赤穂城

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赤穂城
兵庫県
大手隅櫓と大手門
大手隅櫓と大手門
別名 加里屋城、大鷹城
城郭構造 変形輪郭式平城
天守構造 建造されず
築城主 岡光広
築城年 1466年(文正元年)〜1483年(文明15年)
主な改修者 池田長政、浅野長直
主な城主 池田氏、浅野氏、森氏
廃城年 1873年(明治6年)
遺構 石垣、堀
指定文化財 国の史跡、名勝(本丸庭園、二の丸庭園)
再建造物 櫓・門、庭園(復元中)
位置 北緯34度44分44.41秒 東経134度23分20.34秒 / 北緯34.7456694度 東経134.3889833度 / 34.7456694; 134.3889833 (赤穂城)座標: 北緯34度44分44.41秒 東経134度23分20.34秒 / 北緯34.7456694度 東経134.3889833度 / 34.7456694; 134.3889833 (赤穂城)
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赤穂城(あこうじょう)は、兵庫県赤穂市にある日本の城。国の史跡に指定され、本丸庭園と二の丸庭園は名勝に指定されている。別名・加里屋城、大鷹城。『忠臣蔵』の舞台の一つとして知られる。

概要

ファイル:赤穂城配置図.gif
縄張り

江戸時代赤穂藩の藩庁が置かれた。 元和偃武の後、本格築城された城郭である。縄張りは変形輪郭式。本丸と二の丸が輪郭式に配され、その北側に三の丸が梯郭式に置かれている。銃砲撃戦を意識した設計となっており、十字砲火が可能なように稜堡に良く似た横矢掛かりが数多く用いられている。縄張りは赤穂浅野氏初代長直の時代、浅野氏に仕えた甲州流兵学者近藤正純によってなされた。長直の招きで、1,000石の厚遇で江戸の藩士に兵学を教えていた山鹿素行が32歳の時、赤穂に7カ月滞在して縄張りについて助言。これにより二の丸周辺の手直しがされた。それまでは一重の堀に囲まれた掻上城(かきあげじょう)という質素なものであった。素行は後日、幕府の御用学問であった朱子学を批判したことで流罪になりその赤穂城内に住んだ。

赤穂城は5万石の浅野氏には過度に広壮で、これがために財政難に陥った。5層天守の造営も計画されていたが幕府への遠慮か財政難の為か造営されず、天守台のみが今日に残っている。

市内を流れる千種川から上水道を敷設し、城内のみならず城下各戸にも給水されていた。日本三大上水道の一つに数えられている。

明治時代前期に城内の建物は破却され石垣のみが残っていた。昭和中期から平成にかけて・門・塀・庭園が徐々に再建され、現在も二の丸庭園の再建が進められている。また、1928年(昭和3年)から1981年(昭和56年)の間には、本丸内に西洋洋館風の赤穂高校(旧制赤穂中学)の校舎が建っていた。現在、本丸に建物はないが、往時の建物の間取りを原寸で地面に再現してあり、その規模や暮らしぶりの一端を窺うことができる。

歴史・沿革

加里屋城・大鷹城時代

  • 1466年(文正元年)-1483年(文明15年)頃、岡光広が加里屋城を築城。この地での最初の築城となる。
  • 1600年(慶長5年) 姫路藩主・池田輝政の弟・長政が赤穂領主となり赤穂城の前身である大鷹城を赤穂郡加里屋に築城。
  • 1613年(慶長18年) 赤穂は輝政の次男で備前岡山藩主・忠継の所領となり、一重の堀・石垣・櫓・門が造営される。
  • 1615年(元和元年) 忠継の弟・政綱が3万5,000石を与えられ赤穂藩が立藩。御殿が造営される。
  • 1631年(寛永8年) 政綱が嗣子なく死去し、弟の輝興が入封。更に櫓・馬屋を造営。
  • 1645年(正保2年) 輝興、発狂により改易。城は備中松山藩主・水谷勝隆預かりとなる。同年、浅野長直が5万3,000石で入封する。

赤穂城時代

  • 1646年(正保3年) 近世城郭建設のため、近藤正純が設計図を作成。石材採掘にも取り掛かる。
  • 1648年(慶安元年) 6月17日(新暦8月5日)に幕府に築城計画を提出、異例の即日許可となり、築城開始。
  • 1652年(承応元年) 赤穂藩祖浅野長直の招きで、江戸屋敷で藩士に兵学を教えていた山鹿素行が赤穂に7カ月滞在して縄張りをして二の丸周辺の造営を変更。
  • 1661年(寛文元年) 赤穂城が完成する。
  • 1701年(元禄14年) 3代長矩江戸城中での吉良義央に対する刃傷事件により浅野氏改易となる。城は播磨龍野藩主・脇坂安照預かりとなる。
  • 1702年(元禄15年) 永井直敬が3万3,000石で入封。同年、赤穂浪士討ち入り
  • 1706年(宝永3年) 直敬転封により、森長直が2万石で入封。廃藩置県まで森氏が城主となる。

近現代

  • 1873年(明治6年) - 廃城令により廃城となる。
  • 1876年(明治9年) - 飾磨県権令、赤穂城売却の入札を行う。以後、順次建築物が破却される。
  • 1892年(明治25年) - 千種川の洪水発生。災害復旧と千種川流路変更のため、二の丸門から清水門までの石垣を築石に使用。
  • 1897年(明治30年) - 大石神社建立のため、大手門枡形の南側と北方多門を埋める。
  • 1923年(大正12年) - 大石内蔵助邸が国の史跡に指定される。
  • 1928年(昭和3年) - 本丸に兵庫県立赤穂中学校を開校。
  • 1935年(昭和10年) - 大手門前の堀と太鼓橋を復元。
  • 1953年(昭和28年) - 本丸の外堀を復元。
  • 1955年(昭和30年) - 明治期に撮影された隅櫓の形状と一部異なるが、大手隅櫓と大手門が再建された。
  • 1971年(昭和46年) - 赤穂城が国の史跡に指定される。
  • 1981年(昭和56年) - 赤穂高校を御崎へ移転させる。
  • 1990年(平成2年) - 本丸庭園を復元・整備。
  • 1996年(平成8年) - 大手門枡形、本丸門および枡形、本丸厩口門が再建される。
  • 1999年(平成11年) - 本丸門が1999年(平成11年)放送のNHK大河ドラマ元禄繚乱」の撮影に使用される。
  • 2002年(平成14年) - 旧赤穂城庭園(本丸庭園および二の丸庭園)が国の名勝に指定される。
  • 2006年(平成18年) - 財団法人日本城郭協会による日本100名城(60番)に選ばれた。
  • 2010年(平成22年) - 庭園の西仕切門が復元された。高さ約4.6メートル、幅約3.0メートル。門につながる土塀約10.5メートルも含めて総工費は約3,200万円[1]
  • 現在、二の丸庭園を再建中。

光の天守閣

2006年(平成18年)から赤穂青年会議所赤穂義士祭奉賛行事として始めたもので赤穂義士祭が行われる12月14日までの数日間、天守台に天守風の外観になるように建設足場用の鋼管を組み、電球を配線し夜間点灯される[2][3]。年々、天守の高さが高くなっていたが2009年以降は5層となっている[4][5]。本来、赤穂城には天守はなく、歴史的な資料を参考にしているわけではない。

天守台の上、「光の天守閣」のため天守風の外観に組まれた鋼管
  • 2006年(平成18年):2層、詳細不明。
  • 2007年(平成19年):3層、電球約1万2,000個、高さ地上約22メートル。
  • 2008年(平成20年):4層、電球約1万5,000個、高さ地上約24メートル、総鋼管8トン。
  • 2009年(平成21年):5層、電球約2万2,000個、高さ地上約30メートル、総鋼管12トン。
  • 2010年(平成22年):5層、電球約3万個、高さ地上約28メートル[6]
  • 2011年(平成23年):5層、電球約3万個、高さ地上約28メートル[7]
  • 2014年(平成26年):天守台にプロジェクションマッピングが投影された[8][9][10]
  • 2015年(平成27年):前年に続き光の天守と共に[11]天守台にプロジェクションマッピングが投影された[12]

周辺の文化施設・観光名所

参考文献

  • 兵庫県高等学校教育研究会歴史部会 編『新版 兵庫県の歴史散歩 下』山川出版社〈新全国歴史散歩シリーズ〉、1991年、114-115頁。ISBN 4-634-29580-6 
  • 西ヶ谷恭弘 編『定本 日本城郭事典』秋田書店、2000年、283-285頁。ISBN 4-253-00375-3 

脚注

関連項目

外部リンク