邪教

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Supportasiaster (会話 | 投稿記録) による 2016年1月9日 (土) 09:01個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (→‎日本)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

邪教じゃきょう)とは、邪(よこしま)な教えのこと。淫祠邪教(いんしじゃきょう)や邪宗(じゃしゅう)ともいわれる。他宗教を非難するときや、国家権力統治者等が特定の宗教を、敵性宗教であるとみなし弾圧目的で使用する用語である[1]

日本

鎌倉時代

鎌倉中期に日蓮立正安国論の中で、法華経鎌倉幕府の政治運営の精神的中心として受け入れなければ国家国民は安泰にならないという考え方を述べた。この際に、正法である『法華経』を信仰しない他宗派はすべて邪法であり、邪教に惑わされている宗派とそれを許している政府を強く非難した。中でも念仏信仰を柱とする浄土宗は名指しで攻撃を受けた。

しかし、得宗北条時頼は、『立正安国論』を政治批判であるとみなし、日蓮を伊豆に配流した。


江戸時代

江戸時代になると、その前の室町末期に日本へ流入したキリスト教に対して初代将軍徳川家康が警戒感を示すようになり、1612年慶長17年)の禁教令を皮切りに、キリシタン隠れキリシタン)を邪教として弾圧した[2][3][4]

一方、日蓮宗不受不施派は民こそが国の主役であると考え、正義を重視するという考えから徳川幕府の出す命令に対して非服従を貫き、幕府は「邪宗門」と位置づけた。また宗門改などを通じた宗教統制に入らなかった民間宗教、新宗教なども邪宗門に分類された。

1690年(元禄3年)、寛永寺座主(輪王寺宮)に公弁法親王が就くと、それから10年ほどの間に玄旨帰命壇立川流が共に邪教とされ完全に断絶。どちらも性交渉によって本尊と一体化することを柱とした教義だったため、これをきっかけにして淫祠邪教(いんしじゃきょう)という言葉が確立した。

明治時代

1868年明治元年)、江戸幕府は崩壊し明治政府に生まれ変わるが、明治政府は五榜の掲示の第三札に切支丹邪宗門ノ儀ハ堅ク御制禁タリ、若不審ナル者有之ハ其筋ノ役所ヘ可申出」と記し、引き続きキリスト教および不受不施派の信仰は禁止された。このうち、不受不施派の禁教は1871年(明治4年)の寺請制度廃止により、またキリスト教の禁止は1873年(明治6年)2月24日付太政官布告「禁制高札の撤去」[5]で、それぞれ解除される。

こうして長年邪とされていたキリスト教はようやく日本に認められ、隠れキリシタンも表に出てくることができたが、一方で明治政府は神道の国教化を目指し国家神道の体系を整備していく。この過程で、神道と仏教の厳格な分離を求めたことに伴う仏教側の排撃が行われた。また、神霊の憑依やそれによって託宣を得る行為、性神信仰などを低俗なものや迷信として否定、それらを信仰の中心においていた教派を淫祠邪教として取り締まる政策を進めた。これにより修験道陰陽道など神仏習合系教派が軒並み禁止となり、修験系講団体の中には教派神道へ移行したものもある。大日本帝国憲法第28条において表向き信教の自由が認められた後も、取り締まりは続いた。

1894年(明治27年)、コレラ治療として神水を配布した蓮門教が淫祠邪教として徹底的に批判され衰退した[6][7]1901年(明治34年)には内務省宗教局が淫祠邪教の取り締まりを強化すると発表した[8]

大正・昭和初期

1921年大正10年)、内務省は、複数の宗教団体を邪教淫祀とみなし、そのひとつである大本教神殿を全て取り壊す決定を行った。同時に祭神不明の一千余りの神社を廃止することを決定した[9][10]

1925年(大正14年)に治安維持法が成立。当初は日本共産党朝鮮共産党などの共産主義勢力を標的としたが、1928年(昭和3年)の改正以降、類似(新興)宗教の弾圧にも多用されるようになった。1933年昭和8年)8月、神道天津教が邪教であるとされ、本部が警視庁から閉鎖を命じられた(第一次天津教弾圧事件)[11]

1935年(昭和10年)には、再び大本が淫祠邪教とされて政府から弾圧を受け、全国紙でもそのように断定して批判、報道された[12][13][14]。この時、刑法第74条「皇室に対する罪」の適用に加えて、治安維持法も適用された[15]

遠藤高志の論文では、「1936年(昭和11年)には「類似宗教」「邪教」と銘打った書籍出版が集中した[16]」と書いてある。同年には宮内省女官長が邪教にまつわる不敬被疑により検挙された[17]文部省は、1935年(昭和10年)から1936年(昭和11年)の調査により、神がかり、呪い祈祷などで人心を魅惑し、迷信に引きずり込んだ邪教が約150種に及ぶと発表した[18]。同年、天津教が二度目の大規模な強制捜査を受ける(第二次天津教弾圧事件)。

1937年(昭和12年)の日華事変勃発後は、再び淫祀邪教が蔓延しているとされ、警視庁特高部の発表によれば、事変発生前の10倍以上となったとされている[19]。同年、PL教団の前身、ひとのみち教会が邪教として解散させられた。翌1938年(昭和13年)に入ると、天理教の分派団体である天理本道が結社禁止となり、天理教自体も邪教のレッテルを貼られることを免れようとして、軍部と戦争への全面協力体制を決める。

1939年(昭和14年)、治安維持法や刑法に該当しない場合に取り締まり可能とする「宗教団体法案」が、帝国議会に提出された[20]。そして日本が大東亜戦争に突入すると、国の統制下に入らない宗派・宗教団体はすべて邪とみなされ弾圧されるようになる。この過程で創価教育学会(現・創価学会)の牧口常三郎が命を落とした。一方、天津教は1944年(昭和19年)の大審院判決で無罪を勝ち得ている。

多数派として邪教弾圧を支持した教派や団体の中には、このことについて後に自派の戦争責任と認める見解を明らかにしたところもある[21][22][23][24]

戦後

終戦を受け、1945年(昭和20年)12月28日付で宗教団体法は廃止され新たに宗教法人令が施行された。

GHQは宗教法人令によって戦後日本における完全な宗教の自由を担保しようとし、この結果戦前に邪教として弾圧を受けた大本やPL、創価教育学会などが再興を果たし、修験道、陰陽道も明治以前の形態に戻ることができたが、それでも43派の新興宗教が良俗を破壊するおそれがあるとされ、邪教との謗りをかけられた。43派の中には、天津巨と改名していた天津教も含まれており、超国家主義団体と決め付けられて1950年(昭和25年)、教派にとり三度目の弾圧となる解散処分を受ける。

戦前の内務省宗教局に代わって宗教政策を全面的に担当することになった文部省調査局(現・文化庁文化部)はそれら43派への対策として同年、届出制でなく認証制に改める宗教法人法国会に提出し可決・成立させた[25]

日本国憲法第20条によって完全な宗教の自由が保障された現在では、政府や裁判所等が特定宗派を邪と決め付けることは、一切出来ない。

ただし、宗教法人法第81条1項1号「法令に違反して、著しく公共の福祉を害すると明らかに認められる行為をしたこと」、及び同2号前段「第2条に規定する宗教団体の目的を著しく逸脱した行為をしたこと」に該当する場合などに、裁判所に対して同法81条1項に基づく解散命令の請求を行う権利を有し、請求をされた団体側も争う権利を有する(宗教法人オウム真理教解散命令事件等)。

日本国外

世界宗教

キリスト教においては異端をもって邪と看做してきた歴史がある。そして、異端という言葉はキリスト教内だけでなく、異教徒に対して使われる場合もあった。

仏教においては内道外道という言葉・概念が用いられている。内道がブッダの教えであり、外道がブッダの教えから外れたものである。外道はしばしば具体的に特定されつつ「六師外道」と呼ばれている。これはブッダと同時代の諸思想の中でも特に主だったものを指すもので、例えば六師外道の一人であるマハーヴィーラが開いたジャイナ教は仏教から見れば邪となる。

イスラム教の場合は、教典であるクルアーンの中にも「宗教には無理強いは禁物」との趣旨の記述があり、ムスリムたちに異教徒への寛容を呼びかけているものの、実際はイスラム支配下で異教徒として活動を許されたズィンミーの権利を制限したり、異教徒をすべて邪とみなして信仰自体禁止するなどの政策を取る国もある。

中華圏

中国では、南北朝時代の時代などに仏教が邪教と見なされ、弾圧された(三武一宗の法難[26]

中華人民共和国になってからは、政権政党の中国共産党共産主義の原則である無神論に忠実な姿勢を見せつつも、公式には仏教、道教、イスラム教、プロテスタントカトリックの5宗教を許可している。一方、それ以外の国内の伝統気功である法輪功チベット仏教、ウイグルの宗教等が邪教と位置づけられ、弾圧されている。

1999年平成11年)10月12日、1万人以上の信者のいた「主神教中国語版」の教祖で、1998年(平成10年)6月に逮捕されていた劉家国が婦女暴行、非合法組織の設立、社会秩序の破壊などの罪で銃殺刑を執行された[27]

同年10月30日、全国人民代表大会は、法輪功など、中国当局が『カルト』とみなす組織の摘発強化を図る「邪教組織の取り締まりと防止・処罰に関する決定」を可決した[28]。主神教は、中国共産党政権を打倒して、「神の国」創設を目標としており、中国公安省より「全国五大邪教組織」の1つとされていた[29]

2001年(平成13年)、中国当局未公認のキリスト教団体「華南教会」の創始者2名が、「邪教」を利用し違法活動をした罪などで死刑判決を言い渡された[30]

2012年(平成24年)12月、中華人民共和国ではマヤ暦に基づき、2012年人類滅亡説を唱えていた「全能神」の関係者800人以上を拘束した[31]

韓国

1958年(昭和33年)8月、大韓民国の「朴泰善長老教」こと韓国イエス教伝道館復興協会朝鮮語版に対して当時の大統領李承晩が「世論を惑わす邪教」と決め付け、教祖朴泰善拘束した。朴は懲役1年6ヶ月の実刑を言い渡され、服役した[32]

脚注

  1. ^ 大辞林(三省堂)
  2. ^ 大橋幸泰 (2010年12月17日). “近世人とキリシタン(6)-キリシタン禁制と「仁政」” (PDF). 早稲田大学. 2014年6月28日閲覧。
  3. ^ 鎖国”. 世界大百科事典. 2014年6月28日閲覧。
  4. ^ 主日礼拝説教「天の大きな報い」”. 日本基督教団西片町教会. 2014年6月28日閲覧。
  5. ^ 函館開港とキリスト教”. 函館市. 2014年6月28日閲覧。
  6. ^ 醜聞続発の「蓮門教」島村みつ会長を内務省社寺局が召喚 読売新聞 1894年4月17日朝刊2ページ
  7. ^ 壮士俳優らが蓮門教攻撃の演劇路傍演説 読売新聞 1894年5月8日朝刊3ページ
  8. ^ 淫祠邪教の取締励行 読売新聞 1901年12月8日朝刊5ページ
  9. ^ いよいよ全国一千の邪教淫祀を内務省で廃止する 近く調査総会を開いて確定 読売新聞 1921年10月8日朝刊5ページ
  10. ^ 大本教の神殿を全部取払へ 床次内相厳命を発す 読売新聞 1921年10月8日朝刊5ページ
  11. ^ 神道天津教の本部 閉鎖を命ぜらる 警視庁の邪教退治愈よ峻烈 読売新聞 1933年8月12日夕刊2ページ
  12. ^ 大本教再び邪教の本体暴露 不敬事件の確証あがり、断乎!内務省が弾圧の命 読売新聞 1935年12月8日号外 1ページ
  13. ^ 断乎邪教取締り 内務省の積極策決る 読売新聞 1935年12月9日朝刊7ページ
  14. ^ [社説] 淫祠邪教の掃討を期せ 読売新聞1935年12月10日朝刊3ページ
  15. ^ 治維法も適用 邪教根絶へ 更に大々的家宅捜査
  16. ^ 遠藤高志. “1930年代中盤に見る「類似宗教」論” (PDF). 東北大学. 2014年6月28日閲覧。
  17. ^ 総監、宮内庁を訪問 邪教事件報告 読売新聞 1936年9月1日夕刊2ページ
  18. ^ 淫祀邪教の正体へ 鋭き学術のメス 読売新聞 1936年9月9日朝刊7ページ
  19. ^ 三木清 淫祀邪教の蔓延 読売新聞 1938年9月21日第二夕刊1ページ
  20. ^ 戦争の時に多い邪教や迷信の禍ひ愈よ法律で取締り 読売新聞1939年2月28日朝刊5ページ
  21. ^ 第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白 - 日本基督教団公式サイト。
  22. ^ 日本ホーリネス教団の戦争責任に関する私たちの告白 - 日本ホーリネス教団ホームページ。1997年(平成9年)3月20日初出、2011年(平成23年)3月17日掲載、2015年11月27日閲覧。
  23. ^ 戦前の宗教弾圧とは? - しんぶん赤旗 2006年4月5日付質問コーナー掲載、日本共産党公式ホームページ。
  24. ^ 動画で見る創価学会 3. 創価学会の歴史 :(2)「創価教育学会」から「創価学会」へ - 創価学会ホームページ。
  25. ^ 新興宗教にお目付役 キツい法令でどしどし追放 読売新聞1950年8月29日朝刊2ページ
  26. ^ 淫祠邪教”. 世界大百科事典. 2014年6月28日閲覧。
  27. ^ カルト教団の教祖を銃殺刑 読売新聞 1999年10月14日朝刊6ページ
  28. ^ 全人代「邪教摘発」可決「法輪功」根絶狙う 当局に法的根拠 読売新聞1999年10月31日朝刊7ページ
  29. ^ 中国でカルト教団撲滅作戦 教義に政権打倒 全国規模の組織も 読売新聞 1999年4月28日朝刊7ページ
  30. ^ 中国、「地下教会」創始者に死刑判決 香港の人権団体が報道 読売新聞2001年12月31日朝刊6ページ
  31. ^ 中国「邪教」信者800人拘束「世界滅亡」21日控え摘発強化 読売新聞 2012年12月21日朝刊7ページ
  32. ^ 東亜日報襲撃さる 暴露記事怒った新興宗教徒 読売新聞 1960年12月11日朝刊2ページ

外部リンク