騎馬民族征服王朝説

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『騎馬民族国家
日本古代史へのアプローチ』
著者 江上波夫
発行日 中公新書版(1967年)
中公文庫版(1984年5月)
中公新書(改版)(1991年11月30日)
発行元 中央公論社中央公論新社
ジャンル 日本古代史
形態 新書、文庫
公式サイト 中公新書
コード 中公文庫版 ISBN 4-12-201126-4
中公新書版 ISBN 4-12-180147-4
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騎馬民族征服王朝説(きばみんぞくせいふくおうちょうせつ)とは、東北ユーラシア系の騎馬民族が、南朝鮮を支配し、やがて弁韓を基地[1]として日本列島に入り、4世紀後半から5世紀に、大和地方の在来の王朝を支配ないしそれと合作して大和朝廷を立てたという説。騎馬民族日本征服論(きばみんぞくにほんせいふくろん)ともいう。東洋史学者の江上波夫考古学的発掘の成果と『古事記』『日本書紀』などに見られる神話伝承、さらに東アジア史の大勢、この3つを総合的に検証した結果、提唱した考古学上の仮説である。

この学説戦後の日本古代史学界に波紋を広げた。手塚治虫が『火の鳥 黎明編[2]でモチーフにし、一般の人々や一部のマスメディアなどで広く支持を集めた[3]が、学会では多くの疑問も出され、定説には至らなかった[4]。支持する専門家は少数派にとどまっているとされ[5]、今日ではほとんど否定されているともされる[注釈 1]。これらこの説を否定する立場からは、社会的な変化を説明するのに、騎馬民族征服王朝説はある意味で便利であり、騎馬民族の征服を考えなくても、騎馬文化の受容や倭国の文明化の契機は十分に説明が可能である[6]と指摘されている。

学説の概要と根拠

江上波夫は、日本民族の形成と日本国家の成立を区別し、民族の形成は弥生時代の農耕民族に遡るものの、日本の統一国家である大和朝廷は、4世紀から5世紀に、満洲松花江流域の平原にいた扶余系騎馬民族を起源とし朝鮮半島南部を支配していた騎馬民族の征服によって樹立されたとする。 すなわち、大陸東北部に半農の騎馬民族が発生したが、その内、南下した一部がいわゆる高句麗となり、さらにその一部が「夫余」の姓を名乗りつつ朝鮮半島南部に「辰国」を建て、またさらにその一部が百済として現地に残るが、一部は、加羅(任那)を基地とし、4世紀初めに対馬壱岐を経由して九州北部(江上は、天孫降臨神話の日向を筑紫とみる)を征服し、任那と併せて「倭韓連合王国」的な国家を形作ったという。さらにその勢力は、5世紀初めころに畿内大阪平野に進出し、そこで数代勢威をふるい巨大古墳を造営し、その権威をもって、大和国にいた豪族との合作によって大和朝廷を成立したのであるとする。

そして、唐の朝鮮半島南部への進出によって(白村江の戦い)、日本がその出発点たる南部朝鮮保有を断念するに及んで、大和朝廷は、日本の土地の古来からの伝統的王朝たるかのように主張し、そのように記紀を編纂したものであるとする考古学説が、江上の騎馬民族征服王朝説の概要である[7]

ここで注意するべきは、江上は、元寇のように大陸騎馬民族が一気に九州または日本を征服したと見ているわけではなく、長年月朝鮮半島を支配し定住した民族が、情勢の変化により逼塞したことにより、長期間かけて日本列島を征服支配したとしているのであり、大陸騎馬民族が一気呵成に日本列島を征服したことを前提としてそれを否定するものは、江上への批判としては適切でない。そして、江上は、騎馬民族が農耕民族を征服支配した場合には、徐々に農耕民族に同化するものとしている。それが故に、江上は、大和朝廷を騎馬民族によって成立したと見ながら、日本の民族の形成は弥生時代にまで遡ると捉えていると思われるのである。

このような江上の学説は、遺跡遺物などによる文化習俗と文献を総合して主張される。 文化習俗面では、4世紀後半から7世紀後半ころの後期古墳文化におけるそれは北方的、武人的、軍事的であり、弥生時代の南方的、農民的、平和的なものの延長であった古墳文化と"断絶"があることを根拠とする。文献的な根拠は、記紀や新旧唐書など多岐にわたる。以下、主な文化習俗的根拠及び文献的根拠を紹介する。 (断定的に記述するが、古墳時代の区切り方なども含めて江上の学説であり、学会において反対があるものもあることを承知されたい)

  1. 魏志倭人伝』には邪馬台国に「なし」と記されており(実際にも弥生時代に日本に牛馬がいた形跡は発見されていない)、古墳時代前期にも馬牛は少なかったと思料されるが、古墳時代後期(5世紀6世紀)になると、急に多数の馬の飼養が行われるようになり、埋葬事例や埴輪も見られる。これは馬だけが大陸から渡来したのではなく、騎馬を常用とした民族が馬を伴って大陸から渡来したと考えなければ不自然であること。
  2. 古墳時代前期(4世紀中頃まで)の古墳は、木棺または石棺を竪穴式石室に安置し、副葬品も、鏡、銅剣のような呪術・宗教的色彩の強いもので、魏志倭人伝の倭と類似する弥生時代以来のものであった。これに対して、後期(4世紀終わり頃から)の古墳は応神・仁徳陵で代表されるように壮大であり、石室は大陸系であることが明白な横穴式となり、副葬品も武器や馬具などの実用品に変わり、さらに男女や馬の形をした埴輪が加えられるようになるなど急激な変化が見られること。
  3. そして、古墳などの壁画や埴輪に描かれた服装や馬具、武器は、魏志倭人伝で描かれた邪馬台国(人は全身及び顔に入墨をした上に穴の開いた青い布を被っており、馬はいなかった)のそれとは全く異なり、大陸騎馬民族によってもたらされた朝鮮半島のそれ(白い服をまとい帯を締め、馬を操った)と同様、大陸騎馬民族の胡族のそれとほとんどまったく同類であること。
  4. 高句麗語のなかで現在に伝わっている語彙が、古代の日本語と似ているとされていること。ただし高句麗語がどういうものであったかは明らかではない。
  5. 記紀の天孫降臨説話や神武東征神話は、地理的にも文献的にも、それぞれ朝鮮半島からの九州征服と畿内進出を表し、それは、単語(例えば、クシフルのフルは漢語で村を表し、クシフルは日本書紀ではソホリとされ、それは朝鮮半島で国の中心・王都を表す語である)及びストーリー(例えば、古事記によると、天孫降臨した地は韓國すなわち南部朝鮮に向かっているとされるが、そこを天神の故郷と解すれば文意が自ずと通じるし、亀に導かれて新しい土地に建国する神武東征神話は高句麗などの朝鮮半島の建国神話そのものである)において高句麗など朝鮮半島の開国説話と共通の要素を持っていること。
  6. 江上は、実在した天皇のうち、諡号に「神」の文字をもつ崇神天皇応神天皇を、それぞれ天孫降臨及び神武東征の主人公と見る。そして崇神天皇は、『日本書紀』では御肇国天皇(ハツクニシラススメラミコト)とあり、『古事記』では所知初国之御真木天皇(ハツクニシラスノミマキノスメラミコト)とあることから、崇神天皇は、ミマキ(ミマ(任那)のキ(城))に居住し、そこを出発点として国を創建したと考えられること。ただし日本書紀には崇神天皇初めて渡朝したの人間に対し、自分の名前を与えて「御真」を国名にせよと命じたとあり、文献上妥当ではないとされる。
  7. そして、江上は、応神天皇が畿内に進出し、後に大和朝廷が成立したと考えるが、朝廷国家には、諸豪族に(大伴、物部、中臣等)と地名をその氏とした(葛城、巨勢、蘇我等)の二重構造が見られるが、旧くからの天孫天神系豪族と朝廷成立以前からそれぞれの地方に地盤を持っていた国神系豪族に対応するものであり、軍事は天孫天神系豪族、天皇家の姻族となるのは多く国神系豪族とされた事実がある。このような二元性は大陸における騎馬民族の征服王朝の大きな特徴そのものであること。
  8. 随使裴世清の大和朝廷への紀行には、倭国は言われていたような蛮族ではなく秦王朝(辰韓を含めて、中国では辰を秦と記すので秦王朝とあるのは「辰王朝」であるという)であったと記され、『旧唐書』には「日本国は倭国の別種であり、もと小国の日本が倭を併合した」とあり、『新唐書』日本伝には、神武以前の日本の統治者が「筑紫城」にあり、後に大和地方を治めたとある。このように、隋や唐は、大和朝廷を古来の倭そのものではなく、朝鮮半島南部の辰王朝の末裔であり、それは大和地方を治める以前は筑紫にいたと見ていること。ただし旧唐書にある日本とは天武天皇朝のことであり、倭とは天智天皇朝のことを指しているという考えが一般的である。
  9. 倭王武は、中国南朝に対して、使持節都督新羅百済任那加羅秦韓慕韓七国諸軍事安東大将軍と自称したが、ここに当時存在しない秦韓(辰韓)・慕韓(馬韓)など過去の三韓の国名を加える一方で、その一つである弁韓を加えていない。これは、弁韓は倭王が現実に支配している任那そのものであるからあえて加える必要はないが、倭王は過去に三韓を支配したことを主張したものだと見られること。そして、事実過去に、三韓(辰韓・馬韓・弁韓)の一部を統治した「辰王」という扶余系の騎馬民族と考えられる支配者が存在した。また、上述したように、唐は、日本は、辰王朝が倭を征服した国家だと見ている。
  10. 高句麗好太王碑文からうかがわれるように、応神の時代には倭軍は朝鮮半島奥深く進出したこともあり、辰王朝の末裔を名乗る百済王家を援けている。このような遠征を農耕民族がすることはありえない。天皇家が任那を中心とした騎馬民族である辰王朝の末裔であるが故に戦乱に加わり、百済王家を援けたとみるのが自然であること。
  11. 皇位継承は血統の原理によってなされたが、実は、このように血統を守り(江上は継体天皇も血統が継続していたとみている)、農耕民族に見られるような禅譲による王朝の交替がないのは騎馬民族の特徴であること。また、男子の天皇と天皇をつなぐものとして女帝が現れる古代のあり方は、皇位継承に際して有力者が集まり会議を行う手続を含めて、戦時中に天子が死亡した場合は国会で次の天子を決定するまで后が指揮権を取るという大陸騎馬民族の王位継承のあり方そのものであること。
  12. 平安初期に編纂された『新撰姓氏録』に収録された1059の氏のうち帰化人系統は324で、実にほぼ30%であり、様々な渡来人を受け入れたことが知られているが、農耕民族は他民族を蛮夷視したり蔑視したりする性癖が強く外国人の集団的移住を許容するものではない。このように大量の集団移民を受け入れ、時には強制的に国内に移住させるのは騎馬民族国家に特有のものであること。
  13. 続日本紀』に、渤海の使者に与えた返書の中で、かつて高麗が日本に対し「族惟兄弟(族はこれ兄弟)」と表現したことにふれていること(江上は、天皇氏と新羅や任那の支配者層は同族であるとし、ともに天孫族と呼ぶ)。
  14. 14世紀北畠親房の『神皇正統記』に「むかし日本は三韓と同種といふことのありし、かの書をば、桓武の御代に焼き捨てられしなり」とあること。

などが掲げられる。

学説に対する反論

反論としては、

  1. 考古学の成果からみて、古墳時代の前期(2世紀後半-4世紀)と中・後期(5世紀以降)の間には、両者の文化に断絶は見られず、強い連続性がみられること
  2. 「大陸から対馬海峡を渡っての大移動による征服」という大きなイベントにもかかわらず、中国・朝鮮・日本の史書に揃って、その記載はなく、それどころか中国の史書では、日本の国家を、紀元前1世紀から7世紀に至るまで一貫して「倭」を用いており、連続性が見られること[8]
  3. 騎馬民族であるという皇室の伝統祭儀や伝承に馬畜に由来するものがみられないこと
  4. 日本列島の王墓とされる大規模な墳墓には高句麗百済の王陵である積石塚新羅地域の王墓である双円墳がほとんどなく、これらと日本の前方後円墳では形態等がまったく異なること[9]。つまり、王陵の形態に共通性がまったくないこと。
  5. 日本独自の古墳形式である前方後円墳は、2世紀後半から3世紀前半にかけての畿内で発生していることが明らかで、朝鮮半島や中国大陸にそれに相当する古墳は存在せず、4世紀から5世紀にかけて最盛期をむかえ、6世紀に至るまで墳形や分布にとくに際だった断絶がみられないことから、日本の王権が畿内を発祥とする土着の勢力である可能性が高いこと、及び副葬品も征服を示すものが皆無であり[10]、関東地方や九州で確かに馬具やが出土されているが、これは戦闘用のものではなく、一般の乗馬用のものであったり、また持ち主の社会的地位や権威を誇示する威信財としか考えられず、これをもって征服があったとはいえないこと[11]
  6. 近世に至るまで日本では家畜去勢などの遊牧民的な習慣がほとんど無かったこと[12]
  7. 北方遊牧民のあいだでは短の使用が一般的であるが、日本では戦国時代に至るまで長弓であったこと[13]
  8. は神経質な動物であり、当時のによる大量輸送は不可能であって、現に13世紀蒙古襲来の際にもモンゴル高麗連合軍は軍馬をまったく輸送していないこと
  9. 倭王武の上表文では、「…昔より祖禰みずから甲冑をつらぬき、山川を跋渉して寧処にいとまあらず…(中略)…渡りて海北を平らぐること九十五国…」と記しており、畿内大和を中心とした視点で四方に出兵したという観念が認められ、外部からの征服を主張していないこと。
  10. 遺伝子調査の点では、日本人固有で最多を占める遺伝子はD2系統であり、後から渡来してきたとされる(日本史上のいわゆる渡来人とは一致しない)O2系統遺伝子は江南系統と言われ中国南部地域に見られるが、どちらも騎馬民族系統とは言えないということ。
  11. 日本語の基本語彙の中には満州地域や朝鮮語の語彙はほとんど無く、僅かに見られる語彙もなど本来日本には無いもので借用語の可能性の域を出ず、また、前述される高句麗語百済語なども実態が判明しておらず漢文以外の文章も残っていないため憶測の域を出ないということ。
  12. 古事記日本書紀神話は騎馬民族に特徴的なトーテム獣(トルコモンゴルでは狼、朝鮮では熊など)が見られず、比較神話学上別種に分類されるということ。

などがあげられる。

また、日本における騎馬文化の流入は、倭国が対高句麗戦争のために朝鮮半島に出兵したことを契機に広がったものであるとしている。

学説に対する批判

  • 佐原真は騎馬民族説を「昭和の伝説」とし[14]、「戦時中には、日本神話が史実として扱われ、神武以来の万世一系の歴史が徹底的に教え込まれました。江上説にはそれをうちこわす痛快さ、斬新さがあり、解放感をまねく力がありました。また、人びとの心の奥底では、日本が朝鮮半島や中国などに対して近い過去に行ってきたことの償いの役割を、あるいは果たしたのかもしれません」といっている[15]
  • 田辺昭三は「この説はこれが提唱された時代の要請の中で生まれた産物であり、いくら装いを改めても、もはや現役の学説として正面から取り上げる段階ではない」と評した[16][14]
  • 大塚初重は「多くの考古学者はこの仮説には否定的であったが、アジア大陸での雄大な民族の興亡論にロマンを感じる人も多かった」としている[17]
  • 樋口隆康は「大陸から対馬海峡を渡っての大移動による征服」という大きなイベントにもかかわらず、中国・朝鮮・日本の史書に揃って何ら記載がない。それどころか中国の史書では、日本の国家を、紀元前1世紀から7世紀に至るまで一貫して「倭」を用いており、何の変化もない」としている[18]
  • 岡内三眞は「江上は、騎馬民族がどのようにして日本に侵入し、征服したのか、そしてどのように征服王朝を立てたのかを、考古学の面から何も立証していない」[19]とし、また「この仮説は、現代では通用しなくなった戦前の喜田貞吉の「日鮮両民族同源論」を基礎にして、戦前・昭和初期の歴史教育を受けて北京に留学し、軍隊の庇護の下に中国東北地区を闊歩した江上流の資料収集法と旧式研究法に基づいている。無意識に吐露する現代論や人間感にはアジアの人々の心を逆なでするような言葉が含まれる。」としている[20]
  • 田中琢は「騎馬民族が国家を形成経営しうる能力を持った優秀な民族で農耕民はその面で劣っていると決め付け、人間集団をラベルを貼るような危険」としている[21]
  • 護雅夫は「この説に対しては、多くの日本史家は批判的であるが、井上光貞のように、これを高く評価する学者もあり、また、水野祐はネオ騎馬民族説と称される説を唱えた。江上の騎馬民族説の細かい点については多くの疑問がある」としている[22]
  • 所功は「あくまでもスケールが大きい仮説に過ぎない。不明確な点が多く定説として受け入れることはできない」と述べている[23]
  • 鈴木靖民は「古代史研究の大勢は日本中心の偏った任那史観を乗り越えて、朝鮮史の発展のなかの加耶史本来の理解へとほぼ変革を遂げている。ところが江上説は最近に至るまで一貫して、戦前とほとんど変わることなく、ヤマト王権(朝廷)の朝鮮支配地に置かれた任那日本府の存在を是認し、それが倭韓連合王国、日本の府であるという論を主張し続けるのである。学問の進歩や苦悩・反省と無縁の騎馬民族説は大いに疑問とせざるをえない。」[24]「先学が巨細に解析するように、騎馬民族説は確かに腑に落ちないところがきわめて多い。論証は必ずしも体系的でなく、断片的でおおざっぱ過ぎる。それとともに江上氏の歴史観・思想には深刻な問題があることもすっかり明白になった。」[25]とし、「本来の騎馬民族説は、古代国家あるいは王権の中に編成される渡来人集団の問題として受け継がれているといえましょうし、素朴な騎馬民族征服説はもう克服されている」とした[26]
  • 安本美典は「ひょうたんナマズの構造(とらえどころのない学説)を持つ説」としている[27]
  • 岡田英弘は「完全なファンタジーであって、なんら史実上の根拠はない。江上波夫が創作した、新しい神話」とし[注釈 2] 、また騎馬民族征服王朝説が一世を風靡した理由を次のように挙げている。
  1. 『民族学研究』誌上に、江上がはじめて騎馬民族征服王朝説を話した座談会の記録が掲載されたのは、朝鮮戦争前年1949年であり、朝鮮半島を騎馬民族の大軍が疾風怒涛のごとく南下してくるというイメージは、当時の日本人には、目の前で起こっていることから連想して、極めて受け入れられやすいイメージだった。
  2. 日本というアイデンティティの起源の説明を提供するものであった。
  3. 明治以来の神話の合理化解釈の線に沿っていた。それを具体的に証明したように見えた。
  4. 日本建国を騎馬民族征服王朝説のように解釈すると、西ヨーロッパの歴史と対比して、日本史を説明できる。日本は孤立しているのではない、昔からアジアの一員だったんだ、という感覚も、終戦後ようやく国際社会に受け入れられ、再出発をはかっていた日本人の気に入った。

騎馬民族征服王朝説の現在

騎馬民族征服王朝説は、古墳時代中葉の変革を、新しく大陸から渡来した騎馬民族の征服によって説明しようとしたものであり、魏志倭人伝が第三十巻に配される三国史烏丸・鮮卑・東夷伝が記録する、4世紀から5世紀にかけての北方騎馬民族の満蒙から朝鮮半島にわたる農耕地帯への南下、農耕民との混血、既存の文化との混合による建国という、東北アジア世界における大きな民族移動の動きをふまえて構想されたものである。しかし、江上の考古学説の一部である、朝鮮南部に日本の王朝の血筋を求める説に関しては根拠が薄いことが指摘されている。また、この議論については賛成・反対いずれも感情論に陥りやすい。[要出典]白村江の敗戦で朝鮮半島から完全に絶縁するに及んで、「朝廷は日本古来の伝統的王朝たることを主張し、その意図をもって記紀の編纂がなされた」という江上の主張も踏まえる必要がある。

日本列島における古墳時代中葉の諸変化は、急激な変化ではなく、きわめて漸進的なものである。これに対し、大陸の三国時代の終了から南北朝時代の開始の時期の東アジアの民族移動に付随し、5世紀に大量の騎馬文化を持つ渡来人の移住が行われ、騎馬文化が入って河内王朝となったという、水野祐の三王朝交替説(1952年)のような見解もある。すなわち、実際、水野は自己の王朝交替説を「穏健な騎馬民族説」としており、上田正昭(1973年)も「応神・仁徳両天皇の代を新王朝とする見解は、ある意味では江上説を承認するもの」としており、これらは、古墳時代における前期・中期の間に急激な変化があったことを前提としている。

427年、高句麗では、長寿王の時代に国内城(現在の中国吉林省集安市東郊)にあった都城を平壌城(現在は北朝鮮の首都)に遷し、朝鮮半島へ進出した。ただし、広開土王碑文にみられるように長寿王の父にあたる広開土王を顕彰する碑文や王墓は国内城につくられた。騎馬民族征服王朝説を否定する見解からは、5世紀以降、ヤマトの朝廷が大陸から新しい文物や文化を受容したのは、こうした高句麗の南下政策などといった国際情勢に対応するため、朝鮮半島に出兵し、朝鮮半島南部の資源の確保を目指して、意識的、選択的になされた変化だととらえられる。

神話に関しては、むしろ、大林太良などは、日本の神話伝説をヴェトナムや朝鮮半島、ミャンマースリランカなどの神話と比較して、その独立性を指摘[注釈 3]しており、また「国生み神話」などにみられるように、記紀では、神話や王権の舞台として島々(大八島)を念頭に置いており、大陸に起源を求めていないことはよく知られている。

近年盛んな遺伝子の研究からは、ユーラシアステップアルタイ系騎馬民族に高頻度にみられるY染色体ハプログループC-M86が東日本ではゼロであるが、九州徳島でそれぞれ3.8%、1.4%確認されており[28]、騎馬民族征服王朝説をある程度支持する結果となっている。

脚注

注釈

  1. ^ 「が、ある専門家は『騎馬民族征服説というのは証拠のない仮説で、今日ではほとんど否定されている』と指摘した」『AERA』2009年12月28日号「羽毛田長官が刺した小沢の急所」
  2. ^ 「騎馬民族説が世間に熱狂的に受け入れられているあいだは、ほかの学者がいくら批判しても、まったく利きめがなかった。(中略)騎馬民族説には何の根拠もないですよ、あれは全くの空想なんですよと言っても、みんな、ふーんと言うだけで、全く耳をかそうとしない。(中略)騎馬民族説が、根拠のないただの空想で、歴史的事実ではないとしても、それが史実ではない、と言うだけではだめなので、もっとよい歴史を提供しなければいけない、といことになる」岡田 2001 [要ページ番号]
  3. ^ 三国史記』には新羅王家の始祖は前漢孝宣帝の五鳳元年の4月丙辰の日に即位したとあるなど、ヴェトナムや朝鮮半島では中国との関わりから、ミャンマーやスリランカの場合はインド文明のかかわりから自らの歴史の古さを由緒あるものに仕立てあげているが、日本では大陸の大文明との関わりを求めようとはせず、自らの宇宙論すなわち高天原に王権の基礎を求めていることに着目している。大林 1990 [要ページ番号]

出典

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参考文献

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  • 江上波夫、佐原眞『騎馬民族は来た!?来ない?! 「激論」江上波夫vs佐原真』小学館、1990年1月。ISBN 4-09-626051-7 
    • 江上波夫、佐原眞『騎馬民族は来た!?来ない?! 「激論」江上波夫vs佐原真』小学館〈小学館ライブラリー〉、1996年2月。ISBN 4-09-460078-7 
    • 江上波夫、佐原眞『騎馬民族は来た!?来ない?! 「激論」江上波夫vs佐原真』小学館、2003年5月。ISBN 4-09-626066-5 
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    • 大林太良『日本神話の起源』角川書店〈角川選書〉、1973年2月。 
    • 大林太良『日本神話の起源』徳間書店〈徳間文庫〉、1990年2月。ISBN 4-19-599006-8 
  • 大林太良『神話の系譜 日本神話の源流をさぐる』講談社〈講談社学術文庫〉、1991年2月。ISBN 4-06-158957-1 
  • 岡内三眞 著「騎馬民族説について」、石野博信ほか編 編『古墳時代の研究』 第13巻、雄山閣出版、1993年3月。ISBN 4-639-01139-3 
  • 岡内三眞「騎馬文化伝来は騎馬民族の征服を意味しない」『歴史と旅』第21巻第19号、秋田書店、1994年12月、44-53頁。 
  • 岡内三眞「「騎馬民族征服王朝説」の問題点」『早稲田大学大学院文学研究科紀要. 哲学・史学編』第40巻、早稲田大学大学院文学研究科、1994年、41-58頁。 
  • 岡田英弘歴史とはなにか』文藝春秋〈文春新書 155〉、2001年2月20日。ISBN 4-16-660155-5http://www.bunshun.co.jp/cgi-bin/book_db/book_detail.cgi?isbn=9784166601554 
  • キョウ・ジンキュウ『百済古墳研究』岡内三眞訳、学生社、1984年1月。ISBN 4-311-30446-3 
  • 佐原真『騎馬民族は来なかった』日本放送出版協会〈NHKブックス 658〉、1993年11月。ISBN 4-14-001658-2 
  • 週刊新潮(編)「「天皇家は韓国から来た」喝采を浴びた「小沢一郎幹事長」ソウルの不敬発言」『週刊新潮』第55巻1 (通号 2725)、新潮社、2009年12月31日、28-31頁。 
  • 白石太一郎『古墳とその時代』山川出版社〈日本史リブレット4〉、2001年5月。ISBN 4-634-54040-1 
  • 鈴木靖民「騎馬民族征服王朝説の虚像と実像」『歴史と旅』第21巻第19号、秋田書店、1994年12月、36-43頁。 
  • 田中琢 著、児玉幸多ほか編 編『倭人争乱』集英社〈日本の歴史2〉、1991年7月。ISBN 4-08-195002-4 
  • 田辺昭三『卑弥呼以後 甦る空白の世界』徳間書店、1982年4月。ISBN 4-19-222480-1 
  • 都出比呂志『王陵の考古学』岩波書店〈岩波新書〉、2000年6月。ISBN 4-00-430676-0 
  • 東アジアの古代文化を考える会同人誌分科会 編(編)「東アジアの古代文化を考える会 創立30周年記念」『古代文化を考える』第42号、東アジアの古代文化を考える会同人誌分科会、2002年 冬、1-142頁、ISSN 0386-815X 
  • 樋口隆康「鐙の発生」樋口隆康ほか著『展望アジアの考古学 樋口隆康教授退官記念論集』新潮社、1983年3月。ISBN 4-10-333902-0 
  • 水野祐『日本古代王朝史論序説』 第1冊、謄写版〈日本古代史研究叢刊〉、1952年10月。 
    • 水野祐『日本古代王朝史論序説』(増訂版)小宮山書店、1954年。 
  • 水野祐「騎馬民族説批判序説」『日本古代の民族と国家』大和書房〈日本古代文化叢書〉、1975年6月。 
  • 安本美典『騎馬民族は来なかった! 検証!日本国家の起源』JICC出版局〈JICCブックレット Acute〉、1991年2月。ISBN 4-7966-0082-5 
  • 吉田敦彦『日本神話の源流』講談社〈講談社現代新書〉、1976年。 
    • 吉田敦彦『日本神話の源流』講談社〈講談社学術文庫〉、2007年5月。ISBN 978-4-06-159820-1 

関連項目

外部リンク