鍋島直愈
時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
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生誕 | 宝暦6年3月15日(1756年4月14日) |
死没 | 享和元年7月2日(1801年8月10日) |
改名 | 伊三郎(幼名)、直愈 |
別名 | 直喬(別名) |
戒名 | 檀香院殿復聞通機大居士 |
墓所 | 佐賀県小城市鷲原の祥光山星巌寺 |
官位 | 従五位下、加賀守 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 肥前小城藩主 |
氏族 | 鍋島氏 |
父母 |
父:鍋島直員 母:松子(静明院・五条為範娘・鍋島宗教養女) |
兄弟 |
姉(諫早茂成室)、姉(大関増桓室)、直嵩、 姉(正親町公明室)、直愈、直賢、 妹(鍋島直簿室)、妹(鍋島直容室)、直宜、 妹(鍋島能完室)、田尻種信、西豊明、 妹(野口能賢室) |
妻 |
正室:鍋島重茂の娘・数子 側室:秀島記稔の娘・タミ(本性院) 側室:松崎利如の娘・三笠(良峰院) |
子 | 直知、娘(鍋島直彜正室)、直堯 |
鍋島 直愈(なべしま なおます)は、肥前小城藩の第7代藩主。
生涯
宝暦6年(1756年)3月15日、第6代藩主・鍋島直員の次男として小城で生まれる。宝暦14年(1764年)5月に父が隠居したため、家督を継いだ。明和7年(1771年)12月、従五位下・加賀守に叙位・任官する。
この頃になると小城藩では財政悪化が問題化していたが、それを示す逸話がある。安永3年(1774年)2月、幕府は有栖川宮織仁親王の江戸下向に対して、直愈を御馳走役(現代でいう接待役)に任じた。親王を迎えるとなると経費は莫大になるが、直愈はその必要経費である9500両のうち2000両ほどしか調達できなかった。このため、幕府に対して7000両の拝借金を嘆願したが、幕府はこれに激怒し、接待が終わった後に「不届き」であるとして直愈、そして本家の佐賀藩主・鍋島治茂を2ヶ月間の差控(登城停止)にした。
寛政元年(1789年)10月、後の藩校・興譲館の前身である文武稽古館を創設する。寛政6年(1794年)4月、家督を長男・直知に譲って隠居する。
享和元年(1801年)7月2日に小城で死去した。享年46。