賤民

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賤民(せんみん)とは、通常の民衆よりも下位に置かれた身分またはその者を指す。

起源

自己もしくは、自己の属する多数派集団と異なるものに対する警戒感である。往々にして、他者は己と違った言語習慣を有する。言語や習慣の異なる者に対して、古代人は畏敬の念と共に、不可触の念を抱いた[要出典]

農耕社会では、自己と同一の意識生活を有する農民に対しては、警戒感は惹起しない。しかし、農民でなく、定住もしていない芸能人手工業者に対しては、自己と異なる特別の世界に住む者として認識された。

インド

インド社会の根底にはヒンドゥー教輪廻転生の原理がある。無条件で輪廻転生できる聖職者のバラモンを頂点とし、厳しい条件(儀式)付きで輪廻転生できる多数の庶民が奴隷階級であり、両者の間に王族・平民(商人)の2階級があり、計4階級からカースト制度は成り立っている。さらにこの4階級の下に絶対に輪廻転生できないとされる人々が賤民(アウト・カースト)とされて存在している。釈迦はこのような社会に登場し、すべての人々(牧畜業、漁業関係者などの生物の命を奪う職業の人々も含む)が輪廻転生可能であることを説き、信仰を集めた。このため、結果として賤民とされる人々に仏教徒が多いという現象を生じた。また、キリスト教のように霊魂の不滅を信じたり、日本の神道のように祖霊を信ずる異教徒に対する差別が現在でも根深く存している。(日本のように神道の祖先崇拝が「御先祖様」として仏教と混交している状態はインドではなかなか理解されない)

朝鮮

朝鮮では、僧侶、胥吏女官妓生医女男寺党奴婢白丁などが賤民とされた。賤民階級の中でも白丁が最下級とされた。李朝八賤のなかには仏教の僧侶も含まれていた。漢陽(ソウル)では城内にはも建てさせなかった。賤民のなかには李氏朝鮮に敗北した地方豪族(将軍)の子孫も含まれている。その血統は明らかで、日本の落人伝説のようにあいまいなものではない。賤民の中でも奴婢と白丁の差は大きかった。奴婢は、一般の村に住み、良民との結婚もできたが、白丁は、一般の村に住めず、良民とは結婚できなかった[1]

日本

奈良時代

律令制度で、賤民を制度化した。民衆を良民と賤民(五色の賤)とに分け、農民である良民には調納税雑徭義務を課した。賤民にはこれらの義務がなく、また良民だからと言って権利があるわけでもなく、不自由な良民よりも、自由な賤民を選択する者が続出した。

中世

律令制度が崩壊することにより、奈良時代の賤民制度は廃止された。しかし、それ以後は、仏教思想を根拠にした賤民制度が登場した。人のに関わったり、病気・事故・戦争などでの死牛馬の処理に関わったりする者を、賤民とするものである。芸能人も、大道芸人と呼ばれ、つかみ所のない者として、賤民呼ばわりされた。

江戸時代

士農工商の枠外に賤民階級が置かれた。 ただし、各村の「村明細帳」などに「殺生人」と記される「漁師」・「猟師」などの曖昧な存在もあり、士農工商以外を単純に賤民とすることはできない。また皇族公家は賤民扱いしないが、僧侶・神職のなかには巫覡として賤民の範疇に入れられた者もいた。百姓・町人を平人と総称して賤民と区分することもある。

穢多は、死牛馬(「屠殺」は禁止されていた)の皮革加工、履物職人、非人の管理などを主な生業とした。最下層ではないが、脱出の機会がなかった。職業は時代によって差があり、井戸掘りや造園業、湯屋、医師、代言人(弁護士)、能役者(主役級)、歌舞伎役者、野鍛冶のように早期に脱賤化に成功した職業もある。諸職人(刀鍛冶や、石工、薬売り、紺屋、筆結、木樵、鎧細工、笠張り、仏師など)や舟渡、陰陽師、宿曜師、山伏、禰宜、巫女、白拍子、舞々、楽人、能役者(端役)、連歌師、俳諧師、通事(翻訳業)、瓦版売り、高利貸(金融業)などのように地域・時代によっては賤民とされた職業もある。

非人には非人頭の配下に属する抱え非人と野非人(浮浪者)など区別があり、心中の生き残り、近親相姦者、税金不納者、権力に収容された野非人(病人を含む)がこの身分に置かれた。身分制度では最下層だが、彼らには非人化から10年以内であれば脱出(足洗い)の機会が与えられることもあった。ただし、非人の子として生まれた者は脱出の機会はなかった。奴隷労働から脱走し、逮捕されると腕に入れ墨を入れられて脱走回数が記録された。3回の脱走で死刑となった。行刑役も非人が負わされた。平人が無礼などを理由に非人を7人殺すと、平人1名を殺したのと同等の罪に問われた。ただし地方地域によっては穢多と非人の区別は一定していない。

近代

江戸時代の賤民制度は、四民平等をもって廃止された。しかし、民衆の間には、賤民に対する差別意識が根強く残り、平民の間から新平民との呼称が自然発生的に成立した。部落差別問題にも影響している。

江戸時代には家畜解体業や革細工などの専用の職業が与えられたり、特定の物品の専売権を持つ事により、結果的に生活の安定は最低限保障(場合によっては一般の平民以上の富者となるものもいた)されていた。しかし近代の四民平等は名目のみであり、その解消のための具体的な施策が行われなかった。そのために他業種への転職が滞ることになった。その一方で穢多専用であった業種への新規参入する人々が現れ、市場競争が始まった。その結果、生活基盤が崩壊する賤民が続出して部落差別問題の深刻化の一因ともなった。

脚注

  1. ^ 平凡社編『朝鮮を知る事典』平凡社、1986年

関連項目

外部リンク