長野県長野高等学校
長野県長野高等学校 | |
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過去の名称 |
(郡立)上水内中學校 長野縣中學校長野本校 長野縣尋常中學校 長野縣尋常中學校長野支校 長野縣立長野中學校 長野縣長野中學校 長野縣長野北高等學校 |
国公私立の別 | 公立学校 |
設置者 | 長野県 |
学区 | 第1通学区 |
併合学校 | 長野市立高等学校普通科 |
校訓 | 和衷協同・質実剛健・至誠一貫 |
設立年月日 | 1883年6月1日 |
共学・別学 | 男女共学 |
課程 | 全日制課程・定時制課程 |
単位制・学年制 | 学年制 |
設置学科 | 普通科 |
学期 | 2学期制 |
高校コード | 20113J |
所在地 | 〒380-8515 |
長野県長野市上松一丁目16番12号 北緯36度40分9.2秒 東経138度12分0.1秒 / 北緯36.669222度 東経138.200028度 | |
外部リンク |
公式サイト(全日制) 公式サイト(定時制) 携帯サイト |
ウィキポータル 教育 ウィキプロジェクト 学校 |
長野県長野高等学校(ながのけん ながのこうとうがっこう)は、長野県長野市上松一丁目にある県立高校。全日制普通科と定時制普通科を設置する。略称は長高、県立長野。
以下、特記がない場合には、全日制についてのものである。
概要
郡立中学として開設され、県立中学校に移管の際は3つの支校を持つ県下で唯一専任校長の常勤する本校となったが、県立師範学校と旧制中学 校のどちらを地元の長野町に優先して残すかについての、松本町との駆け引きで、複雑な前史がある(後述)。
同窓会館であり、普段は生徒の学習室などとして利用される金鵄会館(旧南校舎)は、国の登録有形文化財に登録されている。なお、金鵄会館には、同窓会事務局のほか、長野県高等学校体育連盟の事務局も置かれている。
長野県内の名門校の1つである[1]。
校章
「金鵄」(きんし)に高の文字。東京美術學校から東京藝術大學にかけて入学した学生に公募で選出。旧制長野中学校時代の1899年制定のデザインとは顔の向きと足の描写の点で異なる。1949年制定。文化祭は、校章にちなんで「金鵄祭」と称する。
神武天皇の弓の先に止まり、勝利をもたらしたとされる伝説の鳥をモデルにしている。大日本帝国時代、軍人の功績をたたえる際に、金鵄勲章が授与された。
校歌・応援歌
- 校歌(山また山)
- 旧応援歌の一つであった「金鵄の光」を改名して編曲して制定された。(編曲者は「夕焼け小焼け」、「ゆりかごの歌」、「汽車ぽっぽ」など童謡の名作を数多く残した作曲家として名高い、東京都渋谷区等で教員勤務経験もある旧制長野中学校OBの草川信。)
- 旧校歌(大和心・海ゆかば)
- 南下軍(旧制第四・だいし・高等学校の応援歌と全く同じ。松本深志高校とのスポーツ大会で歌われる。)
- 立てや吾等が選手
- 日新鐘の歌
- 暁鐘の歌
- 見ずや春風
- 凱歌
沿革
年表
- 1883年(明治16年)6月1日 - 上水内郡立中學校として開校。旧上田藩士の長野県士族、小早川潔校長に就任(東京師範学校(続いて東京高師、東京文理科大学、東京教育大学を経た、現在の筑波大学)中学師範学科を卒業と同時に帰長)。
- 1884年(明治17年)9月 - 長野縣中學校長野本校となる(上水内郡立中學校の小早川校長は教頭になり、「旧制」東京大學(後の帝國大學)理学部卒業(で東京物理学校<現在の東京理科大学>創設メンバーの1人)の小林有也(大阪府士族)が校長として長野町の、現長野市立図書館の位置に開校の長野本校に赴任)。「県町キャンパス」
この時期の名物教師には、後に代議士として地理学者として著名な志賀重昴が挙げられる。岡崎藩の士族出身、東京大學豫備門に合格するも札幌農学校に転じ、新卒の博物の教諭として長野町の長野県中学校長野本校に着任。宴会の席で県令の(続いて初代の長野県知事も務める)木梨精一郎と口論になり、コップの水を県令に掛けて懲戒免職になり大勢の生徒に見送られながら、馬車で長野を去る。(この時期はまだ信越線未開通)一説によると中野保とともに旧制高校受験の長野予備校を作ったとも言われているが、東京に戻り丸善書店に勤務。小林校長の姉の結婚相手の豫備門長や私立日本中学校長も歴任の杉浦重剛も加わる政教社のメンバーとともに「雑誌日本人」を発行。その表紙に描かれた意匠の蜻蛉は平家物語にも記述のある「日本蜻蛉州」が由来であり、また戦国武将に甲冑の前立や刀装、刀装具など武具の意匠として(飛ぶ時にバックしない事から「勝虫」と呼ばれた)愛された。後に蜻蛉が県立中学校の校章となった経緯には彼の影響力も大きい。「日本の代表的中学校」になろう、、、との意味が込められたと云われている。ジャーナリストとしても活躍の後、世界旅行に。地理学者としての実地経験を豊富に体得して帰国した。(愛知県岡崎市には地元の著名人として銅像がある)
- 1886年(明治19年)9月 - 県立師範学校(松本→長野)と県立中学(長野→松本)の敷地交換が成立。7年前に制定の「教育令」改め「学校令」施行の「中学校令」の規定である1府県1中学校制により長野本校は小林校長ごと、既に長野町に移転した松本の県立師範学校跡地(「柳町キャンパス」へであって松本支校跡地の「二の丸キャンパス」へではない)に移転(長野本校には6年制の高等中学科、いわば現代の中高一貫校の課程と後述のいわば後の旧制中学四年修了制の原型とも謂うべき初等中学科が併設され、上田、飯田、松本支校には4年制の初等中学科が設置されていたが統廃合)。長野縣尋常中學校(5年制)と改称。柳町キャンパスへの移転後の松本支校跡地は、寄宿舎、農業科、商業科などの敷地に利用される。その後明治21年の松本大火により柳町キャンパスが全焼してしまったため「校長室」と「普通科」など長野県尋常中学校の核心部分を緊急避難先である、松本支校跡地の二の丸キャンパスの廃墟に増築して更に移転した。
- 1893年(明治26年)5月1日 - 1府県1中学校制の廃止により一本校三支校制が復活。松本大火での全焼を契機として、焼け跡の師範学校跡地に再建したり、長野町にキャンパス復帰するのでなく松本支校跡地への緊急避難の後の増築で凌いだため、そこが本校となり、上田と飯田は文字通り復活設置なものの、長野町には長野支校を長野町城山の皇典講究所の敷地に設置する運びとなる。
- 1893年(明治26年)9月 - 西長野町に校舎を新築、移転「上野丘キャンパス」。
- 1897年(明治30年) - 長野市が市制施行。
- 1899年(明治32年)4月1日 - 長野縣尋常中學校を、長野縣立長野中學校(上田支校含む)と、長野縣立松本中學校(飯田支校含む)に改組2分割し独立。長野中學校には、帝國大學(後の東京帝國大學)文科大學を卒業した旧新発田藩士で新潟県士族の三好愛吉が校長に就任。金鵄の校章を定める(松本中學校は、小林有也が、そのまま終身校長を務める)。
- 三好校長はその後、旧制第二高等学校(東北大学)教授/校長に栄転、皇子傅育官長として皇太子時代の大正天皇そして皇子の高松宮、秩父宮の教育にあたる。長野中学校長時代にも「神聖なるピアノ」や「籠城主義」など独自の教育ポリシーを遺したが、旧制二高の校長時代には21世紀の現代の東北大学卒業式に於いてさえ、彼の英名と共に総長告示に引用される、東北大学の学風である「野心(のごころ)」を確立させるなど、短い在職期間に次々と類稀なる教育者としての高邁な理想を示した。また晩年には東京帝國大學に印度哲学科の創設を実現させ、安田財閥の安田善次郎に東大の大講堂の寄付を要請し、両名の逝去の後関東大震災を挟んで「安田講堂」が遂に竣工の運びとなった。一方、小早川潔校長は、その後鳥取、岩手、茨城県尋常師範学校長など全国各地の師範学校長や滋賀県立彦根中学校長を歴任し、初等教育者の育成や中等教育に多大な尽力をした。
- 1907年(明治40年) - 松本市が市制施行。
- 1920年(大正9年)4月23日 - 「中学校令」改正の影響で長野縣令38号により、長野縣長野中學校に改称。
- 1920年(大正9年)8月 - 第7回全国中等学校優勝野球大会に出場(全国大会初出場・中等学校としては唯一)。
- 1940年(昭和15年)4月16日 - 長野中学校は現在地に新校舎落成し、移転(金鵄ヶ台キャンパス)。新校舎は「興亜型」と呼ばれ、俯瞰すると馬蹄形で、校舎全体が金鵄の飛翔を現す(このタイプの建造物で現存は津田塾大学本館など)。
- この年、長野市立中学校が栗田丘キャンパスに開校(後の長野市立高等学校、長野北高校に合併)。
- 1947年(昭和22年)3月 - 校歌が海ゆかばから応援歌の1つだった通称「山また山」に変更。
- 1948年(昭和23年)4月1日 - 学制改革により、長野県長野中学校が長野県長野北高等学校と、長野市立中学校が長野市立高等学校となる。
- 1949年(昭和24年) - 長野県長野北高等学校が長野市立高等学校を統合。
- 1957年(昭和32年)4月1日 - 長野県長野高等学校に改称、文化祭名も「北高祭」から「金鵄祭」に改称
- 1962年(昭和37年)8月 - 野球部が第44回全国高等学校野球選手権大会に出場(これにより長野県下の旧制中等学校系統の高等学校では唯一の快挙を達成)。
- 1969年(昭和44年)11月1日 - 生徒会決議により制服自由化。
- 1982年(昭和57年)3月 - 第54回選抜高等学校野球大会に出場(選抜初出場)。
- 1985年(昭和60年)3月 - 第57回選抜高等学校野球大会に3年ぶり2度目の出場。
- 1994年(平成6年)2月14日 - 新校舎において授業開始。
- 1996年(平成8年)11月19日 - 公式ホームページ開設。
- 1999年(平成11年)10月30日 - 創立100周年記念式典が挙行される。
- 2003年(平成15年)4月8日 - 金鵄会館が国登録有形文化財に登録される。
教育方針
55分授業×6限である。 ただし、スーパーグローバルハイスクール(SGH)への指定により、B週月曜日は50分授業×7限である。
教育目標
- 個人の尊厳を重んじ、真理と平和を愛し、国家社会の有為なる人材の育成を期する
- 高邁にして明朗闊達、至誠一貫、質実剛健、和衷協同の精神を涵養し、身体の鍛錬と相まって心身の調和的な発達をはかる
- 生徒の個性を豊かに伸ばし、各々その目的を達成させるために適切なる指導をする
学校行事
7月上旬に文化祭の「金鵄祭」が行われ、一般にも開放されている。
金鵄祭の際には講演会が行われ、近年ではアントニオ猪木、小柴昌俊、梯久美子、池上彰やOBである猪瀬直樹、北村晴男、才口千晴、小林照幸などが講演を行った。
生徒会活動・部活動など
クラブ活動
本校のクラブ活動は、各班・部・同好会の活動に分かれる。
近年の主な大会等の活動成績は、吹奏楽班が全日本吹奏楽コンクール東海大会の常連であるほか、2003年(平成15年)、2006年(平成18年)、2008年(平成20年)、2010年(平成22年)に全国大会出場を果たし、2006年(平成18年)、2010年(平成22年)の全国大会で銀賞を受賞している。また、2006年(平成18年)、2008年(平成20年)、2010年(平成22年)に全日本アンサンブルコンテスト全国大会で金賞を受賞している。合唱班も、2008年(平成20年)NHK全国学校音楽コンクール全国大会に出場している。管弦楽班は全国高等学校選抜オーケストラフェスタの常連となっている。2004年(平成16年)には、放送部がNHK杯全国高校放送コンテストのテレビドキュメント部門で優秀賞を獲得した。また、新聞部の発行する学校新聞「長高新聞」は、前身となる「北高新聞」が1948年(昭和23年)に創刊され、かつては第三種郵便物の認可を取っていたこともあった。現在の発行部数は公称1100部である。
交通
鉄道駅
- 長野電鉄長野線本郷駅
- 所要時間は徒歩約15分である。かつては善光寺下駅を利用する生徒もいたが、現在では、本郷駅の利用が多い。
- しなの鉄道北しなの線北長野駅
- 所要時間は自転車で約15分である。特に県北部から通学する生徒の利用が多い。
バス停留所
特記のない場合は全て長野駅善光寺口発着。
出身者
政治・経済
- 青木一男 - 元参議院議員(貴族院議員・初代大東亜大臣・大蔵大臣・企画院総裁)
- 青木重臣 - 愛媛県知事(1947年 - 1951年)
- 荒井寿光 - 元通産審議官
- 安斎昌幸 - クンストラボ トウキョウ代表、元NHKプロデューサー
- 池田茂 - 中野市長(2012年 - )
- 石坂弘紀 - 株式会社LDH(旧 ライブドアホールディングス)代表取締役社長
- 市村良三 - 小布施町長(2005年 - )
- 猪瀬直樹 - 東京都知事(2012年 - 2013年)、作家、ジャーナリスト
- 内堀雅雄 - 福島県知事(2014年 - )
- 倉石忠雄 - 元衆議院議員(労働大臣・農林大臣・法務大臣)
- 小坂順造 - 元衆議院議員(貴族院議員・枢密顧問官・電源開発総裁)
- 小林秀明 - 迎賓館館長(元東宮侍従長・元国連日本政府代表部特命全権大使、元駐タイ王国特命全権大使)
- 近藤壌太郎 - 神奈川県知事(1942年 - 1944年)
- 篠原孝 - 現衆議院議員(農林水産副大臣)
- 武田徹 - ラジオパーソナリティー、フリーキャスター
- 田村泰崇 - NHKアナウンサー
- 塚田佐 - 長野市長(1985年 - 2001年)
- 冨坂和男 - NHKアナウンサー
- 夏目忠雄 - 元参議院議員(長野市長(1962年 - 1973年)・満州国依蘭県長・中華民国臨時政府顧問)
- 西村彰一 - 富山県知事(1944年)、元衆議院議員
- 早川元 - 沖縄県知事(1941年 - 1943年)、大分県知事(1943年 - 1944年)
- 丸田芳郎 - 花王石鹸(現・花王)元社長
- 宮崎秀樹 - 元参議院議員
- 向山秀昭 - 元運輸審議官
- 山内雅喜 - ヤマトホールディングス㈱代表取締役社長(2015年 - )
- 吉村午良 - 長野県知事(1980年 - 2000年)
- 依田巽 - エイベックス創業者(元日本レコード協会 (RIAJ) 会長)
- 鷲澤正一 - 長野市長(2001年 - )
法曹
- 北村晴男 - 弁護士
- 才口千晴 - 最高裁判所判事、弁護士、旭日大綬章
- 篠原勝美 - 知的財産高等裁判所初代所長、福岡高等裁判所長官
- 高野輝久 - 知的財産高等裁判所判事
- 半田靖史 - 東京高等裁判所判事
弁護士等は多数輩出していて、「法曹金鵄会」という裁判官/検事/弁護士だけの長野高校同窓会が存在する。最高裁判事の才口千晴(元東京弁護士会長)を筆頭に新設の知的財産高等裁判所の15名のメンバーのうち長官と、現役判事を同時に輩出している。
教育・科学
- 岡田弘 - 地球科学・火山学者(北海道大学名誉教授)
- 大日方純夫 - 歴史学者(早稲田大学教授)
- 小島秀康 - 隕石学者(国立極地研究所教授、南極隕石研究センター教授、第44次南極地域観測隊越冬隊長)
- 塩沢由典 - 経済学者
- 田中秀征 - 福山大学教授(元衆議院議員、経済企画庁長官、首相特別補佐官)
- 中沢一俊 - 認知脳科学者(アメリカ国立衛生研究所 (NIH) 主任研究員)
- 彦坂興秀 - 神経生理学者(アメリカ国立衛生研究所 (NIH) 終身研究員)
- 宮沢俊義 - 憲法学者(貴族院議員、東京大学教授、立教大学初代法学部長(教授)、プロ野球コミッショナー)
- 山岸哲 - 鳥類学者(山階鳥類研究所長、日本鳥学会長)
- 山崎圭 - 歴史学者(中央大学准教授)
- 山田欣吾 - 歴史学者(一橋大学名誉教授)
- 若林正丈 - 政治学者(東京大学教授)
- 金子周司 - 京都大学大学院薬学研究科教授
- 太田至 - 京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科教授
- 中澤公孝 - 東京大学大学院総合文化研究科教授
- 菱田雅晴 - 法政大学大学院政治学研究科教授
- 中牧弘允 - 国立民族学博物館名誉教授
- 金丸龍之介 - 内科医(癌化学療法)、東北大学加齢医学研究所(旧抗酸菌病研究所)臨床癌化学療法部門教授
- 荒井賢一 - 工学者(磁気工学)、東北大学名誉教授および公益財団法人電磁材料研究所専務理事
- 滝澤正 - 法学者(上智大学学長)
- 北村晃寿 - 地球科学者(静岡大学教授)
文学・芸術
- 北川原温(建築家、東京芸術大学教授)
- 青沼陽一郎 - フリージャーナリスト
- 井浦秀夫 - 漫画家
- 池田満寿夫 - 版画家、芥川賞受賞作家
- 草川信 - 作曲家
- 小林照幸 - 大宅壮一ノンフィクション賞受賞作家
- ととねみぎ - 漫画家
- 富澤一誠 - 音楽評論家
- 日垣隆 - 新潮ドキュメント賞受賞作家
- 樋口覚 - 文芸評論家
- 古川琢也 - ルポライター
- 別役実 - 劇作家
- 森山裕之 - 太田出版「Quick Japan」編集長
- 滝沢弘康 - 編集者、歴史ライター、かみゆ歴史編集部代表
旧陸海軍
- 粟野原謙三 - 旧日本海軍少将
- 今井武夫 - 旧日本陸軍少将(北京大使館付武官・支那派遣軍参謀)
- 宇川済 - 旧日本海軍中将(軍令部参謀・サハリン州派遣軍司付)
- 岡本郁男 - 旧日本海軍中将
- 春日勇 - 旧日本海軍少将
- 金子繁治 - 旧日本海軍中将
- 神林美治 - 旧日本海軍中将(軍医)
- 栗林忠道 - 旧日本陸軍大将(史上最年少)、硫黄島日本守備隊司令官、勲一等旭日大綬章
- 篠原直衛 - 旧日本陸軍少将
- 高橋雄三郎 - 旧日本海軍少将
- 原田要 - 旧日本海軍戦闘機搭乗員
スポーツ
- 佐々木光雄 - プロ野球選手
- 松橋慶季 - プロ野球選手、プロ野球審判員
- 町田行彦 - プロ野球選手
- 山岸静馬 - プロ野球選手
- 小口貴久 - リュージュ選手(ソルトレーク五輪、トリノ五輪日本代表)
- 小野学 - スキージャンプ指導者(長野オリンピックスキージャンプ監督、団体金メダル)
脚注
- ^ “才教学園、進学に力点 無理な教員配置”. 読売新聞 (2013年9月14日). 2013年9月16日閲覧。
関連項目
外部リンク