金圭植

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金 圭植(김규식、キム・キュシク、1880年8月27日 - 1931年4月10日)は韓国の独立運動家。‘独立軍の虎将軍’と呼ばれ、雅名は蘆隠。[1]

生涯

1880年8月27日に京畿道楊州市で生まれた。大韓帝国陸軍参議を務めた。1907年の日本による大韓帝国軍隊解散以後義兵で転換、江原道鉄原郡で日本軍と戦闘をした。

以後1912年、満州へ移り、1919年、徐一金佐鎮などとともに北路軍政署を組織して師団長となった。北路軍政署はこの時期武装抗日闘争の核心拠点の一つであり、傘下に士官養成所を建て教官として士官を養成した。青山里戦闘では第2連隊長金佐鎮の元で第1大隊長として戦闘に参加した。

青山里戦闘勝利後、北路軍政署が他の武力闘争組織と統合して大韓独立軍団を編成した時銃士領に就任した。しかし、大韓独立軍団の参謀総長李章寧、旅団長池青天と一緒に3千5百余人を率い、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国領に入り、自由市惨変により、過去の拠点である延吉市に帰って来なければならなかった。大韓独立軍団総裁徐一がこの事件の責任を負って自決し、組織は財政難に苦しんだが、上海臨時政府の助けで危機を越して李範ソクを迎入して1923年今度は赤軍を支援する高麗革命軍を創立して銃士領に就任した。

1925年、臣民府に、1926年には高麗革命党に加わって活動し、長期的な抗日闘争のために教育に志を抱いて延吉に学校を設立したりしたが、1931年暗殺された。暗殺したのはかつての同志であり共産主義に転向した최악である。

4男1女がおり、三男・四男は独立運動に加わり、嗣子なく死去した。[1] 1963年、建国勲章独立章が追贈された。

家族

  • 孫 : 김건배

参考サイト

注釈

  1. ^ a b 맛있는 정보! 신선한 뉴스! - 서울신문