霞会館

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一般社団法人霞会館(かすみかいかん)は、戦前の華族会館を前身とし、1947年昭和22年)の華族制度の廃止により、霞会館と名称を改めた。

概要

霞会館は、元来、旧華族の親睦の中心として存在してきた。そのため会員資格も、元華族の当主並びに成人に達した後継者であった。また、男子以外は爵位を持つ当主となりえなかったため、会員は男子に限られていたが、1973年(昭和48年)頃になって会員名簿に夫人の名前も記載されるようになり、また元華族の夫人、令嬢であれば、女性だけでも利用できるようになった。

これら元華族である会員は、年に4回一堂に会する。1月5日の新年会は会員に限られる。6月1日の創立記念日と10月7日明治天皇の御臨幸記念日は、晩餐会が開かれ、夫人の同伴も許されるようになった。

爵位を持つ当主の直系子孫のみ会員になる資格がある。

沿革

1872年明治5年)に洋行した河鰭実文秋月種樹は、イギリス政界での貴族の役割に注目した。そして帰国後、山内豊誠正親町公董平松時厚らと、議会開設に備えた有志の団体、通款社1873年(明治6年)末に設立し、同じ趣旨を持った『麝香間祗候会議』と合同して、1874年(明治7年)6月、『華族会館』が発足した。

華族会館は単なるクラブではなく、書籍局、講義局、勉強局、翻訳局の設置がその規約に謳われており、1877年(明治10年)、華族子弟の教育機関として学習院が創立された。華族会館が発足したのは浅草本願寺であったが、2ヵ月後に永田町の旧二本松藩邸に移り、ここで創立総会を開いている。その後、神田錦町の学習院内、宝田町、上野公園内文部省官舎と移転し、1890年(明治23年)、鹿鳴館を借り受けて移転した。1894年(明治27年)には、その土地8千坪とともに買い受けている。

1927年(昭和2年)、霞が関に移り現在に至っている。今の霞が関ビルに入ったのは1967年(昭和42年)のことである。霞会館の名称の由来は、所在地の地名が霞が関であることのほか、初代館長の有栖川宮熾仁親王の雅号が『霞堂』といわれたことにある。

運営

会館の運営は、もと華族会館のものだった土地の3千坪をビル建設時に三井不動産に貸した地代と霞会館が所有する霞が関ビルの10階・11階のテナント料、さらに会員の結婚式やパーティなどに貸し出す収入などで賄われている。その一部は障害者施設、老人施設、癌研究所など各社会福祉施設にも寄付されている。

法人の目的

この法人は、政治、経済、社会、文化等各方面にわたって国際的な視野から調査研究し、日本固有の伝統的な精神文化を後世に伝え、もって健全な国民の育成及び社会福祉の増進に寄与することを目的としている。

主な事業

  1. 政治、経済、社会、文化等の調査研究及び参考資料の収集。
  2. 調査、研究成果の報告及び参考資料等の出版事業。
     ※関係者が関連資料を、「尚友倶楽部」編で公刊している。
  3. 伝統文化の伝承。
  4. 講演会、講習会、研究会等の開催。
  5. 社会、文化、福祉等公益に関する事業及び助成。
  6. その他、この法人の目的を達成するために必要な事業。

会員は現皇族(名誉会員)、元皇族(臣籍降下した元宮家)、元王公族、元華族(公、侯、伯、子、男)の当主とその成年に達した長男(嫡男)により構成されている。2012年平成24年)8月現在、会員数793名(正会員784名、名誉会員9名)。

主たる事務所を東京都千代田区霞が関二丁目2番5号(霞が関ビル内)に、従たる事務所を京都府京都市上京区油小路通出水上る大黒屋町42に置く。

主たる役員は次の通りである。(日付は就任日)

紹介記事

参考文献

  • 社団法人 霞会館 華族資料調査委員会編集 『霞会館百三十年の歩み』 社団法人 霞会館、2004年6月1日 非売品
  • 小田部雄次 『華族 近代日本貴族の虚像と実像』 中公新書2006年3月、ISBN 978-4-121-01836-6
  • 一般社団法人 霞会館 華族資料調査委員会 『会館百四十年の歩み』 一般社団法人 霞会館、2014年6月1日 非売品

関連項目

外部リンク