高瀬川 (京都府)

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高瀬川
高瀬川と木屋町通
水系 一級水系 淀川
延長 9.7 km
平均流量 -- m³/s
流域面積 -- km²
水源 鴨川(京都市)
水源の標高 -- m
河口・合流先 宇治川(京都市)
流域 京都府京都市
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一之舟入を出たところに復元された高瀬舟
一之舟入への分岐

高瀬川(たかせがわ)は、江戸時代初期(1611年)に角倉了以素庵父子によって、京都の中心部と伏見を結ぶために物流用に開削された運河である[1]。 開削から大正9年(1920年)までの約300年間京都・伏見間の水運に用いられた。名称はこの水運に用いる「高瀬舟」にちなんでいる。

現在は鴨川において京都側と伏見側で分断されており、上流側を高瀬川、下流側を東高瀬川、新高瀬川と呼ぶ。京都中心部三条から四条あたりにかけての高瀬川周辺は京都の歓楽街の一つとなっており、またの名所ともなっている。

地理

高瀬川
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鴨川
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みそそぎ川取水口
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一条
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丸太町通
uexENDEa uKRZuw uKRZuw
二条通
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高瀬川取水口
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一之舟入 寛永
uKRZuw
押小路通
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二之舟入 寛永―元禄
uKRZuw
御池通
uexDOCKl ueABZlg
三之舟入 寛永―明治
uKRZuw
姉小路通
uexDOCKl ueABZlg
四之舟入 寛永―明治中
uKRZuw
三条通
uKRZuw
大黒通
uexDOCKl ueABZlg
五之舟入 寛永―大正
uKRZuw
六角通 承応明暦―大正末
uexDOCKl ueABZlg
六之舟入 承応明暦―大正末
uexDOCKl ueABZlg
七之舟入 寛永末―元禄初
uKRZuw
蛸薬師通
uexDOCKl ueABZlg
八之舟入 ―明治
uexDOCKl ueABZlg
九之舟入 ―大正
uKRZuw
四条通
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船廻
uKRZuw
高辻通
ueHST
船廻
uKRZuw
万寿寺通
ueHST uLSTR uLSTR
船廻
uKRZuw uKRZuw uKRZuw
五条通
ueHST uSTRlf uABZlg
船廻
uKRZuw uSTRc2 uSTR3
ueHST uSTR+1 uSTRc4
船廻
uKRZuw uKRZuw
正面通
uexDOCKf uSTR uLSTR
内浜
uexBRÜCKEu uKRZuw
七条通
uexABZrg uexSTRq ueABZrf
2003年付替
uexBRÜCKEu uKRZuw
塩小路通
uexSTRlf uexSTRq ueABZlg uLSTR
uexSTRrg ueABZrf uSTRc2 uSTR3
1938年付替
uexSTRlf ueABZlg uSTR+1 uSTRc4
uKRZuw uKRZuw
九条通
uSTRc2
uSTR3
uSTR+1
uSTRc4
ueABZlf ueKRZ uexSTRlg
"釜ヶ淵" 1938年
uSTRf uSTRf uexSTRf
uxABZlf uABZlg uexSTR
1999年―現在
uexSTRlf ueABZlg uexSTR
1938―99年
uKRZuw uexBRÜCKEu
十条通
uSTR uENDExa
一級河川東高瀬川起点
uSTR3 uSTR
←鴨川
uKRZuw
稲荷新道
uKRZuw
城南宮道
uSTRc2 uSTR3
uSTR+1 uSTRc4
uABZrg uSTRr
七瀬川
uKRZuw
津知橋通
uABZrg uSTRr
琵琶湖疏水伏見放水路←
ueABZlf uexSTRlg
→旧高瀬川
uSTR uexSTR
←新高瀬川
uKRZuw uexBRÜCKEu
丹波橋通
uKRZuw uexBRÜCKEu
大手筋通
uSTR uENDExa
uSTR uSTR uSTRf
濠川
uSTR uSTR+GRZq uSTR
旧高瀬川終点
uSTR uABZrg uJUNCe uSTRr
宇治川派流←
uSTR ueBHF
伏見港
uSTR+GRZq uFGATEu
新高瀬川終点
uABZqr uABZqr uSTRr
宇治川

高瀬川は、二条大橋の南で鴨川西岸を併走する「みそそぎ川」(鴨川の分流)から取水する。二条から木屋町通沿いの西側を南下し、十条通の上流で鴨川に合流する。

かつて、京都と伏見を結ぶ運河であった頃は、現在の鴨川合流点のやや上流側で鴨川を東へ横断したのち、一部区間で竹田街道と並行、濠川と合流し伏見港を経て宇治川に合流していた。

現在、鴨川以南は東高瀬川と呼ばれ、上記高瀬川や鴨川とはつながっておらず、雨水等を水源とする河川となっている。また、疏水放水路と合流して直接宇治川に流れ出ており、濠川とは合流していない(東高瀬川において、宇治川に直接つなげるために整備された部分を新高瀬川と呼ぶこともある)。

流域の自治体

京都府
京都市中京区下京区南区伏見区

歴史

慶長15年(1610年)、方広寺大仏殿の再建において、角倉了以素庵父子は鴨川を利用して資材運搬を行った。 その後慶長19年(1614年)に、父子によって、京都・伏見間の恒久的な運河が開鑿された。これが高瀬川である。

水深は数十cm程度と浅く、物流には底が平らで喫水の低い高瀬舟と呼ばれる小舟が用いられた。 二条から四条にかけては、荷物の上げ下ろしや船の方向転換をするための「船入」が高瀬川から西側に直角に突き出すように作られた(現在は、史跡指定されている「一之船入」を除き、すべて埋め立てられている、ギャラリー参照)。 七条には「内浜」(うちはま)とよばれる船溜まりがあった(場所は現在の七条河原町を中心とした七条通の北側である)。 内浜の設置は、慶安元年(1648年)からの枳殻邸(渉成園)の建設などに合わせて、御土居の付け替え、高瀬川の流路の変更とともに行われた。内浜の名は御土居の内側に位置したことに由来する。 川沿いには、曳子(舟曳き人夫)が高瀬舟を人力で曳いて歩くための曳舟道が設けられた。

江戸時代を通じて、京都と伏見とを結ぶ主要な物流手段として多くの舟が行き交っていた。 明治時代に入り、明治27年(1894年)に琵琶湖疏水(鴨川運河)が通じると、輸送物資の役割分担によって共存を図ろうとしたものの物資輸送量は減少し、大正9年(1920年)に水運は廃止されることになった。 また、この頃に高瀬川を暗渠化し、路面電車の木屋町線を拡幅する都市計画道路が検討されたが、地元住民の反対により、河原町通に変更された。

昭和10年(1935年)に起きた鴨川大洪水のあと、鴨川の河川改修の一環として鴨川の川底の浚渫が行われ、鴨川の川底が2m程度低くなった。そのため、高瀬川が北から鴨川に流入する地点は十条通付近まで移され、また一方で鴨川横断点の下流側(東高瀬川)では鴨川からの取水が不可能となり、高瀬川は分断されることとなった。 その後1999年に、京都市営東松ノ木団地の建設により、流入点がやや北(九条通寄り)に移された。

ギャラリー

その他

現在は、二条から五条にかけて並行する木屋町通に飲食店が多く立地する。木屋町通周辺、特に三条から四条あたりにかけては京都の歓楽街の一つとなっており、週末は夜遅くまで賑わっている。 また、幕末の事変を示す石碑が多く、の名所ともなり観光客も多い。

高瀬川と高瀬舟は、森鴎外吉川英治をはじめ、小説の題材にもしばしば登場する。

関連項目

参照

  1. ^ 京都観光Navi:高瀬川船廻し場跡

参考文献

  • 石田孝喜『京都 高瀬川—角倉了以・素庵の遺産』思文閣出版、2005年。ISBN 978-4784212538 

外部リンク