近藤日出造

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近藤 日出造(こんどう ひでぞう、1908年2月15日 - 1979年3月23日)は日本漫画家である。本名は秀蔵(読みは同じ)。政治家の似顔絵を主とする政治風刺漫画を中心に描いた。一コマ漫画似顔絵の名手と称されることもある[1]。妻は横山隆一の妹。

略歴

人物

1976年(昭和51年)まで政治漫画を描き続けた。特に「読売新聞」2面の政治漫画が知られている。

当初は岡本一平の門下で、アイディア主体のナンセンス漫画を目指した。北沢楽天に代表される既成の漫画家に対抗するために結成した新漫画派集団の仲間である横山隆一のセンスのよさ、杉浦幸雄の風俗描写には太刀打ちできないとして、似顔絵によるルポなどに活路を求めた。

漫画家の中では相対的にリーダー的発言力があったため頭角を現し、近藤が事実上の代表である新漫画派集団は業界の中心となった。1940年には体制翼賛体制下に漫画家の大同団結を図る新日本漫画家協会の会長となった。この協会は事実上政府の国家総動員体制に組み入れられたもので、『漫画』誌上で近藤は得意の似顔絵を用いてルーズベルトチャーチルなど連合国軍の首脳を徹底的に攻撃する漫画を描いた。同時期に同盟国のドイツゲッベルスナチを賞賛する漫画なども描いた。また、紙上で軍人や高級官僚など体制側の大物との戦争完遂を目的として対談を行い、自身も他の新漫画は集団のメンバー同様、東南アジアに将校待遇の記者として派遣されて漫画ルポを残している。

第二次世界大戦後に復刊した『漫画』誌に近藤が最初に描いたのは、東條英機が檻に閉じ込められているもので、大戦中に体制翼賛体制に協力していながら、主義主張を完全に翻した漫画を描き始める。この転向に対し、1946年の『漫画』誌上で近藤は「結局我々は生活のために漫画を描く庶民なのだから、時勢に合った漫画を描いても仕方がない」という旨の弁明を度々掲載し、自己批判することなく再び漫画家の世界でリーダー的な立場を保った。戦後に結成され近藤がリーダーであった漫画集団は、戦前の新漫画派集団が事実上存続したものであるともいえる。

1969年には日米安保条約を説明した漫画「安保がわかる」を(漫画社)より出版。自民党国民協会に80万部を売り上げる。体制派漫画家として学生運動家らから非難を浴びた。

その他に、1972年に代理店「漫画社」を創業。横山隆一杉浦幸雄富永一朗といった「漫画集団」のメンバーが取締役の代理店であり[2]政府関係の広報の漫画カットや原子力発電所の広報関係の仕事も年間150万円の看板料で請け負っていた[3][4]

いわゆる子供向け漫画を激しく敵視しており、それらを追放する「悪書追放運動」の旗手としても知られている。

褒章/受賞

師匠

弟子

著書

  • 『家庭科学漫画』東栄社 1942
  • 『日出造膝栗毛』文芸春秋新社 1954
  • 『やァこんにちは』第1‐2集 読売新聞社 1954
  • 『恐妻会』朋文社 1955
  • 『絵のない漫画』鱒書房 1956
  • 『海道うらばなし』六月社 1958
  • 孫子の兵法』読売新聞社 サラリーマン・ブックス 1962
  • 『金 欲の皮の人間学』読売新聞社 サラリーマン・ブックス 1963
  • 『にっぽん人物画』正続 オリオン社 1964
  • 『人の顔はなにを語るか』実業之日本社 ホリデー新書 1970

共著編

  • 『漫画研究資料講座 第2輯 漫画デツサン論』矢部友衛共著 日本漫画研究会 1935
  • 『模範産業戦士訪問記』共著 東京産業報国会編 漫画社 1943
  • 『わが青春の懺悔録』編 雪華社 1958
  • 『この道ばかりは』杉浦幸雄共著 実業之日本社 1960

出典

  1. ^ 手塚治虫「マンガの描き方」光文社(1977)131頁
  2. ^ 「マンガ家を原発推進CMにかつぎ出す『漫画社』の正体」『図説危険な話』コミックボックス編集、ふゅーじょんぷろだくと、1989年、p.48
  3. ^ 長谷邦夫『漫画に愛を叫んだ男たち』清流出版、2004年、p.277
  4. ^ インタビュアー高瀬毅「まんが家に聞く 原発についてのさまざまな思い」『COMIC BOX』1990年1月号、pp.38-39

外部リンク