露の五郎兵衛

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露の 五郎兵衛(つゆの ごろべえ)は上方落語名跡。初代は京落語(上方落語)の祖とされる。現在は空き名跡となっている。

  • 初代露の五郎兵衛 - (1643年寛永20年)? - 1703年6月22日元禄16年5月9日))は、江戸時代前期の落語家京都出身で、元は日蓮宗の談義還俗して辻咄つじばなしを創始し、京都の北野、四条河原、真葛が原やその他開帳場などで笑い咄、歌舞伎の物真似、判物を演じた。故に上方落語の祖とされる。号は雨洛。晩年に再び剃髪し、露休を号す。著書に『軽口露がはなし』『露新軽口ばなし』『露五郎兵衛新ばなし』などがある。北野天満宮境内には記念碑が建てられている。
  • 二代目露の五郎兵衛 - 本項にて記述

二代 つゆ五郎兵衛ごろべえ
二代 露(つゆ)の 五郎兵衛(ごろべえ)
1955年正月、「宝塚若手落語会」
前列左端が二代目五郎兵衛(当時桂春坊)[1]
本名 明田川あけたがわ 一郎いちろう[2]
別名 3代目 一輪亭いちりんてい 花咲はなさく
一寸ちょっと 露久ろきゅう
生年月日 1932年3月5日
没年月日 (2009-03-30) 2009年3月30日(77歳没)
出身地 京都市上京区[2]
死没地 兵庫県西宮市
師匠 二代目桂春團治
弟子 四代目立花家千橘
露の都
露の團四郎
露の團六
露の新治
露の吉次
露のききょう
名跡 1. 桂春坊
(1947年 - 1960年)
2. 二代目桂小春団治
(1960年 - 1968年)
3. 二代目露乃五郎
(1968年 - 1987年)
4. 露の五郎
(1987年 - 2005年)
5. 二代目露の五郎兵衛
(2005年 - 2009年)
出囃子 勧進帳滝流し[3]
活動期間 1947年 - 2009年
活動内容 上方落語
俳優
家族 露のききょう(長女)
所属 コロッケ劇団
宝塚落語会
宝塚新芸座
MC企画
五郎兵衛事務所
受賞歴
#受賞歴参照
備考
上方落語協会五代目会長(1994年 - 2003年)

二代目 露の五郎兵衛(にだいめ つゆの ごろべえ、1932年3月5日 - 2009年3月30日[2][4])は、落語家大阪仁輪加の仁輪加師。本名∶明田川 一郎[2][4]。 

上方落語協会会長[2]、日本演芸家連合副会長、番傘川柳本社同人、日本脳卒中協会会員などを歴任した。生前の所属事務所はMC企画、五郎兵衛事務所。

来歴[編集]

祖父母が京都市下賀茂の映画撮影所の裏で芝居や舞踊の稽古場を営んでいた縁で、1938年12月、7歳のときに羅門光三郎主演の映画『暴れだした孫悟空』に小さくなった孫悟空役で出演[2][5]し、子役俳優となる。その後も、端役などで映画に出演。その後、一家で中国汕頭市に渡り、汕頭日本東国民学校高等科卒業[2]。中国にて終戦を迎える。

1946年に家族で京都に引き揚げた。同年、生活の糧を得るため、芦乃家雁玉の主宰する「コロッケ劇団」に所属し、芦の家 春一[2]を名乗る。同劇団は軽演劇を標榜していたが、その実は仁輪加を売り物にしていた[5]。地方巡業や、京都の富貴にて前座修行する。1947年11月、戎橋松竹の楽屋で2代目桂春団治に「落語家にならへんか」とスカウトされ、雁玉や林田十郎のすすめもあり、正式に入門して桂 春坊を名乗った(彼は入門まで落語を聞いたことがなかった[2])。落語家としての初舞台は京都座だという。以降、2代目春団治の側近として修業を重ねた。晩年の三遊亭志ん蔵にかわいがられ、志ん蔵が怪談噺を演じる際に、客席に乱入する幽霊役を演じたという。

1953年、上方若手落語家が戎橋松竹派と宝塚落語会派に分裂した際に、宝塚へ行く。しかし、そのまま軽演劇の宝塚新芸座に入団[2][5]し、俳優として活動。しかし1958年に舞台から転落する事故に遭って大怪我を負い、休業[2]1959年、上方落語協会に入会し、落語界に復帰(3代目桂春団治の襲名に乗じて、3代目門下に入り協会末席の香盤という条件で、一一(かずのはじめ、のちの3代目林家染語楼)と共に入会を許される)。松竹芸能に所属。道頓堀角座等に出演した。1960年[2]10月、2代目桂小春団治を襲名。

1963年日本ドリーム観光へ移籍。千日劇場で公開収録された関西テレビお笑いとんち袋』(3代目桂米朝司会)の回答者として活躍。1967年4月、吉本興業に移籍。1968年[2]4月に吉本側から改名を促され、前述の初代露の五郎兵衛の流れを汲む2代目露乃五郎を襲名した[6]。本業の落語のかたわら、俳優としてテレビドラマに多く出演した(後述)。

1980年、吉本興業を離れてフリーとなった。1987年に亭号の表記を「露五郎」に改める[7]1994年、上方落語協会会長に就任し、2003年まで務めた[2](後任は桂三枝(現:6代目桂文枝))。2005年10月、前名「五郎」の由来である大名跡「2代目露の 五郎兵衛」を襲名[2]。同年には歌舞伎4代目坂田藤十郎の襲名披露もあり、両界そろって数百年ぶりの名跡復活が話題となった。

晩年は病に苦しみ、2002年9月に脳内出血、同年11月には原発性マクログロブリン血症を患った。2009年3月30日、多臓器不全のため77歳で死去[4]

受賞歴[編集]

弟子[編集]

中陰桔梗は、露の五郎兵衛一門定紋である

人物・芸風[編集]

家族

次女:菅原早樹(後述)の影響で、2003年10月26日に妻と共に洗礼を受けたキリスト教徒であり、教会やキリスト教テレビ伝道番組の『ハーベスト・タイム』等で落語や講演をおこなった。信仰生活に関する著書を上梓した(下記)ほか、次女との共作の「福音落語」(別名「神方噺(かみがたばなし)」)も演じた。

双子の娘がおり、そのうちの姉は女優・落語家の露のききょう。妹は「おしゃべり賛美家」として活動する菅原早樹で、単立・藤井寺キリスト教会の牧師(菅原義久)と結婚。この娘婿は滋賀県栗東市栗東キリスト教会の牧師として赴任していた頃、五郎兵衛がキリスト教徒になるきっかけを作った。姉のききょうも妹の影響でキリスト教徒となっており、落語にキリスト教のネタを取り入れた「福音落語」を行なっている。孫の菅原詩音は、青二塾大阪校卒業後、2022年現在青二プロダクションジュニアに所属している[8]

得意ネタ

前座時代は初代桂春団治を踏襲するなど爆笑派だった。やがて中国の古典文学を題材にとった『西遊記』『水滸伝』などの新作落語や、『猿飛佐助』『淀川堤夢川竹』などの講談・歌舞伎の翻案を手がけるようになり[5]、長じると古典の艶笑噺、怪談噺を得意とした[7]。怪談は「怪談の五郎」の異名をとるほど高く評された[2]。艶笑噺については、小咄の研究や収集に関する複数の著書を持つ。

音源が残る演目に、赤穂城断絶、あみだ池浮世床うなぎや延陽伯、近江屋丁稚、正本芝居噺・加賀見山、真景累ヶ淵の通し、蛸坊主、大丸屋騒動、大名道具、筍手討、鉄砲勇助、猫の災難、ねずみの耳、初天神、羽根突き、深山隠れ、村芝居、めがね屋盗人、目薬、雪の子守唄、雪の戸田川、夢八四谷怪談などがある。

若い頃から東京の落語界との交流を持ち、落語協会の客分となって、定期的に東京の寄席に出演していた。2代目三遊亭百生(元は上方落語家で、師匠・2代目春団治の兄弟子で3代目桂梅團治を名乗っていた)に私淑し、大家・8代目林家正蔵からも、芝居噺や怪談噺をいくつか授かっている[3]。やがてそれら東京のネタを改作し、上方にもたらした。

2代目五郎時代より、『東の旅』の欠落していた部分(『鯉津栄之助』『天狗の酒盛り』など)の復刻に尽力した[5]。晩年の五郎兵衛時代に全篇演じ、またその名所を巡るという壮大な計画を立てていた。

大阪仁輪加の数少ない伝承者の一人であり、2代目一輪亭花咲に師事し「2代目大阪屋町人」や「3代目一輪亭花咲」を襲名した。一輪亭花咲の名跡は、のちに弟子の露の団四郎に譲り、自ら初代露の五郎兵衛が晩年名乗った「一寸 露休」(ちょっと ろきゅう)を「一寸 露」という字で襲名した[3]。「久」を用いたのは、「休」を用いて引退すると勘違いされるのを避けたためという。

エピソード[編集]

  • 2代目春団治の側近として、常に側にいて共に行動していた。一方、2代目の実子である兄弟弟子の3代目春団治は実父からほとんど稽古を付けて貰っていなかった。このため、2代目のことを訊かれた際に3代目は、「2代目については私ではなく、露の五郎(当時)に訊いて下さい」と返答していた。
  • 若手時代、3代目米朝と同居していた。この件について「にいさん(米朝)と同棲してましたんや」と自著に記している。
  • 米朝によれば、『お笑いとんち袋』はヤラセ無しのぶっつけ本番だったが、小春団治(当時)は、あらかじめ、なじみの客に題を仕込んでおき、その客の掛け声で即興に見せて演じていたとのこと(もっとも、この客が米朝に指名されなければ意味がない話ではある)。米朝は当初この事を知らず、名回答振りに感心していたが、共演者の3代目桂文我が暴露した。
また、米朝の得意ネタに関連したお題では、わざと中途半端に答え、司会の米朝に補足させ、オチを解説させることで番組を成立させ、また司会者を立てる機転を利かせたという。
  • 自宅の塀に大きな家紋を描いていた。「カモーン」(come on! =千客万来)の洒落。
  • 熊沢天皇こと、熊沢寛道の「侍従長」として半年仕えた事がある。

出版[編集]

書籍(単著)
  • 上方艶ばなし(1974年、ごま書房
  • 上方落語夜話(1982年、大阪書籍
  • なにわ橋づくし(1988年、朝日新聞社
  • 上方落語のはなし(1992年、朝日新聞社)
  • なにわ歳時記 五郎噺(1992年、東方出版
  • つゆの艶ばなし(1992年、東方出版)
  • 露の五郎 川柳句集(1997年、東方出版)
  • 五郎は生涯未完成 芸と病気とイエス様(2005年、マナブックスいのちのことば社
書籍(共著)
  • 落語名作全集 第2(小島貞二編 1967年、立風書房) - 『西遊記』の速記。
  • 桂春団治 はなしの世界(豊田善敬編 1996年、東方出版) - pp.179-212 に桂米朝・桂春若との鼎談。

関連書籍

  • おかげさんで―落語家露の五郎とともに(明田川紗英著、1999年、東方出版)- 夫人の著。
CD
  • ライヴ上方艶笑落語集 3(1996年、日本コロムビア
  • 落語仮名手本忠臣蔵(日本クラウン
    • 村芝居(大序)(1997年) - 表題。
    • 能狂言(五段目)(1997年) - 『二八義太夫(六段目)』を収録。
    • 落ちゃるか(1997年) - 表題。
    • 九段目(1997年) - 『天河屋儀平』を収録。
    • 義士大根(1997年) - 表題のほか、『萱野三平考』を収録。
    • 神崎与五郎(外伝)/粗忽の使者(外伝)(1997年) - 表題のうち、『神崎与五郎(外伝)』。
  • 落語 廓噺・艶噺集成(日本クラウン)
    • 忠臣蔵/目薬/宿屋かか(1997年)
    • 赤貝猫/大師の馬(1997年)
    • 鼠の耳(1997年)
    • 粉つぎや/いいえ(1997年)
    • 名月/揚子江/医者間男(1997年)
    • 三人旅浮かれの尼買い(1998年)
  • 露の五郎とっておきの艶(バレ)噺(日本クラウン)
    • 女護ヶ島(1997年)
    • 故郷へ錦(1998年)
    • 初天神(1998年)
    • 紀州飛脚(1998年)
    • 唐人お吉(1998年)
    • 道鏡(1998年)
    • 大名道具(1998年)
    • 金瓶梅(1998年)
  • 落語 人情噺集成(日本クラウン)
    • 大丸屋騒動(1998年)
  • ビクター落語 二代目露の五郎 全3巻(2002年、ビクター/日本伝統文化振興財団)
  • 特選上方お色気噺 第一集 森乃福郎・露の五郎(2010年、ケイエスクリエイト) - 2枚組パックCD。
    • 上方落語名人選 露の五郎(2012年、ケイエスクリエイト) - 上記の単品版。
  • 上方落語名人選 秘蔵版 上方艶笑落語 露の五郎・笑福亭鶴志(2012年、ケイエスクリエイト)
  • 上方落語名人選 秘蔵版 上方艶笑落語 露の五郎・森乃福郎(2012年、ケイエスクリエイト)
ビデオ

出演[編集]

新劇
映画
ラジオ
テレビドラマ
その他のテレビ番組

脚注[編集]

  1. ^ 前列左より春坊(二代目五郎兵衛)、二代目笑福亭松之助、橘家圓二郎、四代目桂文枝三代目桂米朝笑福亭小つる(和多田勝)三代目桂米之助。後列左より見浪よし(五代目笑福亭松鶴夫人)、桂あやめ(五代目桂文枝)旭堂小南陵(三代目旭堂南陵)六代目桂小文吾、桂麦團治、奥野しげる(宝塚若手落語会世話人)。(桂米朝『桂米朝 私の履歴書』日経ビジネス人文庫、2007年、p.93)
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z 露の 五郎兵衛(2代目) コトバンク - 典拠は日外アソシエーツ編『新撰 芸能人物事典 明治~平成』(日外アソシエーツ、2010年)
  3. ^ a b c d 第15回上方演芸の殿堂入り(平成23年度) 大阪府立上方演芸資料館(ワッハ上方)
  4. ^ a b c 露の五郎兵衛さん死去、怪談や艶噺に定評 - nikkansports.com、2009年3月31日
  5. ^ a b c d e f g h i 井澤壽治『上方大入袋 名人の心と芸』1988年、東方出版 pp.138-141
  6. ^ 同時期に2代目桂小米朝月亭可朝を襲名している。
  7. ^ a b c 露の五郎兵衛(2代) コトバンク - 典拠は講談社『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』(2015年)
  8. ^ 露の団姫(@2yu0) (2022年12月5日). “青ニプロJr.の声優・菅原詩音さんは二代目・露の五郎兵衛師匠のお孫さんです”. twitter. 2022年12月6日閲覧。

出典[編集]

  • はなしの屑篭 - 孫弟子の露の団姫ブログ
  • 『古今東西落語家事典』(平凡社、1989年)

外部リンク[編集]