青松葉事件

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名古屋城内に立つ「青松葉事件之遺跡」碑

青松葉事件(あおまつばじけん)は、慶応4年(1868年)1月20日から25日にかけて発生した尾張藩内での佐幕派弾圧事件である。弾圧の対象者は重臣から一般藩士まで及び、斬首14名、処罰20名にのぼった。それまで京都で大政奉還後の政治的処理を行っていた14代藩主徳川慶勝が帰国し、その日のうちに弾圧の命令が出ていることから、何らかの密命を朝廷から下されたと思われるが、真相はいまだにはっきりしていない。

事件名の由来

事件名は、処刑された重臣のうちの筆頭格である御年寄列・渡辺新左衛門在綱の家が「青松葉」といわれていたことからとっているという考えが有力とされている。尾張藩士渡辺新左衛門家はもともと徳川家康の家来で「槍の半蔵」の異名を取った渡辺半蔵守綱天文11年(1542年) - 元和6年(1620年))の末裔であるが、その渡辺新左衛門家は鉄砲にも興味を持ち、その鋳造に用いる火を起こすのに青松葉を使ったとか、知行地から年貢を受け取るとき、青松葉を俵に挿して数えた、などという逸話が多いことから「青松葉の渡辺」といわれていたらしい。

発生までの経緯

御三家である尾張徳川家紀州徳川家水戸徳川家には、御附家老というものが存在した。御附家老とは、単純に言えば将軍家から派遣された藩主のお目付け役であり、尾張では成瀬隼人正(なるせはやとのかみ)家と竹腰兵部少輔(たけのこしひょうぶしょうゆう)家が知行高も大きく著名であった。藩主も遠慮しなければならない家柄からその権力は強大であり、藩内は自然、成瀬派と竹腰派に分かれた。このうち、より幕府に近い立場を取り続けたのが竹腰派であり、古くは幕府に反抗的だった7代藩主徳川宗春を隠居謹慎に追い込んだこともあった。幕末のこの時期、藩内は尊皇攘夷を唱える「金鉄組」と、佐幕的な立場を執る「ふいご党」とに分かれ、成瀬家は金鉄組、竹腰家はふいご党に近かった。

14代藩主徳川慶勝は就任以来尊皇攘夷の立場をとり、特にペリー来航以来藩政の刷新を進める中で竹腰家を初めとするふいご党と対立することが多かった。大老井伊直弼の弾圧により慶勝が隠居すると、金鉄組は没落し、竹腰兵部少輔が新藩主茂徳のもとで藩政を取り仕切ったが、桜田門外の変以降竹腰兵部少輔は失脚、慶勝が隠居の身ながら藩政の前面に出、金鉄組とともに頻繁に上洛して政局にあたった。その間、茂徳が隠居して慶勝の子義宜が藩主となり、ふいご党は日の目を見なかった。

大政奉還後、慶応4年1月3日から5日にかけての鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が敗北した。その一報が名古屋に届くと、京都に派兵するかどうかで、派兵を主張する金鉄組と派兵に慎重なふいご党との対立が深まった。このとき、京都にいた慶勝は、手勢を率いて上洛した監察吉田知行から、城代間宮正萬の言付けという形で尾張藩内の情勢を聞き、1月15日に京都をたち、20日に帰国している。

そして、事件は発生した。

青松葉事件の全容

この事件による処罰者は以下のとおり。いずれも弁明の機会を与えられなかった。

  • 1月20日
斬首
御年寄列、二千五百石、内五百石足高  渡辺新左衛門在綱(49)
大御番頭、千五百石、内四百石足高  榊原勘解由正帰(59)
大御番頭格、千石  石川内蔵允照英(42)
  • 1月21日
斬首
御手筒頭格、御書物奉行、二百俵、内五十俵足高  冢田愨四郎有志(61)
錦織奉行格、表御番、二百五十俵、内百八十俵足高  安井長十郎秀親(52)
御使番格、表御番、百五十石  寺尾竹四郎基之(54)
寄合、二百石  馬場市右衛門信広(26)
  • 1月23日
斬首
二百石、御手筒頭格武野新五郎父、隠居  武野新左衛門信邦(77)
二百五十石、御馬廻組光太郎父、隠居  成瀬加兵衛正順(62)
家名断絶、御預け
中奥御小姓格  竹居新吉郎
大御番組  武野新五郎
御馬廻組  成瀬光太郎
  • 1月24日
永蟄居
鈴木嘉十郎父、隠居謹慎中  鈴木丹後守重到
成瀬比佐之丞父、隠居謹慎中  成瀬豊前守正植
減知、隠居、永蟄居
御年寄列  鈴木嘉十郎重熈
減知
      成瀬比佐之丞正心
  • 1月25日
斬首
千五百石、横井孫太郎父、隠居謹慎中、寄合  横井孫右衛門時足(44)
八百石、沢井溢也父、隠居、寄合  沢井小左衛門貞増(44)
四千石、御老列横井伊折介総領、謹慎中  横井右近時保(51)
御普請奉行格、二百俵、内百四十六俵足高  松原新七直富(41)
御先手物頭格表御番三百石、内五十石足高  林紋三郎信政(40)
蟄居
大寄合滝川亀松父、隠居  滝川伊勢守忠雄
平右衛門父、隠居  千村十郎左衛門仲冬
隠居、減知、永蟄居
三千石以上寄合  大道寺主水直良
隠居
五十俵、寄合  若井鍬吉
隠居、蟄居
御用人御側掛、寄合  松井市兵衛
御使番  進八郎
寄合  天野儀兵衛
武野新左衛門二男、中奥御小姓格  名倉鉞之介
御書院番頭格  加藤五郎左衛門
寿操院様御用役  本間太左衛門
錦織奉行格  本杉録兵衛
隠居謹慎、減知
横井孫右衛門嫡子、千石以上寄合  横井孫太郎時棟
沢井小左衛門嫡子、寄合  沢井溢也

発生原因諸説

  • ふいご党の幕府軍加勢説
江戸在府中の竹腰兵部少輔の呼びかけに応じ、ふいご党が幼君義宜を擁して江戸へ向かい、幕府軍に加勢する、という動きがあったというもの。監察吉田知行城代間宮正萬の内報として慶勝に知らせた内容がこれである。
当時、慶勝は徳川慶喜辞官納地問題に際し、領地返上に反対の立場をとっていた。これに対して業を煮やした岩倉具視が、上の加勢説を尾張藩金鉄組の家臣と共謀してでっちあげ、または噂を利用し、朝命の名の下に慶勝に旗幟を鮮明にするよう脅迫した、というもの。
第一次長州征伐において、慶勝は征長総督を務めた。戦争そのものは長州藩が謝罪して終わったものの、長州藩家老3人と藩士11人が切腹し、征長軍は2度にわたり首実検を行った。これが2度も辱めを与えた、として長州藩が恨みを持っていた、というもの。ちなみに、本事件で斬首になったのは重臣3人、藩士11人で、奇妙なことに符合している。
宝暦4年(1754年)から5年(1755年)にかけて、薩摩藩は美濃国木曽三川の治水工事を命ぜられたが、幕府側による再三の工事変更命令、地元名士の非協力などに苦しめられ、完成までに切腹51名、病死33名を出し、総指揮者の家老平田靱負も全責任を負って自決するという悲劇を生んだ(宝暦治水事件)。このとき、治水工事地域を藩領としていたのが尾張藩であったので、その恨みを持たれていた、というもの。
  • 徳川慶勝の保身説
尾張藩は御三家筆頭、その名古屋城は幕府の西に対する防御施設であったため、いくら慶勝が朝廷よりの姿勢をとっても常に疑いの目で見られていた。よって、倒幕後の自分の立場を守るために、あえて藩内の佐幕派を一掃する必要があった、というもの。しかしこれは、まだ幕府の敗北が固まった時期ではないため、少々疑わしい。

その後

この事件ののち、尾張藩は官軍の一員として各地で幕府軍と戦った。天領及び譜代の多い東海の諸藩代官が日和見的立場から中立化に変化したのは尾張藩誘引使が勤皇証書を出させた件が大きい。しかし、それによって得た果実はあまりに少なかった。まず、成瀬家、竹腰家がともに大名として認められた。これは尾張藩にとって思いもかけないことであった。特に竹腰家は、青松葉事件の対象であるふいご党の領袖であった。この矛盾した措置に、尾張藩は混乱した。

次に新政府内での立場であった。めぼしい官職には尾張藩士の姿はほとんどなく、薩長土肥に独占された。その後も、大臣までにのぼったのは、田中不二麿(国之輔)と加藤高明だけであった。

また、廃藩置県においても冷遇された。他の官軍の藩(鹿児島山口高知佐賀広島秋田など)は軒並み県名には藩都の名が採用されたにもかかわらず、名古屋の名は県名に採用されなかった。特に官軍として活躍したわけではない紀州藩和歌山の名を残したのとは対照的であった。 といった宮武外骨「府藩県制史」で指摘されたが俗説である。(詳細は都道府県#名称を参照)

結局、尾張藩は御三家筆頭という立場に安住しすぎ、幕末において政治・外交力を発揮する機会をことごとく逃し、常に事後処理に追われた。逆にその威光を幕府側にも官軍側にも利用され、利用価値がなくなれば省みられなくなった。尾張藩にはそれを見返す力もなかった。青松葉事件の発生も、尾張藩の拙劣な政治・外交の結果であり、その犠牲者数の割には、歴史に与えた影響度合いが小さかった。

なお後年、慶勝による北海道八雲町開拓のため移住した士族たちは、京都にいた慶勝に尾張藩の情勢を告げた監察吉田知行をはじめ、この事件に関係した者も多い。

文献

  • 水谷盛光著「実説・名古屋城青松葉事件 -尾張徳川家お家騒動-」「尾張徳川家明治維新内紛秘史考説 -青松葉事件資料集成-」
  • 城山三郎著「冬の派閥」新潮文庫 ISBN 4101133174

関連項目