遠山政景

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遠山 政景(とおやま まさかげ、生年不詳 - 天正8年3月23日1580年4月7日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将後北条氏の家臣。遠山綱景の三男。右衛門大夫・甲斐守。

三男のため後継者から外れ、僧籍に入っていたが、永禄7年(1564年)の第二次国府台合戦で、父と兄・隼人佐が戦死したため還俗し、遠山氏の家督および父の江戸城代という立場を継承、亡き父に倣い、主君の北条氏政から偏諱を賜って政景と名乗る。

また、古河公方足利義氏との交渉担当も継承している。永禄10年(1567年)に義氏が政景に相馬治胤の対応について江戸城からの援兵を300〜500依頼するという書状が残っており、同程度の兵を単独で動かせる立場にあったと推測される。

後に、越後上杉氏や反北条勢力の圧力が増したことにより、江戸城は重要防衛拠点の一つと見なされ、政景より身分の高い北条一門の北条氏秀が起用された。そのため、政景は下総国方面の反北条勢力や里見氏の押さえとして拠点を移し、江戸城代の立場を譲っている。

天正8年(1580年)に死去。家督は息子の遠山直景が跡を継いだ。次男に猿渡盛道がいるとされる。

参考資料[編集]