農奴制

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中世ヨーロッパの農奴の服装

農奴制(のうどせい、: Serfdom and Villeinage)は、一般的に封建制のもとで行われる統治制度。農奴はもともとヨーロッパ封建社会で強く領主に隷属され「保有」された農民を指したが、強度の差はあれ前近代の中国・日本においても小作制度などとして論じることができる。しかし、奴隷との差異においても、何を基準に農奴とみるかは歴史学経済学法学などの学問の分野、さらに定義となる地域時代によっても一様でない。農奴制の構成に共通する、領主と使役される小作人という関係以外では、一律に概要を説明せず下記では地域ごとの特徴を論ずるに留める。

起源

農奴という意味で明確な起源は、ヨーロッパのローマ帝国末期における自由身分を失った農民層「コロヌス」だといわれる。

古代ローマが地中海に勢力を広げた大帝国へと発展するにあたって、戦争捕虜などで安価に大量に供給された奴隷の労働に頼った大土地経営である「ラティフンディウム」が広まった。しかしながら、ローマ帝国が拡大期から停滞期へと移行するにあたって、奴隷の供給量が減少し、価格が上昇した。その結果、大土地所有者は、奴隷に変わって没落農民を小作人として雇い入れ、「コロナートゥス」へと移行した。コンスタンティヌス帝がコロヌスの移動を禁止したため、自由を奪われたものの、それでも彼らコロヌスは奴隷に比べれば諸権利を持った存在であった。

農民は領主から貸与された土地を自身で耕作するために拘束されて移転の自由はなく、さらに賦役や貢納などの義務を負った。一人間としての彼らの人格が尊重されることは稀で、時には土地と共に売買、譲渡の対象となった。

農奴制の基本的な関係

領主

農奴

  • 個別の家族、住居、耕具の所有は認められる
  • 移動、職業選択の自由はない

農奴は賦役の義務や、領主、教会に対して税を払う義務があり、相互の身分間での移動はなかった。

荘園の形態

古典荘園

  • 直営地での賦役がある荘園
  • 一部農民の保有地も認められるが、直営地への比重が大きい

純粋荘園

  • 直営地より、農民の保有地からの生産物地代、貨幣地代にウエイトを置いた形態
  • 生産力と農奴の地位の向上

地代の支払方法

労働地代

  • 領主直営地において耕作に従事することで地代を支払う方法(賦役)
労働の果実たる生産物はすべて領主のものになるため、農奴の生産意欲は低い

生産物地代

  • 自分の農場で生産される農産物を一部納める事によって地代を支払う方法(貢納)
物納した後の残った生産物は自分の物となり、自由に経済活動に使えることで、農奴の意欲の上昇をもたらす

貨幣地代

  • 物納を廃し、貨幣によって地代を納める方法
貨幣経済の発達による。社会の経済活動が活発化される

ヨーロッパにおける農奴制

概要

中世ヨーロッパにおいて、この時代の人は基本的に「祈る者」(=聖職者)、「戦う者」(=戦士的貴族]])、「働く者」の 3 つの身分から構成されると考えられていた。封建的支配身分である前2者は、農民の収奪の上に生活と活動が成り立った。この収奪は強制であり(経済外的強制)、維持のために農民の土地への拘束とともに社会的・身分的にも拘束を伴い、聖職者と戦士的貴族はお互いに会をであり,彼らのはもっぱらのうえに成り立っていた。

農民の標準的な身分である農奴は、土地保有者である封建領主に人身的に隷属し、移動の自由をもたず、また、領主によって恣意的に課税されたが、古代の奴隷とは異なり、個人の財産を保有し、婚姻するなどの権利を有していたとされる[1]。そのためマルクス経済学における史的唯物論経済発展段階説)においては、中世封建制(農奴制)は、古代奴隷制よりも高次の発展段階と規定された。

西ヨーロッパにおいては、中世後期の貨幣経済の進展とともに自作農民化していった[1]

松原久子は「産業革命以前のヨーロッパの農民」の姿、生活として、「貴族の主人や大地主から搾取され、殴打され、もっと収穫をあげろといつも鞭で叩かれる農奴である。・・。藁の上に寝て、涙を流しながらパンを食べ、やっと一年に一度新しいズボンを、五年に一度一足の靴を手に入れることができる人たち。生涯一度も風呂に入らず、自立することなど考えたこともなかったから、読むことも書くこともできない人たち」[2]と述べている。

西ヨーロッパ地域

西ヨーロッパでは、荘園領主と荘民との関係がしばしば問題とされたが、その解決に慣習法としての荘園法: Hofrechtが示され、荘民の生活を律するまでに及んだ。その隷属的な身分は世襲とされ、農作以外の賦役労働や、フランスでは土地を離れることを防止するためのフォルマリアージュ(結婚税)、荘民が生活上で得た家畜や衣服などの動産財産を荘民死亡時に無条件に没収するマンモルト(死亡税)なども制度化されていた。

フランスやイングランドなど西ヨーロッパでは時代が下るにしたがって地代の支払い方法が、労働地代→生産物地代→貨幣地代と変わっていき、中世の終わり頃までには農奴制は解消されたとされる。

東ヨーロッパ地域

一方エルベ川以東の東ヨーロッパでは、中世末期において封建領主が農民の自由な移動を禁じるなど、農民に対する支配を再び強化させた。大航海時代以降は、西欧で商工業の発展が進む中、東欧は西欧に対する穀物供給地としての役割を果たした。こうして、西欧経済と結びつけられた形で、農奴制的な状況が創出された。

オーストリア

18世紀後半、東欧各国で啓蒙専制君主が出現して近代化政策を推進した。オーストリアでは皇帝ヨーゼフ2世が、1781年に農奴解放令を出して農奴制廃止を図ったが、貴族など抵抗勢力の反発を招き改革が頓挫したため、事実上農奴制は温存された。最終的には1848年革命によって農奴制は廃された。

プロイセン

プロイセンの農民は、王領地の農民、貴族の農場領主制(グーツヘルシャフト、: Gutsherrschaft)下におかれた世襲隷属民、西欧的な自立性の高い農民の3つに類型化できる。1807年ナポレオン・ボナパルトに敗北した屈辱から始まった一連のプロイセン改革で、これらの農民に対する土地売買の自由などが規定され、職業選択の自由など人格的自由が確立した。

これらの改革は地主本位のものであり、農民は人格的自由は手に入れたものの、土地の多くは地主に与えられた。地主層は労働力を隷属農民から農業労働者に切り替え、資本主義経済に適応していった。こうしたことから、プロイセンでは土地貴族(ユンカー)がのちまで政治、社会の中心となった。

ロシア

中世のロシアでは、秋の「聖ユーリーの日」の前後2週間に限って合法的な移転が認められた。ただし、自己の領主に対して負債を抱えている場合には権利を行使できなかったため、実質上土地に拘束された状態であった。ところが、15世紀に入ると富裕な領主が負債を肩代わりする代わりに農民を自己の領地に引き抜くようになったことで中小領主の農地経営が圧迫されたことが社会問題化した。15世紀末にイヴァン3世が農民の移転を制限した法典(1497年法典)を定めると、のちのイヴァン4世も同様の法令を定め、領主による逃亡農民に対する無期限の捜索権と引き渡しの権利を認めるようになった。最終的には、17世紀に成立したロマノフ朝の初期(1649年)に制定された会議法典によって、農奴制の立法化が完了した。歴代皇帝は、ピョートル1世にみられるように、近代化を推進する財源を確保する必要性から(農奴制自体は近代化から逆行するが)農奴制を強化していった。しかし、民衆は激しく抵抗してより豊かな南部などへの逃亡を図るものも多かった。更に南部のドン・コサック軍は慣習法をたてに逃亡者の引き渡しに応じなかったために、彼らの軍事力に依存する部分が多かったロマノフ朝を悩ませる原因となった[3]1856年クリミア戦争における敗北によって近代化の必要性を痛感したアレクサンドル2世が、1861年農奴解放令を出したことで農奴制は廃された。

南北アメリカ地域における農奴制

15世紀に始まる大航海時代から19世紀前半にかけて、イギリスを中心としたヨーロッパとアフリカとアメリカ大陸を結んで展開された(三角貿易)。当初は、西インド諸島やブラジルでのプランテーション経営の労働力として徴用され、やがてイギリスがバージニア植民地に入植するとアメリカ本土、特に南部で農奴や西部では金鉱採掘の労働力として利用された。アメリカ本土では、1865年アメリカ合衆国憲法修正第13条の成立で終わったことになっている。

アジア地域における農奴制

アジアの農耕社会の奴隷は、一般衆民とは労働の差異に関する制約がほとんどで農奴に近いが、欧州に比べて身分が確立(あるいは保証)されていた。

チベット

中国による占領以前にチベットに潜入した河口慧海木村肥佐生西川一三等により、チベット社会における農奴制をはじめとする詳細な報告がなされている。これらの報告によると、チベット人の主食である小麦を生産していたのは少数の貴族が所有していた荘園であり、その労働力は人間として扱われない農奴であったこと、これら農奴が現実の生活に対して疑念を抱かないように、輪廻転生と来世への因果の恐怖で信者を拘束していたことが記録されてい[4][5]。また、チベット仏教では、農奴の頭蓋骨・皮・腸などの人体器官を儀式に用いていたことも報告されている[6][7]

イスラム社会における農奴制

フェラー

農奴に相当する物としてフェラヒンアラビア語: فِلاحين ‎)がある。現代におけるアラビア語では普通に農民の意味として用いられているが、日本や欧米では「フェラー」(Fellah)としてイスラム社会における農奴あるいは小作人の意味で用いられている。

元々はアラブ人征服者が征服支配した土地に土着する農民をフェラヒンと呼び、支配された人々が実質的に奴隷として扱われたことから農奴としての意味合いで用いられるようになった。現代でも被征服者のエジプト民族に対する名称としてフェラヒンという呼び方が用いられることもあり、地方の農耕民の別称として扱われる場合もある。

イスラム社会では法制度として農奴制は明確な廃止をされないまま現代に至るため、欧米のように明確に農民と農奴が区別されることがなく曖昧なままである。

農奴制が公式に廃止された年月日

脚注

  1. ^ a b 『世界史を読む事典』(1994)p.105
  2. ^ 松原は「産業革命以前のヨーロッパの農民に関する資料を調べた時に、必ず出遭う農民の姿、生活である」と述べている(松原久子『驕れる白人と闘うための日本近代史』』 [要ページ番号]
  3. ^ 土肥(1996)
  4. ^ 河口慧海『西蔵旅行記』博文館、1904年。 
  5. ^ 西川一三『秘境西域八年の潜行』芙蓉書房、1967年。 
  6. ^ human-rights-of-tibet [1]
  7. ^ The Life of a Tibetan Slave [2]

参考文献

  • 朝日新聞社(編) 編「農奴」『世界史を読む事典』朝日新聞社〈地域からの世界史20〉、1994年1月。ISBN 4-02-258515-3 
  • 土肥恒之 著「逃亡(ヨーロッパの)」、南塚信吾加藤友康川北稔尾形勇樺山紘一(編) 編『歴史学事典4 民衆と変革弘文堂、1996年12月。ISBN 978-4-335-21034-1 

関連項目

外部リンク

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