金剛峯寺

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金剛峯寺

根本大塔
所在地 和歌山県伊都郡高野町高野山132
位置 北緯34度12分50.7秒 東経135度35分3秒 / 北緯34.214083度 東経135.58417度 / 34.214083; 135.58417座標: 北緯34度12分50.7秒 東経135度35分3秒 / 北緯34.214083度 東経135.58417度 / 34.214083; 135.58417
山号 高野山
宗派 高野山真言宗
寺格 総本山
本尊 薬師如来阿閦如来とも)[1]
創建年 弘仁7年(816年
開基 空海
中興年 長和5年(1016年
中興 定誉木食応其
正式名 高野山真言宗 総本山金剛峯寺
札所等 真言宗十八本山18番
西国三十三所特別札所
神仏霊場巡拝の道 第13番
文化財 不動堂、仏涅槃図ほか(国宝)
大門、絹本著色大日如来像ほか(重要文化財)
世界遺産
法人番号 5170005004842 ウィキデータを編集
金剛峯寺の位置(和歌山県内)
金剛峯寺
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金剛峯寺(こんごうぶじ)は、和歌山県伊都郡高野町高野山にある高野山真言宗総本山の寺院

高野山は、和歌山県北部、周囲を1,000m級の山々に囲まれた標高約800mの平坦地に位置する。100か寺以上の寺院が密集する、日本では他に例を見ない宗教都市である。京都の東寺と共に、真言宗の宗祖である空海(弘法大師)が修禅の道場として開創し、真言密教の聖地、また、弘法大師入定信仰の山として、21世紀の今日も多くの参詣者を集めている。2004年(平成16年)7月に登録されたユネスコ世界遺産紀伊山地の霊場と参詣道』の構成資産の一部[2]

「金剛峯寺」という寺号は、明治期以降は1つの寺院の名称になっている。しかし金剛峯寺の山号が高野山であることからも分かるように、元来は真言宗の総本山としての高野山全体と同義であった。本項では「金剛峯寺」を中心に、高野山全体の歴史、信仰、文化財について触れる。寺紋は五三桐紋と三つ巴紋。

歴史

空海と高野山

空海は、最澄天台宗の開祖)と並び、平安仏教を開いた僧である。著作家、書道家としても優れ、灌漑事業などを行った社会事業家、綜藝種智院を開設した教育者としての側面もある。後世には「お大師様」として半ば伝説化・神格化され、信仰の対象ともなっており、日本の仏教、芸術、その他文化全般に与えた影響は大きい。空海宝亀5年(774年)、讃岐国屏風浦(香川県善通寺市)に生まれ、俗姓を佐伯氏といった。十代末から30歳頃までは修行期で、奈良の寺院で仏典の研究に励み、時に山野に分け入って修行した。延暦23年(804年)、留学生(るがくしょう)としてに渡航。長安・青龍寺の恵果に密教の奥義を学び、大同元年(806年)帰国している。空海が時の嵯峨天皇から高野山の地を賜ったのは弘仁7年(816年)のことであった。空海は、高い峰に囲まれた平坦地である高野山を八葉蓮華(八枚の花弁をもつ蓮の花=曼荼羅の象徴)と見なし、山上に曼荼羅世界を現出しようとしたものである。

開創伝承

既述のように、空海が嵯峨天皇から高野山の地を賜ったのは弘仁7年(816年)のことであり、空海が若い時に修行したことのあるこの山に真言密教の道場を設立することを天皇に願い出たというのが史実とされている。なお、平安中期の成立とされる『金剛峯寺建立修行縁起』にはこれとは異なった開創伝承が残されている。空海が修行に適した土地を探して歩いていたところ、大和国宇智郡(奈良県五條市)で、黒白2匹の犬を連れた狩人(実は、狩場明神という名の神)に出会った。狩人は犬を放ち、それについていくようにと空海に告げた。言われるまま、犬についていくと、今度は紀伊国天野(和歌山県かつらぎ町)というところで土地の神である丹生明神(にうみょうじん)が現れた。空海は丹生明神から高野山を譲り受け、伽藍を建立することになったという。この説話に出てくる丹生明神は山の神であり、狩場明神は山の神を祭る祭祀者(原始修験者)であると解釈されている。つまり、神聖な山に異国の宗教である仏教の伽藍を建てるにあたって、地元の山の神の許可を得たということを示しているのだとされている。高野山では狩場明神(高野明神とも称する)と丹生明神とを開創に関わる神として尊崇し、壇上伽藍の御社(明神社)において現在でも祀られている。また丹生都比売神社でも、丹生明神と狩場明神が祀られ、金剛峯寺と丹生都比売神社は古くから密接な関係にあり、神仏分離後の今日でも金剛峯寺の僧の丹生都比売神社への参拝が行われている。

入定信仰

空海が835年(天長9年)奥之院に入定後、86年経った921年(延喜21年)に東寺長者の観賢の上奏により後醍醐天皇が空海に「弘法大師」の諡号を贈った。観賢は、その報告のため高野山へ登り奥之院の廟窟に入ると、入定した空海(即身仏)は、髪を伸ばし、その姿は普段と変わりなく、まるで生きているかのように禅定している空海の姿があったと伝えている。このことから「弘法大師は今も奥之院に生き続け、世の中の平和と人々の幸福を願っている」という入定信仰が生まれた[3][4]

平安時代

弘仁7年(816年)、高野山を賜った空海は、翌年から実恵円明などの東寺にいた弟子達に命じて伽藍の建立に取りかかったが、交通不便な山中のこともあり、また朝廷からの要請による821年の香川県の満濃池の修築、828年の京都の綜芸種智院の開設などもあり、工事ははかどらなかった[5]。空海の在世中に完成した堂宇はごくわずかであり、無論、当時の建築物は現存していない。空海の他界後、弟子であり実の甥でもあった真然が887年頃に根本大塔などの伽藍を整備した[6]承和2年(835年)には定額寺に列し官寺に准ずる寺格を得た(『続日本後紀』承和八年二月七日条)。

真然が空海が恵果から教わった奥義や経典を書写した「三十帖策子(三十帖冊子)」を東寺から借り出したが、「三十帖策子」を所有することで真言宗の根本寺院を意味したので、その後、東寺からの返却要請に応じず紛争の原因となった[7]。第2代座主無空は返還を拒否し「三十帖策子」を持って一山の者を連れ下山し、約20年にわたり高野山に人影が無い状態が続き第一期の荒廃期を迎えた。この紛争を解決したのが東寺長者観賢であった。「三十帖策子」は東寺に返却され、観賢が高野山座主を兼ねることで、高野山は東寺の配下となり、明治維新まで高野山は東寺の末寺となる。先述したが、この観賢の上奏により空海に「弘法大師」の諡号が贈られ、入定信仰が生まれ次第に復興に繋がっていった[7]

正暦5年(994年)には落雷による火災のため、ほとんどの建物を失い、また朝廷から復興の命を受けた国司による専横もあり、僧は皆、山を下り麓の天野に本拠を移し、第2の荒廃の時期を迎えた[8]

荒廃した高野山は、長和5年(1016年)頃から、奈良・興福寺の勧進だった定誉が再興に着手し、また仁海が定誉に協力し京都で高野山の霊場信仰を説き、治安3年(1023年)には藤原道長が登拝した[8]。また平安末期には末法思想が広がっていた時代で、高野聖による勧進により浄土信仰、弘法大師信仰が、皇族などにも広がり、白河上皇鳥羽上皇が相次いで参詣するなど、高野山は現世の浄土としての信仰を集めて栄え、寺領も増加した。この頃には高野三方とよばれる学侶、行人、聖の三派の原型が成立していたと考えられ、高野聖は各地で勧進活動を行い皇族、貴族、一般庶民への浄土信仰が広まっていった[9]

高野山中興の祖といわれる覚鑁[10]、鳥羽上皇の院宣を得て大伝法院座主に就任し、1134年(長承3年)には金剛峯寺の座主を兼任し[10]、教学、行法上の改革を志す[11]。しかし保延6年(1140年)には高野山内で勢力を急拡大させた興教大師覚鑁は、聖方だったこともあり、金剛峯寺の学侶方の多数の僧徒が反発し[11]、覚鑁がいた密厳院を襲うなどして覚鑁一派を高野山から下山させた(錐もみの乱)。覚鑁らはやがて根来寺へ移り新義真言宗を成立させてゆく。

源平の騒乱期には、高野山で出家する貴族や武士が目立つようになった。彼らは高野山に草庵を建てて住み、仏道に励んだ。また、北条政子が亡夫源頼朝のために建てた金剛三昧院のように、有力者による寺院建立もあり、最盛期には高野山に2,000もの堂舎が立ち並んだという。

1048年(永承3年)には僧坊16宇だったが、100年後の1148年(久安4年)には学侶方300人、行人方・聖方2000人を有する規模になったと伝わる[12]

中世・近世

戦国時代、武力を蓄えていた高野山は、比叡山焼き討ち石山合戦を行った織田信長と対立するようになった。天正9年(1581年)、信長に謀反した荒木村重の家臣のうち数名が高野山に逃げ込み、信長は使者を送ってこれらの引き渡しを求めたが、高野山側は信長の使者を殺し要求にも応じなかったため、信長は日本各地にいた高野山の僧を数百名殺害し(1000人強とする説も)、さらに数万の軍勢で高野山攻めが行われた。しかし、ほどなく信長が本能寺の変に倒れたため、高野山は取り敢えず難を免れた。続く豊臣秀吉は、当初は高野山に寺領の返還を迫るなど圧力をかけたが、当時高野山にいた武士出身の僧・木食応其が仲介者となって秀吉に服従を誓ったため、石高は大幅に減らされたものの、高野山は存続することができた。のちに秀吉は応其に帰依するようになり、寺領を寄進し、また亡母の菩提のため、山内に青巌寺(現在の総本山金剛峯寺の前身)を建てた。青巌寺は秀吉の甥・豊臣秀次自刃した場所としても知られている。

高室院

また、この頃は武士の間で高野山信仰が広まり、戦国大名が出資した子院が数多く作られた。例えば子院で宿坊の高室院は鎌倉時代の創建であるが、小田原北条氏が壇越(スポンサー)となり、北条氏の菩提寺となった。同寺院は北条氏の領国である武蔵・相模・伊豆三国を布教地域としていた[13]。のち北条氏が滅ぶと、当主の北条氏直は高室院に隠棲して生涯を終えている。

近世に入ると、徳川家が子院の大徳院を菩提所・宿坊と定めたこともあり、諸大名を始め多くの有力者が高野山に子院(宿坊)、霊屋、墓碑、供養塔などを建立するようになった。全長2kmにわたる高野山の奥の院の参道沿いには今も無数の石塔が立ち並び、その中には著名人の墓碑や供養塔も多い。

近代以降

  • 1869年(明治2年) : 青巌寺と興山寺が合併し金剛峯寺となる。また同年、1868年(慶応 4 /明治元年)に発布された神仏判然令(神仏分離令)に基づく政府より高野山に神仏分離の通達が下る。
  • 1879年(明治12年)に大火があり、70の堂舎が焼失した[14]
  • 1906年(明治39年):開創1100年記念大法会に向け高野山全域に残る結界を解除し、禁制が解かれたことで実質的に女人禁制も公式に完全解除された[15]
  • 昭和21年(1946年)からは高野山真言宗を名乗っている。
  • 2014年7月:CT3Dプリンターを使い「弘法大師坐像(萬日大師)」を複製した(大塚オーミ陶業による製作)[16]。現在、霊宝館で展示中。
  • 2015年 高野山開創1200年記念大法会を執り行う。
  • 火事による焼失防止のため、壇上伽藍御影堂に噴水装置を完備している。
  • 2020年6月 臨時宗会で拝観料の値上げが議決

臨幸

平安期、摂関政治が盛んであった頃、高野山が浄土であるという信仰が起こり、その信仰が高まりを見せると、上皇・天皇・皇族や貴族による、高野山参詣が相次いだ。

上皇・天皇が外出されること臨幸(りんこう)と言う。以下は、高野山へ臨幸された上皇・天皇の一覧[17]

結界

空海が高野山に入山し最初にしたことは、高野山を中心に東西、南北にそれぞれ七里の結界を張り、俗世と聖地高野山との境界としたことであった。高野山は元々祖霊の集まる神聖な場所で、それを人々へ承知させ、結界内に不浄なものを入れないために、高野山を囲む山々の峰をつなぐ線として、密法の法により結界を張ったとされている。また高野山全域の結界の中に更に二重の結界が張られ、その二重の結界内部は、のちに信仰の中心となる伽藍を建立する壇上(壇場)とされた[18]

結界内に開創以来、次の4つの禁が明治まで続いた[19]

  1. 肉や魚を持ち込まない。食べない。
  2. 女人禁制。
  3. 遊芸に関わる鳴り物をしない。
  4. 鶏と猫を飼わない。

女人禁制により女性が山内に入ることができず、高野参詣道の終着点の高野七口といわれる結界への入り口付近に女性たちの籠もり堂(参籠所)として女人堂ができ[20]、各女人堂をめぐる結界に沿ってできた参詣道が女人道である[21]。1872年(明治5年)明治政府が太政官布告第98号「神社仏閣女人結界ノ場所ヲ廃シ登山参詣随意トス」を発布し[22]、女人禁制が廃止されたが、実質、高野山において公式に女人禁制が解かれたのは高野山開創1100年記念大法会にむけて、高野山の結界残部を残らず解除した1906年(明治39年)である[23]

遊芸に関わる鳴り物をしない禁を破ったことに関する逸話として、豊臣秀吉が、母大政所三回忌の際に高野山開創以来の禁令の笛太鼓や鼓などを用いた能狂言を催したところ、当日、雲がなかったが、能が始まると暗雲が広がり、天地が振動し凄まじい雷雨が襲い、大師の怒りと恐れおののいた秀吉は、単騎一目散に山を駆け降り難を逃れたと伝わる[24]

鶏と猫は禁じているが、犬だけは飼うことが許されたのは、高野山開創伝承で犬が空海を高野山へ導いたためである[19]

伽藍

概要

高野山は山中に開かれた宗教都市である。山内は西院谷、谷上院谷、南谷、小田原谷、本中院谷、千手院谷、一心院谷、五之室谷、往生院谷、蓮華谷の各地区に分かれ、それぞれに多くの寺院が存在する。これらの地区全体の西端には高野山の正門にあたる大門(重要文化財)があり、地区東端には奥の院への入口である一の橋がある。信仰の中心になるのは、山内の西寄りに位置する壇上伽藍と呼ばれる境内地で、ここには金堂、根本大塔を中心とする堂塔が立ち並ぶ。その東北方に総本山金剛峯寺及び高野山真言宗の宗務所がある。この他に、「子院」(塔頭)と呼ばれる多くの寺院が立ち並び、高野山大学、霊宝館(各寺院の文化財を収蔵展示する)などもある。弘法大師信仰の中心地である奥の院は、上述の一の橋からさらに2キロほど歩いた山中にある。

大門(重要文化財)
  • 大門 - 1705年再建、五間三戸の二階二層門。西方極楽浄土の方角に建てられ、表参道の入り口である。左右に金剛力士像が安置されているが、東大寺南大門の金剛力士像につぐ日本で二番目に大きい像とされる[25]。1141年(永治元年)から楼門形式の門となっているが、それ以前は現在地より少し下がった九十九折(つづらおり)谷に鳥居があり、神社同様そこから結界内は聖域であることを示していた[26]


壇上伽藍(壇場伽藍)

曼荼羅の道場の意[27]の壇場と、梵語のサンガ・アーラーマの音訳で僧侶が集い修行をする閑静清浄な所の意の伽藍の壇場伽藍であるが、一段高い土地にあるため、今日では「壇上伽藍」と表記されることが多い[28]。高野山内の西寄りの金堂・根本大塔・西塔・御影堂などの立ち並ぶ一画で、高野山の聖地の1つである。ここは、空海が在世中に堂宇を営んだところで、現在の諸堂塔は大部分が江戸時代後期から昭和時代の再建であるが、真言密教の道場としての高野山の中核となる部分である。[29] なお、壇上伽藍には右遶(うにょう)という正式な参拝方法[30]があり、それにならって概ね以下の順番で堂宇を紹介する。

中門
  • 中門 - 819年創建。1843年に焼失後172年ぶりの再建で、高野山開創1200年を記念事業として、平成27年(2015年)4月2日落慶、旧・中門には、持国天・多聞天(江戸時代末期の作)が安置されていたが難をのがれ、根本大塔内に保管されていたものを、仏師松本明慶が修理をし、さらに、増長天・広目天像も新造して四天王像を安置する四天門として甦った。[31][32]
金堂
  • 金堂(こんどう) - 初代の堂は大師が弘仁10年(819年)より造営され承和5年(838)に完成したと伝わる。7代目の堂は萬延元年(1860年)に再建されたが66年後の昭和元年(1926年)12月26日未明に、創建当初のものと云われる本尊と6体の仏像(金剛薩埵坐像、金剛王菩薩坐像、不動明王坐像、降三世明王立像、普賢延命菩薩坐像、虚空蔵菩薩坐像[33])と共に焼失した。本尊の像名は薬師如来とされてきたが、焼失した旧本尊も、現在の金堂再建時に新造された高村光雲作の丈六の新本尊も、公開されたことのない秘仏であったため、阿閦如来とする説もあり、新本尊が高野山開創1200年を記念して2015年4月2日から5月21日まで初めて公開された[34]のを機に、両者は同体で像容は阿閦如来である[35]が、像名は薬師如来とされた[36]。なお、現在の8代目の堂は、昭和9年(1934年)に落慶され、鉄筋コンクリート造で屋根は入母屋造で、内陣・外陣壁面の仏画は木村武山の筆である。
  • 登天(とうてん)の松 - 平安時代の高僧がこの地で昇天したといわれる。
  • 六角経蔵 - 別名荒川経蔵。1159年初代創建、現在の蔵は1934年再建。紺紙金泥一切経を納置する。重要文化財の一切経は霊宝館に移されたが、写しが納められている。基壇は円形で上部に基壇と同じ円形の把手がついた幅20cmほどの枠があり、把手を押すことで基壇に沿って回すことができ、一回転すれば一切経を一通り称えたのと同じ功徳が得られるといわれている[37]
御社(重要文化財)
  • 御社(みやしろ)(重要文化財) - 明神社[38]で1522年の再建、重要文化財指定名称は「山王院本殿」である。弘法大師が弘仁10年(819年)に山麓の丹生都比売神社(天野社)から地主神として勧請、高野山の鎮守としている。高野山開創の伝承にあるが、高野山一帯は丹生(にう)明神の神領であり、弘法大師が密教を広めるには、日本の地元の神々によってその教えが尊ばれ守られるとする思想を打ち出し、神仏習合思想の大きな原動力になる。高野山においても修行者らを護り導くとされる四社明神への信仰は現在でも大切にされている。 社殿は三つあり、一ノ宮は丹生明神・気比明神、二ノ宮は高野明神(狩場明神)・厳島明神[39]、総社は十二王子・百二十伴神がまつられ、一ノ宮とノ二宮の構造形式は春日造で、総社は三間社流見世棚造(さんげんしゃながれみせだなづくり)であり、いずれも檜皮葺の屋根で仕上げられている。[40]
  • 山王院(さんのういん) - 1174年以前の創建で1845年再建、御社(明神社)の拝殿として建てられた。両側面向拝付入母屋造り(りょうがわめんこうはいつきいりもやづくり)の建物であり、桁行21.3メートル、梁間7.8メートル。山王院とは地主の神を山王として礼拝する場所の意味。堂では、毎年竪精(りっせい)論議や御最勝講(みさいしょうこう)などの重要行事や問答が行われ、高野山の鎮守たる明神(みょうじん)さまに神法楽(じんほうらく)として捧げられている。同様に毎月16日にも月次門徒・問講の法会が行われている。[41]
西塔
  • 西塔(さいとう) - 後述の根本大塔とは対照的に、金剛界大日如来像[42]と江戸時代作で胎蔵四仏の宝幢如来・開敷華王如来・無量寿如来・天鼓雷音如来[43]を安置する。仁和3年(887年)初代塔建立、現在の塔は5代目で天保5年(1834年)の再建である。高さ27.27m。
  • 孔雀堂 - 1200年初代建立、現在の堂は昭和55年(1980年)の再建。本尊の快慶作の孔雀明王像は霊宝館に移され、当堂には新しく造られた像が安置された。
  • 准胝堂(じゅんていどう) - 973年以前の初代創建、現在の堂は明治16年(1883年)再建。本尊は准胝観音(准胝仏母)。
御影堂
  • 御影堂(みえどう) - 大師の持仏堂として創建され、現在の堂は弘化4年(1847年)再建。空海の弟子の真如親王筆とされる弘法大師御影を本尊とする。毎年旧暦3月20日の前夜の御逮夜法会のときのみ一般の内陣参拝が許される。[44]
  • 三鈷の松 -金堂と御影堂の間にある三葉の。松の根が参拝者に踏まれないよう二重の柵で囲まれ、赤松と一緒に植栽されている。松は単体では生育しにくい性質を持つためにあえて、植栽している。空海が、恵果から密教を受法後、大同元年(806年)、中国寧波の浜から、「密教を弘通するため」の地を求めんと願いつつ、三鈷杵(飛行三鈷杵)を投げた。後に嵯峨天皇より、勅許を得て高野山を下賜され、伽藍を造営の途中に、空海が松に掛かった三鈷杵を見つけ、高野山を「修禅の道場」とするのに相応の地であると確信したという伝説がある。空海の霊跡とされる。この松葉は、三鈷杵と同じく三股に別れている。現在の「三鈷の松」は七代目で、平成期に植え替えられた。枯れたときのために同じ株から分けた松を別に育成している。松は常緑樹が多いが、高野山の「三鈷の松」は秋から冬にかけて落葉するので、「再生」の象徴される。落葉した三葉の松葉は黄金色をしており、身につけていると「金運」を招く縁起物として、また、「飛行三鈷杵」の霊験にあやかるため、「お守り」とするために探し求める参拝者もいる。[45]
根本大塔
  • 根本大塔 - 伽藍の中心として高野山開創当初から着手され887年に完成、現在の塔は1937年(昭和12年)の空海入定1100年を記念して再建したもので1階平面が方形・2階平面が円形の鉄筋コンクリート造の16間四面・高さ16丈(約50m)の2層の多宝塔である。中尊は、丈六の胎蔵大日如来坐像、その四方に金剛界四仏[46]を安置し、本来別々の密教経典に説かれている「胎蔵曼荼羅」の仏像と「金剛界曼荼羅」の仏像を一緒に安置するが、これは、両者は根本的には1つだという、空海の思想を表したものといい、「根本大塔」という建物名もこれに由来するという(「金剛界」等の密教用語については別項「両界曼荼羅」を参照)。そして内部正面のには昭和天皇宸筆勅額「弘法」が掲げられ、塔内の柱には十六大菩薩画像、壁面には真言八祖画像が堂本印象によって描かれている。高野山開創1200年記念大法会事業の一つで2015年5月12日から17日まで、根本大塔を背景にし『南無大師遍照金剛』をテーマとし、プロジェクションマッピングとレーザーによる光の饗宴が行われた[47]
  • 大塔の鐘 - 大師発願で二世真然の代に完成。現在の鐘は「高野四郎[48]」と呼ばれ、1547年に鋳造され約6トン直径7尺である。1日5回、計108回突かれる。鐘楼は鉄筋コンクリート製。
  • 御供所 - 伽藍の納経をしてもらえる。
不動堂(国宝)
  • 不動堂国宝) - 建久9年(1198年)の創建、現在の堂は14世紀初頭に再建。高野山内の一心院谷から、1908年(明治41年)に現在地に移築された。桧皮葺(ひわだぶき)、入母屋造の住宅風仏堂である。本尊の不動明王(重要文化財)と運慶作の八大童子像(国宝)はここに安置されていたが、いずれも霊宝館に移されている。屋根が桧皮葺のため境内で火災が発生した場合、類焼しやすいため屋根にドレンチャーを設置し、バルブを開けると桧皮葺屋根がドレンチャーからの水膜で覆われるようになっている。高野山内では、檀上伽藍の御影堂、徳川家霊台の2棟、奥の院の経蔵、金剛三昧院の多宝塔など計6棟に、地上に放水銃を設置しているが、屋根にドレンチャーを設けているのは不動堂だけである[49]
  • 蓮池 - 中島に、明和8年(1771年)善女竜王を祀る。平成8年(1996年)橋と祠を修復。
  • 愛染堂 - 1334年初代建立、現在の堂は嘉永元年(1848年)再建。本尊は愛染明王。
  • 大会堂(だいえどう) - 安元元年(1175年)初代創建され東別所にあったが西行法師が移し蓮華乗院と称していた。後に法会の集会堂になり、現在の堂は嘉永元年(1848年)再建。本尊は阿弥陀如来。
  • 三昧堂(さんまいどう) - 928年初代創建、もとは本中院の東南院にあったが、1177年西行法師が現在地に移した。現在の堂は文化13年(1816年)再建。
  • 東塔(とうとう) - 1127年初代創建、尊勝仏頂尊と不動明王・降三世明王を祀る。現在の塔は1984年再建。
  • 智泉廟(ちせんびょう) - 空海の甥の智泉大徳(789-825)を祀る。
  • 手水舎
  • 蛇腹道 - 高野山を龍に見立てると、この道が龍の腹に当たることからこの名がある[50]
  • 六時の鐘 - 大伽藍を出てすぐにあり、午前6時から午後10時の偶数時に鳴らされる。1618年(元和4年)福島正則により建立されるも焼失、1640年(寛永7年)その子・正利により再建される。

徳川家霊台

五之室谷に所在。徳川家霊台は重要文化財で、徳川家康秀忠を祀る二棟の廟堂が建つ。寛永20年(1643年)、徳川家光の建立。かつては高野聖方の代表寺院であり徳川家菩提寺宿坊でもあった大徳院の境内に建つが[51]、大徳院は明治時代に他寺院と合併し廃寺となったため、現在、金剛峯寺管理となっている。

総本山金剛峯寺

主殿(総本山金剛峯寺)

壇上伽藍の東北方にある。1869年(明治2年)、いずれも豊臣秀吉ゆかりの寺院である青巌寺興山寺 (廃寺)を合併し、金剛峯寺と改称した。青巌寺(剃髪寺)は秀吉が亡母の菩提のために木食応其に命じて建立した。「金剛峯寺」の寺号は空海が名付けたもので、元来は高野山全体を指す名称であったが、明治期以降は、高野山真言宗の管長が住むこの総本山寺院のことを「金剛峯寺」と称している。主殿の持仏の間には1680年検校文啓の支持で制作された本尊弘法大師座像が祀られ、高野山開創1200年記念大法会(2015年4月2日~5月21日)で16年ぶりに開帳された。そのほか、奥殿(1934年建立)、別殿(1934年建立)、新別殿(1984年建立)、阿字観道場(1967年建立)、蟠龍庭(石庭)などがある。和歌山県指定文化財となっているのは、大主殿一棟、奥書院一棟、経蔵一棟、鐘楼一棟、真然堂(廟)一棟、護摩堂一棟、山門一棟、会下門一棟の9棟と、それを取り巻くかご塀。[52]

金剛峯寺

  • 正門 - 1593年(文禄2年)再建。かつて正門を利用できたのは皇族と高野山の重職だけで、一般僧は右方にある小さなくぐり戸を使用した[53]
  • 鐘楼 - 1864年(元治元年)再建と考えれている。袴腰付入母屋造り[53]
  • 主殿 - 1863年(文久3年)再建。東西 54 m 南北 63 m の書院造建築である。屋根は檜皮葺で、屋根上には雨水を貯める天水桶とよばれる桶が設置され、境内で火災発生時、桶の水を屋根にまくことで火の粉による類焼を防ぐ役割があった。大玄関と小玄関があり、大玄関は表玄関に相当し、かつては皇室、高野山の住職のみが使用した。小玄関は大玄関を使用できない上位の僧侶が使用し、一般僧侶は裏口を使用した。大広間に狩野元信作と伝わる松、群鶴の襖絵、梅の間に狩野探幽作と伝わる梅月流水の襖絵がある。柳の間は、1595年(文禄4年)に豊臣秀次が自害したことから「秀次自刃の間」ともよばれている[53]
    • 台所 - 江戸期以降、実際に使用され大勢の僧侶の食事を作った場所。大釜が3基並び、1基で約7(98kg)、3基で約2000人分の米を炊くことができる[53]
  • 経蔵 - 1679年(延宝7年)に、釈迦三尊とともに寄進された。火災発生時に類焼しにくいように主殿とは別棟として建てられ、重要なものを収蔵していた[53]
  • 蟠龍庭 - 2,340平方メートルの石庭。龍を表す大石は四国の花崗岩、雲海を表す白川砂は京都産を使用[53]

奥之院

表記は「奥の院」「奥院」などとされる場合もある。[54]寺院群の東端にある一の橋から中の橋を経て御廟橋まで、約2キロにわたる参道沿いに無数の石塔が立ち並ぶ。御廟橋を渡ると空海入定の地とされる奥之院である。一番奥には空海が今も瞑想しているとされる御廟があり、その手前には信者が供えた無数の灯明がゆらめく燈篭堂がある。空海は62歳の時、座禅を組み、手には大日如来の印を組んだまま永遠の悟りの世界に入り、今も高野山奥之院で生きていると信じている入定信仰があり「死去」「入寂」「寂滅」などといわず「入定」というのはそのためである。

毎年8月13日に奥之院で萬燈供養会が開催され、一の橋から奥之院までの約2kmの参道を一般参拝者によって約10万本のローソクに灯をともし、先祖や奥之院に眠る御霊を供養する高野山ろうそく祭りが催されている[55]

御廟ノ橋
  • 弘法大師御廟 - 空海が入定留身の地。檜皮葺三間四面宝形造(ほうぎょうづくり)の堂宇で正面に唐戸とよばれる扉がある。御廟は瑞垣(みずがき)に囲われている。入定塚は石室に小石が積まれた形状で[56]、御廟の裏側、北西の壁面の下部には直径約20㎝の穴が設けられている。衆生救済のために、各地に顕現される空海の御霊の出入り口とされる。この入定塚の形状は、空海の弟子で観心寺にある実恵(道興大師)御廟、真言宗中興の祖といわれる覚鑁(興教大師)の根来寺にある御廟も同様である[57]。また近畿地方・瀬戸内沿岸の社殿にも同様のものがあり、穴はご神体や御霊の出入り口となっている。御廟の東側には、二社の社祠がある。いずれも檜皮葺一間社春日造で、東北側に丹生明神(高野山の地主神)、その南側に高野明神(高野山開創に最初に勧請)、西側には白髭稲荷大明神の小祠が奉祀されている。弘仁10年(823年)に嵯峨天皇より、東寺を下賜されたときに「密教と国土の安泰」を稲荷大明神に契約されたという伝承「稲荷契約事」(いなりけいやくのこと)があり、真言宗寺院では、守護神・鎮守神として「稲荷大明神」を祀ることが多い。御廟の西側の大杉の穴に住む白狐の霊験談が「紀伊続風土記」にあることから、「白狐の信仰」と「稲荷契約事」の伝承が結びつき、明治時代に神格化され、白髭稲荷大明神として奉祀されたと推察される。[58]
  • 灯籠堂 - 現在のは昭和39年(1964年)建立。「貧女の一灯」と呼ばれる消えずの火と全国から奉納された灯籠が灯り、廻向や祈祷をしてもらえる。また、地下には入定する空海のいちばん近くまで行ける法場がある。そして、灯籠堂の裏側中央には御廟を参拝する場所があり、ここに来た全ての人々はここで祈りを捧げ読経する。その左側には納骨堂、右側には経蔵(重要文化財)、東側に増えた灯籠を納めるための記念灯籠堂が建ち、御廟橋から入って左側の小さな祠には弥勒石が入っていて持ち上げることができるとご利益がある。
  • 御廟ノ橋 - 玉川にかかる橋、通称「無明橋」[59]。ここに橋が掛かったのは平安時代後期と考えられており、この川は特に神聖とされ、橋が掛かるまでは川に浸かりながら渡ることで、手足を清め御廟へ参ったと伝わる[60]。36枚の橋板と橋全体を1枚とした37枚で、金剛界37尊を表す。
  • 水向地蔵 - 水向場の15体の内の1体の不動明王は1643年作
  • 奥院護摩堂 - 不動明王と大師像を祀る。
  • 御供所 - お大師様の食事を作る所。また。大黒天を祀っていて、経木を求めたり、納経をしてもらう所でもある。
  • 頌徳殿 - 大正4年(1915)建立。茶処で無料休憩所。
  • 英霊殿
  • 中の橋 - 中間地点にある橋で、正式名称は「手水橋」。この名は、ここが禊の場であったことに由来する[61]。脇には汗かき地蔵祠と姿見の井戸がある。他に、四国八十八箇所写し石仏、数取地蔵、化粧地蔵、仲良し地蔵、覚鑁坂、禅尼上智碑[62]が参道沿いに点在している。
墓域(奥之院参道)

奥之院参道に沿って並ぶ石塔の数は10万基とも20万基とも言われ、皇族から名もない人々まで、あらゆる階層の人々が競ってここに墓碑を建立した。日本古来の山岳信仰では、山中は「他界」であり、死後の魂の行くところであった。高野山周辺には、人が死ぬと、火葬の場合は「お骨」の一部を、土葬の場合は死者の左右の耳ぎわの「頭髪」の一部を奥之院に納める「骨のぼり」または「骨上せ」(こつのぼせ)という風習がある。高野山への納骨(または納髪)が歴史上の文献での初見は平安時代末期に著された「中右記」で、天任元年(1108)堀河院が奥之院に法華経とともに納髪したとある[63]。こうした古来の山岳信仰に、弘法大師の永眠する土地に墓碑を建てたいという人々の願いが加わり、江戸時代にこの石塔群が形成された。戦国時代になり高野山が所有する全国各地の荘園が略奪などにより消失し、経済的困窮になり、高野山各寺院は有力な戦国大名に庇護を求め繋がりをもち、そのため奥之院に供養墓を持つものが増えた。また徳川家が高野山の子院を菩提寺に定めたことから、各大名も高野山の子院と関係を持ち奥之院に供養墓石塔群が造られるようになった[64]。現在、大名家の供養塔が109あり、大名の石墓が2000基程度あるが、高野山には石塔や石墓となる石がなく下界から運び込まれた。巨石は麓までは船で運ばれたが、動力がない時代に、船の舳先に綱を結び男たちが船を引く情景を描いた絵図が高野山持明院に残っている[65]。また山中は巨石の真ん中に穴を開け大きな丸太を挿し入れ、その丸太に直行するように棒を結びつけ何十人もの男たちが棒を担いでいる模様が、紀伊国名所図会に描かれている[65]

奥之院には佐竹義重霊屋、松平秀康及び同母霊屋、上杉謙信景勝霊屋(たまや)の建造物として重要文化財に指定されているものを始め、平敦盛熊谷蓮生房織田信長明智光秀曾我兄弟赤穂四十七士法然親鸞初代 市川團十郎、俳優の鶴田浩二など古今の様々な人物の墓碑や、関東大震災・阪神淡路大震災・東日本大震災などの大規模な自然災害の犠牲者、太平洋戦争の戦没者らを慰霊する為の供養碑・供養塔や、様々な企業による供養墓もある。また芭蕉高浜虚子の句碑もある。

子院

高野山内の寺院数は総本山金剛峯寺と大本山宝寿院を除いて117か寺とされている。ただし、この中には独立した堂宇としては現存せず、寺名だけが引き継がれているものも含まれる。山内寺院のうち52か寺は「宿坊寺院」となっており、塔頭寺院と参拝者の宿泊施設を兼ねている。これらの寺院は平安時代には単なる僧の住居である草庵に過ぎなかったが、鎌倉・室町期以降に諸国の大名の帰依により現在のようなある程度の規模がある寺院に発展したものである。国宝の多宝塔を有する金剛三昧院も宿坊の一つである。

文化財(金剛峯寺所有)

絹本著色仏涅槃図(国宝)
木造八大童子像(国宝)のうち(左より)制多迦童子、矜羯羅童子、慧光童子、慧喜童子
木造八大童子像(国宝)のうち(左より)清浄比丘、烏倶婆誐童子、指徳童子、阿耨達童子
木造八大童子像(国宝)のうち制多迦童子
木造諸尊仏龕(国宝)

国宝

  • 不動堂
    既述。1952年3月29日国宝指定[66]
  • 絹本著色仏涅槃図
    平安後期の仏涅槃図。画面寸法は縦267.6センチメートル、横271.2センチメートル。伝来経緯は不明だが、諸宗寺院において涅槃図を本尊とした涅槃会が普及した平安後期にあたる応徳3年(1086年)の銘があり、日本における在銘仏画として最古のもの。1951年6月9日国宝指定。
  • 絹本著色善女竜王像
    平安後期の絵仏師定智の作。旧裏書や『続宝簡集』によれば久安元年(1145年)の製作で、作者の判明する平安仏画としても類例が少ない。真言密教の雨乞い儀礼である請雨経法に関係し、『御遺告』にも登場する善女竜王を描いた仏画。現在では色彩が剥落しているが、模本の存在からかつては色彩豊かであったと考えられている。1953年11月14日国宝指定。
  • 木造八大童子立像 6躯 附:木造阿耨達童子像、指徳童子像 2躯
    もと不動堂に安置されていた。八大童子は不動明王の眷属。8体のうち6体が:鎌倉時代の作で、作風等から運慶一門の作と推定される。残りの2体(阿耨達童子、指徳童子)は時代が下り、附(つけたり)指定となっている。1955年2月2日国宝指定。
  • 木造諸尊仏龕(もくぞうしょそんぶつがん)附:銅製厨子
    7世紀(唐代)の仏龕(枕本尊)。木造一基。高さ23センチのビャクダン材に精緻な浮き彫りで多くの仏像を表しており、中国的要素が見られる。空海が唐から持ち帰った文物を記した『御請来目録』には仏龕の記載があり、これを本仏龕に比定する説もある。1964年5月26日国宝指定。
  • 聾瞽指帰(ろうこしいき)2巻(附:澄恵寄進状1巻)
    空海青年期の著作で、空海の自筆本である。1963年7月1日国宝指定。
  • 金銀字一切経(中尊寺経)4296巻(附:漆塗経箱316合)
    平泉の中尊寺にあったもの。紺色に染めた紙に、一行おきに金字と銀字で書いた写経。12世紀の作。1951年6月9日国宝指定。
  • 法華経巻第六
    色変わりの華麗な用紙に書かれた写経。12世紀の作。1952年11月22日国宝指定。
  • 宝簡集(54巻)・続宝簡集(77巻、6冊)・又続宝簡集(167巻、9冊)
    高野山の歴史、所領、行事などに関わる古文書を巻物の形に整理したもの。西行(寺域内の草庵で修行した)、源頼朝、源義経を始めとする歴史上の著名人の自筆書状を含む。1953年11月14日国宝指定。
  • 澤千鳥螺鈿蒔絵小唐櫃(さわちどりらさいまきえこからびつ)
    平安後期の漆工芸品。1951年6月9日国宝指定。

重要文化財

建造物

  • 大門:1705年再建、五間三戸の二階二層門で、高さは25.1m。
  • 山王院本殿(丹生明神社、高野明神社、総社)3棟(附鳥居及び透塀):既述。
  • 徳川家霊台(家康霊屋、秀忠霊屋)2棟(所在五室院谷)、既述。
  • 奥院経蔵:慶長4年(1599年)石田三成によって造営[67]

絵画

  • 絹本著色愛染明王像
  • 絹本著色大日如来像
  • 絹本著色如来像(寺伝薬師如来)
  • 絹本著色両界曼荼羅図(血曼荼羅)[68]
  • 絹本著色両頭愛染曼荼羅図
  • 絹本著色山水屏風 六曲屏風
  • 絹本著色丹生明神像・狩場明神像
  • 絹本著色弘法大師・丹生高野両明神像(問答講本尊)

彫刻

  • 木造大日如来及両脇侍阿弥陀如来・釈迦如来坐像(旧所在谷上大日堂)附:木造天蓋1面
  • 木造大日如来坐像(旧西塔本尊)
  • 木造大日如来坐像(旧所在勧学院)
  • 木造阿弥陀如来坐像(旧所在大会堂)
  • 木造孔雀明王像
  • 木造天弓愛染明王坐像
  • 木造不動明王立像・毘沙門天立像・毘沙門天立像(胎内仏)[69]
  • 木造不動明王坐像(旧所在奥之院護摩堂)
  • 木造不動明王坐像(旧所在不動堂)
  • 木造不動明王立像
  • 木造四天王立像(快慶作)附:紙本墨書広目天真言等1巻
  • 木造四天王立像
  • 木造執金剛神立像・深沙大将立像(附 宝篋印陀羅尼(執金剛神像内納入)8通、宝篋印陀羅尼(深沙大将像内納入)一括)[70][71]
  • 胎蔵界板彫曼荼羅 2枚(金剛界蒔絵箱入)
  • 板彫両界曼荼羅
  • 木造浮彫九尊像(柿木九尊仏)

工芸品

  • 華形大壇
  • 華形大壇・箱形礼盤(不動堂所在)
  • 飛行三鈷杵(伝弘法大師所持)
  • 金銅仏具(五鈷鈴2、独鈷鈴1、五鈷1、三鈷2、独鈷2)
  • 紙胎花蝶蒔絵念珠箱
  • 蒔絵螺鈿筥 三衣入[72]
  • 厨子入金銅水神像
  • 成身会八葉蒔絵厨子
  • 銅鐘(梵鐘) 永正元年及び元亀三年銘
  • 銅鐘 弘安三年銘
  • 銅仏餉鉢 建久八年銘
  • 舞楽装束類 一括(天野社伝来)(袍1領、蛮絵袍3領、半臂12領、下襲7領、水干小袴2具、小袴1腰、表袴1腰、帯3条、前掛2領、附:唐櫃覆1枚)
  • 太刀 銘国広(附:沃懸地蒔絵太刀拵金具 正阿弥常吉作)
  • 短刀 銘国光
  • 剣 銘真守(備前)
  • 脇指 銘長谷部国重 拵黒糸柄蝋色鞘脇指

書跡典籍、古文書

  • 金剛峯寺根本縁起 後醍醐天皇手印並跋(絹本)
  • 増壱阿含経 巻第三十二(天平宝字三年中臣村屋連鷹取書写奥書)
  • 即身成仏品(附:静遍相承記)
  • 紺紙金字一切経(荒川経)3,575巻
  • 紺紙金字法華一品経(開結共)28巻
  • 紺紙金泥般若心経 霊元天皇宸翰
  • 細字金光明最勝王経 2巻
  • 雑阿含経 巻第三十九(天平十五年五月十一日光明皇后願経)
  • 宋版一切経 3,750帖
  • 高麗版一切経(版本6,027帖、写本258帖)6,285帖
  • 紺紙金字法華経 8巻 高麗[74]
  • 聖観音造立願文
  • 町石建立供養願文

考古資料・歴史資料

  • 高野山奥之院出土品 一括(比丘尼法薬経塚出土品、御廟及び周辺出土品、灯籠堂及び周辺出土品)(明細は後出)
  • 南保又二郎納骨遺品(金銅宝篋印塔、鋳出銅板三尊仏像)
  • 高野版板木 5,488枚(附 添板68枚)

典拠:2000年(平成12年)までの指定物件については、『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による。

焼失した重要文化財(旧国宝)

  • 木造金剛薩埵坐像、金剛王菩薩坐像、不動明王坐像、降三世明王立像、普賢延命菩薩坐像、虚空蔵菩薩坐像 - もと金堂安置。1926年12月26日焼失。旧国宝。

登録有形文化財

  • 高野山霊宝館紫雲殿:大正9年建設。
  • 高野山霊宝館放光閣
  • 高野山霊宝館宝蔵
  • 高野山霊宝館玄関・北廊・中廊
  • 高野山霊宝館南廊及び西廊

史跡

  • 金剛峯寺境内
    史跡指定地は6か所に分かれる。大門地区、伽藍地区(壇上伽藍)、本山地区(総本山金剛峯寺)、奥の院地区は1977年(昭和52年)7月14日指定。2002年(平成14年)9月20日付けで徳川家霊台地区と金剛三昧院境内が追加指定された[75]

文化財(子院所有分)

金剛三昧院 多宝塔(国宝)
有志八幡講 五大力菩薩像(国宝)のうち金剛吼
有志八幡講 阿弥陀聖衆来迎図(国宝)の一部
  • 以下の子院所有の文化財については、全て財団法人高野山文化財保存会が文化財保護法に定める「管理団体」(同法第32条の2の規定に基づく)に指定されており、大部分は高野山霊宝館に保管されている。
  • 以下の子院のうちには、名跡(寺籍)のみが継がれ、房舎を持たないものも含まれる(蓮華三昧院、蓮上院、西生院、泰雲院、全光院など)。

国宝

  • 金剛三昧院
    • 金剛三昧院多宝塔 - 貞応2年(1223年)頃の建立。1952年11月22日国宝指定。
  • 有志八幡講
  • 蓮華三昧院
    • 絹本著色阿弥陀三尊像 - 平安後期の仏画。
  • 普門院
    • 絹本著色勤操僧正像 - 勤操は空海の師。この画像は12世紀の作。
  • 龍光院
    • 絹本著色伝船中湧現観音像 - 平安後期の仏画。
    • 紫紙金字金光明最勝王経 10巻(附:経帙1枚) - 聖武天皇が各地の国分寺に安置させた「国分寺経」の遺品。どこの国分寺にあったものかは不明。
    • 大字法華経(巻第三欠、明算白点本)7巻(附:経帙1枚) - 奈良時代の写経。
    • 細字金光明最勝王経 2巻(附:竹帙1枚) - 細字(さいじ)は細かい文字の意。9世紀の写経。
  • 三宝院
    • 不空羂索神変真言経 - 奈良時代の写経。
  • 正智院
    • 文館詞林残巻 12巻 - 唐時代の詩集を日本で弘仁14年(823年)に書写したもの。この詩集は中国には遺品がなく、日本にだけ伝わる点で貴重。
  • 宝寿院
  • 遍照光院
    • 紙本著色山水人物図 10面 - 江戸時代の文人画家・池大雅が描いた襖絵。

重要文化財

本中院谷

  • 親王院
    • 銅造阿閦如来立像
    • 木造兜跋毘沙門天立像
    • 金銅蝶形磬
    • 木造不動明王坐像
  • 明王院
    • 絹本著色不動明王二童子像(赤不動)
  • 龍光院
    • 絹本著色狩場明神像
    • 絹本著色両界曼荼羅図
    • 木造屏風本尊
    • 木造兜跋毘沙門天立像
    • 厨子入倶利伽羅竜剣
    • 蓮華形柄香炉
    • 灌頂道具類[76]
    • 諸経要集 巻第五
    • 註仁王般若経 巻第一
    • 放光般若波羅蜜経 巻第九(天平十五年五月十一日光明皇后願経)
    • 大毘盧遮那経(白朱両点本)・大毘盧遮那経供養次第法疏 巻第二(朱点本)8帖
    • 大毘盧遮那経 巻第一
  • 成蓮院
    • 木造地蔵菩薩立像(附:像内納入品 願文、結縁交名等16点、天聖元宝1枚)[77]

谷上

  • 西禅院
    • 絹本著色阿弥陀浄土曼荼羅図
  • 正智院
    • 絹本著色紅玻璃阿弥陀像
    • 絹本著色八字文殊曼荼羅図
    • 絹本著色普賢延命像
    • 木造毘沙門天立像
    • 木造不動明王坐像
    • 銅五鈷鈴
    • 仏頂尊勝陀羅尼経
  • 宝城院
    • 絹本墨画弁才天図
  • 宝寿院
    • 絹本著色七髻文殊像
    • 絹本著色尊勝曼荼羅図
    • 絹本著色地蔵菩薩像祐円筆
    • 絹本著色文殊菩薩像
    • 絹本著色六字尊像
    • 金銅三鈷(伝覚鑁所持)
    • 往生瑞応伝
    • 決定往生集本末
    • 日本法花験記上
    • 梵本大般涅槃経断簡

西院谷

  • 西南院
    • 絹本著色五大虚空蔵像
    • 絹本著色大元帥明王像
    • 紙本白描及著色覚禅鈔 50巻(附:紙本白描及著色覚禅鈔 2巻)
    • 紙本墨画五部心観
    • 木造大日如来坐像
    • 和泉往来
    • 後小松天皇宸翰秘調伝授書(永享二年六月廿六日)
    • 西南院文書
  • 桜池院
    • 絹本著色紅頗梨色阿弥陀像
    • 絹本著色薬師十二神将像
  • 宝亀院
    • 紙本著色鶏図(曽我直庵筆)
    • 木造十一面観音立像
    • 崔子玉座右銘断簡 伝弘法大師筆
  • 善集院
    • 絹本著色八宗論大日如来像
  • 成慶院

南谷

  • 釈迦文院
    • 木造大日如来坐像
    • 木造不動明王立像
    • 大和州益田池碑銘並序(絹本)
  • 常喜院
    • 木造地蔵菩薩坐像 永仁2年(1294年)、院修ら作

小田原谷

  • 如意輪寺
    • 木造如意輪観音坐像
  • 金蔵院
    • 木造愛染明王坐像
  • 蓮花院
    • 孔雀文磬
  • 安養院
    • 木造大日如来坐像
  • 金剛三昧院
    • 経蔵:大正11年4月13日指定
    • 客殿及び台所:昭和40年5月29日指定
    • 四所明神社本殿:昭和40年5月29日指定
    • 金地著色梅花雉子図(客殿大広間襖)14面
    • 木造五智如来坐像(多宝塔安置)
    • 木造千手観音立像
    • 木造不動明王立像
    • 刀 銘繁慶2口
    • 銅鐘(承元四年十一月日鋳之の銘あり)
    • 高野版板木 468枚
  • 高室院
    • 木造薬師如来坐像
  • 蓮上院
    • 木造不動明王立像(帆不動)

往生院谷

  • 不動院
    • 銅造阿弥陀如来及両脇侍立像
  • 北室院
    • 絹本著色五大力菩薩像
  • 遍照光院
    • 紙本著色商山四皓及虎渓三笑図(曽我直庵筆 六曲屏)
    • 絹本著色一字金輪曼荼羅図
    • 紙本墨画菊図・紙本墨書菊図賛
    • 木造多聞天立像・持国天立像
    • 木造阿弥陀如来立像(快慶作)
  • 三宝院
    • 五行大義巻第五
    • 白氏文集巻第三残巻
    • 文鏡秘府論
  • 地蔵院
    • 紙本著色高野大師行状図絵(第一巻は天保11年(1840年狩野養信による補写)
    • 木造阿弥陀如来坐像
  • 持明院
  • 成福院
    • 絹本著色阿弥陀如来像

蓮華谷

  • 大明王院
  • 清浄心院
    • 絹本著色九品曼荼羅図
    • 絹本著色当麻曼荼羅縁起
    • 木造阿弥陀如来立像
    • 花鳥文磬
  • 遍明院
    • 木造文殊菩薩及使者像 1基
  • 赤松院
    • 金銅宝相華文線刻蓮華形磬
  • 円通寺
    • 紙本著色十巻抄
    • 紙本白描不動明王二童子毘沙門天図像
    • 木造釈迦如来坐像

千手院谷

  • 普賢院
    • 四脚門:江戸寛永頃の建築、昭和40年5月29日指定
    • 紙本墨画五大力菩薩像
    • 木造毘沙門天立像
  • 普門院
    • 木造釈迦如来及諸尊像(枕本尊)
  • 五大院
    • 木造薬師如来坐像
  • 西生院
    • 絹本著色恵果阿闍梨像

五室院谷(一心院谷)

  • 竜泉院
    • 絹本著色伝熊野曼荼羅図
    • 木造薬師如来坐像
    • 絹本著色弘法大師像
  • 光台院
    • 絹本著色毘沙門天像
    • 木造阿弥陀如来及両脇侍立像
  • 五坊寂静院
    • 絹本著色不動明王三童子像
    • 木造阿弥陀如来及両脇侍立像
  • 南院
    • 木造不動明王立像(浪切不動)
  • 巴陵院
    • 金銅金剛盤
  • 蓮華定院
  • 多聞院
    • 木造毘沙門天立像
  • 全光院
    • 花文刺繍打敷
  • 泰雲院
    • 木造竜猛菩薩立像

墓原

  • 佐竹義重霊屋(清浄心院所有):桃山慶長4年・作、昭和40年5月29日指定
  • 松平秀康及び同母霊屋2棟(蓮花院所有):桃山慶長12年と桃山慶長9年・作、昭和40年5月29日指定
  • 上杉謙信霊屋(清浄心院所有):江戸前期・作、昭和40年5月29日指定

典拠:2000年(平成12年)までの指定物件については、『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による。

登録記念物(名勝地関係)

  • 光臺院庭園
  • 西禅院庭園
  • 正智院庭園
  • 本覚院庭園
  • 桜池院庭園


世界遺産

ユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』(2004年7月登録)は以下13件の文化財を含む[78]

奥院経蔵(重要文化財)
金剛三昧院客殿(重要文化財)
  • 史跡
    • 伽藍地区境内[79]
    • 松平秀康及び同母霊屋
    • 大門地区境内
    • 金剛三昧院地区境内
    • 徳川家霊台地区境内
    • 本山地区境内
  • 国宝
    • 金剛峯寺不動堂
    • 金剛三昧院多宝塔
  • 重要文化財
    • 金剛峯寺山王院本殿3棟(附:鳥居及び透塀)
    • 金剛峯寺奥院経蔵
    • 上杉謙信霊屋
    • 佐竹義重霊屋(附:宝篋印塔5基)
    • 松平秀康及び同母霊屋(附:秀康霊屋‐宝篋印塔5基、秀康母‐宝篋印塔2基)
    • 金剛峯寺大門(附棟札1枚)
    • 金剛三昧院経蔵・四所明神社本殿・客殿及び台所
    • 金剛峯寺徳川家霊台2棟(家康霊屋‐厨子1基、秀忠霊屋‐厨子1基)
  • 県指定文化財
    • 豊臣家墓所
    • 禅尼上智碑
    • 崇源夫人五輪石塔
    • 高麗陣敵味方供養碑
    • 奥院の大杉林
    • 金剛峯寺大主殿・奥書院・経蔵・鐘楼・真然堂・護摩堂・山門・会下門・かご塀

韓国に対するヘイトスピーチ

2019年1月30日 - 同寺の男性僧侶がツイッターで韓国に対するヘイトスピーチをしたとして、添田隆昭宗務総長名義で公式サイトで謝罪した[80][81]

脚注

  1. ^ 本尊名称については本記事の「壇上伽藍」の節を参照。
  2. ^ 世界遺産登録推進三県協議会、2005、『世界遺産 紀伊山地の霊場と参詣道』、世界遺産登録推進三県協議会(和歌山県・奈良県・三重県)、pp.39,75
  3. ^ 日本各地の大師信仰”. 高野山真言宗 総本山金剛峯寺. 2020年12月14日閲覧。
  4. ^ 高野山の秘密 2015, p. 57.
  5. ^ 高野山の秘密 2015, p. 115.
  6. ^ 大塔/壇上伽藍/名所一覧”. 高野山真言宗 総本山金剛峯寺. 2020年12月17日閲覧。
  7. ^ a b 高野山の秘密 2015, pp. 116–117.
  8. ^ a b 高野山の秘密 2015, p. 119.
  9. ^ 高野山の秘密 2015, p. 118.
  10. ^ a b 年表”. 高野山真言宗 総本山金剛峯寺. 2020年12月22日閲覧。
  11. ^ a b 高野山の秘密 2015, p. 120.
  12. ^ 高野山の秘密 2015, p. 121.
  13. ^ 山陰加春夫『巡礼高野山』新潮社
  14. ^ 『明治日本美術紀行 ドイツ人女性美術史家の日記 』フリーダ・フィッシャー、安藤勉、講談社 (2002/7/10), p77
  15. ^ 高野山文化財年表 明治時代”. (公財)高野山文化財年表保存会 高野山霊宝館. 2020年12月13日閲覧。
  16. ^ https://www.ohmi.co.jp/pdf/dl.php?pk=1467364137
  17. ^ 「高野山名所図会」石倉重継 1904年 近代デジタルライブラリー
  18. ^ 高野山の秘密 2015, p. 37.
  19. ^ a b 高野山の秘密 2015, p. 40.
  20. ^ 女人堂/名所一覧”. 高野真言宗 総本山金剛峯寺. 2020年12月13日閲覧。
  21. ^ 歩いて旅する 2015, p. 135.
  22. ^ 明治5年「法令全集」, 第98号。NDLJP:787952/7,NDLJP:787952/97
  23. ^ 高野山文化財年表 明治時代”. (公財)高野山文化財年表保存会 高野山霊宝館. 2020年12月13日閲覧。
  24. ^ 高野山を歩く 2009, p. 100.
  25. ^ 大門/名所一覧”. 高野山真言宗 総本山金剛峯寺. 2020年12月14日閲覧。
  26. ^ 高野山の秘密 2015, p. 48.
  27. ^ (松永、2014)、p.27
  28. ^ 名称や建築年に諸説あるが、現地で配布している総本山金剛峯寺伽藍御供所が発行するパンフレットの内容に合わせて、この項では表記する
  29. ^ 以下、本節の記述は、特記なき限り、松長有慶『高野山』(岩波新書)、pp.20 - 48による。
  30. ^ 右手が清浄とされ、中央に位置する金堂の本尊に右肩を向け右回り(時計回り)で巡る
  31. ^ 高野山開創1200年記念法会(南海高野ほっとねっと)
  32. ^ 松長有慶『高野山』(岩波新書、2014)、p.36
  33. ^ この6体の仏像については写真が残されており、作風から見て、空海の時代からあまり隔たらない9世紀頃に作られた密教像として、極めて貴重なものであった。
  34. ^ http://www.koyasan.or.jp/k1200/ 高野山開創1200年](金剛峯寺公式サイト)
  35. ^ 左手は衣を握り、右手は触地印になっている。
  36. ^ 高野山霊宝館サイト「高野山と文化財:文化財年表 金堂焼失諸仏」
  37. ^ 六角経蔵/壇上伽藍/名所一覧”. 高野山真言宗 総本山金剛峯寺. 2020年12月17日閲覧。
  38. ^ 建物名称は松長有慶『高野山』、p.39による
  39. ^ 空海は丹生・高野の両明神を勧請したが、後に行勝上人(1130年~1217年、一山の興隆に尽力した)が気比明神と厳島明神を勧請し四社明神とした
  40. ^ 高野山真言宗 総本山金剛峯寺 御社
  41. ^ 高野山真言宗 総本山金剛峯寺 山王院
  42. ^ 重要文化財の平安初期の作で高野山に現存する最古の仏像の本尊は霊宝館に移され当堂には新造された像が安置されている。
  43. ^ 「KUKAI空海密教の宇宙」2018年10月13日発行 16ページより
  44. ^ 当日夕方整理券を配り法要の終わった夜7時過ぎから内拝できる。本尊も開帳されるが燈明の灯りだけで暗くてほとんど見えない
  45. ^ 中外日報(2011年12月6日)
  46. ^ 阿閦(あしゅく)・宝生(ほうしょう)・無量寿(むりょうじゅ)・不空成就(ふくうじょうじゅ)の4如来
  47. ^ 高野山1200年の光”. 高野山真言宗 総本山金剛峯寺 ・ COSMIC LAB. 2020年12月13日閲覧。
  48. ^ 東大寺・知恩院・方広寺の鐘に次いで日本で4番目に大きいから
  49. ^ 国宝・不動堂、水幕が覆う”. 橋本新聞. 2020年12月14日閲覧。
  50. ^ 金剛峯寺公式サイトの説明による。
  51. ^ 高野山1200年 2016, p. 20.
  52. ^ 「県指定文化財・有形文化財・建造物」和歌山県公式webページ
  53. ^ a b c d e f 寺内のみどころ”. 高野山真言宗 総本山金剛峯寺. 2020年12月14日閲覧。
  54. ^ 例えば重要文化財の経蔵の文化財指定名称は「奥院経蔵」である。
  55. ^ 年中行事”. 高野山真言宗 総本山金剛峯寺. 2020年12月14日閲覧。
  56. ^ 高野山の秘密 2015, p. 59.
  57. ^ 高野山の秘密 2015, p. 60.
  58. ^ 高野山教報社「高野山教報」2010年5月1日号 平成の高野百景
  59. ^ 「巡礼高野山」32ページ 2008.11.20発行 新潮社
  60. ^ 高野山の秘密 2015, p. 54.
  61. ^ 高野山の秘密 2015, p. 51.
  62. ^ この井戸を覗いて姿が写らなければ三年以内に死んでしまう姿見の井戸、ここに参拝に来た回数を数える数取地蔵、この坂で転ぶと三年以内に死んでしまう覚鑁坂、耳を当てると地獄の釜の音の聞こえる禅尼上智碑などの七不思議の逸話がある。
  63. ^ 高野山の秘密 2015, p. 70.
  64. ^ 高野山の秘密 2015, p. 72-73.
  65. ^ a b 高野山の秘密 2015, p. 73.
  66. ^ https://www.pref.wakayama.lg.jp/bcms/prefg/500700/mokuroku/mokuroku/kunikenzo.html より建造物と国宝のみ建設年代と指定日を記述する
  67. ^ 高野山霊宝館hpより
  68. ^ 両界曼荼羅図の復元版「想定色平成再生版」が2015年7月3日に凸版印刷より金剛峯寺に奉納された。(読売新聞2015年7月4日 31面掲載)
  69. ^ 胎内仏は2005年追加指定(平成17年6月9日文部科学省告示第88号)
  70. ^ 2012年重要文化財指定(平成24年9月6日文部科学省告示第127号)、2017年に宝篋印陀羅尼(執金剛神像内納入)7通と宝篋印陀羅尼(深沙大将像内納入)一括を追加指定(平成29年9月15日文部科学省告示第117号)
  71. ^ 文化庁サイトの「国指定文化財等データベース」には附指定の「宝篋印陀羅尼」の記載なし。
  72. ^ 蒔絵螺鈿筥〈三衣入/〉 - 国指定文化財等データベース(文化庁
  73. ^ a b 内田 2006, pp. 250–251.
  74. ^ 平成30年10月31日文部科学省告示第208号
  75. ^ 金剛峯寺境内1977年〈昭和52年〉7月14日指定、2002年〈平成14年〉9月20日追加、史跡)、国指定文化財等データベース文化庁) 2011年1月21日閲覧。
  76. ^ 平成17年6月9日文部科学省告示第87号
  77. ^ 「附」は2015年追加指定(平成27年9月4日文部科学省告示第137号)
  78. ^ 文化庁 (2006年9月26日). “条約上の資産種別と登録資産の国内法上の指定状況” (PDF). 文化審議会文化財分科会世界文化遺産特別委員会(第1回)議事次第. 文化庁. 2011年1月18日閲覧。
  79. ^ 以下も http://www.sekaiisan-wakayama.jp/know/kouya-oku.html 和歌山県世界遺産センター(2019.6.9参照)
  80. ^ 僧侶が韓国ヘイト投稿 高野山金剛峯寺が公式サイトで謝罪”. 毎日新聞. 毎日新聞 (2019年1月30日). 2019年1月31日閲覧。
  81. ^ 高野山真言宗僧侶によるヘイトスピーチに関するお詫び | 高野山真言宗 総本山金剛峯寺”. www.koyasan.or.jp. 金剛峯寺 (2019年1月30日). 2019年1月31日閲覧。

参考文献

  • 井上靖佐和隆研監修、司馬遼太郎、阿部野竜正、和多秀乗著『古寺巡礼 西国1 高野山金剛峯寺』、淡交社、1981
  • 山本智教監修『高野山のすべて』講談社、1984
  • 山田耕二『高野山』(日本の古寺美術9)、保育社、1986
  • 『週刊朝日百科 日本の国宝』37号(金剛峯寺)、朝日新聞社、1997
  • 大阪市立美術館編『祈りの道 - 吉野・熊野・高野の名宝 - 』(特別展図録)、毎日新聞社、2004
  • 内田啓一『文観房弘真と美術』法藏館、2006年。ISBN 978-4831876393 
  • 松長有慶『高野山』(岩波新書)、岩波書店、2014
  • 日本歴史地名大系 和歌山県の地名』、平凡社
  • 角川日本地名大辞典 和歌山県』、角川書店
  • 国史大辞典』、吉川弘文館
  • 高野山1200年の歴史舞台を歩く (別冊宝島2495号) 一生に一度は見たい日本人の原風景がここにある!. 宝島社. (2016.9.29). ISBN 978-4-8002-5977-6 
  • 伊豆野 誠『高野山の秘密 語り 元高野山奥之院維那 日野西眞定』株式会社扶桑社、2015年3月27日。ISBN 978-4-594-07245-2 
  • 『法令全書』 明治5年版、内閣官報局、1872年。NDLJP:787952 
  • 『高野山を歩く旅 世界文化遺産 山上の伽藍と高野七口をめぐる特選9コース&高野山の宿坊』山と渓谷社、2009年11月5日。ISBN 978-4-635-60042-2 
  • 『歩いて旅する熊野古道・高野・吉野 -世界遺産の参詣道を楽しむ-』山と渓谷社、2015年11月30日。ISBN 978-4-635-60111-5 

関連項目

関連項目

外部リンク