退耕行勇

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退耕行勇
長寛元年(1163年) - 仁治2年7月5日1241年8月13日))
道号)退耕
房号)荘厳房
尊称 退耕禅師
生地 相模国酒匂? 山城国?
没地 鎌倉? 京都?
宗派 臨済宗
寺院 常楽寺東勝寺浄妙寺
弟子 円爾心地覚心など
東勝寺
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退耕行勇(たいこうぎょうゆう、長寛元年(1163年) - 仁治2年7月5日1241年8月13日))は、鎌倉時代前期の臨済宗[1]である。俗姓は四条氏。諱は玄信から行勇に改める。道号は退耕で、房号は荘厳房[1]。出身については山城国とも相模国酒匂とも言われている。

活動

退耕行勇は、初め密教を学び、そして鎌倉鶴岡八幡宮の供僧となり[1]、鎌倉永福寺、大慈寺(明王院に隣接した寺)の別当を務めた。源頼朝北条政子夫妻の帰依を受け、政子が出家・剃髪する際にはその戒師をつとめている。1217年には源実朝の正室である御台所坊門信子1224年には北条義時継室伊賀の方も行勇の元で落飾した[2]1200年正治2年)栄西が鎌倉に下向した際には、寿福寺で参禅しその門下に入った。博多聖福寺の住持にもなった。

1206年建永元年)栄西のあとを受けて東大寺大勧進職となっている。東大寺に残る1237年嘉禎3年)の「行勇書状」(重要文化財)には、東大寺の鎮守八幡宮の遷宮事業の進め方について、行勇が大勧進の立場から東大寺の衆徒に助言した内容で、行勇の活動の様子を伝えている。また、頼朝は寿福寺の行勇のもとを度々訪れている。1219年承久元年)には高野山に上って金剛三昧院を開創し、禅密兼修の道場とした[1]北条泰時の開基により鎌倉東勝寺常楽寺を、足利氏の開基により浄妙寺を開山した[1]。同寺には行勇唯一の頂相彫刻が残っている(重要文化財)。

弟子に円爾心地覚心など。

脚注

  1. ^ a b c d e 今泉淑夫 著「退耕行勇」、安田元久 編『鎌倉・室町人名事典』(コンパクト)新人物往来社、2003年、338頁。ISBN 4-404-01757-X 
  2. ^ 出雲隆 編『鎌倉武家事典』青蛙房、1979年5月、231-232,255頁。ISBN 978-4-790-50530-3