赤ちゃんポスト
赤ちゃんポスト(あかちゃんポスト)は、諸事情のために育てることのできない新生児を親が匿名で特別養子縁組をするための施設、およびそのシステムの日本における通称である。日本では唯一、熊本県熊本市にある慈恵病院がこのシステムを採用しており、同病院では「こうのとりのゆりかご」という名称を使用している。日本国外でもこの様なシステムを採用している国や地域が多数存在する。
概要
設備の目的は、赤ちゃんを殺害と中絶から守ることにある。特に新生児では外界に対する適応力(恒常性を維持する能力)が弱く、仮にいわゆる「捨て子」として何らかの施設前に放置されると野犬や低体温症・熱中症といった脅威に晒される危険性すらあるため、これらの危険から守るためにも設置されている。
設置に際しては多種多様な意見のあるシステムではあるが、一方で新生児は早急かつ安全に保護されてしかるべきだという意見もあり、道徳と人道の双方の観点からの議論がある(後述)。
この仕組みは、ベルリンの壁崩壊後のドイツ国内にて旧東ドイツ地域を中心にNPO・病院などにより次々に設置され、現在はドイツ全国約100箇所に設置されている[1]。ハンブルクでは2000年の開設以来5ヵ年間に22人の赤ちゃんの命が救われた。こと同地域では、冬季に夜間の温度が氷点下にまで下がるにも拘わらず、慈善団体施設の前に放置された乳幼児が凍死した事件が契機となって設置が進んだという事情も報じられている。
これらでは、屋外と屋内に扉が設けられ、中には新生児の入ったバスケット程度の空間があり、冬は適度に保温され、夏は猛暑に晒されることが無いように工夫されている。この中に新生児を入れると、宿直室の呼び出しブザーなどに直結されたセンサーが働き、職員がすぐさま安全に保護できるような工夫も見られ、その一方ではポスト内部に捨てに来た親向けのメッセージカード(手にとって持ち帰ることができる)が用意され、このカードに同ポスト設置施設や児童相談所などの連絡先が記載されており、後々後悔して親であることを名乗り出る際に役立つといった配慮も見られる。
名称
慈恵病院が参考にしたドイツでは "Babyklappe" と呼ばれている[2]。英語の baby [3]とドイツ語の Klappe を合わせた単語であるもう一つの呼び名として "Babywiege" がある[4]。英語では "Baby Hatch" と呼ばれている。イタリア語では "Culle per la vita" (命のゆりかご)と呼ばれている。中国語では「棄嬰艙」「棄嬰信箱」などと呼ばれ、呼称が定まっていない。
日本語の「赤ちゃんポスト」という呼称がいつ頃、どのようにして用いられるようになったかははっきりしない[5]。慈恵病院は一貫して「こうのとりのゆりかご」という名称を使用している。賛成・慎重双方の立場からポストという形容に違和感が表明されており、将来的に異なる呼び名がつけられる可能性もある[6]。
歴史
日本以外
数世紀もの間、「赤ちゃんポスト」の原型ともいうべき施設はさまざまな形で存在していた。このようなシステムは中世及び18世紀から19世紀にかけて広く普及していた。しかし1880年代後半から次第に姿を消していく。ドイツのハンブルクでは、1709年にある商人が孤児院の中に Drehladen と呼ばれる施設を設置した。しかし5年後の1714年には、利用者が余りに多く、孤児院が経済的に養えなくなったため閉鎖している。その他に早期で有名なものは、カッセル(1764年)やマインツ(1811年)で設置されたものがある。大黒屋光太夫の口述などを元に記された北槎聞略には、18世紀後半のロシア帝国にも帝都ペテルブルクと旧都モスクワに「赤ちゃんポスト」そのものを備えた「幼院」の存在が、その運用方法などと共にかなり詳しく記されている。 今では赤ちゃんポストが再び注目されるようになり、1996年に最初の赤ちゃんポストが設置された後、多くの国で設置されるようになった。ドイツでは2000年にハンブルクのNPO法人によって始められ、現在では公私立病院など約100箇所にまで設置数が増えている。 アメリカでは、病院が窓口となるセーフ・ヘイブン(en:Safe haven law)が州によって定められている。
日本
第二次世界大戦後、2-3年間にわたり戦災孤児救済のため済生会病院に同様の施設が設置されていた。児童福祉法制定後、孤児の数が少なくなったためこの施設は1948年(昭和23年)ごろに廃止された[7]。
慈恵病院の「こうのとりのゆりかご」
熊本県熊本市の慈恵病院[8]は2006年12月15日に「こうのとりのゆりかご」の設置申請を熊本市に提出。翌2007年4月5日に市はこの申請を許可し、5月1日に完成。5月10日正午から運用を開始した。同時に慈恵病院は予期せぬ妊娠や赤ちゃんの将来のことを電話やメールで相談する窓口「SOS赤ちゃんとお母さんの妊娠相談」の運用を開始した。
ゆりかごは病院東側に設置されており、60cm×50cm大の扉があり、内部は保育器(インファント・ウォーマー)が設置されていて常時36度に保たれている。扉の中には慈恵病院からの病院の相談連絡先などが書かれた「お母さんへの手紙」が置いてある。新生児が入れられるとアラームが鳴り、医療従事者が駆けつける。監視カメラが設置されているが、親の匿名性を守るため子のみしか映らない。そこに預けることができるのは生まれてから2週間以内の子供に限られる。扉を閉めると防犯上の理由から自動ロックがかかり、入れる側からは開けられなくなる。
預けられた子供はまず慈恵病院の医師が健康状態を確認する。親が出産前に慈恵病院と話し合いをするなどして意思の疎通が出来ている場合は、実親の合意があれば子供の福祉のために比較的早い段階で養子縁組がなされる。実親の合意がない場合やゆりかごの利用者などで親との意思疎通がなされていない場合は、親が後から考え直して子供の引き取りを申し出てくる可能性も考え(これは慈恵病院が参考にしたドイツの例でも同様である)、いったん熊本市児童相談所により県内の乳児院に移される。乳児院は熊本市の熊本乳児院と慈愛園乳児ホーム、八代市の八代乳児院の3か所。その後一定期間を置いて特別養子縁組が行われる。病院での医療費や乳児院での措置費と子供の生活費は国と、熊本県または熊本市が折半する形で支給される。子供の戸籍は熊本市長が作成し、命名する。
2007年当時の県知事である潮谷義子は、かつて慈愛園乳児ホームの園長だった。2007年5月29日、幸山政史熊本市長は「こうのとりのゆりかご」の運用状況について、年1回件数のみを公表するという市の方針を表明する。慈恵病院は運用開始から6ヶ月を経過した11月に、件数と子供の健康状態について公表する方針とする。
ゆりかごのイメージが強い本病院の試みであるが、実際には妊娠した女性に対しての対応はほとんどが「SOS赤ちゃんとお母さんの妊娠相談」などの電話やメールでの相談窓口で行われる。当初年間数十件だった相談件数は、平成25年度の1445件になり、平成26年には前年に放送されたドラマの影響もあり約3倍の4036件に増加した。相談は電話がほとんどであり、県外からの相談が約7割で、インターネットで相談実施を知った人がほとんどだった[9]。
2014年1月に行われた同病院の蓮田太二医師による講演で、平成19年から平成25年11月30日までに同病院が相談を受けたケースのうち特別養子縁組に至った190件中、43件が若年層の妊娠によるものであり23%の母親は15歳未満であったという。中には強姦の被害者や、小学5年生の出産のケースもあったという。相談を重ねた結果自分で育てることにしたケースが235件あり、その他も含めて453人の赤ちゃんの命が中絶などから救われた。
賛否
- 賛成意見
- 新生児の殺害・虐待・育児放棄を防ぐ。
- 預かるのが目的である。その後、預けられた子供の親の身元は調査される。
- 望まない人工妊娠中絶から命を守る。子供が生きるための選択肢が増える。
- 反対意見
- 全国に養子縁組支援団体等があり、匿名制でなければいけない理由が曖昧である。
- 新生児の死体遺棄は年間で数件であり、特別な措置を取るほどの必要性があるとは考えられない。
- 関係省庁・閣僚
肩書きはいずれも当時。
- 厚生労働省は2007年2月22日、熊本市に対して設置を認可した。だが、今後同様の申請があっても一律に認可するわけではなく、個別に検証するともしている。[10]
- 柳沢伯夫厚労相は「設置自体には違法性はないが、病院側の運用には慎重さが求められる」と発言した。[11]
- 安倍晋三首相は2月23日、首相官邸での記者団の質問に対して、まず「ポストという名前に大変抵抗感がある」と述べ、「子どもを産むからには親として責任を持ってもらうことが大切で、そういうお子さんに対応する施設もあるし、匿名で子どもを置いていけるものを作るのには大変抵抗を感じる」と慎重論を唱えた。
- 塩崎恭久官房長官は「法解釈以前に、子どもを捨てない策を考えなければいけないのではないか」、高市早苗少子化担当相も「もう少し議論を深める必要がある」と、慎重な意見を述べた[12]。
各国の現況
- オーストリア - 2005年までに、6つの都市で赤ちゃんポストを設置。
- ベルギー - 母親の母 (Moeder voor Moeder) 協会によって、2000年に、アントウェルペンの Borgerhout 地区に最初の赤ちゃんポストが設置された。 babyschuif 或いは、母親のモーセのゆりかご (Moeder Mozes Mandje) と呼ばれる。設置後3年間で保護される赤ちゃんはいなかった。
- チェコ - 2005年プラハで最初の赤ちゃんポストが設置される。2006年3月までに、3人の赤ちゃんを保護。
- ドイツ - 2000年に設置開始。現在はドイツ全国約100箇所に設置されている。
- ハンガリー - 1996年に最初に設置されて以来、現在までに約12箇所の赤ちゃんポストがある。そのほとんどが病院内に設置されている。
- インド - 1994年にタミル・ナードゥ州で子殺しの犯罪をなくすため、この州の指導者 J.Jayalalithaa の政策により、最初の赤ちゃんポストが設置された。ポストに置かれる赤ちゃんはゆりかご赤ちゃん (Thottil Kuzhanthai) と呼ばれ、国によって育てられ、また無料の教育が提供される。
- イタリア - いのちの行動 (Movement for Life) という組織によって設置された、8箇所ほどの赤ちゃんポストがある。2006年12月にローマで最初に設置され、2007年2月に初めての赤ちゃんを保護した。これ以外にバチカンにも赤ちゃんポストが設置されている。この地は世界で初めて赤ちゃんポストが設置された場所でもある。
- パキスタン - Edhi財団が全国約250箇所に Jhoola と呼ばれる赤ちゃんを保護するサービスを提供する。 Jhoola とはブリキ製のぶら下げ型ゆりかごで、中にはマットが敷いてある。親は匿名でEdhi財団のセンターの外から赤ちゃんを置くことができ、ベルを使って知らせる。またスタッフが1時間ごとにゆりかごを確認する。
- フィリピン - マニラのサンジョーズ病院 (Hospicio de San Jose) では回転式ゆりかご (turning cradle) を設けている。ゆりかごには「ここで赤ん坊を受け取ります」と書かれている」[13]。
- 南アフリカ - 非営利団体の「希望のドア」 (Door Of Hope) が2000年8月にヨハネスブルグの教会堂で「壁の穴」 (hole in the wall) を設置。2004年6月までに、30名の赤ちゃんを保護。
- スイス - 2001年5月9日に Einsiedeln の病院に赤ちゃんポストが置かれた。
- 韓国 - 2009年に国内の牧師が初めて設置。
- アメリカ - テキサスで1999年9月1日に「安全な避難所の法案」 (safe haven law) が実施され、その後47の州が同じく実施している。この法案は親が合法的にまた匿名で自分の新生児(生後72時間以内)を放棄し、病院や消防署などの「安全な避難所」の場所に届けることを許可している。この法案の呼び名は各州さまざまで、例えばカリフォルニアでは「赤ちゃん安全環境法」と呼ばれている[14]。インディアナ州下院は2015年に、赤ちゃんを育てられない親が養育を託す「赤ちゃんポスト」の設置法案を全会一致で可決した。州内100カ所への設置を目指している。法案は女性消防士で、自らも生後間もなく病院に置き去りにされたモニカ・ケルシー消防士らが働き掛けた[15]。
脚注
- ^ http://japan-indepth.jp/?p=15262
- ^ Klappe=垂板。赤ちゃんポストの垂板のような形にちなんだとされる。慈恵病院の「ドイツ視察報告」の見出しでは、ドイツの施設の呼称にあえて訳語を設けず「ベビークラッペ」と表記し、これに続いて原語のつづりを付記している
- ^ 今ではドイツ語本来の赤ちゃんを意味するSäuglingよりも親しまれている言葉。
- ^ Wiege とは「ゆりかご」を指す。
- ^ 上述の慈恵病院の視察報告で紹介されている、2006年3月発表のビデオソフトは『赤ちゃんポスト ドイツと日本の取り組み』と題されており、少なくともこの時点で、施設の趣旨に賛成ないし推進する立場の関係者も含め、この呼称が定着していたことがうかがえる。上記ドイツ語の呼称 Babyklappe を構成する単語 Klappe に「die ~ am Briefkasten ポストの投函口の蓋(ポストの蓋)」という用法があることからの連想とも考えられる。
- ^ 慈恵病院の所在地熊本県の地方紙である熊本日日新聞では、当初同病院の設置の動きをめぐる報道に際して「赤ちゃんポスト(こうのとりのゆりかご)」としてきたが、2007年3月3日付の紙面で、以後「こうのとりのゆりかご(赤ちゃんポスト)」の名称を用いるとした熊本日日新聞。
- ^ 「子どもは社会の宝」 チルドレンズ・エクスプレス
- ^ カトリック系の医療法人聖粒会が経営。東京慈恵会医科大学とは無関係。詳細は当該項目の記事を参照。
- ^ [1]
- ^ http://www.mhlw.go.jp/kaiken/jikan/2007/02/k0222.html
- ^ http://www.news24.jp/articles/2007/02/23/0778031.html
- ^ http://www.news24.jp/articles/2007/02/23/0478026.html
- ^ 原文:Abandoned Babies Received Here.
- ^ http://babysafela.org/
- ^ http://www.kobe-np.co.jp/news/zenkoku/compact/201502/0007777975.shtml
関連項目
- あんしん母と子の産婦人科連絡協議会 - 14道府県計20の産婦人科や医療者が参加している、行政と医療機関が連携して特別養子縁組に取り組むために作られたネットワーク。
- プロライフ
- エスポシト
- こうのとりのゆりかご - 実例をもとにしたテレビドラマ。平成25年度文化庁芸術祭(テレビ・ドラマ部門)優秀賞受賞。
支援団体などの外部リンク
- SOS赤ちゃんとお母さんの妊娠相談 - 慈恵病院による電話とメールの相談窓口。予期せぬ妊娠や赤ちゃんの将来のことで相談を受け付けている。
- 参議院・平成17年度少子高齢化関連の調査議員団(第三班)報告書 - 「ベビーネスト」という名前で、ミュンヘン・シュヴァービング病院のケースに関するレポートが含まれている
- NPO法人 円ブリオ基金センター
- 生命尊重センター
- 特定非営利活動法人環の会
- 一般社団法人 命をつなぐゆりかご
- アクロスジャパン
- 一般社団法人ベビーライフ
- 社会福祉法人日本国際社会事業団
- 特定非営利活動法人NPO Babyぽけっと
- 一般社団法人 ベアホープ
- NPO インターネット赤ちゃんポスト
- 社団法人家庭養護促進協会[大阪事務所]
- 社団法人家庭養護促進協会[神戸事務所]
- 養子という選択 朝日新聞GLOBE