金田正泰

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金田 正泰
1952年頃
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 京都府京都市
生年月日 (1920-07-21) 1920年7月21日
没年月日 (1992-12-05) 1992年12月5日(72歳没)
身長
体重
170 cm
68 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 外野手
プロ入り 1942年
初出場 1942年3月28日
最終出場 1957年10月2日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴
  • 大阪タイガース
    阪神タイガース (1958 - 1961, 1972 - 1974)

金田 正泰(かねだ まさやす、旧姓:竹村、晩年の姓:小武内(おぶない)、1920年7月21日 - 1992年12月5日[1])は、京都府京都市出身(朝鮮慶尚北道生まれ)のプロ野球選手外野手)・コーチ監督解説者

シーズン最多三塁打の日本記録保持者(18本)。

経歴[編集]

現役時代[編集]

日本統治下の朝鮮慶尚北道で生まれ、家族で海峡を渡ってきた[2]。生家は神社で、プロ入り前までは竹村姓であった[注釈 1][注釈 2]。その後に平安神宮の宮司の養子となり、金田姓となった[3]寺田村(現・城陽市)の寺田尋常小6年生であった1935年に近所のグラウンド(後の寺田球場)で球拾いをしていたところ[2]、練習中の旧制平安中の小笹清一監督がグラブをプレゼントし、「君は筋がいいから高等2年まで行け。そしたらオレが平安にスカウトしてやるから」と声をかけた[4]。平安中OBで立命館大でも強打者でならした[4]小笹から「高小2年行けば、スカウトしよう」と約束され[2]、教え通りに高等小学校を出ると、1936年春、本当に学費・通学費免除の特待生で平安中に招かれた[2][4]

旧制平安中学時代は1938年から1941年にかけて4年連続で春の選抜に出場し、1938年は夏の選手権にも出場。5年次の1941年には主将を務めたが、12月8日太平洋戦争に突入する年で、夏の選手権は中止となった[4] [2]。秋には阪神軍松木謙治郎選手兼任監督が1週間ほど平安中をコーチしたが、著書に「特に目についたのは竹村だった」「とにかく厳しく鍛えてほしいという注文だけに連日猛特訓をつづけた。もっとも元気で走り回っていたのが竹村だった」と記している[4] [2]。卒業後はプロ5球団からオファーがあったが、早稲田大学へ進み教師になる夢もあった。しかし家計を考えて断念した金田は「どうせなら一番、厳しい道を選んだほうが、成長できる」と、1942年に平安中のOBがおらず、もっとも契約金が安かった阪神軍へ入団[5]。戦時下で選手数が不足していたため、2年目の1943年にはレギュラーとなったが、打撃成績は他の選手に劣るものであった。戦時中の勤労動員では阪神電鉄尼崎・浜田車庫[注釈 3]に通い、アワの黒い飯を食べながら働いた[2]

戦後の1946年に152安打(鬼頭数雄の日本記録を更新、1948年青田昇が更に更新した)[6]・打率.347で首位打者最多安打に輝き、この年から金田に加えて、呉昌征土井垣武藤村富美男本堂保次などリーグを代表する打者を並べた阪神打線は「ダイナマイト打線」と命名された。同年の119単打千葉茂の日本記録を7年ぶりに塗り替えた(1948年に呉昌征が更新)。シーズンオフには「扶養家族が多く、年俸8000円では生活できない」という理由で退団し、ブローカーに転身したが、1947年に監督を兼任することになった若林忠志の要請で開幕日に復帰。この年も打率がリーグ2位の好成績を収め、チームの優勝に貢献。打撃タイトルこそなかったものの、初のベストナイン、リーグ最多の11三塁打も放っている。バットコントロールも秀逸で、内角低目への投球も巧みにさばいて、川上哲治に絶賛されている[5]サイクル安打も達成した1949年には、執拗に内角を攻められたことに怒って、バットを持ったまま投手に詰め寄ったこともあった[5]。同年には結婚して日本に帰化するが、シーズンオフに別当薫・土井垣ら主要打者が毎日オリオンズに引き抜かれた。藤村と共に残留した金田は1番打者として奮闘し、1950年には国鉄の新人で1年目から剛速球で沸かせた金田正一から頭部に死球を受けたが、耳から血を流しながらもプレーを続け、その翌日も出場したものの、「太陽がグルグル回っとる」と昏倒したこともあった[5]1951年にはシーズン18三塁打の日本記録を樹立し(2021年現在も破られていない)、1953年からも2年連続でリーグ最多三塁打。1955年には球団初の開幕戦初回先頭打者本塁打を放つが(タイガース日本人選手としては現在も史上唯一、2011年マット・マートンが記録)、1956年には「藤村排斥事件」の中心人物となる。同年には故郷・寺田が野球大会を創設することになり、青年団に優勝カップ「金田杯」を贈った[4]1957年にはレギュラー左翼手の座を大津淳に明け渡し、同年限りで現役を引退。三塁打103本は阪神の球団記録である。

解説者・監督時代[編集]

引退後は1958年からタイガースの二軍監督に就任したが、1959年5月21日から一軍コーチとなり、シーズンオフに監督に昇格。また金田は後ろ盾になってもらおうと阪急監督を退いたばかりで巨人軍元監督の藤本定義にヘッドコーチ就任を要請。一年目の1960年はエースの村山実が二年目のジンクスに苦しむが、広島とのAクラス争いに勝って3位の成績を残す。しかし二年目は開幕から投打が噛み合わず最下位に沈み、球団は6月6日に金田に休養を通告。後任は自ら招いた藤本が代理監督に昇格、金田はシーズンオフにそのまま退団した[2]

阪神退団後は日本教育テレビ毎日放送解説者(1962年 - 1971年)を経て、1972年に村山実選手兼任監督に請われ、ヘッドコーチとして11年ぶりに阪神に復帰。開幕から低迷を続け、4月21日から村山が投手専念のために一時的に指揮権を譲られ、名目上はあくまでも村山が監督のまま、結果としてすぐに勝率を5割に戻す。役割を果たした金田は5月13日戸沢一隆球団代表に指揮権返上の旨を伝えるが、これに対して戸沢はその必要はないと引き続き指揮を執るように指示。その後も何度も指揮権返上の話が出るが戸沢はあくまでも認めず、最終的に阪神は2位でシーズンを終了する。そして指揮権を奪われたままの村山はそのまま引退・退団するとともに金田が正式な監督に昇格した[7]が、表面的にこれが村山に請われてヘッドコーチになった金田がその村山を追い出したように映ってしまい、村山に近い選手たちから激しい恨みを買うことになる。

1973年はシーズン当初から村山の大学の後輩に当たる藤井栄治鈴木皖武権藤正利との確執など一部の主力選手との対立が激化。選手・コーチ・さらにはマスコミも二分されていた。その中でも一匹狼の江夏豊は派閥に関係なく、シーズン前に一緒に永平寺に行き、お互いに「ゆたか」「おじき」と呼ぶなど懇意にするほどの仲であったが[8][9]、一方で江夏と野手陣とは特に折り合いが悪く、シーズンが始まった5月に江夏の言動に不満を抱いているある主力の野手が「このままでは他の選手は納得してませんよ。江夏を取るか他の選手を取るか決めてください」と金田に直訴したりして、金田は次第に主流派であった田淵幸一藤田平など野手に重きを置くようになる[10]

そしてその流れで、ある試合で首脳陣ミーティングで金田監督が江夏の投球を批判し、それをわざわざ某コーチが江夏の耳に入れたこと[8]、ローテーションをエースの江夏ではなく一時的に上田二朗を中心にしたことなどで、これで江夏のプライドが少なからず傷つき[11]、また5月末の広島遠征中に21年目のベテラン投手の権藤正利がタバコを吸いながら球場入りしたのを見た金田が「サルでもタバコ吸うんか」とからかったとされ、それを伝え聞いた江夏は、監督への不信感を募らせる[8]。さらにシーズン中にもかかわらず関西の大手スポーツ新聞社が面白おかしく対立を煽ったこともあり、いつしか金田と江夏は完全に冷え切った口も利かない状態になっていった[10]

このようにチーム内部はバラバラな状態であったが、ペナントレースはリーグ全体が大混戦の中で巨人と阪神がシーズン最終盤までデッドヒートを展開。10月20日(対中日戦)と同22日(対巨人戦、シーズン最終戦)の残り2試合でマジック1という状況となった[9]。中日戦の先発は、シーズン中から中日戦を得意とした上田と目され、上田は後年の回想で試合の3日前に投手コーチの柿本実に先発を伝えられていたと述べている[9]。しかし、実際には江夏が先発となり、敗戦[9]。最終戦にも敗れて、巨人の逆転優勝(V9)を許してしまった[9]。この起用法について後年になっても疑問が指摘される[9]。これについては、上田が死のロードを迎えた8月12日以降、4勝8敗と急に勝てなくなっており、その前の10月11日の巨人戦(後楽園)でも打ち込まれている状況で、さらに中日戦を迎える数日前から扁桃腺を腫らし風邪気味で体調が悪かった[12]などの理由でこのまま上田を強行登板させるよりも、藤村隆男一軍投手コーチと相談して江夏のエースとしてのプライドとその勝負強さに賭けようとなったとされている。[要出典]この起用について江夏自身は自伝で「あとで中日戦は上田で巨人戦は江夏でいけばよかったという声もあったけれど、それは結果論であって、あと1勝すればいいとなったら、勝ち星の多い方からいくのは当然。残念な結果になったんですが、僕は今でもあれは正攻法だったと思う。僕の力が及ばなかったから負けたということです。」とその起用法に理解を示している[13]。上田自身もまたこのことについて、中日戦の登板を望んでいたものの、「金田監督が確執があるとは言えエースである江夏をなんだかんだ言って信頼して最終的には託したのだろう」と振り返っている[14]。10月22日の巨人戦は0対9の惨敗に終わったことで試合終了後に観客が暴徒化して兵庫県警察機動隊まで出動し[15]、球場外に出された後も騒ぐファンを説得するために金田は警察の要請で試合終了から1時間以上経過した後にハンドマイクで「私は涙こそ流していないが、気持ちの中は皆さんと同じく残念でたまらない。来年こそ一層がんばるので、ファンの皆さんも理解してほしい」と呼びかけることになった[16]

シーズン終了後の11月23日、阪神のファン感謝デー終了後に甲子園球場の監督室で権藤から前述の暴言に対する謝罪を求められたが受け入れなかったため、殴打される[8]藤井栄治も金田との対立の末にシーズン終了後に太平洋クラブに移籍。これに先立つ11月上旬には、江夏が「金田監督の下ではプレーしたくない」と表明して球団代表の戸沢が事情を聴取した[9][17]。金田も12月に戸沢に対して辞意を表明する(戸沢はその後の記者会見で「聞かなかったことにした」と述べた)[18]。戸沢は、両者の意見をそれぞれ聞く形で収拾に当たり、最終的に江夏の残留と金田の続投で年末までに決着した[9][19][20]。決着後の契約更改で江夏は戸沢から「二度と騒ぎを起こさないように」と注意を受けたという[20]。しかし、その後も江夏との確執は解消されなかった。

1974年はシーズン前半は首位で折り返すが、後半戦に失速し一時は球団史上最低勝率に落ち込み[9]、最終的には4位で辞任した。同年は二軍にいた1年目で無名の掛布雅之を周りの反対を押し切って一軍に抜擢し、掛布もそれに応え、その後のスター街道を歩むことになった。この点について掛布は「金田正泰監督がいなければ、その後の僕は存在していなかったかもしれない」と著書で金田に感謝の意を示している[21]

監督退任後[編集]

監督辞任後は解説者・評論家や少年野球軟式野球の指導者・役員[注釈 4]などの活動をせず、球界から一線を引く。小武内姓となり、大阪市内で麻雀店とステーキ店を経営。1992年12月5日、急性心不全のため死去。72歳没。葬儀は密葬であったこともあり、球界関係者の姿は多くはなかったが、1972年にヘッドコーチとして入閣した時の監督であった村山は葬儀に参列した。

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1942 阪神
大阪
68 179 142 14 21 2 1 1 28 4 5 5 9 -- 27 -- 1 22 -- .148 .288 .197 .485
1943 78 262 207 26 51 7 1 2 66 13 10 4 15 -- 39 -- 1 16 -- .246 .368 .319 .687
1944 24 103 83 13 16 2 3 1 27 7 0 2 4 -- 16 -- 0 10 -- .193 .323 .325 .649
1946 105 494 438 77 152 19 13 1 200 61 10 13 6 -- 48 -- 2 26 -- .347 .414 .457 .871
1947 109 465 396 68 123 15 11 2 166 52 19 9 1 -- 66 -- 2 31 -- .311 .412 .419 .831
1948 134 580 515 75 144 22 8 3 191 48 20 7 5 -- 56 -- 4 36 -- .280 .355 .371 .726
1949 133 605 526 108 159 35 10 10 244 63 21 10 3 -- 72 -- 4 42 -- .302 .390 .464 .854
1950 132 565 480 89 122 21 9 6 179 52 7 8 3 -- 77 -- 4 41 5 .254 .362 .373 .735
1951 116 537 456 81 147 23 18 9 233 58 11 4 5 -- 70 -- 6 34 3 .322 .419 .511 .930
1952 120 546 475 86 130 20 3 5 171 67 13 4 3 -- 64 -- 4 26 3 .274 .365 .360 .725
1953 127 578 486 96 159 25 11 8 230 64 27 9 1 -- 87 -- 4 33 0 .327 .433 .473 .907
1954 120 536 463 81 143 27 10 4 202 35 28 10 1 2 68 -- 2 47 5 .309 .398 .436 .834
1955 126 549 488 47 124 16 4 2 154 32 11 14 4 3 53 1 1 57 5 .254 .327 .316 .642
1956 67 203 179 18 31 2 1 1 38 9 5 0 1 1 19 0 3 31 1 .173 .262 .212 .475
1957 17 23 20 2 5 2 0 0 7 3 0 0 1 0 2 0 0 5 0 .250 .318 .350 .668
通算:15年 1476 6225 5354 881 1527 238 103 55 2136 568 187 99 62 6 764 1 38 457 22 .285 .378 .399 .777
  • 各年度の太字はリーグ最高、赤太字はNPB記録
  • 阪神(阪神軍)は、1946年に大阪(大阪タイガース)に球団名を変更

タイトル[編集]

  • 首位打者:1回 (1946年)
  • 最多安打(当時連盟表彰なし):1回 (1946年) ※1994年より表彰
  • 最高出塁率(当時連盟表彰なし):2回(1947年、1953年)

表彰[編集]

記録[編集]

節目の記録
  • 1000試合出場:1952年9月11日 ※史上13人目
その他の記録

背番号[編集]

  • 28 (1942年 - 1943年)
  • 7 (1946年 - 1949年、1951年 - 1959年)
  • 21 (1950年)
  • 30 (1960年 - 1961年)
  • 73 (1972年 - 1974年)

関連情報[編集]

出演番組[編集]

※いずれも現行のタイトル

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 旧制中学時代に出場した甲子園大会はいずれも「竹村正泰」である。
  2. ^ こうした経緯のため国籍は一貫して日本だった可能性があるが、朝鮮民族を出自とした家系か、日本から「国内移動」で朝鮮半島に移住した人物の家系かは不明である。
  3. ^ 阪神国道線の車庫で、国道線の廃止後に阪神浜田球場となった。
  4. ^ 当時はプロ・アマ間の断絶があり、元プロ選手のアマチュアへの指導は中学生以下と軟式野球の一部に限られた。

出典[編集]

  1. ^ 『プロ野球人名事典 2003』日外アソシエーツ、2003年、158頁
  2. ^ a b c d e f g h 内田裕也 (2020年4月30日). “【内田雅也の猛虎監督列伝~<11>第11代・金田正泰】「排斥運動」の自業自得 代理は自ら招いた名将。”. スポーツニッポン. https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2020/04/30/kiji/20200429s00001173392000c.html 2023年8月22日閲覧。 
  3. ^ 松木謙治郎奥井成一(共著)『大阪タイガース球団史』、ベースボール・マガジン社1992年[要ページ番号]
  4. ^ a b c d e f 内田雅也 (2018年12月21日). “内田雅也が行く 猛虎の地<18>京都・城陽市「寺田球場」”. スポーツニッポン. https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2018/12/21/kiji/20181221s00001173107000c.html 2023年8月23日閲覧。 
  5. ^ a b c d プロ野球20世紀・不屈の物語 若かりし金田正泰の“猛虎魂”/プロ野球20世紀・不屈の物語【1942~57年】 - 週刊ベースボールOnline(2020年6月15日)
  6. ^ 阪神・中野 初回先頭打で先制点お膳立て 近本と最多安打争うリーグ2位111本”. デイリースポーツ online (2022年7月24日). 2022年7月24日閲覧。
  7. ^ 阪神タイガース(編)『阪神タイガース 昭和のあゆみ』阪神タイガース、1991年3月、406頁
  8. ^ a b c d 田所龍一 (2017年5月14日). “田淵幸一物語・第3分(13) 48年の「怪」事の始まり”. 産経新聞WEST. https://www.sankei.com/article/20170514-JYMCBR5CVNL6RBOZCM2K7AO7WA/2/ 2023年8月23日閲覧。 
  9. ^ a b c d e f g h i 内田雅也 (2020年5月6日). “【内田雅也の猛虎監督列伝(17)~第17代・金田正泰】「迷宮」のなか、優勝目前の不可解用兵”. スポーツニッポン. https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2020/05/06/kiji/20200506s00001173020000c.html 2023年8月23日閲覧。 
  10. ^ a b 『ザ・クライシス 20世紀プロ野球衝撃の事件史』、日本スポーツ出版社2000年[要ページ番号]
  11. ^ 週刊ベースボール』1973年9月24日号、[要ページ番号]
  12. ^ 阪神タイガース(編)『阪神タイガース 昭和のあゆみ』阪神タイガース、1991年3月、414頁
  13. ^ 田所龍一 (2017年5月17日). “田淵幸一物語・第3部(16) 優勝の決まる試合で「勝ってくれるな」と代表 疑惑の試合の「噂の真相」”. 産経新聞WEST. https://www.sankei.com/article/20170517-L23RVQLQNBN33CWKICAMJ2AMTE/2/ 2023年8月23日閲覧。 
  14. ^ 『ベースボールマガジン』2020年8月号(幻の黄金時代)ベースボール・マガジン社、2020年7月、73頁
  15. ^ 読売新聞1973年10月23日朝刊、23頁
  16. ^ 「トラほえずファンほえる "あと"が大荒れ甲子園V9の日」毎日新聞1973年10月23日朝刊23頁
  17. ^ 「『不満があるならいうてみィ』戸沢代表、江夏から"事情"を聞く」読売新聞1973年11月9日朝刊、18頁
  18. ^ 「金田監督が辞意を表明 阪神内紛ドロ沼化」読売新聞1973年12月10日朝刊、15頁
  19. ^ 「金田監督(阪神)ついに残留」読売新聞1973年12月29日朝刊、11頁
  20. ^ a b 「球界ルポ」読売新聞1973年12月30日朝刊、8頁
  21. ^ 4代目ミスター・掛布雅之を成長させた「役割」の力 - Bizclip(2016年8月24日)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]