鉄兜団、前線兵士同盟
鉄兜団、前線兵士同盟(てつかぶとだん ぜんせんへいしどうめい、ドイツ語: Stahlhelm, Bund der Frontsoldaten)は、ヴァイマル共和政時代のドイツの在郷軍人組織、政党。退役軍人で組織され、保守的な政治活動をおこなった。ドイツ国家人民党と友党関係を保ったが、団員の中にはドイツ人民党の党員もいたり国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス党)とも関わりを持ったりしたことがある。団長は1924年よりフランツ・ゼルテとテオドール・ディスターベルクの二人で務めていた。
歴史
ドイツ革命で帝政が崩壊し、さらにドイツが第一次世界大戦に敗戦した後の1918年12月25日に退役軍人フランツ・ゼルテがマクデブルクで「鉄兜団、前線兵士同盟」(以下、鉄兜団)を設立した。鉄兜団は反民主主義、反共和制、復古主義、反ヴァイマル憲法の立場を貫いて退役軍人から強い支持を集め、1930年の最盛期には団員数50万人を超えた。この時期の鉄兜団はドイツで最大の民間準軍事組織であった。
1929年にはヤング案に反対する運動に参加し、1931年にはナチス党やドイツ国家人民党、その他保守・右派政党とともに「ハルツブルク戦線」を組織してハインリヒ・ブリューニング首相とヴァイマル共和制への批判運動を行う。しかしナチス党首アドルフ・ヒトラーはナチス党が巨大な保守・右翼連合体の一下部組織にされることを好まず、距離を取ろうとするようになった。また伝統的なプロイセン退役軍人が多かった鉄兜団の方でも、ナチス党の過剰な反ユダヤ主義思想や社会主義に近い経済思想に対しては嫌悪感を示すようになっていった(鉄兜団は社会主義的傾向の強いナチス党左派グレゴール・シュトラッサーを特に嫌悪していた)。そのためナチスとの同盟関係はすぐに溶解した。その後、鉄兜団はドイツ国家人民党とのみ同盟関係を維持した。
1932年の大統領選挙では鉄兜団とドイツ国家人民党はディスターベルクを統一候補に立てたが、惨敗した。1933年に首相となったアドルフ・ヒトラーは鉄兜団を取り込もうとディスターベルクに入閣を求めたが、拒否されたため、ゼルテが代わりに入閣を求められてヒトラー内閣の労働相となった。
1933年6月21日に鉄兜団はナチス党の突撃隊(SA)に吸収され、ゼルテも突撃隊大将(独: SA-Obergruppenführer)に任じられた。吸収された鉄兜団は1934年に「国家社会主義ドイツ前線戦士連盟」(独: Nationalsozialistischer Deutscher Frontkämpferbund)と名前を変えさせられた。さらに1935年には完全に解散させられている。ドイツ皇室の復活を主張する君主主義的な傾向をナチス党が警戒したためという。
備考
- 鉄兜団は機関誌『Stahlhelm』(シュタールヘルム。鉄兜)を刊行しており、のちにヒトラー暗殺計画に携わり処刑されるハンス・ユルゲン・フォン・ブルメンタールが編集長をしていた。
- また鉄兜団の若い世代は団中央の復古的、君主的、愛国的傾向に批判的で、よりラディカルなナショナリズムの傾向を有し、若い世代向けに別に『Standarte』(シュタンダルテ。軍旗)がヘルムート・フランケの編集下で刊行され、編集には後にエルンスト・ユンガー、ヴィルヘルム・クライナウ、フランツ・シャウヴェッカーらが加わる。『Standarte』グループはその国民(民族)ボルシェヴィキ的傾向から鉄兜団から分離し、ヘルマン・エアハルト率いる義勇軍(フライコール)のエアハルト旅団の後身のコンスル(執政官組織)と結びつく。