高岡宗泰
時代 | 鎌倉時代後期 |
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生誕 | 建長7年(1255年) |
死没 | 嘉暦元年7月15日(1326年8月13日) |
改名 | 千手麿(幼名)→佐々木宗泰→高岡宗泰→覚念(号) |
別名 | 八郎(通称) |
戒名 | 崇岳寺殿前左金吾校尉覚念公 |
官位 | 左衛門少尉 |
幕府 | 鎌倉幕府隠岐守護代 |
主君 | 惟康親王→久明親王→守邦親王 |
氏族 | 佐々木氏→高岡氏 |
父母 | 父:佐々木泰清[1]、母:葛西清親の娘 |
兄弟 |
義重、時清、塩冶頼泰、富田義泰、 茂清、基顕、頼清、宗泰、義信、清村 、清賀、桃井頼直妻、佐々木宗経妻、 東六郎左衛門妻 |
妻 | 正室:井氏(出雲国人の娘) |
子 |
多宝丸、娘(高岡宗義室)、娘(富田師泰室) 養子:宗義[1] |
高岡 宗泰(たかおか むねやす)は、鎌倉時代後期の武将。鎌倉幕府御家人。隠岐国守護代。出雲高岡氏の祖。隠岐(佐々木)泰清の八男。
来歴
建長7年(1255年)、佐々木泰清の八男として生まれる[1]。母は、葛西清親の娘。
弘長4年(1264年=文永に改元)に出仕[2]。文永6年(1269年)に元服し、宗泰と名乗る[2]。「宗」の字は当時の執権・北条時宗からの一字拝領とみられる。
文永11年(1274年)12月頃、異国警固番役として、筑前国遠賀郡黒崎付近で防衛の任につく。建治3年(1277年)4月、隠岐国守護代(一説には守護)となる。
弘安10年(1287年)頃、父泰清の遺跡である出雲国神門郡塩冶郷高岡里を分封されて、高岡氏を称した。晩年は沙弥となり覚念と号す。
家督は甥(富田義泰の五男)で娘婿の宗義が継いだ。