカル誌が次々に登場した。たとえば『劇画アリス』(アリス出版迷宮)は、三流劇画ブームの一角を担ったほか、メジャー誌から自販機本に進出した吾妻ひでおは『少女アリス』(アリス出版)に画期的なロリコン漫画を連載する[189]

    このように1970年代末には、既成の出版文化から逸脱したサブカル・アングラ誌が続々と登場し、独自の文化を形成していた。そんな端境期に出現したのが、伝説的自販機本『Jam』『HEAVEN』(エルシー企画アリス出版群雄社出版)である。メディアマンの高杉弾(『Jam』『HEAVEN』初代編集長)山崎春美ガセネタTACO)らによって1979年3月に創刊された『Jam』は、20世紀末の日本で花開いた「鬼畜系」の元祖的存在とされた[190][191][192]。特に『Jam』創刊号の爆弾企画「芸能人ゴミあさりシリーズ」では、山口百恵の自宅から出たゴミを回収し、電波系ファンレターから使用済み生理用品まで、誌面のグラビアで大々的に公開したことから物議を醸した(雑誌上のゴミ漁り企画は、アメリカ合衆国のアンダーグラウンド・マガジン『WET』〈1976-81〉のゴミ漁り企画が元祖である)。また同誌では、ドラッグパンク・ロック神秘主義臨済禅シュルレアリスムフリーミュージックヘタウマ蛭子能収渡辺和博)などオルタナティブ・カルチャーを縦横無尽に取り上げ、知性と諧謔と狂気が交錯するパンクな誌面を展開した。

    1980年代に特異なサブカル誌がエロ本などから出現した背景について大塚英志は「全共闘世代が〈おたく〉第一世代に活動の場を提供する、という形で起きた」と指摘しており[193]、これに関して高杉弾も「あの頃は自販機本の黄金期で出せば売れるという時代だったから、僕らみたいなわけの分からない奴にも作らせる余裕があったんだね。それに編集者は全共闘世代の人が多かったから、僕らみたいな下の世代に興味を持ってくれたんだと思うよ。それで『Jam』や『HEAVEN』を作ったんだよね」と述懐している[194]。その後、自販機本より過激なビニ本の台頭、全国に飛び火したPTA警察による弾圧運動などで、自販機本は急速に姿を消す。しかしながら『Jam』『HEAVEN』のアナーキーな精神は、アリス出版から分派した群雄社を経て、白夜書房コアマガジン系のアダルト雑誌に引き継がれていった[187]。今日『Jam』『HEAVEN』は、伝説の自販機本として神話化されている[195]

    鬼畜系文筆家の草分け的存在である青山正明村崎百郎も『Jam』の影響を強く受けた。青山は、キャンパスマガジン『突然変異』(慶応大学ジャーナリズム研究会→突然変異社)を創刊[注 6]。村崎百郎は『Jam』からヒントを得て「鬼畜のゴミ漁り」というスタイルを後に確立する[196]

    80年代の死体ブーム[編集]

    1980年代前半には“都市環境が美化された結果、死体が見えなくなったことに対する反逆”として局所的な死体ブームが起こった[201]。写真週刊誌『FOCUS』(新潮社)に創刊号から連載され、わずか6回で打ち切られた藤原新也の『東京漂流』では、ガンジス川の水葬死体に野犬が喰らいつく写真に「ニンゲンは犬に食われるほど自由だ」というキャプションが添えられた。これはコマーシャリズムによって異物を排除する志向が広く浸透した、現代社会に対する痛烈なアンチテーゼである。

    1982年にはインディペンデント出版社のペヨトル工房が刊行する耽美系サブカルチャー雑誌『夜想』5号で死体を通した文明論や異常心理に関する考察をまとめた「屍体─幻想へのテロル」特集が組まれる。1984年にはビー・セラーズ[202] から死体写真集『SCENE』(中川徳章小向一實・芝田洋一選)が出版された[注 7]。これは法医学書や学術書の形を借りずに出版された日本初の死体写真集である。その後、同写真集に触発されたアリス出版編集部は『SCENE』の写真を転載し、自販機本『EVE』に根本敬の死体写真漫画『極楽劇場』を連載する(1991年に青林堂から刊行された根本敬初期作品集『豚小屋発犬小屋行き』に収録された)[204]

    その他にも大手出版社の写真週刊誌では、自殺した三島由紀夫岡田有希子の死体写真、また日航機墜落事故山岳ベース事件の遺体写真が大写しで掲載された[205]。1985年6月18日には豊田商事会長の永野一男が、約30名の報道陣の前で自称右翼の男に日本刀で刺殺され、その様子が全国の茶の間に生中継された[206]

    1981年には白夜書房スーパー変態マガジンBilly』を創刊。当初は芸能人インタビュー雑誌だったが全く売れず路線変更し、死体や奇形、女装にスカトロ、果ては獣姦・切腹・幼児マニアまで何でもありの最低路線を突き進んだ。その後も一貫して悪趣味の限りを尽くし、日本を代表する変態総合雑誌として、その立ち位置を不動のものにしたが、度重なる条例違反や有害図書指定を受け、誌名を変更するなどしたが全く内容が変わっておらず、1985年8月号をもって廃刊に追い込まれた[207]


    全盛期(1990年代)

    90年代のドラッグ・カルチャー[編集]

    90年代悪趣味カルチャー(青山正明らの登場)[編集]

    1989年、MONDOを日本に紹介したメディアマンの高杉弾はMONDOについて「アメリカのアングラでもサブカルでもない、政治性を持たないマヌケな文化」または「けっして新しくもカッコ良くもオシャレでもないけど、なんだか人間の普遍的なラリパッパ状態を表現する暗号的な感覚」と定義し「ポップでありながら繊細ではなく、間抜けでありながら冗談ではなく、人を馬鹿にしつつも自らがそれ以上の馬鹿となり、ときにはぜーんぜん面白くなかったりもしながら、しかし着実に生き延びていった」と評している[208]。 高杉弾は、MONDOの条件として「間が抜けている」「あまり面白くない」「安っぽい」「組み合わせの妙」「ややスケベ」「脳天気」などを掲げている[208]。高杉弾は、MONDOを取り巻く関連用語には「無意識過剰」「奇想天外」「天然」「不思議」「電波系」「へんてこ」「まぬけ」「ディープ」「B級」「Z級」「ポップ」「チープ」「トラッシュ」「ローファイ」「スカム」「キッチュ」「ビザール」「キャンプ」「フリーク」「ウィアード」「ストレンジ」「クィア」「エキゾチカ」「バッド・テイスト」などがあるとした(いずれも世紀末に再注目された)[208]

    また1993年に朝日新聞は「キワモノともジャンク(廃品)とも称される作品」「どういうつもりで作ったんだと、思わず製作意図を問いただしくなるような、音楽や映画」「懸命に作って、結局とんでもないものができてしまった、そんな間抜けさが受けている」とMONDOを要約した[209]


    バブル景気が崩壊した1993年頃から自殺や死体など「危ない書籍」に大衆的な注目が集まるようになっていった[210][211]

    1992年に青山正明が上梓した日本初の実用的なドラッグマニュアル『危ない薬』(データハウス)は10万部を超えるヒットとなった[212]

    1993年に鶴見済が発表した単行本『完全自殺マニュアル』(太田出版)はミリオンセラーを記録する[210]

    BD - 1993年1月創刊のミニコミ誌。『突然変異』の影響を色濃く受けており、結果的に1990年代の悪趣味ブームを先取りした。編集長はデザイナーこじままさき吉田豪早川いくを枡野浩一リリーフランキー根本敬らが寄稿し、全15号を発行(1・3・4号は欠番[213])。

    宝島30 - 宝島社発行の月刊オピニオン雑誌。初代編集長は町山智浩1993年6月創刊。政治からサブカルチャーまでテーマは広く、オウム特集や『SPA!』決別時の小林よしのりインタビュー、根本敬の連載『人生解毒波止場』など攻めた内容が多い。爆笑問題が連載していたコラム『爆笑問題の日本原論』は30万部を超えるベストセラーにもなった。1993年8月号では宮内庁守旧派による皇室内幕の告白手記を掲載し、右翼による銃撃事件に発展した[214]。1996年6月休刊。

    アロマ企画直営の「高円寺バロック」跡地。1994年10月開店。タコシェ模索舎トライアングルと並ぶ日本四大カルトショップのひとつ。ヴィレッジヴァンガードのエログロ版といった趣。1990年代の鬼畜・悪趣味ブームの波に乗り、インディーズAV総合ショップから鬼畜系総合モンド・ショップへと変貌を遂げた。1995年以降は『危ない1号』『SPA!』『GON!』などでも特集が組まれ、最盛期にはタイの犯罪専門誌『アチャヤーガム』をはじめとする死体関連グッズや猟奇殺人鬼グッズ、山野一丸尾末広日野日出志など青林堂発行のガロ系漫画、ボンテージビザール関連商品、アロマ企画のオリジナルビデオ、フェチ系のアダルトビデオなどのカルト商品が多数陳列されていた。

    1994年には『Billy』元編集長の小林小太郎奇形&死体雑誌『TOO NEGATIVE』(吐夢書房)を創刊。隔月刊雑誌。初代編集長は元『Billy』編集長の小林小太郎。本誌では1990年代の『Billy』を標榜し、SMボンデージを主軸にしつつ撮り下ろしの死体写真も多数掲載して死体写真家の釣崎清隆を輩出した。1994年10月から2000年1月まで発禁による中断を挟みながら全13冊を刊行したが、新創刊した7号(1997年1月)以降、小林は編集に関わっていない[215]キャッチコピーは「禁じられた絵本」。同誌では死体写真家の釣崎清隆を輩出し、画家のトレヴァー・ブラウンが起用された。

    1994年、初代『SCENE』編集者の芝田洋一によってアルバロ・フェルナンデスの写真集『SCENE―屍体写真集 戦慄の虐殺現場百態』(桜桃書房)が発刊され[203]、定価1万5千円で2千部を売り上げた[216]

    1994年4月、海外タブロイド誌『Wilkly World News』をモチーフとした世紀末B級ニュースマガジン『GON!』が創刊(1996年6月にはコンビニ向けに月刊化された)。

    1995年ー転機[編集]

    戦後最大の都市型大災害、阪神淡路大震災(1995年1月)
    戦後最悪の無差別テロ、地下鉄サリン事件(1995年3月)

    1995年には阪神淡路大震災地下鉄サリン事件などの重大事件が立て続けに発生しており、それらに起因する一連の社会現象が悪趣味ブームと深く関わっているとされる[217]。特に1995年は「インターネット元年」[218] と呼ばれるように社会環境が大きく移り変わっていった激動の年でもあり[217]宮沢章夫はこれらの事象による社会の混乱や不安定な情勢が、ある種の世紀末的世界観や終末的空気感を醸し出している悪趣味ブームの土壌になったことを指摘している[217][219]。また宮沢は自身が講師を務めるNHK教育テレビ教養番組ニッポン戦後サブカルチャー史Ⅲ』の最終回(2016年6月19日放送)において1995年を「サブカル」のターニングポイントと定義し、根本敬村崎百郎をはじめとする90年代の鬼畜系サブカルを取り上げている[217]

    鬼畜系/電波系ライター・村崎百郎の登場 1993年のライターデビューと1995年本格登場[編集]


    1990年代中頃になると鬼畜系サブカルチャーが鬼畜ブーム・悪趣味ブームとして爛熟を迎え、不道徳な文脈で裏社会やタブーを娯楽感覚で覗き見ようとする露悪的なサブカル・アングラ文化が「鬼畜系」または「悪趣味系」と称されるようになった[220]

    青土社発行の芸術総合誌『ユリイカ』1995年4月臨時増刊号「総特集=悪趣味大全」では文学や映画、アートにファッションなどあらゆるカルチャーにキッチュで俗悪な「悪趣味」という文化潮流が存在することが提示され、これを境に露悪趣味(バッド・テイスト)を全面に押し出した雑誌やムックが相次いで創刊され一大ブームとなる。

    鬼畜系」という言葉自体は、1995年7月に創刊され「鬼畜ブーム」の直接的な引き金となった『危ない1号』(東京公司編集/データハウス発行)周辺から生まれた1990年代の特徴的なキーワードおよびムーブメントである。

    このブームを代表する1995年7月創刊の鬼畜系ムック『危ない1号』(東京公司データハウス)ではカルトグルハッサン・イ・サバーの「真実などない。すべては許されている」という言葉が引用された。『危ない1号』では「妄想にタブーなし」を謳い文句に「鬼畜系」を標榜し、ドラッグ・強姦・死体・ロリコン・スカトロ・電波系・障害者・痴呆・変態・畸形・獣姦・殺人・風俗・読書・盗聴・テクノ・カニバリズム・フリークス・身体改造・動物虐待・ゲテモノ・アングラサイト・カルト映画・カルト漫画・ゴミ漁り・アナルセックス・新左翼の内ゲバ・V&Rプランニング青山正明全仕事まで、ありとあらゆる悪趣味を徹頭徹尾にわたり特集した。鬼畜・変態・悪趣味が詰め込まれた同誌はシリーズ累計で25万部を超える大ヒットとなり[注 8]、初代編集長の青山正明は鬼畜ブームの立役者とみなされた[220][223]

    結果として『危ない1号』は鬼畜本ブームの先駆けとなり、次に掲げるような後発誌も続々と現れた。

    • 週刊マーダー・ケースブック』 - 全世界の特異な殺人事件を扱う海外の週刊誌。日本語版は1995年10月創刊。監修は精神科医作田明。1997年8月の終刊まで全96号を刊行した。省心書房デアゴスティーニ・ジャパン発行。
    • 世紀末倶楽部』 - 1996年6月創刊。土屋静光編集。テーマは死体、フリークス、殺人鬼、見世物、解剖、レイプ、暴力、病気、事故、戦争、宗教儀式、法医学、胎児などで当時の悪趣味ブームの集大成的内容となっている。創刊号は1冊すべて「チャールズ・マンソンシャロン・テート殺人事件」特集。コアマガジン発行。見世物小屋的な扇情主義の編集方針で、死体や奇形などの猟奇写真を大量に掲載しており、ほぼフリークスの写真集となっている。第2巻には『危ない1号』編集長の青山正明によるインタビューとフリークス映画の全ガイドが掲載されており、当時の鬼畜/悪趣味ブームの集大成的な内容となっている[224]1999年までに全4冊が不定期刊行され、2000年CD-ROM版を最後に事実上の終刊。
    • BUBKA』 - 1997年1月創刊。コアマガジン白夜書房発行。創刊当初は先行誌『GON!』(ミリオン出版)の典型的な亜流誌だったが、のちに鬼畜系からアイドル雑誌に転向した(鬼畜系路線は兄弟誌『裏BUBKA』『実話BUBKAタブー』を経て『実話BUNKAタブー』に継承された)。
    • 『BAD TASTE』 - マイノリティを主眼に置いた悪趣味雑誌。フロム出版東京三世社発行。
    • 別冊宝島シリーズ
      • 別冊宝島228『死体の本―善悪の彼岸を超える世紀末死人学!』
      • 別冊宝島250『トンデモ悪趣味の本―モラルそっちのけの,BADテイスト大研究!』
      • 別冊宝島281『隣のサイコさん―電波系からアングラ精神病院まで!』
      • 別冊宝島356『実録!サイコさんからの手紙―ストーカーから電波ビラ、謀略史観まで!』

    この時期の悪趣味ガイド本としては次のようなものがある。

    • カルト漫画のガイドブック『マンガ地獄変』(1996年〜1998年/水声社)および、宇田川岳夫編『マンガゾンビ』(1997年/太田出版
    • 宇田川岳夫著『フリンジ・カルチャー ―周辺的オタク文化の誕生と展開』(1998年/水声社)
    • デヴィッド・ケレケス+デヴィッド・スレイター『キリング・フォー・カルチャー ―殺しの映像』(1998年/フィルムアート社)

    1995年、映画秘宝創刊-悪趣味映画劇場[編集]

    MONDOとはイタリア語で「世界」を表し[要出典]、未開地域の奇妙で野蛮な風習を虚実ないまぜに記録したモンド映画世界残酷物語』(1962年)のヒットにより世界中で定着した(原題の「MONDO CANE」は、イタリア語の定句で「ひどい世界」の意)。モンド映画とは世界中の奇習・奇祭などをテーマにした映画で、エログロ満載のショッキングな映像で観客の好奇心を惹きつけておきながら「狂っているのは文明人のほうだ」と、取ってつけたような文明批判や社会批判を盛り込んだ、社会派きどりのモキュメンタリー・猟奇趣味的なドキュメンタリーである。その後、MONDOという概念はアメリカで独自の発展を遂げ、単なる世界から「奇妙な世界」「覗き見る世界」「マヌケな世界」へと語義が変化し[208]、奇妙な大衆文化を包括するサブカルチャーの総称、ないし世間的に無価値と思われている対象をポップな文脈で再評価するムーブメントとして扱われるようになった。

    • 1995年7月 - 町山智浩田野辺尚人が合流し、映画雑誌『映画秘宝』(洋泉社)シリーズを創刊。第1弾は「エド・ウッドとサイテー映画の世界」。当初はA5判ムックであったが、1999年にA4判の隔月刊映画雑誌としてリニューアルし、2002年より月刊化。
    • 国内外のモンド映画を体系化した、映画秘宝ムックシリーズ『悪趣味洋画劇場』『エド・ウッドとサイテー映画の世界』『悪趣味邦画劇場』(1994年〜1995年/洋泉社


    このように鬼畜/悪趣味を前面に押し出した雑誌・週刊誌・月刊誌・隔月刊誌・ムック・単行本が相次いで出版されるようになり、ますますブームの過熱を煽っていった[215]

    ばるぼらは鬼畜ブームについて「95年に創刊した『危ない1号』(データハウス)を中心に流行した、死体や畸形写真を見て楽しんだり、ドラッグを嗜んだりと、人の道を外れた悪趣味なモノゴトを楽しむ文化」と定義し、「元々『完全自殺マニュアル』のベストセラー化をきっかけに『死ぬこと』への関心が高まり、死体写真集などの出版で『死体ブーム』とでも言うべき状況があったが、同じ頃『悪趣味ブーム』も並行して起こり、それらの総称として現れたキーワードが『鬼畜』だった。『危ない1号』の編集長、青山正明氏の出所記念イベント『鬼畜ナイト』(96年1月10日)が“鬼畜”のはじまりかと思う」と解説している[215]

    鬼畜系雑誌の衰退~1999年2ちゃんねる開設、2001年青山正明の自殺、2010年村崎百郎の刺殺[編集]

    鬼畜系雑誌の衰退[編集]

    1996年1月10日には『危ない1号』関係者が総決起した、7時間にも及ぶ伝説的トークライブ『鬼畜ナイト』が新宿ロフトプラスワンで開催された。これを鬼畜ブームの出発点と見る向きも多い[225][215]。以後、一般的には嫌悪・憐憫の対象になるものをモンド視点で消費する風潮が加速する。例えば『GON!』『BUBKA』『世紀末倶楽部』『TOO NEGATIVE』『週刊マーダー・ケースブック』『別冊宝島』『危ない28号』など、見世物的好奇心や、覗き見趣味を煽ったサブカル雑誌が人気となった。コミック方面でも、読み物ページが格段に増え、総合サブカル誌としての傾向が強くなっていった『ガロ』(青林堂)が再注目されたほか、因果者(ダメ人間)を徹底的に観察した根本敬の人間紀行『因果鉄道の旅』『人生解毒波止場』『ディープ・コリア』が聖書的存在となる。

    週刊SPA!編集部は、鬼畜ブーム特集「鬼畜たちの倫理観──死体写真を楽しみ、ドラッグ、幼児買春を嬉々として語る人たちの欲望の最終ラインとは?」(1996年12月11日号所収)で「鬼畜系」について「モラルや法にとらわれず、欲望に忠実になって、徹底的に下品で、残酷なものを楽しんじゃおうというスタンス」と定義した上で「死体写真ブームから発展した悪趣味本ブームの流れとモンド・カルチャー[2] の脱力感が合流。そこに過激な企画モノAVの変態性が吸収され、さらにドラッグ、レイプ、幼児買春などの犯罪情報が合体した」ことを踏まえながら「インターネットの大ブームにより、過激なアンダーグラウンド情報が容易に入手できるようになったのも、この流れを加速させた要因だろう」と大まかな流れを概説している[226]

    1997年には『危ない1号』『週刊マーダー・ケースブック』愛読者の酒鬼薔薇聖斗神戸連続児童殺傷事件を起こし[227]、悪趣味系のサブカルチャー書籍を棚から撤去する書店が続々と現れた[228]。1999年5月には「ハッキングから今晩のおかずまで」を手広くカバーする日本最大級の匿名掲示板2ちゃんねる」が西村博之によって開設され、鬼畜系のシーンは出版文化からインターネットに移行・拡散する形で消滅した。時期を同じくして鬼畜系/悪趣味系に属するサブカルチャー雑誌の廃刊や路線変更が相次ぎ、1999年の『危ない28号』廃刊をもって悪趣味ブームは完全に衰退を迎えた。

    青山正明の自殺 (2001年)

    2001年6月17日、青山正明は自宅で首を吊って自殺した[229]。青山の没後、村崎百郎が明かしたのは、実際に『危ない1号』に関わった人間で本当に「鬼畜」な人間は、村崎本人以外に誰もいなかったという解釈である[210]。これについてばるぼらは「実際に『危ない1号』に関わった人間は、青山も含め鬼畜のポーズを取っていただけであって、つまり鬼畜ブームは実質、村崎一人によって作られたといえるだろう。ただ当時は『危ない1号』は鬼畜な人間が集まって作った、サイテーでゲスな雑誌であるというイメージ戦略によって売り出され、そして結果的に成功した」と解説している[210]

    その後、カウンターカルチャーあるいはムーブメントとしての実体を失った「鬼畜系」は、負の側面も含めて村崎が単独で引き受ける形となった。しかし、インターネットの加速的な普及に伴う出版不況によって、70年代末の自販機本から胚胎した「鬼畜系」は自然淘汰されていく。

    村崎百郎の刺殺 (2010年)[編集]

    2010年7月23日、村崎百郎は読者を名乗る男に東京都練馬区の自宅で48ヶ所を滅多刺しにされて殺害された。当初犯人は特殊漫画家根本敬を殺害する予定であったが、根本が不在だったため『電波系』(太田出版)の共同執筆者であった村崎の自宅に向かったという[230]

    男は犯行動機について「村崎の書いた本にだまされた」と供述し、住所は2ちゃんねるで調べたとした[231]。その後、犯人は精神鑑定の結果、統合失調症と診断され不起訴となり、精神病院に措置入院となった[232]

    2010年11月、村崎本人が遺した文章や関係者の証言などから綴った鬼畜系総括の書『村崎百郎の本』がアスペクトから刊行された。

    鬼畜系雑誌ブームの振り返り(2010年以降)[編集]

    ヘイトスピーチの源流説[編集]

    レイシストをしばき隊野間易通から鬼畜系批判が提起された。野間は、『危ない1号』などで青山正明が提唱した「すべての物語は等価」という社会構造の非対称性を無視する試みについて、ポストモダン以降の「大きな物語戦後民主主義高度経済成長に支えられた、社会全体で共有される統一的な価値観)の終焉」を可視化する目的があったと分析し、このような価値相対主義が“正義”をも相対化した結果、あらゆる道徳が価値を持たなくなり、それが現在のヘイト文化に継承されてしまった可能性を指摘した[3]

    野間と対立しているファシスト外山恒一も『危ない1号』が冷笑主義の系譜であることには同意見であり、「“宝島”系よりコアなサブカルの潮流があって、それは『ガロ』的なものと親和性があると思う。」「そういう“趣味”の連中って、本人は少数派でマニアックなセンスの持ち主だと思い込んでるんだろうけど、そんなもん典型的な多数派のメンタリティでしょ。反撃してこないと分かってる相手をからかって楽しむっていう、単なる“いじめ”のノリにすぎない。まさに“堕落したサブカル”だよ。」「野間さんが批判的なレッテルとしてよく“冷笑主義的相対主義”って云うじゃん。野間さんが批判すべきなのは相対主義ではなく冷笑主義のほうだと思うんだ。冷笑主義はたしかにヘイトスピーチの蔓延と関係ある。」と批判的見解を述べている[233][234]

    ロマン優光による90年代鬼畜系の総括(2019年)[編集]

    2010年代以降はSNSを中心に鬼畜系の功罪が論じられるようになったが、その強烈な語感からイメージのみが先行し、当時を知らない層には政治的な正しさの観点から必要以上に悪く思われ、否定的に扱われる節もある[235][236]

    90年代サブカルについて無責任な放言が跋扈することに強い危惧を持ったロマン優光は「90年代サブカルという特殊な文化を今の価値観で振り返り、怒り狂っているヤバい単細胞が昨今目立ちます。彼らによる考察ならびに反省は、一見まともでも的を射ていないものが実に多く、世間に間違った解釈を広めてしまう害悪でしかないのです」[237]と述べ、2019年に著書『90年代サブカルの呪い』(コアマガジン)を上梓した。この中でロマンは鬼畜系サブカルの出自と存在意義、および文脈が失われた過程と、語義上の留意点を次のように総括した。

    90年代というのは不思議な時代です。〔……〕建前が道徳的な機能を失っているのに、それはなかったことにして表面上だけ建前を優先する世界。綺麗事が蔓延し、綺麗なものしかメディアに出すことを許さない一方で、本音の部分では差別意識と搾取精神に溢れている。そんな時代です。当時はネットがそこまで発達していない状況で、一般の人が汚い本音を世間に撒き散らせる環境はなかったため、表面上は建前でコーティングされてました。〔……〕

    わかりやすく言うと、こういった社会に対して「そんな風に建前を言っているけど、本当は汚い欲望でいっぱいじゃないか。世界はこんなに汚いもので溢れている。お前らが覆い隠そうとしているような人間だって自分の人生を生きている」という風な異議申し立ての側面があったのが、「鬼畜系」だったのです。

    「鬼畜系」というものは90年代社会に対するカウンターであり、それは当時の状況の中で一定の意義があったものでした。しかし、同時に当時の人権意識の低さから自由ではなかったし、本人たちの意図してない受け入れられ方を多くされていくことで、瓦解していったのです[注 9] — ロマン優光『90年代サブカルの呪い』コアマガジン、2019年、30-31頁。
    ここで忘れてはいけないのは、「鬼畜系」はあくまで反道徳性、犯罪性の強いものを考察してたり、語ってたりするものを消費する文化であって、表面上に見られる読者へのあおりも基本ポーズであり、犯罪を犯すこと、反道徳的行為を実行すること自体を指していたり、それをみだりに推奨していたわけではないということです。そこは注意するべきところだと思います。 — ロマン優光『90年代サブカルの呪い』コアマガジン、2019年、12-13頁。

    また「鬼畜系」の派生元となった「悪趣味系」についてロマンは次のように定義した。

    90年代サブカルにおける悪趣味系というのは「価値のないもの、取り上げるに値しないものと見なされているものを、俎上にのせ再評価していくこと」をポップな文脈で楽しむという行為と、薬物、死体、殺人者などの情報を即物的に楽しむという行為の二つが混合されたムーブメントです。〔……〕視点の位置を変えることで対象に新しい意味を付加していき、それをポップなものとして提示するのが通例であり、「世間的に悪趣味な存在と見なされているもの」、「それを好むと世間的に悪趣味だとみなされるものを好むこと自体」をその対象に選んだのが悪趣味系ということです。悪趣味なことを実践していくことが目的ではなく、世間では悪趣味とされているようなものや行為を取り上げることに主眼がおかれているムーブメントだと考えれば、そう間違ってないのではないでしょうかね。 — ロマン優光『90年代サブカルの呪い』コアマガジン、2019年、20-21頁。

    ロマン優光は『危ない1号』とそれ以前の悪趣味の違いについて次のように述べている。

    危ない1号』第2巻が刊行される一年前である95年にユリイカ臨時増刊『総特集・悪趣味大全』(青土社)が刊行されており、現在よりはるかに硬めでハイカルチャー寄りの性質だった『ユリイカ』が特集を組んでしまうくらい、悪趣味系自体が当時のサブカルチャーの中の一つの大きなムーブメントであったわけですが、そこの中での差別化を図るために使われたフレーズが鬼畜だったということだと思います。『危ない1号』第2巻のテイストは非常に露悪的なものであり、その意図された露悪的でゲスい視点にオリジナリティがあったことで、それ以前の悪趣味文化との差別化に成功していました — ロマン優光『90年代サブカルの呪い』コアマガジン、2019年、11-13頁。

    またロマン優光オウム真理教事件阪神・淡路大震災などの影響で「たいした根はないけど変な終末『気分』になっていた人が増えていた」という状況にも触れ、「金銭や名誉、勉強やスポーツ、地道に文化を身につけるといったことから落ちこぼれたり、回避したりしながらも、他人との差異をつけたがるような自意識をこじらせた人たちが他人と違う自分を演出するためのアイテムとして、死体写真を使うようになった」と分析し、こうした潮流は自販機本に出自を持つアングラサブカルチャーを踏まえた界隈にも流れこんでいったとしている[239]

    青山正明の「すべての物語は等価」という試みについてロマン優光は「失敗に終わった」として次のように総括している。

    概念としては素晴らしいですよ。優劣をかってに決める社会に対して、優劣など存在しないということを言っているわけですから。この文章には感銘を受けた覚えはあります。

    しかし、全てが等価値だからといって、何をやってもいいということとは違うわけです。筒井康隆氏はフィクションとして、それをやっていたのですが、青山正明氏は現実をストレートに素材にしており、フィクションであるというワンクッションが置かれていないためにストレートに取られやすく、はるかに毒性に関しては強かったわけで。

    彼は無邪気でした。そして、内面には良識というものがしっかり存在していました。無邪気にその良識に逆らって反語的に遊ぶゲームに興じていただけなのだと思います。しかし、その無邪気さと良識ゆえに、世の中には良識が備わっていない人間が存在すること、そういう人間が自分の悪ふざけを本気にして真似しだしたらどうなるかということが想像できていなかったのです。それは悲劇でもあり、失敗でもあります。その結果起こった出来事は、繊細なインテリであった氏にとっては、大きなストレスになったでしょう。 — ロマン優光『90年代サブカルの呪い』コアマガジン、2019年、38-39頁。

    青山正明の死後もなお、村崎はサイバースペースにおける「言語ウイルス[注 10]に抵抗を続け[201]、ネット文化とは全く無縁の位置で「鬼畜系」を名乗り続けた。だが、村崎は同じギミックを芸風として使い続けた結果、自己模倣を繰り返して迷走する。これについてロマン優光は著書『90年代サブカルの呪い』(コアマガジン)で次のように推察した[243]。「それでも村崎氏が鬼畜の看板をおろさなかったのは、青山氏の死に対する思いからかもしれません[244]


    雑誌『宝島30』で根本敬の連載『人生解毒波止場』を担当した町山智浩は、90年代の鬼畜系について「80年代のオシャレやモテや電通文化に対する怒りがあった」「オシャレでバブルで偽善的で反吐が出るようなクソ文化[注 11]へのカウンターだった」という見解を示しており[245][246]根本敬村崎百郎が「すかしきった日本の文化を下品のどん底に突き堕としてやりたい」と心の底から叫ばねばならないほど、当時の日本文化は「健全で明るい抑圧的なオシャレ」ないし「偽善ファシズム」に支配されていたと述懐している[235][247]

    インターネット時代[編集]

    インターネット黎明期の掲示板カルチャー[編集]

    1970年代後半よりパーソナルコンピュータダイアルアップ接続通信の普及が始まった。IBM DOSがさらにPCの規格統一と一般化を促進し、1980年代以降はハッカー・カルチャーも生まれた。1985年には『The Hacker's Handbook』が発売されている。日本でもクラッキングのハウツーを解説した『危ない28号』『コンピュータ悪のマニュアル』(ともにデータハウス)がインターネット黎明期の1990年代末に出版された[248]

    インターネット(ネットワーク同士をインターネットプロトコルで繋いだグローバルネットワーク)普及以前は、特定のホスト局(サーバ)にユーザのクライアント端末からダイアルアップ接続する通信を利用したパソコン通信による電子掲示板草の根BBS)やネットニュースネットフォーラムコミュニティが1970年代に誕生し、1980年代に発達した。1980年代後半よりエロ画像を共有するグループが現れ、1989年頃にはSMトピックについて匿名で投稿するグループ (alt.sex.bondage) が現れ、以降エロ(特殊性癖や出会い系など)のようなセンシティブなトピックに関して匿名投稿が行われるようになった。1990年代前半には、匿名サーバや匿名メール転送サーバを利用した匿名投稿が普及し、匿名文化を誇るサイバーパンク文化も誕生した[249]。有名な匿名サーバには、Kleinpaste, Clunie and Helsingiu (Anon.penet.fri) があった。匿名サーバAnon.penet.friのように、1990年代前半にはすでにAnonymousを略してAnonと称したり、Anonimityを誇る言説が見られる[250]。1996年には、サイバースペース独立宣言が行われた[251]。こうして、カリフォルニア・イデオロギー (en) と呼ばれるIT革命による楽観的な未来予想図が生まれた。テックユートピアの思想は、後にオルタナ右翼の土壌となる[252]

    しかし、この初期の匿名文化は1990年代半ばまでには、ネット市民やシステム管理者の厳しい批判にさらされ、匿名投稿は削除されたり匿名サーバは閉鎖に追い込まれたりして、匿名文化はなかなか根付かなかった。1993年には、カルト宗教団体サイエントロジーのコンピュータからデータが盗み出され、匿名投稿者によってニュースグループに投稿され、サイエントロジーが運営者や通信事業者を訴えた。また、同年にはLifeStylesという掲示板で"Poo Bear"と"Wild One"という匿名投稿者によって児童ポルノが多数投稿され、警察による捜査によって投稿者が逮捕される事件も発生した[253]。同年には、PLAYBOY誌のエロ画像を集めた有名エロ系BBS「Rusty n Edie's BBS」が著作権侵害でFBIの家宅捜査を受けた。1996年にもBBS上で大量の児童ポルノを流通させた人物が逮捕されている[254]

    日本では1995年頃より、匿名掲示板の元祖といわれる草の根BBS「センターネット」やインターネットBBS「あやしいわーるど」などのアングラBBSが隆盛した。とくに大きなきっかけとなったのが、地下鉄サリン事件を題材にした不謹慎ゲーム霞ヶ関』である。このゲームが1995年夏にパソコン通信上で出回り、これを朝日新聞毎日新聞が同年10月26日夕刊で取り上げたことで、多くのメディアの注目を集めた[255]。こうした残酷ゲームは、1999年のコロンバイン高校銃乱射事件にも繋がったとの分析もある。当時、このゲームを所有していた「しば」は、このソフトを配布する目的で「あやしいわーるど」という掲示板を起ち上げ、90年代末において日本最大の規模を誇るアンダーグラウンドサイトとなる[215]。これらの匿名ニュースグループやBBS文化は、2ちゃんねるあめぞうがルーツ)や4chanなどの巨大匿名掲示板文化につながっていく。

    ジャーナリストの清義明は、リバタリアン的な自由至上主義ポストモダン的な価値相対主義をベースとする、インターネットの反体制的匿名文化が、後のポスト・トゥルース時代において、オルタナ右翼やトランプ現象などのカウンターカルチャーを生み出したと指摘している。

    もともと90年代のネットでは「真実などない。すべてが許されている」という世界に、「アイロニカルな没入」をすることが、ひとつの思考実験的なものだった。職業と生活の分離からなる「市民社会」的常識から、さらにメタで分離した匿名のネット空間は、そんな混沌魔術の実験場だったわけだな。ところが、その実験は成功してしまうものも出来てきた。あたかもオウム真理教が、誰もがフィクションとおもっていたものが現実化したように。真実はなにもないというのは、なんであっても真実であるということと同じというレトリックが、現実として定着化したということ。この混沌魔術のメカニズムだと、ネットは仮想空間で現実ではないという言い分けは成立しない。仮想が現実化するのだから。アーリーアダプターがネタとして消費していたものが、繰り返されていくうちに現実となっていく流れだ。言霊の世界である。こういう流れはネットの混沌魔術は、世界中で起きていることであって、特に4chanからオルタナ右翼が生み出され、それがトランプ現象を駆動させた一連の光景は、むしろ日本から10年程度遅れているものと見てもよいと思われる。おそらくネットの匿名のコミュニケーションの形態と密接な関係がある。〔……〕もちろん、だから匿名から顕名にするべきとか、ネットの議論は必ずモデレーションされるべきとか、単純なバックミラー的な結論に集約できないところに、ネットの絶望的な未来の難易度がある。能天気に匿名は権威への反抗というようなロマンスを語る輩もまた絶望的である。 — 清義明のツイート(2021年11月24日)

    インターネットと悪趣味[編集]

    1990年代には、ポルノ、スカトロ、暴力場面、侮辱、苦痛、卑語など扱うショックサイトなるものも誕生した[215]。こうして、インターネットポルノアダルトサイト)、アダルトゲームとともにアングラネットが隆盛する。その極みであるダークウェブでは、ドラッグや児童ポルノなど様々な犯罪コンテンツが販売されている[256]

    1996年には事故死体・検死・殺人シーンなどを集めたRotten.comが立ち上がり、同年4月には日本初と推定されるグロサイト「Guilty」が開設され[215]、同年5月には高杉弾のWEBマガジン《JWEbB》が創刊される[257]。同年11月には北のりゆき(現代版『腹腹時計』の異名をとる危険図書『魔法使いサリン』〈冥土出版・1994年12月〉で一躍有名になった『危ない1号』と『危ない28号』のライター。別名義に死売狂生・行方未知など)主宰の危険文書サイトの最左翼遊撃インターネット」がスタートした。

    • 『危ない1号』に寄稿した北のりゆきは、元新左翼の立場から以下のように述べている。
    昭和20年ごろに生まれた団塊の世代と呼ばれる人たちは、学生になると大学の校舎を占拠して機動隊に投石したり、ドロップアウトして女の子と下宿で同棲をはじめたりと自堕落な生活を送っていました。今から30年ほど前、1970年前後のことです。結婚前にセックスをしてもよいことになったり、LSDやマリファナが有名になったり、バクダンがポピュラーになったのもこの世代の人たちの功績(?)なのです。
    オレはこの時代が大好きですっかりあこがれてしまい、バブル景気のころは時代遅れのヘルメットと覆面スタイルでデモに参加して機動隊とこぜりあいを繰り返したものでした。そうして危険文書に出会い、収集をはじめたのです。将来の武装闘争の参考になる(笑)などと理屈をつけていましたが、今から考えると単にあやしげで、いかがわしくて、青臭くて、キケンで、ドロドロと臭ってくるような危険文書が、好きだっただけなのかもしれません。[258]

    1997年にはスーパー変態マガジン『Billy』『TOO NEGATIVE』元編集長の小林小太郎が運営していた死体写真ギャラリー「NG Gallery」の WEBサイト や漫画誌『ガロ』の裏サイト「裏ガロ」が本格始動する[215]

    1998年には、10万部以上[248] を売り上げたハッキング本『コンピュータ悪のマニュアル』の著者・KuRaReを編集長に『危ない1号』の事実上後継誌『危ない28号』がデータハウス鵜野義嗣によって創刊される(これについてばるぼらは「90年代雑誌文化のサブカルの流れをコンピューター文化が引き継いだ」と指摘している[259])。同誌はハッキング、ドラッグ、兵器、安楽死など様々な違法・非合法行為のハウツーが記載された危険情報満載のムック本で『危ない1号』に次ぐヒットを飛ばしたが、発売前の段階にもかかわらず有害図書指定を受けるなど自治体からの風当たりも強く、KuRaReは「どんだけ何も見てない連中なんだよ。そうやって仮想の敵をやっつけて良いことをしたと思う自慰的行為」「28号は意識的に有害図書指定になろうとしてたので、別にいいのですが」等と述懐している[260]。そして2000年1月に浦和駅東海村大阪府で発生した一連の連続爆発事件で、犯人が同誌を参考に爆発物を製造したと供述[261] した結果、『危ない28号』は全国18都道府県で有害図書指定され[262][263]、発行済みの第5巻(1999年11月発行)を最後に廃刊を余儀なくされた。

    初期インターネットのアングラカルチャーは1996年のアダルトサイト摘発、1999年の通信傍受法成立と悪趣味ブームの終焉、そして2000年の不正アクセス禁止法が決定打となり、一旦は衰退した[215][264]

    またインターネット上でも死体や畸形画像が、いつのまにか『ありふれたもの』になってしまい、1999年以降はテイストレスに興味を持つ人口も減少したようで、死体や奇形など悪趣味に特化したグロサイトは殆ど作られなくなった(テイストレスサイトの総本山だった「下水道入口」も1999年6月17日付で閉鎖している)[215]

    しかし、インターネットの特性故に海外からの情報を防ぐことはできなかった。2004年にはイラク日本人青年殺害事件映像が出回り[215]、2008年12月には、殺人行為を記録した『ウクライナ21』(Dnepropetrovsk maniacs)と呼ばれるホームビデオショックサイトに流出し、誰でも閲覧が可能となった。報道では、ドニプロペトロウシクに住む19歳の若者2人組が、2007年夏の約1ヶ月間で21人を快楽目的で殺害したとされている[265]。また「殺害映像は販売する予定であった」との証言もあることから、これは有史初のスナッフフィルムであるとされている[266][267]

    時期を同じくして閲覧者にトラウマを与えかねない有害なWEBサイト/精神的ブラクラの総称として「検索してはいけない言葉」が日本で定着した。『POSO』『ウクライナ21』『生きたメキシコ』などのグロ動画はその代表格である。現在、まとめWikiに登録されている言葉は2100以上にのぼる。

    SNSや動画サイトの普及により、迷惑行為の現場を投稿するバイトテロバカッター迷惑系YouTuberも登場した。

    また以下も悪趣味動画の一例として挙げられる。

    村崎百郎の師匠筋にあたるペヨトル工房主宰者の今野裕一も村崎百郎の存在意義が2ちゃんねるの台頭により喪失したことを次のように指摘した。

    あの頃、ああいう悪意というものの存在を世の中にリードするような位置に彼(村崎百郎:引用者注)はいたんだと思う。彼が出てきてから数年後に2ちゃんねるのような剥き出しの悪意がそのまま出てくるメディアが現れる。この現状は、彼をものすごく書きにくくさせてたんじゃないかと思う。その意味で、もう村崎百郎の仕事は一旦区切りをつけて、新しい仕事に移行しなきゃいけなかった……違う形で脱皮して、あいつの書く姿勢が変わってくればよかったんだけど。あと、あいつはどちらかというとライターよりは編集者の資質が勝っていた気がするんだよね。電波にしろ鬼畜にしろ「これからはこの辺のものがくるぜ」ってセッティングして、その果てに『危ない1号』とかあったわけでしょう。あれが2ちゃんねるの登場によって、雑誌としてやることではない、普通の人間がやるものに変わってしまった。みんながやってしまうものを黒田(一郎。村崎百郎の本名:引用者注)がやってもしょうがないので。 — 今野裕一インタビュー「村崎百郎が唯一、言うことを聞く、怖がる人間が僕でした」『村崎百郎の本』アスペクト、118-119頁、2010年。

    青山と交友があったデザイナーこじままさきも鬼畜系コンテンツが飽きられた理由に関して同様の理由を次のように述べている。

    昔はネットがなかったから、すべての情報には希少価値があって、ゲスなもの、社会から隠されてるものは人気が出た。でも本人(青山正明:引用者注)がそういうのが本心から好きだったとは思えないんです。比喩に出すんですが、人前で「てのひら」って言っても反応しないけど、「チンコ」「ケツの穴」っていうと反応するじゃないですか。それだけだと思うんですよね。僕はそれだけなんです。社会が隠そうとしてるものを表に出すから面白かっただけで、そのものに対する興味が、ってなるとそんなでもない。グロ画像をネットで自由に見られるような時代になったら、もう何の興味もないってことだと。〔……〕でも彼についての評価は、あの時代だったからってことはないと思いますよ、今読んでもクオリティはあるし、時代で消費されるようなものは作ってない。時代のあだ花と言われるのは心外です。でも説明は難しいですね、知らない若者に。 — ばるぼらある編集者の遺した仕事とその光跡 天災編集者!青山正明の世界 第84回 こじままさきインタビュー part3」(2010年6月13日配信/大洋図書Web事業部・WEBスナイパー)

    一方で石丸元章は「神田の三省堂書店の二階の便所の個室が伝言板になっていた時代もある」として当時の「便所の落書き」2ちゃんねるを好意的に評価し、アングラが廃れたのは、堀江貴文のようなインターネットビジネスマンが路地裏だったインターネットを表通りにしてしまったことが大きいと考えている。

    石丸:00年代以降はホリエモンを筆頭に、ネット発の起業家がたくさん登場して、「ネットでお金を稼ぐ」ということに世間の関心が集まっていきました。そしてそれこそが価値であるということになった。今に至ってもそうです。しかし、ホリエモンにしても、自分はまったく面白いと思わないんです。〔……〕
    石丸:それでいうと、自分はひろゆきは意外でしたね。彼はビジネスの人じゃなくて、松永さんとかと同じ類の人間だと思ってましたから。それが、いまや立派な金儲けの人になってる。
    松永:どうでしょう。あめぞうがピンチに陥ったときにまったく同じようなシステムを作ってできたのが2ちゃんねるですからね。ある意味では最初からマネタイズの人だったようにも思います[268]

    鬼畜系漫画[編集]

    エロマンガアダルトゲームにおいて、強制的な性行為(強姦)を強調した作品は「鬼畜系」(または陵辱系)と呼ばれ、これは度が過ぎるサディストを指した用語でもある。それに対して恋愛や合意の上での性行為を重視した作品は「純愛系」と呼ばれ[269]、いずれもオタク系の媒体で用いられることが多い[270]

    評論家本田透は「鬼畜系」について二次元世界に理想的な恋愛を見出そうとする「萌え」とは対極をなす概念と指摘し[271]監禁調教といったジャンルは90年代半ばまでがピークとして、ゼロ年代半ばでは一部のマニアにだけに支えられているとしている[272]

    エロマンガ統計屋の牧田翠[273]が行った定量分析によると、2010年代以降のエロマンガは、約6~8割が合意を得た和姦であり、強姦率は2割程度に過ぎない[274]。また最後まで読んで初めて和姦とわかる作品も多く、凌辱をテーマとして絞り込んだ作品は決して多くない[275]。鬼畜ものが縮小した背景として、コンビニ各社の自主規制が強化され、コンビニ誌では過度な暴力・薬物描写が敬遠されるようになったこと、あるいはスマホやSNSの普及で、読者の可処分時間と可処分所得が別の娯楽に割かれるようになり、腰を据えてエロマンガを読む人口が減ったことで興奮や刺激よりも「癒し」「気楽さ」を求める読者が増えたのではないかとする説がある[274]。また近年は雑誌ごとに「和姦のみ」「強姦のみ」と住み分けされる傾向も強く、牧田は「好みの先鋭化が行われている」「エロの分断が進んでいる」と憂慮している[274][276]

    絵柄および表現の特徴・類型[編集]

    細分化されたジャンル[編集]

    ロリコン・カルチャー

    ロリコン劇画/ハードロリ
    SM/ビザール
    特殊漫画
    ネオ劇画

    歴史[編集]

    1970年代後半から1980年代前半までのエロマンガは劇画タッチで、ハードなレイプ描写に主眼を置いた「エロ劇画」「三流劇画」が主流であった。またキャラクターも骨や筋肉の隆起が多く、決して可愛い絵柄でなかった。そんなバイオレンス劇画が幅をきかせてきたエロマンガが大転換を迎えるのは1979年、吾妻ひでお蛭児神建らが日本初の男性向け同人誌『シベール』を創刊したことで、コミックマーケットロリコン漫画の震源地となり、アニメ調の美少女キャラをモチーフにした、牧歌的なエロマンガが増え、表現の裾野は大きく広がった。その一方、ハードなレイプ物は相対的に減少した。

    しかし80年代後半になると、アニメ絵タッチの美少女系エロ漫画から、ハード/SM路線が目立ち始める。それまでも洋森しのぶ(みやすのんき)や牧村みき(エル・ボンテージ)によるエログロ系アニパロ漫画もあったが、それが「抜き」志向の創作ジャンルとして本格的に確立したのがこの頃からである。

    90年代前半には、有害コミック騒動の影響で「成年コミックマーク」が登場する。このマークが付いていると18歳未満への販売が禁止されるため、大手出版社は過激な性表現を抑えたが、裏を返せば多少修正が甘くても許されたため、中小零細系は差別化の意味も込めてマークを積極的に導入した。よって、この頃の美少女コミックはマイナー系ほど過激な描写が目立っている[277]。その中でも早見純玉置勉強町野変丸ゴブリン戸崎まことなどモンド・スプラッタ系の異色漫画家たちは、多田在良[278]編集のエロ漫画誌『COMICアットーテキ』『激しくて変』(ともに光彩書房)や一水社の単行本レーベル「いずみコミックス」を中心に活動した。

    1990年代に入ると、鬼畜と変態に特化した、おたく系の美少女コミック誌『月刊コミックフラミンゴ』『コミックMate』が登場する。また、中堅エロマンガ出版社からはSM/陵辱系アンソロジーが多数刊行された。この過程で自然発生的に成立したジャンルが「鬼畜系」「陵辱系」である。現在、鬼畜系・リョナ系の専門誌の多くは電子雑誌に移行している。

    一方で特殊漫画[279][注 12]の総本山である『月刊漫画ガロ』からは蛭子能収山田花子根本敬山野一平口広美ら特殊漫画家が登場する。彼らはアニメ絵とは縁遠い絵柄・作風であり、自販機本SM雑誌エロ劇画誌などのサブカル雑誌で活動した。特に滑稽さの入り混じる入念な表現で、人間のダークサイドを徹底的に描いた山野一[281][282][283]が『ガロ』に連載した『四丁目の夕日』と『ねこぢるうどん』(画:ねこぢる)は、鬼畜系サブカルコミックを象徴する作品となっている。

    構成要素[編集]

    鬼畜系は「NTR」「催眠」「時間停止」などソフト系から「輪姦」「孕ませ」「スカトロ」などハード系まで幅広い。下記に構成要素を列挙する。

    鬼畜系漫画家[編集]

    成人向け漫画の世界で自分の世界を築き上げる作家も多く、もちろん、性的描写を避けては描けない世界というものでもある。また一つには性的描写が必須であることを除けば、それ以外の表現はむしろ一般の雑誌より制約の少ない舞台であり、その自由度の高さから作家独自の嗜好によって特異ともいえる表現が追及され、一般誌では掲載不可能な作風を実現する作家も存在する。

    エロマンガ統計屋の牧田翠[273]は、鬼畜系(強姦傾向の作品)の判断基準を次のように定義している。

    刑法の強制わいせつの基準に基づき、強い拒絶(言葉、あるいは逃げようとする)がある場合や、アルコールを含む薬物等を使用して理性を失わせた状態である時に性行為を行う場合などを強姦と定義する。「女性からの強姦」についても強姦として定義して集計する。また、脅迫などによって本人の自由意志を大幅に奪って性行為に及ぶ際も強姦として定義する。ただし恋人同士である場合など、継続的に性関係を持っていると描写されている場合は、多少の抵抗(演技を含む)があっても基本的に和姦と判断する。強い拒絶がある場合のみ、恋人同士でも強姦とする[284]

    関連漫画雑誌[編集]

    アンソロジーコミック[編集]

    アダルトビデオに於ける鬼畜系[編集]

    V&Rプランニング[編集]

    バッキービジュアルプランニング[編集]

    アダルトアニメに於ける鬼畜系[編集]

    アダルトゲームに於ける鬼畜系[編集]

    関連年表[編集]

    1800年代[編集]

    1877年
    1894年

    1900年代[編集]

    1901年
    1904年
    1905年
    1908年
    • 10月20日 - 発行禁止命令に先立ち『滑稽新聞』が自殺廃刊。

    1910年代[編集]

    1910年
    • 2月 - 宮武外骨編『大阪滑稽新聞』第28号の控訴が棄却され、上告するも後に取り下げ、大阪監獄に入獄(4月26日)。
    1913年
    • 9月 - クラフト=エビング『変態性慾心理』(黒沢良臣訳、大日本文明協会)。
    1915年
    1917年
    • 5月 - 中村古峡が日本精神医学会を設立。診療部開設、治療開始。
    • 10月 - 中村古峡『変態心理』創刊。

    1920年代[編集]

    1922年
    • 5月 - 中村古峡が『変態心理』の姉妹雑誌として、田中香涯主幹で『変態性欲』を創刊(〜1926年2月)。
    • 7月 - 田中香涯『人間の性的暗黒面』(大阪屋号書店)。
    • 9月 - 梅原北明、雑誌『性と愛』(性愛社)で文筆デビュー。「日蓮主義より観たる恋愛憧憬」「戀愛と性教育に關して鎌田文相と語るの記」など真面目な記事を執筆。
    1923年
    • 9月1日 - 関東大震災。死体写真が絵葉書として流通するも発禁となる。
    1924年
    • 11月18日 - 梅原北明の処女単行本『殺人会社(前編)悪魔主義全盛時代』(アカネ書房、発禁)出版。後編は刊行されず未完。
    1925年
    • 4月 - 梅原北明訳、ボッカチオ著『全譯デカメロン(上)』(南欧芸術刊行会=朝香屋書店)出版。ベストセラーとなり重版されるも、同年10月に下巻が発禁(読売新聞14日付)。
    • 11月 - 伊藤敬次郎(朝香屋書店)が発行人となり、プロレタリア雑誌『文藝市場』(文藝市場社、代表者・梅原北明)創刊。創刊記念に、梅原北明、金子洋文村山知義らが、京橋の豊国銀行前で「原稿市場」と称し、直筆原稿を叩きうる即売会的なパフォーマンスを行う。
    1926年(大正15年/昭和元年)
    • 7月 - 梅原北明が文藝市場社内に「文藝資料研究会」を設立、叢書『変態十二史』刊行開始。
    『変態十二史』(文藝資料研究会)一覧
    号数 著者 タイトル 発行年月
    第1巻 武藤直治 変態社会史 1926年7月
    第2巻 村山知義 変態芸術史 1926年10月
    第3巻 藤沢衛彦 変態見世物史 1927年7月
    第4巻 井東憲 変態人情史 1926年9月
    第5巻 伊藤竹酔 変態広告史 1927年3月
    第6巻 澤田撫松 変態刑罰史 1926年7月
    第7巻 宮本良 変態商売往来史 1927年7月
    第8巻 梅原北明 変態仇討史 1927年5月
    第9巻 斎藤昌三 変態崇拝史(発禁) 1927年1月
    第10巻 青山倭文二 変態遊里史 1927年6月
    第11巻 藤沢衛彦 変態交婚史(発禁押収)
    →変態浴場史
    1927年2月
    1927年9月
    第12巻 藤沢衛彦 変態伝説史 1926年11月
    付録1 内藤弘蔵 変態妙文集 1927年10月
    付録2 井東憲 変態作家史 1926年12月
    付録3 斎藤昌三 変態蒐癖志 1928年1月
    • 9月 - 梅原北明『変態・資料』(文藝資料研究会)創刊。次いで『明治性的珍聞史(上)』刊行。
    • この年、モダンガールという言葉が新聞紙上に現れる。
    1927年
    • 1月 - 梅原北明『明治性的珍聞史(中)』刊行。特殊会員にのみ頒布された限定出版といわれるが、実際には相当多数発行された模様、下巻は未刊。
    • 1月 - ジョン・クレランド著、佐々木孝丸訳『ファンニー・ヒル』(文藝資料研究会編輯所、発禁)発行。
    • 2月14日 - 読売新聞が「『文藝市場』の一味 風俗壊乱で検挙される 身柄はひと先ず昨日釈放」と伝える。同紙にて「生方敏郎氏等を順次に取調、連累が多く当局驚く『文藝市場』の事件」と報道。ここでは北明一味がインテリの知識人として伝えられている。いわく「文芸市場内文芸資料研究会で編集した此種のものは幾百種に上り、当局でも其目録を眺めては血眼になつて探して居るが、何しろ資料提出者は相当世間に名の知れた文士連中であるので、今さらのやうに驚いて居る」。
    • 3月 - 『変態・資料』筆禍記念第6号「本號筆禍記念に題す」にて梅原北明が「合法的に喧嘩をする」と発言。
    • 5月 - 『文藝市場』が6月号より梅原北明の個人雑誌になる旨を報告、エログロ路線に転向する。
    • 5月 - 警視庁検関係の急襲等により、北明周辺の珍書屋が三派に分裂。北明は「文藝市場社」に残るが、上森健一郎は「文藝資料研究会編輯部」に、福山福太郎は「文藝資料研究会」に移行する。
    • 10月 - 北明の個人誌となった『文藝市場』は発禁に継ぐ発禁で立ち行かなくなり、9・10月合併号「世界デカメロン号」をもって終刊(発禁)。編集後記に「日本にいるのが全くいやになった。やれ警視庁でございやれ、内務省でござい等々……。尻の小さい小役人の横行する国。まったく日本は成っちゃいない。一九二七年八月三〇日、満支に旅立つに際して」との記述。「上海移転改題号」と称して『文藝市場』の後継誌にあたる『カーマシャストラ』(ソサイテイ・ド・カーマシャストラ)を創刊するも、全冊が発禁となる(第6号は頒布前に全冊押収され現存せず)。
    • 12月 - 性科学者・羽太鋭治著『医学上より観察したる児童の性慾生活』(南江堂)出版。性的な題材でも美術書や医学書は比較的大目に見られていたが、検閲官いわく「余りに実感を唆(そそ)る嫌(きらい)がある。加ふるに数多くの引例は卑猥にして、煽動的である」として発禁となった[293]
    1928年
    • 4月 - 『奇書』(文藝資料研究会)創刊、発禁。
    • 6月 - 『変態文献叢書』(文藝資料研究会)全8冊刊行スタート。
    • 6月 - 『軟派十二考』(文藝資料研究会編輯部)シリーズが菊判和装で発刊。
    • 6月 - 『変態・資料』廃刊。
    • 6月25日 - 中村古峡『変態性格者雑考』(文藝資料研究会『変態文献叢書』第3巻)刊行。テーマは「精神薄弱者の変態性格」「同性愛と半陰陽」「動物姦と児童姦」など。
    • 7月 - 思想取り締まりのため内務省警保局に保安課を設置。特高警察機関を設置。憲兵隊に思想係を設置。内務省警保局の図書課は検閲・調査・庶務の三部門となり、組織的検閲制度を強化。
    • 9月 - グロテスク社設立。代表者は梅原北明。
    • 12月 - 宮本良を編集人に『変態・資料』の後続誌として『変態黄表紙』(文藝資料研究会編輯部)創刊。創刊から3号連続で発禁。以後、発行が「南柯書院」へ変わる。綿貫六助、斎藤昌三らが執筆(1929年5月まで全4冊を刊行。南柯書院は1929年8月頃に消滅)。
    • この年、上海から帰国した梅原北明は、出版法違反で市ヶ谷拘置所に長期拘置される。 釈放後の11月に公刊雑誌『グロテスク』を創刊。 この頃から北明を中心に「談奇」という語が使用される。
    1929年
    • 2月 - 梅原北明のライフワークである古新聞漁りの集大成『明治大正綺談珍間大集成』上巻(中巻は6月、下巻は翌年6月)発行[294]。本書は出版に際して「梅原北明氏決死的道楽出版」「梅原北明、第三十一回の筆禍禁止勲章授与紀念報告祭に要する焼糞出版」と銘打たれた[120]。また利益を度外視した豪華な装丁ゆえに「一冊売るたび赤字」という事情が語られている[120]。曰く「金銭と云う観念を全く超越した装幀の贅沢さ、内容の極珍ぶりに、東京中の出版業者は、多分泡をふいて極度の妬みと嘲けりを投げ与える」だろうとの事[120]
    • 5月 - 『グロテスク』に「梅原北明罰金刑祝賀会」の様子が掲載[295]
    • 5月 - 『稀漁』(巫山房、編集兼発行人・大木黎二)創刊。毎号奥付の名義を変えながら4冊を刊行するも全冊発禁。創刊前段階では『猟奇』と題されたが、警視庁検閲課から相当な圧力を受け、誌名を改める。しかし度重なる検閲課による襲撃と原稿の押収、さらには編集人の急病により中絶を余儀なくされる[296]
    • 7月 - 乞食の生態を調査したフィールドワーク本『乞食裏譚』(石角春之助著、文人社出版部)発刊。
    • 8月 - 梅原北明により「談書館書局」が設立される。以後、北明は活動の軸足を「文藝市場社」から「談書館書局」に移す。
    • 12月 - 『猟奇画報』(編集兼発行者・藤澤衛彦、日本風俗研究会)創刊。
    • この年、当局による珍書屋の全面的討伐作戦。都内に30社残っていたゲリラ的な珍書屋が次々に弾圧され、内部分裂の末、無数の群少珍書屋が乱立する。

    1930年代[編集]

    1930年
    • 1月 - 『グロテスク』新年臨時増刊号にて「『人を喰った男の話』の評伝」と題した梅原北明特集が組まれる。北明について生方敏郎、大泉黒石、高田義一郎、今東光、鈴木竜二、和田信義、斎藤昌三らが評伝を執筆。
    • 3月 - 田中香涯『愛と残酷』『江戸時代の男女関係』(有宏社)出版。
    • 4月 - 赤木妖三『エロ・グロ・表現考』(エログロ・パンフレット第一輯、時代世相研究会)。
    • 4月 - 『風俗資料』(風俗資料刊行会、竹内道之助編、半年かけて全7冊発行)創刊。
    • 5月 - 酒井潔の個人誌として『談奇』(国際文献刊行会)創刊。創刊号巻末には「あまりにエロの為のエロには、もう吾々は背中を向けよう。談奇の世界は、そんなに狭いものではないのだから」とある。
    • 6月 - 犯罪心理学を建前とした猟奇雑誌『犯罪科学』(武侠社)創刊(〜1932年12月号)。地下本でなく公刊誌として刊行され、大衆の注目を集める。
    • 9月 - 猟奇文献雑誌『エロ』(猟奇社)創刊。全3冊を刊行するも、創刊号は発禁、第2号は未頒布、同年11月に2・3合併号を出すが、以後中絶。
    • 11月 - 平凡社から一円全集『世界猟奇全集』刊行(1932年まで全12巻)。
    • 11月 - 鳥山朝太郎(=梅原北明)『世界珍書解題』(日本蒐癖家協会、同一内容の書籍がグロテスク社より1928年11月に刊行済み)出版。
    • 11月 - 酒井潔『エロエロ草紙』(『談奇群書』第二編、竹酔書房、発行者=伊藤竹酔)発禁。
    • 12月 - 尖端エロ叢書と称した軟派小説シリーズ『何が女給をそうさせたか』『エロ戦線異状あり:女給の内幕バクロ』『巴里・上海エロ大市場』(法令館、尖端軟派文学研究会編)出版。
    • この年から「エログロナンセンス」「尖端」という言葉が流行。大手出版社も一般読者向けにエログロ出版に着手する。一方でエログロ出版の本家本元であった「文藝市場社」は春頃までに没落し、エリート主義を前面に出した活字中心の会員制活字雑誌、すなわち「高級エロ」は時代遅れとなっていく。
    1931年
    • 2月 - 高級エロ雑誌『デカメロン』(風俗資料刊行会)創刊(〜1932年5月)。
    • 2月 - 発禁となった『エロエロ草紙』の姉妹書としてドンプランナス・アレラ著、酒井潔訳『奴隷祭』(温故書屋)出版。
    • 3月 - 梅原北明『近世社会大驚異全史』(史学館書局、本書は『明治大正綺談珍間大集成』を1冊にまとめたもので、菊判1000頁余)。
    • 3月 - 『グロテスク』復活記念号(発禁)。同号には「近世現代全国獄内留置場体験」と称した座談会を収録。ここで北明は「(猥本出版を)止めた時分に世の中が案外そう云う様な時期になって実は僕としては、もう今日になってはエロだとかグロだとかの時代ではないと思う」と発言する[118]
    • 4月 - 『現代猟奇尖端図鑑』(新潮社)出版。
    • 6月 - 高田義一郎『変態性慾考』(武俠社『性科学全集』)出版。
    • 7月 - 山内一煥『変態エロ・ナンセンス』(第三書房)発禁。
    • 7月 - 時代世相研究会編『変態風俗画鑑』(時代世相研究会)出版。
    • 8月 - 酒井潔『獄中性愛記録』(風俗資料刊行会)。
    • 8月 - 赤神良譲『猟奇の社会相』(新潮社)出版。
    • 9月 - 柳条湖事件満洲事変)が起こる。
    • 9月 - 最末期の軟派雑誌『談奇党』創刊(洛成館、編集発行人=鈴木辰雄、発禁)。
    • 12月 - 『談奇党』第3号(発禁)に「好色文學受難録」と題した、珍書屋と軟派出版に関する資料を掲載。
    • この年、プロレタリア文学運動が大弾圧を受ける。
    1932年
    • 2月 - 高山彬『性慾五千万年史』(先進社)刊行。
    • 3月 - 警視庁は左翼・右翼の思想関係の出版物について「朝憲紊乱」を建前とした司法処分を強化、左翼雑誌の発禁が増加する。
    • 6月 - 『談奇党』廃刊。巻末に「談奇党遺言書」として後継誌が予告される。
    • 7月 - 竹内道之助編集の軟派雑誌『匂へる園』創刊(~1933年1月、風俗資料刊行会)。
    • 10月 - 『談奇党』の後継誌として『猟奇資料』(洛成館)刊行。創刊号で廃刊となる。
    • この年、梅原北明は性文献出版から完全に手を引いた。また文藝市場社から分派分裂した北明一味・珍書屋による軟派出版活動も事実上の終焉を迎える。
    1934年
    1935年
    • 2月 - 石角春之助『乞食裏物語』(丸之内出版社)刊行。
    • 3月 - 新興社編『世界結婚初夜秘話』刊行。
    • 7月 - 田中香涯『猟奇医話』(不二屋書房)刊行。
    • 10月 - 田中香涯『愛と残酷マゾヒスムス』(文芸刊行会)刊行。
    • この年、酒井潔がエロ研究・魔術研究に終止符を打つ。珍書・奇書類も売却し、郷里に隠棲。
    1936年
    1937年
    • 2月17日 - 死のう団事件発生。国会議事堂など5ヶ所で青年らが割腹自殺を試みる。
    • 2月20日 - 相馬二郎『変態風俗史料』第三版発行(金竜堂出版部、初版は1935年9月)。

    1940年代[編集]

    1945年
    • 8月15日 - 日本がポツダム宣言を受諾する。
    • 9月10日 - GHQが「言論および新聞の自由に関する覚書」を通達。進駐軍による報道制限、検閲開始。同9月21日に発布されたプレスコードは、その検閲基準を具体的に示したもの。
    • この年、梅原北明は、疎開先の自宅で連日花札賭博に励み、ウイスキーを密造。峯岸義一に「近いうち出版を始めるつもりだから頼むよ」と発言するも、翌年4月5日に発疹チフスであっけなく逝去する(満45歳)。この頃、酒井潔は自殺を決意し、青酸カリの入手を試みるも、思いとどまる。
    1946年
    • 10月 - カストリ雑誌ブームの先鞭をつけた『獵奇』(茜書房)が創刊される(1946年7月まで全5号を刊行)。
    • 12月 - 北川千代三の官能小説『H大佐夫人』が原因で『猟奇』2号が戦後初の発禁となる。ストーリーは徴兵忌避学生と大佐夫人が防空壕で結ばれるというもの。
    1947年
    • 10月 - 『奇譚クラブ』創刊(曙書房、大阪)。創刊号の表紙には、北明の雑誌『グロテスク』をオマージュした龍が描かれた。
    • この年、粗悪な仙花紙を使ったカストリ雑誌が急増する。

    1950年代[編集]

    1950年
    • 5月 - 『人間探究』(第一出版社)創刊。
    1955年

    1960年代[編集]

    1963年
    1964年
    • ガロ創刊。
    1968年
    • 9月 - 『奇譚クラブ』9月号扉に「本誌自粛の徹底」掲載(終刊号まで毎号掲載)。
    • 10月 - 「エロティシズムと残酷の綜合研究誌」と銘打たれた澁澤龍彦責任編集の高級エロ雑誌『血と薔薇』創刊(〜1969年6月)。

    1970年代[編集]

    1971年
    1976年
    1978年
    1979年

    1980年代[編集]

    1980年
    1981年
    • 3月 - 明石賢生社長の逮捕により『HEAVEN』廃刊。
    • 4月 - ロリータ、障害者、皇室などを取り扱い、鬼畜系サブカルチャーの原型となった伝説のミニコミ誌『突然変異』(慶応大学ジャーナリズム研究会→突然変異社)創刊。編集に慶大在学中の青山正明が参加した。後に作家の椎名誠が同誌に対して『朝日新聞』誌上で名指し批判を行ったほか、2018年になって野間易通が上梓した著書『実録・レイシストをしばき隊』(河出書房新社)の中でヘイトスピーチの源泉として「何でもありのポストモダン=1980年代」という構図があると仮定し、青山らが同誌で皇室も障害者も等価に茶化そうとした姿勢に「権威の頂点と弱者を同じレベルで茶化した場合、弱者には大きなダメージがいく」「等価という青山の視線は自分の行為にしか向いておらず、社会構造の非対称性は無視されている」と批判している。
    • 6月11日 - 佐川一政パリ人肉事件を起こす。
    • 6月17日 - 幼児を含む数名を殺傷した電波系による無差別殺人事件・深川通り魔殺人事件が起きる。犯人は初公判で読み上げた書状で「私が事件を引き起こしたのは、とても世間一般の常識では考えることのできない非人間的な、人間に対して絶対に行うべきではない、普通の人であったら一週間ももたないうちに神経衰弱になるだろう、心理的電波・テープによる男と女のキチガイのような声に、何年ものあいだ計画的に毎日毎晩、昼夜の区別なく、一瞬の休みもなく、この世のものとは思えない壮絶な大声でいじめられ続けたことが、原因なのであります」と語る。
    • 7月 - 蛭子能収の処女作品集『地獄に堕ちた教師ども』(青林堂)刊行。
    • 根本敬のデビュー作「青春むせび泣き」が『月刊漫画ガロ』(青林堂)9月号に掲載される。
    1982年
    1983年
    1984年
    1985年

    高杉弾青山正明蛭児神建[285]らが連載していたロリコン系サブカル雑誌『Hey!Buddy』(白夜書房)の増刊号『ロリコンランド8』が「少女のワレメわいせつ」として発禁・回収処分となった(読者投稿の犯罪写真や無修正のワレメが当局に問題視された)。本誌『Hey!Buddy』も“ワレメが出せないロリコン雑誌は、もはやロリコン雑誌ではない”として1985年11月号をもって自主廃刊する[309]。(その後はバブル時代の到来と共に、鬼畜系は約10年にも及ぶ長い冬の時代を迎えることになった。)

    1986年
    1987年
    1988年
    1989年

    1990年代[編集]

    1990年
    1991年
    • 3月 - バブル崩壊
    • 4月26日 - カルト映画に定評がある映画配給会社「アルバトロス」設立。
    • 中森明夫赤田祐一が『週刊SPA!』(扶桑社)12月25日号で90年代サブカルの起点となる[311] カラー16ページ特集「サブカルチャー最終戦争」を組む。この特集で赤田は『Quick Japan』の創刊を宣言し、中森は同号で予告した新連載「中森文化新聞」を同誌に10年以上にわたって連載する。
    • 卯月妙子三和出版のエロ本で漫画家デビュー。後に特殊系AV女優として1994年に井口昇監督のアダルトビデオ『史上最強のエログロドキュメント ウンゲロミミズ』に、1995年には『エログロドキュメント ウンゲロミミズ2』に出演する(いずれもV&Rプランニング作品)。卯月はこれら作品でスカトロやゲテモノ食いなどのハードプレイを演じ「エログロの極み」と評される。その後、元夫が投身自殺し、幼少の頃から悩まされていた統合失調症が悪化する。2008年には飛び降り自殺未遂を起こし、顔面崩壊および片眼を失明する。2012年、描き下ろしの近況自伝エッセイ『人間仮免中』を発表し作家復帰する。
    1992年
    1993年
    • 漫画『リバーズ・エッジ』が連載開始。
    • 本物の子供の遺体を使って撮影した、『黒い太陽七三一 戦慄!石井七三一細菌部隊の全貌』がにっかつビデオからリリース。
    • 主に自主流通本・ミニコミ誌・ガロ系コミックなどを取り扱う独立系特殊書店タコシェ」開店。のちに中野ブロードウェイ3階に移転する。創設者はライターの松沢呉一
    • 山野一の長編漫画『どぶさらい劇場』が『コミックスコラ』(スコラ)4月6日号から連載開始(1994年4月5日号まで)。
    • 6月8日 - 別冊宝島特別編集『宝島30』創刊(1996年6月号まで)。根本敬の連載『人生解毒波止場』を町山智浩が担当する[232]
    • 月刊漫画ガロ』(青林堂)1993年8月号に掲載された幻の名盤解放同盟フィールドワーク特集「夜、因果者の夜/根本敬や幻の名盤解放同盟」内の根本敬によるインタビューで鬼畜系電波系を自称する村崎百郎がメディアに初登場[312]。このインタビューでは村崎の生い立ちから製粉工場でのバイト経験、趣味のゴミ漁り、特有の電波系体質などが語られており、この時点で村崎百郎のキャラクターが殆ど確立していたことがわかる。
    • 根本敬幻の名盤解放同盟周辺の奇妙な人物・物件のフィールドワークが収録された『因果鉄道の旅』(KKベストセラーズ)刊行。90年代サブカルの聖典的存在となる。ロマン優光は本書の存在について「本来は文献紹介的だった悪趣味系に生身の人間を題材にするという流れを生んだ」と位置づけた[5]
    • 幻の名盤解放同盟によるモンド歌謡曲の紹介本『ディープ歌謡』(ペヨトル工房)刊行。
    • ハリウッドの暗黒面や猟奇事件を元にした洋画などを悪趣味な文脈で取り上げた町山智浩編集『映画宝島 Vol.3 地獄のハリウッド』(JICC出版局)刊行。のちに『映画秘宝』(洋泉社)の源流の一つとなる。
    • 当時『死霊の盆踊り』などの最低映画(エクスプロイテーション映画)を買い付けをしていた江戸木純が自ら紹介したZ級映画評論『地獄のシネバトル』(洋泉社)刊行。
    • 唐沢俊一監修の『まんがの逆襲―脳みそ直撃! 怒濤の貸本怪奇少女マンガ』(福武書店)刊行。
    • 死体を通した現代文明論である布施英利死体を探せ!』(法藏館)刊行。同書のビジュアル版として出版された『図説・死体論』(法蔵館)は死体写真の多さから話題になり、死体ブームの先駆となる(これは本来の意図とは全く違う消費のされ方だった)。
    • 芸術新潮』(新潮社)6月号で「悪趣味のパワー 悪趣味から目をそむけるな! これこそ、次代の文化を生み出す原動力だ!」特集。主に梅原北明伊藤晴雨に代表される日本のエログロナンセンスからヨーロッパ世紀末芸術キリストの磔刑ヒンドゥー教の宗教画、フリークス写真やエイズ患者の死体写真、アメリカ文化、日光東照宮に代表される金ピカ趣味まで幅広く取り上げている。本特集は歴史的芸術や文化様式に見られる悪趣味な側面について美学的アプローチから多面的に言及しているが、いわゆる「90年代悪趣味サブカル」については一切含まれていない。
    • 7月 - 鶴見済の『完全自殺マニュアル』(太田出版)が刊行され、100万部を売り上げるミリオンセラーを記録する(この本もまた本来のテーマとは異なる文脈で消費された本であった)。
      • その後、青少年の自殺を誘発するとして各都道府県で有害図書に指定されるなど物議を醸した。本書に対するバッシング騒動と顛末については、鶴見済編『ぼくたちの「完全自殺マニュアル」』(太田出版/1994年2月)および 「有害」規制監視隊のウェブサイト などに詳しい。
    • 7月 - 猟奇漫画家の氏賀Y太エログロ同人誌『毒どく』発表。テーマは蟲責め花輪和一蛭子能収などガロ系のバット・テイストとは異なる文脈で鬼畜系コミックの地平を開拓する。
    • 8月1日 - 赤田祐一が私財600万円を投じて『Quick Japan』創刊準備号を飛鳥新社から刊行。
    • 『ガロ』9月号で「三流エロ雑誌の黄金時代」特集。性欲処理を意図しない「特殊漫画」を積極的に掲載していたエロ本編集者が当時の総括を行う[313]。『S&Mスナイパー』の編集長は、これらエロ本との出会いを次のように回想した。
      真夜中のコンビニエンスストアーで立ち読みをした『大快楽』や『ピラニア』(それにしても凄い名前!)に掲載されていた、平口広美さんや、蛭子能収さん、根本敬さんの作品は、特に鮮烈に憶えている。暴力的で残酷なセックスを執拗に繰り返す平口さんの『白熱』や、チョン切られた女の首から、一すじにひかれた墨の色が、真っ白な空間に映えて、鮮血よりも生々しく赤かった蛭子さんの作品。そして、妊婦の腹をかっさばいた強盗が、取り出した胎児を別の女の腹を割いて中に入れ、御丁寧にも縫合までするという、空恐ろしい根本敬さんの作品に出会った時には、ただもう呆然として、コンビニエンスストアーのブックスタンドの前に立ち尽くしてしまったのを憶えている。〔……〕ズリネタにならないエロ劇画は何なのだ、と思いながらも、何かエロ劇画誌はとんでもないことになっているのかも知れないと興奮したものだ。〔……〕そうした作品には圧倒的なまでの個性があった。エロなんてなんぼのもんじゃいという、声が聞こえた。叫び、犯し、ヤリまくる者も、笑いながら女を殺し屍姦する者も、田舎者も労働者も、都市生活者も、ともかく日常から逸脱せずにはいられない超個性的な性の世界を生きていた。彼達はきっと肉体を越えたセックスを目指していたのだと思う。あるいは、セックスの向こうにある欲望に突き動かされていたのだと思う。 — 緒方大啓「すぐれたエロ劇画はすぐれたひとりSMに似ている」青林堂月刊漫画ガロ』1993年9月号「特集/三流エロ雑誌の黄金時代」79頁。
      また同号では小林よしのりの『ゴーマニズム宣言』が特別篇として収録されている(皇室を取り上げたことにより『SPA!』で掲載拒否された)。
    • 12月 - 山野一混沌大陸パンゲア』(青林堂)刊行。貧乏、鬼畜、電波、不条理、薬物、宗教、障害者、神などをテーマにした異色作品を多数収録。
    • この年、身体障害者を男優に起用した安達かおる監督のアダルトビデオ『ハンディキャップをぶっとばせ!』(V&Rプランニング)がビデ倫から「障害者を見世物にするのは差別的」として審査拒否され発禁となる。後に安達は「何らかの原因で体がシンメトリーじゃない人がAVに出ちゃいけないって、僕はどう考えても納得いかない」と吐露している[314]
    • ホラーM』(ぶんか社)創刊。神田森莉の『カニおんな』(1998年)など狂気のグロ漫画が掲載された。
    1994年
    1995年
    実際に死んだり病んだりするところまで行ってしまうってのはね、昔はなかったですよ。少なくとも黒田(一郎。村崎百郎の本名:引用者注)がいた90年代前半ぐらいまでは、ブラックなものを笑い飛ばすような楽しさがあったし、実際にうつ病っぽい子でも、まぁ何とかやっていけてたんだよね。それがネットが出てくるようになってから、なんだか現実の死まで行っちゃうような、本当の意味でのヤバさみたいなものが現れるようになってきた。

    今まで僕や黒田がやってきたようなのとは全く違う、単にネガティブな思いがだだ漏れになってきたブラック。九五年以降、本当にそういうのに触れる機会が多くなった。で、黒田もそういう新手のブラックは処理し切れなかったのかもしれない。

    今の2ちゃんねる的な、言葉が勝手に走っていってしまうようなのはまったく新しい現象で……ものすごいスピードで言葉が流れていく中で、真意が見えないまま、言葉に書かれている別の意味を勝手に読み取り、物語を作ってしまう。〔……〕ネットで走っている言葉の裏にある悪意って、身体的につかめない。これは新しい時代の新しいブラックの誕生だろうけど……。

    黒田に実はデジタルな悪意はなかった。ひどいことを言いながら、ダメな奴を励ます。「お前もダメだけど、俺なんかもっとダメ、だけどこんな人間でも立派に生きてるんだぜ」って。生きて生き抜いて他人に肉体を擦り付けながらイヤミを言うのがあいつのやり方なんだけど、それって結局「生きろ」ってことでしょ。 — 今野裕一インタビュー「村崎百郎が唯一、言うことを聞く、怖がる人間が僕でした」『村崎百郎の本』アスペクト、126-127頁、2010年。
    • 週刊SPA!』12月13日号の特集「`95年ジャンル別裏BEST10」内で特殊翻訳家の柳下毅一郎が「個人的にはこの猟奇ブームは嫌い」「猟奇とかサイコとかいうのは、本来なら世間に顔向けできないもののはず。恥と覚悟がないと付き合えない。それを抜きにして、ただ刺激だけで面白がる人ばかり」「結局、恥知らずな人が世の中には多かったってだけかも」とコメント。
    • 12月24日 - 『Quick Japan』5号で石野卓球青山正明テクノ対談「裏テクノ専門学校」掲載。
    • この年、オウム真理教事件関連の不謹慎ゲーム霞ヶ関』『上九一色村物語』がパソコン通信草の根BBSで流通。また、この頃からパソコンに関連する書籍やサブカル誌が多数刊行されるようになるが、「万引きの方法」「ラーメン特集」「飲尿療法」など何の役にも立たないか、如何わしい内容のものも多かった。
    • 死体写真家の釣崎清隆が池尻大橋NGギャラリー(元『Billy』編集人の小林小太郎が運営していたギャラリー)で初個展。
    1996年
    • 1月10日 - 大麻取締法違反で逮捕されていた青山正明が95年8月末に保釈されたのを記念して、新宿ロフトプラスワンにて7時間にも及ぶトークライブ『鬼畜ナイト―新宿でいちばんイヤ〜な夜』(東京公司新年会青山正明を励ます会)が鬼畜ナイト実行委員会(村崎百郎+ニコラス啓司)の主催で開催される。同年8月にはイベントのダイジェスト版が『別冊危ない1号』(鬼畜ナイト実行委員会編/東京公司)としてデータハウスから書籍化され、7万部を売り上げる[322]。主な出演者は青山正明村崎百郎吉永嘉明石丸元章釣崎清隆柳下毅一郎根本敬夏原武宇川直宏佐川一政など30人以上にのぼった。
    • 2月8日 - 前日に可決された米通信品位法匿名掲示板の主に性的な品位を欠いた下品な投稿を規制する法律)に抗議する目的で「サイバースペース独立宣言(電脳空間独立宣言)」というサイバースペースにおける“無制限の表現の自由”を謳ったマニフェストジョン・ペリー・バーロウによって提唱される。これはアメリカ西海岸で勃興したヒッピーカルチャーとヤッピーの経済自由放任主義が合流した、リバリタリアン的なユートピア思想であり、カリフォルニア・イデオロギー (en) とも呼ばれている。またこの宣言は、オンライン空間における反表現規制運動の先駆けにもなった[323]。その後、表現の自由に対する萎縮効果が懸念された結果、ほぼ無制限の言論の自由を認めた通信品位法230条(プロバイダ免責)が規定される。以後、プラットフォーム管理者は第三者の発言や投稿に責任を負わず、オンライン空間ではヘイトスピーチや陰謀論が蔓延することになる。
    • 2月25日 - 悪趣味ブームの元祖本としてアメリカの大衆文化に根ざしたバット・テイスト文化を評論したジェーン・スターン&マイケル・スターン著/伴田良輔監訳『悪趣味百科』(新潮社)が刊行。
    • 3月 - 別冊宝島250『トンデモ悪趣味の本―モラルそっちのけの,BADテイスト大研究!』刊行。根本敬は蛭子能収の恐怖伝説レポート「茶の間のピンヘッドは無意識の殺人者!?」を掲載、1990年代当時すでに人気タレントとなっていた蛭子能収の知られざる素顔を鬼畜系の文脈で紹介した。
    • 4月 - 『危ない1号』第2巻「特集/キ印良品」刊行。第2巻では村崎百郎の発案で「鬼畜系カルチャー入門講座」と称し、多様多種なジャンルの危ないコンテンツ(殺人/死体・変態・ボディアート・フリークス・コミックス・読書・デジタルネットワーク・盗聴、奴隷男飼育法、東京殺人現場巡礼マップ、山野一インタビュー、強姦チームリポート、村崎百郎の勝手にゴミュニケーション、痴呆性老人看護日記など)がガイドブック形式で横断的に紹介されている[224]
    • 6月 - 土屋静光編集の悪趣味総決算ムック『世紀末倶楽部』(コアマガジン)創刊。交通事故で内臓が飛び出した死体写真や奇形児などの写真が大量に掲載されていたこのシリーズはビジュアル面によせた見世物的かつ即物的なつくりのものが多いが、第1弾の『特集チャールズ・マンソンとシャロン・テート殺人事件』は1冊丸ごとマンソン特集という圧巻ぶりで読みものとしても評価が高い。第2号には『危ない1号』初代編集長の青山正明カルト映画恐怖奇形人間』の石井輝男監督、スーパー変態マガジン『Billy』編集人の小林小太郎V&Rプランニング創業者の安達かおるなど鬼畜系キーマンにまつわる貴重なインタビュー記事を多数掲載。
    • 6月 - 24歳で夭折した漫画家の山田花子が生前に遺した日記やメモなどをまとめた単行本『自殺直前日記』(太田出版)が\800本シリーズから刊行。
    • 6月 - 1930年に刊行された『近代犯罪科学全集』(武侠社)の別巻として編まれた『刑罰変態性欲図譜』が皓星社から復刊。
    • 7月 - 青山正明のプロデュースにより[324]村崎百郎の処女作にして唯一の単著『鬼畜のススメ―世の中を下品のどん底に叩き堕とせ!! みんなで楽しいゴミ漁り』(東京公司データハウス)刊行[325]。鬼畜でゲスな内容ながら、その行間からは人間の深淵や哲学が見え隠れし、汚穢の底から生を実感する村崎流の人間讃歌が書かれている。
    • 雑誌『ホットドッグ・プレス』(講談社)8月25日号で「いいかもしれない“悪趣味”の世界 BAD TASTE BOOK」特集。根本敬は「ブームの終焉を見たなと思ったのは『ホットドッグ・プレス』で悪趣味特集やった時ね」と述べている[326]
    • 8月21日 - 日本におけるアンダーグラウンドコミュニティの始まりとされる電子掲示板あやしいわーるど」開設。インターネット上に作成された巨大匿名掲示板群の先駆けとなる。
    • 9月 - 根本敬と村崎百郎の共著『電波系』(太田出版)刊行。
    • 9月 - 鬼畜系ウェブサイトを紹介した『インターネットXファイル―欲望別ウェブガイド』(オークラ出版)刊行。
    • 10月 - 相良好彦編集のカルト漫画読本『マンガ地獄変』(水声社)シリーズがスタート。昭和時代のマニアックで狂気的な貸本漫画怪奇漫画を「モンド」「B級カルト」「悪趣味系」などの文脈で再評価する契機を作り、当時10代だった『でろでろ』の押切蓮介や『東京都北区赤羽』の清野とおるにも多大な影響を与えた。また同書には無名時代の吉田豪植地毅大西祥平宇田川岳夫などが執筆し、それまで『紙のプロレス』の読者以外には余り知られていなかった吉田豪がサブカル界で広く知られる切っかけを作る。
    • 10月30日 - 東京大学教養学部「オタク文化論」ゼミ講師の岡田斗司夫に招かれて村崎百郎が登壇。この日のテーマはゴミ漁り。講義の模様は岡田斗司夫『東大オタク学講座』(講談社・1997年)の「第九講 ゴミ漁り想像力補完計画」に収録。
    • 11月 - 別冊宝島281『隣のサイコさん―電波系からアングラ精神病院まで!』(いずれも宝島社)刊行。
    • 11月 - 鶴見済『人格改造マニュアル』(太田出版)刊行。厳しい世の中を自殺せず生き抜くための大脳コントロール法を解説。
    • 11月1日 - 『危ない1号』『危ない28号』ライターの北のりゆきが主宰する同人サークル「遊撃隊」「冥土出版」の合同ホームページとして共産趣味の古参サイト「遊撃インターネット」開設。
    • 11月30日 - B級のエロネタ中心の悪趣味雑誌『BAD TASTE』(フロム出版)創刊。米沢嘉博戦後エロマンガ史』の初出(→青林工藝舎アックス』に移籍)。
    • 12月 - 『Quick Japan』(太田出版)11号で山崎春美特集「山崎春美という伝説─“自殺未遂ギグ”の本音」掲載。
    • 週刊SPA!』12月11日号で「鬼畜たちの倫理観─死体写真を楽しみ、ドラッグ、幼児買春を嬉々として語る人たちの欲望の最終ラインとは?」特集
      • SPA!』編集部は「それまで日本に蔓延していた軽薄短小なトレンディ文化に辟易していた人々の支持を集めた」と当時の鬼畜ブーム特集で指摘している[226]
      • ロリータ官能小説家斉田石也V&Rプランニング代表の安達かおる、雑誌『BUBKA』創刊編集長の寺島知裕、KUKIの鬼畜レーベル“餓鬼”の山本雅弘、特殊漫画家の根本敬らにコメントを求め、鬼畜系ショップ「高円寺バロック」周辺の客に質問し、日本でベストセラーとなった『FBI心理分析官―異常殺人者たちの素顔に迫る衝撃の手記』著者のロバート・K・レスラー、『痴呆系―すばらしき痴呆老人の世界』著者の直崎人士タコシェ創設者でライター松沢呉一らが鬼畜ブームに一言呈した上で、ラストに青山正明村崎百郎の対談「鬼畜カルチャーの仕掛け人が語る欲望の行方」を掲載。
      • この特集で『SPA!』は青山に村崎のような鬼畜キャラを期待していたが、実際に登場した青山は温厚誠実なインテリの常識人だったことから、本来なら青山に割かれるはずだった誌面も大幅に縮小せざるを得なかったという。これに関して青山と交友があったデザイナーのこじままさきは「本当に常識的で穏やかないい人なんですよ。どちらかというと気弱で温厚で。完全に上から目線で、バカを鼻で笑ってる立ち位置の原稿が多いじゃないですか。でも実際に会った初対面の人には絶対それを匂わせない。愛されキャラなんですよ。なかなかいないですよね、そういう人」と語っている[327]
    • マーケティング雑誌『流行観測アクロス』(パルコ出版)12月号に竹熊健太郎岡田斗司夫の対談「“鬼畜”に走るサブカル雑誌に未来はあるか?」掲載。
    • 旭川女子中学生集団暴行事件が発生。
    • Rotten.comが開設。後のOgrish.comと並んで2000年代を代表する精神的ブラクラサイトであった。
    1997年
    1998年
    1999年

    2000年代[編集]

    2000年
    • 新潟少女監禁事件が発覚。9歳の少女が約9年間、無職引きこもりの犯人に子供部屋監禁されていた。検察官は被告人について「鬼畜に劣る悪行」「非人道的で、血の通った人間の行為とは思えない」「極悪非道である」と論告で糾弾した[329]
    • 西鉄バスジャック事件が発生。犯人は2ちゃんねるの荒らしであった。当時の2ちゃんねるの管理人であった西村博之(ひろゆき)は、報道番組のインタビューで「うそはうそであると見抜ける人でないと(掲示板を使うのは)難しい」と答えている[330]
    • 危ない28号』第3巻「特集/危険物特集号」の記事を参考にして作られた爆弾による連続爆発事件が起こる[261]。結果、同誌は全国18都道府県で有害図書に指定されたとされる[262][263]。同年『危ない28号』の廃刊が決定する(最終巻となった第5巻は1999年11月に刊行)。
    • BURST』9月号に青山正明の遺稿「イメージの治癒力──『諦観』と『リズム』でハイな毎日を」と生前最後のインタビュー記事「シャバはいいけどシャブはいけません──帰って来た? 天才編集者 青山正明」掲載。
    • 12月 - 佐川一政まんがサガワさん』(オークラ出版)刊行[331]
    • 12月16日 - 映画『バトル・ロワイアル』公開。R-15指定。
    • Ogrish.comが開設。Rotten.comと並んで2000年代を代表する精神的ブラクラサイトであった。
    2001年
    2002年
    「嫌韓ムード」が高まるきっかけとなったのは2002年、サッカーワールドカップ日韓大会であろう。
    日本は単独開催を目指していたが、結果として日韓共催となったことで、一部の日本人は韓国に対して被害者意識を抱くことになった。加えて、試合中の韓国に有利な判定や、韓国サポーターによる日本への中傷をマスコミが取り上げなかったことにより、韓国のみならず日本のマスコミに対する不信感や嫌悪感が、ネット上で徐々に強まっていった。

    このように2000年代前半、「親韓ムード(韓流ブーム)」と「嫌韓ムード」に加えて「マスコミ不信」が同時に生じたのである。

    このうち、コインの裏表のような関係にある「嫌韓ムード」&「マスコミ不信」は、シリーズ累計100万部を売った『マンガ嫌韓流』が2005年に発売されたことで、増幅される。この漫画では、戦後補償や日韓共催ワールドカップの問題のほか、日本文化を剽窃する韓国人の実態などを描くことで韓国を批判するとともに、それを報道しないマスコミも「反日」と糾弾したのだ。[333] — 吉野嘉高 元フジテレビプロデューサー
    2003年
    2004年
    2005年
    • 3月 - 出演者のほとんどが出会い系サイトを通じて知り合った小中高生の未成年であり、鬼畜なSMプレイが中心の援助交際ビデオ「関西援交・上玉援交シリーズ」制作者が、児童ポルノ禁止法違反などで摘発を受け逮捕される。逮捕された制作者は反社会的勢力ではなく素人のサラリーマンに過ぎなかったが、シリーズは160巻超を数えるなど裏ビデオ史上最大のヒット商品となった。
    • 北海道・東京連続少女監禁事件が発生。
    • 7月 - 「人間の欲望を裏側から描き出す鬼畜系体験マガジン」がキャッチコピーのサブカル雑誌『裏BUBKA』(コアマガジン)が7月号をもって廃刊。廃刊の理由は「日光の猿を撲殺して食う企画が社内で問題視されたから」とも言われる[334]。かつてのライバル誌『裏モノJAPAN』編集部の仙頭正教は「猿を編集部まで持ってきて、後でバーベキューをしようということで冷蔵庫に入れていたんです。そしたら全然そのことを知らない派遣社員の女の子が冷蔵庫を開けて騒ぎになって、こんな事がバレたら会社が潰れるということで、編集部ごと潰してしまったんです」と語っている[335]
    • マンガ嫌韓流』が発売され、2ちゃんねる上で祭りとなる。いわゆる「ヘイト本」の最初の事例であるとされる。
    • たかじんのそこまで言って委員会』のネット局がこの頃から拡大する。
    • ばるぼら加野瀬未友責任編集『ユリイカ』8月臨時増刊号で「総特集=オタクVSサブカル! 1991→2005ポップカルチャー全史」特集。ばるぼらと加野瀬未友の対談「オタク×サブカル15年戦争」が掲載されたほか、90年代サブカルに関連して近藤正高「カミガミの黄昏〈一九九三年〉以前・以後」、屋根裏「悪趣味と前衛が支えたアングラ」、オクダケンゴ「平成大赦(仮)-平成サブカルチャー年表-」などの記事が収録されている。
    2006年
    私が在特会を多少は評価するのは、その行動の根底に、私自身が現代社会において他の大半の問題よりも圧倒的に重要だと考えているPC(ポリティカル・コレクトネス)的風潮への反発のメンタリティが存在しているには違いないからである。PCは簡単に反論しがたい“正義”なので、“善良な市民”的“お行儀の良さ”から逸脱しなければ刃を向けることは難しく、PC的風潮への異議申し立てはどうしてもこういう在特会のような“野蛮”な連中が先陣を切っちゃうことになるよなあと、もどかしさを伴いつつ思うし、その意味では在特会の“ヒドすぎ”ぶりを肯定せざるをえないと感じてもいる。〔……〕サブカルチャーが反政治的であったのに対し、サブカルは単に没政治的なのだ。サブカルには、サブカルチャーが抱え込んでいたラジカルなニヒリズムがない。[185]
    もっともぼくの認識では、日本のネット文化は最初からまあ、〝右傾してた〟とまでは云わんけど、〝監視社会化のツール〟でしかなかったよ。それは理由もはっきりしてて、ネットが普及したのは世界的にも日本国内的にも90年代後半でしょ。要するに、監視社会化が進んだのは世界的には9・11以後つまりネットの普及が進んだ後だったけど、日本国内ではそうではないんだ。日本版の〝9・11〟である95年の〝オウム事件以後〟に、つまり急速な監視社会化が先に始まって、その後でネット社会化が始まった。そんなもん、最初から監視社会化のツールとしてしか機能しませんよ。〔……〕
    137ページ下段の発言はすごく腑に落ちた。「出版はリベラル知識人が圧倒的に強い。そうなると右派は、小林よしのりのようにマンガに行くか、在特会のようにネットに行くか、いずれにせよ周縁から出発するしかない。その結果、リベラル層はネットに対して親和性が低くなり、出版が強いうちはよかったものの、時代が進むにつれて後手に回らざるをえなくなった」っていう。
    さっきも云ったように80年代の粉川哲夫とか以来、左翼のネットというかIT方面への進出は右派より圧倒的に早かったはずなんだけど、いつのまにか逆転してて、それはたしかに東がここで云ってるようなメカニズムでそうなったのかもしれない。[336]
    2007年
    2008年
    2009年
    • 日本文化に影響を受けて4chanで作られた海外製アダルトゲーム『かたわ少女』発表。

    2010年代[編集]

    2010年
    • 6月30日 - 元『週刊SPA!』編集長のツルシカズヒコが『「週刊SPA!」黄金伝説』(朝日新聞出版)を刊行。
    • 7月23日 - 村崎百郎が読者を名乗る男に自宅で48ヶ所を滅多刺しにされ刺殺。一時代が終わる。
    • 9月 - 根本敬『生きる2010』(青林工藝舎)刊行。
    • 11月25日 - 鬼畜系総括の書『村崎百郎の本』(アスペクト)刊行。特殊漫画家の根本敬は本書のインタビューで“悪い悪趣味”の跳梁跋扈について次のように語っている。
      90年代の悪趣味ブームを支えていた人たちっていうのは教養があって知的な人が多かったし、読んでいる方も「行間を読む」術は自ずと持っていたと思うんですよ。それに「影響受けました!」っていう第二世代、第三世代が出てくるにつれどんどん崩れて、次第に単に悪質なことを書いてりゃいいや、みたいな“悪い悪趣味”が台頭してくるようになる。だいたい趣味がいい人じゃないと、悪趣味ってわからないからね。村崎さんにしろ、オレの漫画にしろ、結局世の中がちゃんとしていてくれないと、立つ瀬がないわけですよ。でも、世の中がどんどん弛緩していっちゃって、もう誰もがいつ犯罪者になるのか、わからないような状況になっちゃったのが鬼畜ブームの終わり以降。とりわけ90年代終わりからここ数年、特に激しいじゃない? — 根本敬インタビュー「村崎さんには“頑張れ”という言葉が相応しい、というか、これしかない」(上掲書・334頁)
    • この頃からニコニコ動画においてアングラ系コンテンツの人気が拡大していく[337]
    • 首都大学東京の男子学生2人が、「ドブスを守る会」「ドブス写真集を作る」等と称し、街中で面識のない一般女性に執拗につきまとい撮影を迫った挙げ句、嫌がる姿を撮影した映像を無断で動画投稿サイトにアップロードした。ネット上では「いじめである」「悪ふざけではすまされない」「名誉毀損だ」等と批判が殺到し問題となった。

    2012年

    • この年、第一東京弁護士会に所属する弁護士を対象とした、2ちゃんねる史上最大級の炎上騒動「ハセカラ騒動」が起きる。これは「なんでも実況J板」で炎上した高校生がつけた弁護士が2ちゃんねらーに対してIP開示請求を行った際、数多くの不手際があったとして反感を買い、炎上したのが原因である。その後、当該弁護士に対する殺害予告は100万回を超え、ありとあらゆる嫌がらせが行われた結果、複数の逮捕者も出した[338]。また住所特定や墓荒らしに留まらず、2014年にはKRSWLockerと呼ばれるランサムウェアを用いた攻撃が、2015年には炎上騒動に関連したグーグルマップ改ざん事件が、2016年には当該弁護士を騙った同時爆破予告が起きるなど、現実社会にも大きな影響を与えている[339]。ネット上でも、当該弁護士を麻原彰晃に見立てて教祖化したり、3Dモデル(MMD)にして脱糞させたり、ロリコン扱いしたりと小学生感覚の発想でネタ化が進み、ニコニコ動画にも多数のMADムービーが投稿されるなど、2ちゃんねるの枠を超えた平成ネット史上最大級かつ最長級のインターネット・ミーム(ネット上の祭り)となった[340]。当該弁護士は炎上騒動について「ネット社会ではネタになれば何でもいい。憎しみが動機ではなく、集団コミュニケーションの中の居場所探しでしかない」とした上で「(ネット社会では)話し合う以前に、自分の主張に合わなければ人格否定をする。健全な言論空間として機能していない」とSNSや匿名掲示板で誹謗中傷が起きる背景を指摘している[341]
    2013年
    2014年
    2015年
    2016年
    2017年
    • 青野利光赤田祐一編集『スペクテイター』39号(有限会社エディトリアル・デパートメント/幻冬舎)で「パンクマガジン『Jam』の神話」特集。
    • 平野悠『TALK is LOFT 新宿ロフトプラスワン事件簿』(ロフトブックス)刊行。
    • 7月21日 - 日本のサブカルチャーに影響を受けた米ナンセンス映画『KUSO英語版』一般公開。蛆虫、糞尿、排泄、肛門、膿、吐瀉物、精液、粘液、性交粘膜などがクレイアニメ風に描かれる前衛ホラーコメディといった趣。フライング・ロータス(本作ではスティーヴ名義)の長編初監督作品。
    • 10月28日 - 4chan/pol/(Politically Incorrect/非ポリコレ板)にQアノン陰謀論の「Q」が初投稿する。
    • 座間9人殺害事件が発生。
    • 林雄司は「モンドな感じだよね、って言っておけば何となく意味ありげな感想を述べたような気になれた」と回想した[350]。「MONDO」は90年代にスノッブな若者言葉として一部で流通した。
    • 12月 - 『Quick Japan』135号で座談会「ロフトプラスワンと90年代サブカルチャー」(赤田祐一石丸元章姫乃たま)掲載。石丸元章は鬼畜系の背景としてあるのは「バブル期に生まれた80年代のカルチャー」と指摘している。石丸いわく「バブルの恩恵を受けられず、貧しいまま80年代を過ごした若者たちの復讐のカルチャー」として、ゴミ漁りやドラッグなど公序良俗に反する「鬼畜系」が花開いたとしている。また彼らが復讐の対象としたのは、糸井重里の「おいしい生活」に代表されるような、80年代以来の軽薄きわまりない消費文化であったとしている[225]
    2018年
    • 2月 - 90年代鬼畜系とヘイトスピーチの関連性を論じた『実録・レイシストをしばき隊』(野間易通著、河出書房新社)刊行。本書ではポストモダン以降の「大きな物語の終焉」を可視化する目的で、青山正明が『突然変異』『危ない1号』で提唱した「すべての物語は等価」という新しいメタ物語(社会構造の非対称性を無視した価値相対主義)によって“正義”をも相対化した結果、あらゆる道徳が価値を持たなくなったこと、そして「ポストモダンの極北」である鬼畜系が現在のヘイト文化を用意した可能性を指摘している[3]
    • 5月2日 - 大阪ロフトプラスワン・ウエスト宮沢章夫野間易通幻の名盤解放同盟の韓国旅行記『ディープ・コリア』をめぐる対談イベント「サブカルに決着をつける」を行った。これを発端として音楽評論家の高橋健太郎がTwitter上で『ディープ・コリア』論争を起こす[351]。識者の見解や論争の流れについては香山リカ『ヘイト・悪趣味・サブカルチャー 根本敬論』(太田出版)やロマン優光『90年代サブカルの呪い』(コアマガジン)に詳しい。
    • 5月30日 - 政治活動家で作家の雨宮処凛が『90年代サブカルと「#MeToo」の間の深い溝。の巻』という論考を発表。これは「90年代、私はクソサブカル女だった」と語る雨宮が「鬼畜ブーム的なものが盛り上がる中、意図的に見ないふりをしてきたことについて、改めて考えなくてはいけないと思っている」と自己批判あるいは反省を促す内容で、これを皮切りにTwitter上で90年代サブカル論争が起こる。
    • 6月24日 - ブロガーのHagexが荒らしユーザーに刺殺される。この事件で加害者の精神鑑定を担当した精神科医は「被告の攻撃的な面は現実社会の対人関係で出ることはなかった。ただ、ネットの中では、他者と全く違う関わり方をするようになった。ネットの中では被告の中の攻撃的な面が引き出されてしまった。もし、被告がネットのない時代に生まれていたら、本件のような犯行に至った可能性は、極めて低かったと考えられます」と法廷で証言し、インターネットが狂気を増幅・加速させた旨を明言した[352]
    • 8月 - あいちトリエンナーレ表現の不自由展」騒動始まる。
    • 9月1日 - RRR(両国楽園部屋)で催された『バースト・ジェネレーション』創刊記念座談会「90年代カウンターカルチャーを振り返る」に登壇した幻の名盤解放同盟根本敬が『ディープ・コリア』論争について「その頃はいわゆる進歩的な文化人とされる左翼系の人達が言論界を握っていて、韓国に対して悪い事を言うと贖罪意識が強過ぎて、非常に風当たりが強かった。〔……〕良い意味の間抜け加減とか、そういうものに対しても、みんな口を閉ざして」いた80年代の空気感に言及しながら、あえて「韓国のことを正直に書く」ことによって、執拗な贖罪意識にとらわれた形でしか韓国を語れず、硬直していた日本の韓国観に対し「ある種のカウンターカルチャー」として機能していたと改めて解説した[353]。また根本は高橋の『ディープ・コリア』に対する執拗なバッシングについて「それこそ本も読まないで、その行間も読まないで、そして80年代がどんな空気だったのかってことを無視して〔……〕その男が『あれはヘイト本のルーツだ』っていうキャンペーンを始めたんですよ」と不快感を示し、「結局『ディープ・コリア』バッシングっていうのは、実はある音楽評論家が『ディープ・コリア』とヘイトスピーチを結びつけて、それを自分が社会正義の立場からバッシングしているという事に置き換えてるんですけど、実は(同い年で自分より先に出世した湯浅学に対する)極めて個人的な嫉妬」が全ての元凶として一蹴している[353]。以上のように当時の時代性を考慮せずに『ディープ・コリア』がヘイト本のルーツというような批判・主張については的外れであるとしながらも「非常に表層の部分だけを捉えれば、それはもしかしたら受け手によっては『韓国をバカにしてる』『ヘイトスピーチに何かしら影響を与えたことは否めない』と捉えられるかもしれない」と受け手がそういった解釈をしてしまう可能性については根本も認めている[353][354]
    • かつて鬼畜本ブームを仕掛けたデータハウスの創業者でまぼろし博覧会館長の鵜野義嗣(セーラーちゃん)がインタビューで「『危ない』系の本は今は絶対ダメですね。『危ない』のに興味を持つのは、経済的に余裕がある時なんですよ。どうやって食っていくか大変な時代に、『危ない』とかそんなことは言ってられない。こういう“すねた本”がうけるのって実は貴族文化なんですよ」と語る[355]
    2019年
    • 3月4日 - ロマン優光が悪趣味ブームと90年代サブカルに関する手引き書『90年代サブカルの呪い』(コアマガジン)を刊行。出版に至った動機についてロマンは「90年代サブカルという特殊な文化を今の価値観で振り返り、怒り狂っているヤバい単細胞が昨今目立ちます。彼らによる考察ならびに反省は、一見まともでも的を射ていないものが実に多く、世間に間違った解釈を広めてしまう害悪でしかないのです」と同書袖で語っている。
    • 3月15日 - 香山リカ『ヘイト・悪趣味・サブカルチャー 根本敬論』(太田出版)刊行。『HEAVEN』編集者時代の自身の経験と特殊漫画家の根本敬を主軸に90年代サブカルと平成末期のヘイト現象を論じる試み。
    • 8月5日 - アメリカ合衆国匿名掲示板8chan」がオフラインとなる。理由として8chanのユーザーが3度にわたる銃乱射事件を起こし、米CDN大手のCloudflareが「ヘイトの肥溜め」として強制的にサービスを打ち切ったことが挙げられる[356][357]。8chan開設者のフレドリック・ブレンナンは、サイバースペースにおける「言論の自由」の限界と8chanへの幻滅を次のように語った。
      言論の自由の社会実験は失敗しました。言論の自由を進めすぎると良いことにはならない。無制限の言論の自由の結果が、現在起きていることなのです。当時、私は若かった。もし時間を巻き戻せるならば、決して8chanをつくることはないでしょう[358]
    • 童貞。をプロデュース』の松江哲明監督が性的虐待・ハラスメントを認め謝罪。

    2020年代[編集]

    2020年
    • 4月3日 - 2ちゃんねる開設者の西村博之AbemaTVの番組『ABEMA Prime』のレギュラーとなる。以降、小学生の間などでブームが起こる[359][360]
    • 7月11日 - 「迷惑系YouTuber」へずまりゅう逮捕騒動。若者の間で多くのファンを獲得していた[361]
    • 7月23日 - 電子書籍版『鬼畜のススメ―世の中を下品のどん底に叩き堕とせ!!』(百郎文庫)発行。
    • 8月28日 - ドキュメンタリー映画『フィールズ・グッド・マン』が公開される。この映画では、米アンダーグラウンド・コミック界のアーティスト、マット・フュリーが生み出したカエルのペペというキャラクターが、白人至上主義ネオナチなどヘイトのシンボルとして4chanオルタナ右翼に広く拡散された経緯と、ペペのイメージ奪還にマットが乗り出す様子が描かれている[362]文芸評論家藤田直哉朝日新聞に寄せた批評の中で、トランプ現象を生みだしたアメリカのネット社会について次のように評した[363]
      ペペは惨めさや悲しさを表現しているキャラクターで、だから匿名掲示板に来る「負け犬」たちの自画像として機能していたと映画は分析する。明るい女性たちがペペを使って「童貞」を罵ったり、ヒラリーがペペを攻撃したりしたことで、いわゆる「リベラル」「リア充」たちへの彼らの鬱屈が爆発した。トランプには破壊者として支持が集まり、ヒラリー陣営に対しては、児童買春などのデマや陰謀論がたくさんまかれた。これはインターネット・ミームの力である。インターネットで流通しやすいミームは、人々が高速で即座に反応するメディアの性質を反映し、思考を要さず感情を駆動させるものになりやすい。理性的で批判的な思考は、ネットのゲーム的なやり取りの中では働きにくい。だから、屈辱や惨めさに理由を与え、「あいつらが悪い」と示してくれる思想に飛びつきやすくなる。そして、デマや陰謀論が流通する。匿名掲示板の文化や、新しいメディア・テクノロジーによって、これまでにない政治的な感性が形成されている。生きる上での苦悩、絶望、羨望、怒り。それらとテクノロジーが複合したうねりは、注目に値する。めちゃくちゃにしてやりたい衝動が、ネットから現実に出てトランプ現象が起きたと映画は分析する。その衝動は世界の破滅すら望む。そんな悲しい姿を映画は捉えていた。〔……〕
    2021年
    自販機エロ本というのは、それまであったエロ本のタブーをブチ壊し、アナーキーな性欲を街頭に開放することから始まった。既成の出版業界から見れば、鬼畜そのものだ。ロリコンに限らず、性欲に関するあらゆるタブーを打破し、マトモな性欲の持ち主だったら眉をひそめるようなネタを続々と登場させた。それはビニ本に引き継がれ、タブーは次々に破られて行く。それが70年代終わりから80年代前半までのトレンドで、90年代の鬼畜ブームというのは、そんな連中、まぁ、おいらもその典型なんだが、そんな連中を「カッコイイ」と思って憧れていたネクラ少年たちが作り上げたブームなんだろうが、基本は文学少年だったり音楽オタクだったりする文系のお坊ちゃまなので、鬼畜ごっこ[注 13]と呼ぶのが正しい(笑) — オマエが元祖鬼畜系だろうが - ネットゲリラ(2021年7月22日配信)
    • 7月23日 - 村崎百郎忌。東京2020オリンピック開催。小山田問題の検証記事「いじめ紀行を再読して考えたこと―90年代には許されていた?」(北尾修一)公開。一連の辞任劇について作家の適菜収は次のようにコメントした[372][373]
      東京五輪のキーワードとしては「ウンコ」「いじめ」「殺人」などいろいろ上がっていましたが、最終的には「鬼畜系」というのが一番しっくりくるのかと思います。そもそも新型コロナ感染拡大下における東京五輪の強行自体が国民に「ウンコを喰わせる」ような鬼畜の所業。テレビメディアや広告代理店をはじめとする「電波系」の小遣い稼ぎであり、悪質な政治家による「トリコじかけの明け暮れ」である。嘘とデマによる誘致に始まり、開催費用の計算もデタラメ。エンブレムは盗作騒動で変更。森喜朗の女性蔑視発言から、タレントの女性を「豚」として扱う演出まで、下品のどん底に転落した東京五輪の音楽は、小山田こそがやるべきだった。
    • 8月7日 - 『Quick Japan』創刊編集長の赤田祐一が『スペクテイター』公式サイトで「いじめ紀行」の企画意図を説明する[374]。また炎上騒動に関して赤田は『中央公論』2021年10月号のインタビュー(構成=鴇田義晴)で「元のソース、書かれた本や雑誌などの現物を読まないで、誰かが書いたことに意見を付け加えたりして事実化するようなことは気持ちが悪いですね。間違いがどんどん事実になっていってしまうことが多いから。晩年の坪内祐三さんも書いていたけど、ツイッターは文脈を無視する傾向が強い。その意味で好きではありません」と言及している[375]
    • 当時右翼活動家でブームに耽溺していた雨宮処凛は、鬼畜系が「生き辛さを抱えている弱者やマイノリティへの救済」になっていたとして次のように自己分析した。
    鬼畜系にハマる私たちは「幸せそうな」人々を勝手に敵視していて、世を呪う言葉を存分に交わすことができた。そうやって発散することで、自分という犯罪者予備軍を犯罪者にせず社会に軟着陸させているような感覚は確実にあった。当時、なぜあれほど鬼畜系カルチャーにハマっていたのかと言えば、「表」の健全できれいな社会には、自分の居場所なんてないと感じていたからだった。〔……〕あの時期、ある意味で私は鬼畜系カルチャーに命を救われていた[376]
    村崎百郎がゴミを漁り、すかしきった人々の隠したい恥部を晒せば晒すほど、自分自身も一緒になってこの世に復讐している気がした。〔……〕(鬼畜ブームは)「実は私が思っているより多くの人が悪意に満ちたロクでもない人間なのかもしれない」と逆説的な勇気を与えてくれたのだった。〔……〕90年代、鬼畜ブームがあったからこそ、私は自殺せずに生き延びることができた[377]
    • 『危ない1号』に寄稿した北のりゆきは、元新左翼の立場から以下のように述べている。
    • 8月20日、カルト的なサブカル雑誌『HEAVEN』でデビューした香山リカは、「かつてのサブカル・キッズたちへ〜時代は変わった。誤りを認め、謝罪し、おずおずとでも“正論”を語ろう」という文章を発表した[378]。80年代90年代サブカルについて以下のように述べた[378]
    (前略)80年代から90年代にかけてのサブカルとは、私の理解では「すべての表象から文脈や歴史をはぎ取って相対化し、権威や規範にとらわれず、自分はどこにもコミットしないまま、“ひとつの主義主張と距離を置けなくなる人”には冷笑的な態度を取り、ひたすら心地よさやおもしろさを追い求め、それ以上、何かを問われそうになったら、『そんなの何もわからないよ』と未成熟な子どものように逃げ出す」という性質を帯びたものだ。それは、いま思えばどう考えても、間違っていたのである。 — 香山リカ (2021年8月20日). “かつてのサブカル・キッズたちへ〜時代は変わった。誤りを認め、謝罪し、おずおずとでも“正論”を語ろう”. 情報・知識&オピニオン imidas. 凸版印刷集英社. 2021年11月20日閲覧。

    また、香山リカは、ヘイトデモへの参加者やかつて80年代90年代サブカル意識を持つもの達に、謝罪を促した。

    • (前略)

    2000年代の終わりになって、ネットの中で、さらには路上でも在日コリアンへのおぞましい罵詈雑言どころか虐殺をほのめかすようなヘイトスピーチが目につくようになってきた。  私は、2010年代になってはじめて街頭のヘイトデモをこの目で見たとき、強い衝撃を覚えた。それは単に「彼らの言葉がひどいから」だけではなく、それが80年代、90年代を通して私がかかわってきたポストモダン文化やサブカルの延長線上にあるものに見えたからだ。  ――ヘイトデモに参加している人たちは、80年代から90年代にかけて、「おもしろいから、センスのよい笑いだから」とか「もちろん人権は大切だとわかった上で、世の中の正論を嘲笑しているから」という大義名分のもとに私たちが作ってきたサブカル的、悪趣味・鬼畜的な表現を、現実の世界で真剣に実行に移しているのだ……。
    ここで参加者たちに、サブカルやそこから派生した「悪趣味」に浸かっていた人たちが、「われわれはあくまで欺瞞に満ちた当時のおとなを嘲笑していただけで、本気に差別しようとしていたわけではない」「リアル世界での差別煽動をしたいだなんて想像もしてなかった。やめてくれ」などとあわてて止めようとしたところで、通用しないことは目に見えている。 (中略) もし、それを行わないとどうなるか。かつてのサブカル・キッズたちもすでに50代から還暦にさしかかっている。いま人権や正義について語らないと、もう間に合わなくなり、「昔はよかった」と懐古的に自慢話をしながらどんどん世界から取り残され、みじめな晩節を送ることにもなりかねない。  世界は変わったのだ。差別やハラスメント、虐待はいかなる理由があろうとも許されない。人種的マイノリティ、先住民、その社会で生きる外国人、女性、子ども、障害や病気のある人、なんらかの事情で貧困な状態にある人などの社会的弱者に対してならばなおさらだ。もし差別、ハラスメント、虐待がまだ社会に残っているなら、あらゆる努力をして是正していくべきなのである。 

     サブカル・キッズもそれを受け止め、「オレたちの時代は終わった」などと腐ることなく、持ち前の知識や経験、才能などを十分にいまの社会、これからの社会のために発揮してほしいと思う。いまならまだ間に合う。私はそう思い、自分にも言い聞かせているのだ。 — 香山リカ (2021年8月20日). “かつてのサブカル・キッズたちへ〜時代は変わった。誤りを認め、謝罪し、おずおずとでも“正論”を語ろう”. 情報・知識&オピニオン imidas. 凸版印刷集英社. 2021年11月20日閲覧。

    • 9月16日 - 小山田のインタビュー記事が『週刊文春』9月23日号に掲載されたことを受け、当時「いじめ紀行」の連載を企画・構成・執筆した村上清のコメントが太田出版のWEBサイトに全文掲載された。ここでは「いじめはよくない、やめよう」という教科書的な正論を大っぴらに言うことに対する違和感があり、あえて極端な角度から「いじめ」の本質を伝え、突破口にしたかった、という企画意図が述べられている。また村上は、元記事にあった“皮肉と反語”をあえて掛け合わせたり、一種の“諦念”や“自虐的なニュアンス”を盛り込んだりした記述形態の文脈が、第三者のブログに転載された際、恣意的に切り取られて剥奪されてしまったこと、そしてマスメディアの報道を含む大半のケースで、そのブログ記事が「原文」として参照・拡散されたことなどにも触れている[379]
    • ロマン優光は小山田の炎上騒動が大きくなった理由について「反オリンピックの流れによる部分が多かった」とし、「いじめ記事をオリンピックを攻撃する材料として利用しようとする人間がでたことで、いじめ記事の存在すら知らなかった人、小山田氏に興味もなかったような人に届き、人権意識の高い真面目な人から、叩ければ何でもいいような人まで巻き込んだ」と指摘した。またロマンは炎上に加担したネットユーザーについて「自分に都合のいい言葉を求めてるだけで文章全体の趣旨に無関心の人も多く、期待した言葉がないとピントはずれな批判をしてきたりもする。叩く材料として利用できたら何でもいいし、好意的に解釈するために利用できればなんでもいいのだろう。そういうことから考えてみるに、小山田氏が今後に何を発信しようが、悪く思いたい人は何が何でも悪く解釈するだろうし、良く思いたい人は何でも好意的に解釈する。結局、どっちの言うことも信用ができない」と一蹴した[380]
    • 9月 - 町田市小6女児いじめ自殺事件が発覚。児童に配布されたタブレット端末が「いじめの温床」になっていたことが物議となる。
    • 12月31日 - 小山田の炎上騒動を総括した15時間番組「小山田圭吾氏と出来事の真相」がDOMMUNEで放送。
    • 2021年、渋谷直角は著作の中で、90年代には「悪趣味ブームともある種繋がる形で、「モンド」というブームがあった」と回想した[381]。「70年代の『プレイボーイ』や、『ペントハウス』のエログラビア、アメリカの企業広告やノベルティ、猟奇殺人犯のグッズやジョークグッズ」を事例として挙げた[381]渋谷直角はモンド・ブームについて「デザインや作品として特別優れているわけではないが、奇妙だったり味があって良い、おもしろい、という新たな光で照らされた」「今も昔も並列に見て、その時代時代の背景も知りつつ、美しいものばかりじゃないよね、という情緒ごと楽しむ感覚が当時はあった」と評している[381]
    2022年
    2023年 2月16日 - 新宿ロフトプラスワンでトークイベント「90年代サブカル大総括〜鬼畜系とは何だったのか」開催。出演者は鴇田義晴、曽根賢、石丸元章、平野悠、黒野忍、虫塚虫蔵、好事家ジュネ


    参考文献[編集]

    1980年代以前

    1990年代

    • 青山正明『危ない薬』データハウス 1992年11月
    • 鶴見済完全自殺マニュアル太田出版 1993年7月
    • 鶴見済編『ぼくたちの「完全自殺マニュアル」』太田出版 1994年2月
    • マガジンハウスBRUTUS』1995年3月15日号「特集・インモラル図書館へようこそ!」
    • 青土社ユリイカ』1995年4月臨時増刊号「総特集=悪趣味大全」
    • 宮台真司『終わりなき日常を生きろ―オウム完全克服マニュアル』筑摩書房 1995年7月(1998年3月に同社より文庫化)
    • 竹熊健太郎『私とハルマゲドン―おたく宗教としてのオウム真理教』太田出版 1995年11月(2000年7月に筑摩書房より文庫化)
    • 別冊宝島228『死体の本―善悪の彼岸を超える世紀末死人学!』宝島社 1995年7月
    • 別冊宝島229『オウムという悪夢―同世代が語る「オウム真理教」論・決定版!』宝島社 1995年7月
    • 別冊宝島240『性メディアの50年―欲望の戦後史ここに御開帳!』宝島社 1995年12月
      • 永江朗「アダルト系出版社のルーツを探せ!―系統樹なき、したたかな業界の原点」
      • 松沢呉一「カストリ雑誌と『ガロ』の長井さん―大衆向けエロ本の誕生と魑魅魍魎の特価本の流通」
      • 下川耿史「変態の総合デパート『奇譚クラブ』から『SMセレクト』が産声をあげるまで―変態メディアの細分化はどのように進んだのか?」
      • 永江朗「哀愁の官能劇画史!―やがて悲しきルサンチマンの物語」
      • ピストン原田(アリス出版EVE』編集長)×木村聡(群雄社コレクター』編集長)×原芳一「【座談会】さらば! 自販機本蟹工船―中身を見せずに売る商品のありのまま」
      • 佐伯修「銃後の女性と慰問文のエロス―戦争と性の問題は、従軍慰安婦問題に限定されない!」
    • 別冊宝島250『トンデモ悪趣味の本―モラルそっちのけの,BADテイスト大研究!』宝島社 1996年3月
    • 別冊宝島281『隣のサイコさん―電波系からアングラ精神病院まで!』宝島社 1996年11月
    • 別冊宝島345『雑誌狂時代!―驚きと爆笑と性欲にまみれた〈雑誌〉というワンダーランド大研究!』宝島社 1997年11月
    • 別冊宝島356『実録!サイコさんからの手紙―ストーカーから電波ビラ、謀略史観まで!』宝島社 1998年1月
    • 村崎百郎『鬼畜のススメ―世の中を下品のどん底に叩き堕とせ!! みんなで楽しいゴミ漁り』東京公司/データハウス 1996年7月
      • 電子改訂版『村崎百郎のパンデミック時代を生き延びろ! (1)「鬼畜のススメ」世の中を下品のどん底に叩き墜とせ!!』百郎文庫 2020年7月
    • 東京公司+鬼畜ナイト実行委員会『鬼畜ナイト―新宿でいちばんイヤ〜な夜』データハウス 1996年8月
    • 根本敬村崎百郎電波系』太田出版 1996年9月
    • コアマガジン世紀末倶楽部』Vol.2「総力特集/地下渋谷系―恐怖!怪奇!猟奇!残酷!ショック大全科」1996年9月
      • 青山正明インタビュー「ゲス、クズ、ダメ人間の現人神・『危ない1号』の編集長 青山正明氏に聞く」(取材&文・斉田石也
      • 小林小太郎インタビュー「平口広美さんに死体写真集を見せてもらった瞬間。あ、これだ、いけるぞ、って」(取材&文・こじままさき)
    • 小平絞+鈴原成『世紀末インターネット大全 鬼畜ネット』二見書房 1997年5月
      • NG Gallery館長・小林小太郎氏に聞く「マネされる前にお前らのところに行ってやる」
    • アスキー週刊アスキー』1997年7月28日号「特集/検証・ジャンク・カルチャーと酒鬼薔薇の危険な関係」
    • メディアワークス編『オルタカルチャー 日本版』1997年10月「悪趣味雑誌」の項(pp.18-19)
    • 荒俣宏『バッドテイスト―悪趣味の復権のために』集英社集英社文庫〉1998年1月
    • デヴィッド・ケレケス+デヴィッド・スレイター『キリング・フォー・カルチャー ―殺しの映像』フィルムアート社 1998年3月
      • モンド映画など20世紀の殺人映像を体系的にまとめた著作
    • オークラ出版『ネクロマンティンクHアンソロジー ふにく倶楽部』1998年7月
    • 河上イチロー『サイバースペースからの挑戦状』雷韻出版 1998年12月
    • 平凡社別冊太陽/発禁本―明治・大正・昭和・平成』1999年7月(構成/米沢嘉博城市郎
    • 青林堂月刊漫画ガロ』1993年9月号「特集/三流エロ雑誌の黄金時代」
    • 秋田昌美性の猟奇モダン : 日本変態研究往来』青弓社、1994年。ISBN 4787230875NCID BN11418704https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002355130-00 
    • 宝島社宝島30』1994年9月号「特集/ロリータの時代」(編集協力/東京公司
      • 青山正明志水一夫、斉田石也「受験と女権とロリータ文化」『宝島30』1994年9月号、138 - 145頁。 
      • 青山正明「ロリータをめぐる冒険」『宝島30』1994年9月号、164 - 168頁。 
    • 扶桑社週刊SPA!
      • 1994年10月5日号特集「猟奇モノ死体写真ブームの謎」
      • 1995年9月20日号特集「【最低・最悪】モンド・カルチャーの正体」
      • 1995年11月1日号特集「電波系な人々大研究──巫女の神がかりからウィリアム・バロウズ、犬と会話できる異能者まで」
        • 根本敬×村崎百郎「電波系の正体を解き明かす電波対談ここに開催!」(本記事を元に膨大量の語り下ろし談話を加味して加筆訂正を行った内容が1996年に太田出版から『電波系』として書籍化)
      • 1996年12月11日号特集「鬼畜たちの倫理観──死体写真を楽しみ、ドラッグ、幼児買春を嬉々として語る人たちの欲望の最終ラインとは?」


    2000年代

    • 高取英編『官能劇画大全集 1978〜1982』道出版 2000年9月
      • 菅野邦明×米沢嘉博×高取英「三流劇画ブームの前後を語る―前史・全盛期・抗争・変化」444-486頁
    • 桃園書房『桃園ムック92 鬼畜系美少女ゲーム攻略200連発』2002年2月
    • 山形浩生たかがバロウズ本。』大村書店 2003年2月
    • 北田暁大『嗤う日本の「ナショナリズム」』日本放送出版協会/NHKブックス 2005年2月
    • 宮台真司+北田暁大『限界の思考──空虚な時代を生き抜くための社会学』双風舎 2005年10月
    • 青土社『ユリイカ』2005年4月臨時増刊号「総特集=オタクVSサブカル!」
      • 近藤正高「カミガミの黄昏〈一九九三年〉以前・以後」
      • 屋根裏「悪趣味と前衛が支えたアングラ」

    2010年代

    2020年代

    参考文献(戦前・戦中・戦後編)
    参考文献(現代編)
    参考文献(インターネット編)
    • ばるぼら『教科書には載らないニッポンのインターネットの歴史教科書』翔泳社、2005年
    参考文献 (鬼畜系漫画編)

    脚注[編集]

    注釈[編集]

    1. ^ 伊藤晴雨によれば、撮影後すぐに妻は下ろしたとしており、虐待を加える暇はなかったとされる。妻のキセは2日後に無事出産するが、晴雨は妻が無事だったことにがっかりしたという。
    2. ^ 2021年9月、中野「まんだらけ」の禁書房が風営法違反家宅捜査を受けた際、中古販売されていた『変態・資料』が頒布から90余年を経て、再び官憲に摘発・押収されている[124]
    3. ^ 梅原北明の雑誌でも死体写真を掲載した号は必ずしも発禁になっておらず、彼の雑誌『グロテスク』が誌名通り「エロ」より「グロ」を主題としたのは、時代の趨勢を見越してのことである。
    4. ^ 北明主宰『変態・資料』5号でも東京帝国大学教授の杉田直樹が同事件について論じており、これは先駆的なSM評論とされる。
    5. ^ 当時の雑誌広告(1930年10月発行『犯罪科学』5号)には次のようにある。「警察司法官等の参考として実費を以て提供することとした。本書の出版は空前であり、絶後であって、萬金を投ずるも尚得難き資料である。本書は特殊出版にして警官司法官にのみ頒布すべきなるも、此際特殊な研究家に一百部を限り、実費送料を以て頒つものである」。ここでは100部のみ発行すると記されていたが、実際には一般人にも売られており、戦後は古書市場にも頻繁に出回っていたことからして、その数倍は流通していたと推測される。
    6. ^ 青山正明永山薫との対談で「面白かった時代っていうと、やっぱり『ジャム』『ヘヴン』の頃。要するに、エロとグロと神秘思想と薬物、そういうものが全部ごちゃ混ぜになってるような感じでね。大学生の頃にそこらへんに触れて、ちょうど『ヘヴン』の最終号が出たくらいのときに、『突然変異』の1号目を作ったんです」と語っている(宝島社別冊宝島345 雑誌狂時代!』所載「アンダーグラウンドでいこう! 自販機本からハッカー系まで」より)。また青山は出版業界に入った理由について「僕自身は『HEAVEN』という自販機本があって、その前身の『Jam』だったっけ? あそこらへんで、かたせ梨乃とか山口百恵ゴミ箱あさって……たしか、かたせ梨乃のタンポンとか、山口百恵の妹の学校のテストが二十点とかいう、すっげえ成績悪いやつを全部並べて写真撮って載せてるような……そういうメチャクチャな自販機本があったんですよ。それ見てね『あっ、こんな楽しいことやってて、食っていけるんだなー』って思って、うっかり入っちゃったんだよね。そのあとも、うっかり続きで(笑)」と東京公司のトークイベント『鬼畜ナイト』(新宿ロフトプラスワン/1996年1月10日)にて語っている
    7. ^ a b 同書は1990年代に出版された『SCENE』と書名が同じだが、内容は全く異なっているため「初代」と区別される。元々は『Billy』(白夜書房)の別冊として小林小太郎が出版しようと試みたが諸事情で頓挫し、別の編集者が小林の志を引き継ぐ形で出版したという経緯がある[203]
    8. ^ 危ない1号』創刊号は青山ブックセンター六本木店の「文芸・フィクション系部門」で週間4位[221]。第2巻はパルコブックセンター渋谷店で週間8位を記録した[222]
    9. ^ ロマン優光いわく、狭義の90年代鬼畜系とは「モラルを理解したうえでギリギリな範囲で遊ぶハイコンテクスト文化であった。しかし、それが分からず面白がってモラルを無視し、本当に鬼畜なことを実行する人も少なからずいたという。またロマンはゼロ年代以降の実話誌・裏モノ雑誌で「鬼畜系」を誤解した、犯罪同然の過激な企画が増えたことを指摘している(例えば『裏BUBKA』の日光猿殺し事件など)[238]
    10. ^ 言語ウイルス論=人間は無意識のうちに、宇宙から飛来した「言語」に寄生され、マインドコントロールされているという考え方ウイルスが他の生命の遺伝子に入り込んで増殖するように、言語もまたメディアを仲介し、世界中の人間の身体に伝播・憑依するという構図に由来する。言語ウイルス論はウィリアム・S・バロウズが1964年に発表した小説『ノヴァ急報[240]の中で展開したもので、その毒性を解消する試みとして言語を解体する「カットアップ」という文学技法も登場した。言語ウイルスの典型例として、マスコミによる思想の刷り込み、洗脳情報戦プロパガンダ相対主義権威主義テロリズムファシズム、排他的ナショナリズムインターネット・ミームヘイトスピーチネット右翼オルタナ右翼ポストトゥルースQアノン陰謀論などが挙げられる。特に1990年代以降はパソコン通信インターネットの急速な普及によって、玉石混交の情報が従来以上に高速かつ膨大に流通するようになっており、高度情報化社会における「言語ウイルス」といかに向き合うべきか、という哲学的・倫理的な考察も成されている[241]村崎百郎は言語ウイルス論を引き、言語の持つ落とし穴について次のように警鐘を鳴らした[242]
      「どうか言語ウイルスどもの巧妙な罠に気づいてくれ! 奴らの正体は自分たちを使用する全ての人間に寄生して、世代を超えてその身体を拡張し続ける極めて特殊な疑似生命だ。彼らの希薄な身体と支配力は、彼らを使用する人間の数にかかっている。そのため彼らはできるだけ多くの人間に取り憑き支配しようと、自分が取り憑いた民族を刺激して他民族に対して侵略をしかけるのだ。歴史をひもとけば、侵略に成功した側の民族が征服民に自分達の宗教や言語を強いる例はいくらでもある。“神”はことばであり、同時に言語ウイルスなのだ」という言説は、一九七七年の秋以降、俺の頭に二十九日周期でやってくる電波特有のものだが、この種の妄想は記録によれば一九世紀後半のヨーロッパでは道端に転がる糞ぐらいにポピュラーなものであったというから、そもそもキチガイの妄想には所詮大したオリジナリティーなど皆無なのだ。
      とどのつまり、バロウズの言語ウイルス論から我々が学ぶべきは、「我々の使用する言語の中には“言語ウイルス”という言葉に象微されるような致命的な欠陥が存在する」ということだ。我々の日常のコミュニケーションの中でも、伝えたいことが何ひとつ相手に伝わらず、つまらない悪意ばかり増幅して伝わってしまうことは良くあることだろう。最も伝えたいことが相手にさっぱり伝わらないもどかしさを感じて言葉につまった経験はないか? それは何も“ボキャブラリーの貧困”ばかりが原因ではない。コミュニケーション・ツールとしての“言語”がもつ不完全性と、そこから生じる“悪意”をつねに意識しながら注意深く言語を使用すること──それこそが、我々意識ある人類が陥った“言語の拘束”から解き放たれるための第一歩なのだ。全ての言語が、発生したその瞬間に、嘘もつける“詐欺の手段”としての機能をも同時に合わせ持った“両刃の刃”であることを忘れてはいけない。
    11. ^ 町山智浩が言うところのクソ文化とは、オシャレやモテばかりを追求するリア充志向のトレンディ文化を指している(中国語圏で見られるナンセンスなパロディ文化については「KUSO文化」を参照のこと)。これは大手資本側(電通フジテレビセゾングループホイチョイ・プロダクションズ)が仕掛けた資本主義的な社会現象で、バブル時代に流行した拝金主義軽チャー路線恋愛資本主義的価値観が軸となっている。これらトレンディ文化は、表面上きらびやかでありながら、どこか軽薄で偽善的な空気感をまとっていたのが特徴的だった。町山によればトレンディ文化に対するカウンターが鬼畜系であり、村崎百郎の「すかしきった日本の文化を下品のどん底に叩き堕とす」というスローガンもこれに由来しているという。
    12. ^ 特殊漫画家の山野一は、特殊漫画というジャンルについて「あまりにも私的で特異な題材を前面に打ち出しているためにほとんどすべての日本国民から無視・黙殺・拒絶され、職業として成り立ち得ないまでにマイナーな漫画の一ジャンル」と定義している[280]
    13. ^ Quick Japan』創刊編集長の赤田祐一は「鬼畜ごっこ」の類義語として「痴的遊戯」という表現を用いている[370][371]

      〔鴇田〕―90年代の出版業界にあった余裕から生まれた異端児が『危ない1号』に代表される鬼畜系サブカルチャーかと思います。青山正明村崎百郎吉永嘉明といった人物が関わっていました。赤田さんは吉永さんの『自殺されちゃった僕』の編集も手がけておられます。
      赤田 “鬼畜文化”と称される露悪的な感覚って好きではなかったし、自分は関係ないですね。ただ、青山さんの書くものは好きでよく読んでいたし、ライターとしてとても優秀な人だった。つまらないネタでも読ませる文章として成立させていた。その文化周辺の人って、自分の印象では、高偏差値の人が多いですよね。その意味で、屈折したインテリの的遊戯なんだろうと思って、横目で眺めていました。

    出典[編集]

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    5. ^ a b 「鬼畜系というのは本来、他人のゴミ漁りや自身の『電波』体験をテーマにした文章で知られるライターの村崎百郎氏が自身を指すのに提唱した言葉であるが、悪趣味系のサブジャンル的に、その中でも特に非道徳的・反社会的な部分を指すような言葉として使われることもあった。漫画家・根本敬氏が書いていた奇妙な人々を観察したある意味カスタネダ的な文章の影響も大きく、本来は文献紹介的だった悪趣味系に生身の人間を題材にするという流れを生んだ」ロマン優光連載「好かれない力」特別編「文化人を次々と葬り去る90年代サブカルとは一体何なのか」コアマガジン『実話BUNKAタブー』2021年10月号,178頁。
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    118. ^ a b わずか7年ほどの間に梅原北明は“反体制的反骨出版”を怒濤の勢いで行った。しかしながら北明には政治的・思想的なイデオロギーはなかったという。北明本人はエログロ出版から手を引く直前、雑誌で次のように回想している。
      僕が要するに以前の雑誌グロテスクによってグロテスクとかエロチックとかいうようなことをまるで流行させたかのごとくに思われるのでありますけれども、然しこれは、僕は意識的にグロテスクあるいはエロチックをやったわけではなくて、詰り非常に大胆不敵な考えの下から、エロチシズムあるいはグロテスクということを主としまして、そして世の中を何でも構わぬから、お茶に濁して遣ろうという気になって、それを始めたのが丁度世の中に一種の流行を受けたというような訳で、始めから流行をさせようとかしないという様な意味でなくして、僕としては何でも構わぬから行ってやろうという単純な気持でやった訳です。ところが僕が止めた時分に世の中が案外そう云う様な時期になって実は僕としてはもう今日になってはエロだとかグロだとかの時代ではないと思うのです。そこで僕のほうじゃ好い加減鼻について居るのです。それで僕は一年許り止めて居たので、ところが、こっちが好い加減倦いたりして居る頃に世の中が漸くエロのグロのと騒いできたような訳なのです。 — グロテスク社グロテスク』1931年4月号(復活記念号)所載「全国留置場体験座談会」251頁。
    119. ^ 「父は北明についてかつて何度か文章を発表しています。『なぜ、発表したのか』と聞きましたところ、『義理があったから』と答えました。ずいぶん、古いことをいうなと思って聞き返しましたところ、『義理とは人間関係を重んじることで、古いとか新しいの問題ではない』とのことです。この義理ということばですが、北明も義理を重んじた人のようです。こうしたあたりに北明を単なる『純血左翼』たらしめなかった原因の一つがあるように思います。つまり、イデオロギーより、人間関係を優先させる生き方をとったのです。そのためもあってか、後年、北明を評した文章の中に『ノンイデオロギーの徒』といったことばを書きつらねている人がいました。〔……〕北明は、企業性がゼロに等しい男でした。だから、利害を度外視して思いきった華麗な出版活動を行ないえたのだと思います。倒産のうき目にあっても、北明が『再び出版を行なうから、予約金を送ってほしい』と、定期講読者に手紙を出すと、ミズテンで北明に金が送られてきたといわれています。弾圧にめげずに、ぜひ、おもしろい本を作ってほしい、という手紙が寄せられたとのことです。かりに利潤があがっても、北明は目のかたきのように金を使い、その一部は、冷や飯をたべさせられていたプロレタリア文学の作家にカンパしたそうです。このあたりに、左翼後遺症がうかがえる。同時に、人間関係をたいせつにした北明の一面があります」梅原理子「梅原北明 ポルノ出版の帝王―反逆、諧謔の一生」檸檬社黒の手帖』1971年11月号「特集:評伝―伊藤晴雨/高橋鐵/梅原北明/稲垣足穂」58-62頁。
    120. ^ a b c d 文藝市場社の尾高三郎は、梅原北明編纂『明治大正綺談珍聞大集成』(1929年 - 1931年)の推薦文で、採算の取れない“決死的道楽出版”を行う理由を次のよう記している。
      日本一の新聞蒐集家梅原北明氏決死的道楽出版
      明治大正綺談珍聞大集成
      (前略)親愛なる友よ。大正昭和年間に於ける猥本刊行者の親玉たる梅原北明の存在は餘りに有名であります。併し、彼をして単なる世界各国の猥文献提出者として葬るならば、餘りに彼の蒐集課目を無視したる言葉で、彼こそ實に日本一の新聞蒐集家であると云へば何人も驚嘆するでありませう。事ほど左様に彼は古新間の蒐集に拾数年を費し、この間に投じた蒐集費は数拾萬圓の上に算します。
      この貴重な長時間と莫大な費用とで纏めあげたのが、今回の「明治大正綺談珍聞大集成」で〔……〕内容装幀共に日本有史以来の凝りかたで、やがて死んだ親爺のせつせと稼ぎ蓄めて残し去つた財産の大部分をかぢつて了ひさうです。
      然らば、何が故に實費以下に頒布なさんとするのか? それには一つの大きな原因がなければならない。所謂原因は燒け糞です。梅原北明第三十一回の筆禍禁止勲章授與紀念報告祭に要する燒糞出版だからであります。損得を云つちやいられません。冗談にも早く三十二回目にしろよと云ひますので、責任出版者たる拙者こと文藝市場社こと尾高三郎こと、誠にもつて北明なんて愚にもつかぬ不經濟極る親友を脊負つてゐるばかりに、末は畳の上で死ねるか死ねないか今のところ一寸疑間ものです。
      冗談は扨て置きまして、この紀念を、日本の後代に永遠に残し去かんとする慾望が編者の印税であり、又、明治、大正六十年の人類が刻み残した生ける珍記録の集成こそ、吾々にとつて、最も懐かしい人間的な歴史でなければなりません。と私は確信するので御座います。
      たとへ、この貴重なる決死的道楽出版が、果して、諸賢に共鳴され得るや否やは大なる疑間です。併し吾々は、そうしたたい社會的に不純なる投機的精紳とは絶対に妥協出来ないことだけは断言いたしておきます。
      退窟は死なりと誰れかが云ひましたが、退窟で仕様のない人達にとつては、正に本書は唯一の獵奇趣味に富む眠む氣覺しであるかと思はれます。金錢と云ふ観念を全く超越した装幀の贅澤さ、内容の極珍ぶりに、東京中の出版業者は、多分泡をふいて極度の妬みと嘲けりを投げ與へることでせう。〔……〕本書は一部でも多く賣れれば賣れるだけ損害が益々甚大になる譚です。が、この珍聞を一人でも多くに告げ得られる喜びは、千や二千の端金には換へられない貴い喜びだと信ずるからであります。特に百人の俗人に讀まるゝより一人の獵奇家諸氏に愛讀されんことを欲する次第で御座います。(後略) — 文藝市場社『グロテスク』1928年11月号(第1巻第2号)
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    151. ^ 2号、3号、4号、5号で執筆。
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    155. ^ 晴雨は4号に「虐げられた日本婦人」を執筆。
    156. ^ 創刊号、2号、3号で執筆。久保は「宇和島の凸凹寺法主」の異名を取る人物で『凸』『凹』『空曼陀羅』『生殖崇拝論』などの著作がある。1923年に出版した『生殖器崇拝話集成』は無事発禁となった。
    157. ^ 青山は2号、3号で執筆。
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      ―(鬼畜系が)カウンターカルチャーとして機能していた。
      石丸 そう。言い換えれば、チキンレースでもあった。ゴミ漁りもドラッグも、どこまで限界を超えるかっていう戦い。そのピークが雑誌『危ない1号』周辺のライターが総出演した富久町時代の『鬼畜ナイト』で、鬼畜系・悪趣味ブームの幕開けだった。漫画家の山野一や作家の見沢知廉も客席にいて、それをまとめた本が6万部ぐらい売れたわけ。
      赤田 本当にテープ起こししただけの本だけどね、あれ(笑)。でも、僕は悪いけどそこまで思い入れはないんだよね。鬼畜系の人たちって結構、高学歴・高偏差値が多いじゃない。青山正明さんも慶応の法学部出身。村崎百郎ペヨトル工房の編集者だった。つまり、ウィリアム・S・バロウズアレン・ギンズバーグとか、ビートニク世代の文筆家の人たちの影響というか。 インテリ独特の屈折みたいなものをすごく感じたんですよ。〔……〕当時、ロスやサンフランシスコで「フリンジカルチャー」と呼ばれていた悪趣味でスノッブな流行を「鬼畜系」と呼び変えて、露悪的なかたちで表現してみせたんじゃないかな。だから言うほどのルサンチマンが彼らの意識にあったんだろうかと思いますが……。

      太田出版Quick Japan』135号「ロフトプラスワンと90年代サブカルチャー」(赤田祐一石丸元章姫乃たま)164-167頁、2017年12月。

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      1980年代コミックマーケットに出没していた蛭児神建のイメージ

      文筆家・イラストレーター。日本初の鬼畜系ロリコン同人誌『幼女嗜好』(変質社)主宰。主に幼女姦を主題にした猟奇的な官能小説やイラスト、および変質者ルックで知られた(トレンチコートマスクハンチング帽サングラスプティアンジェ人形を逆さまにぶらさげていた)。1984年9月にモンド系ロリコン漫画雑誌『プチ・パンドラ』(一水社)の編集長に就任するが、作家との軋轢から1987年に引退・絶筆する。後に出家。その経緯に関しては『出家日記―ある「おたく」の生涯』(角川書店・2005年)に詳しい。

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    外部リンク[編集]

    (インターネット編)