貞保親王
貞保親王 (さだやすしんのう) | |
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続柄 | 清和天皇の第 4皇子 |
称号 | 天下無比の名手、管絃長者、管絃尊者 |
身位 | 親王 |
敬称 | 南院式部卿宮、桂親王 |
出生 |
貞観12年9月13日(870年10月11日) |
死去 |
延長2年6月19日(924年7月23日) 京 |
埋葬 |
不詳 不詳 |
配偶者 | 惟康親王の娘 |
子女 | 源国忠、源国珍、源基渕、目宮王 |
父親 | 清和天皇 |
母親 | 藤原高子(藤原長良の娘) |
役職 | 二品・式部卿、兵部卿、中務卿など |
貞保親王(さだやすしんのう)は平安時代前期から中期にかけての皇族。清和天皇の第四皇子で、母は藤原高子。陽成天皇の同母弟にあたる。南院式部卿宮[1]、桂親王と号す[2]。
経歴
貞観12年9月13日(870年10月11日)、清和天皇の第四皇子として誕生。貞観15年(873年)4月21日、親王宣下[3]。元慶2年(878年)飛香舎にて、蒙求をはじめて読んでいる[4]。侍読は橘広相が務めた。元慶6年(882年)正月2日、陽成天皇と同日に元服して三品に叙せられる[5]。4月28日は上野太守に任ぜられた[6]。
仁和2年(886年)6月には右相撲司別当に補任。寛平3年(891年)の母・藤原高子の五十賀では屏風を奉った。
その後、中務卿・式部卿・兵部卿を歴任して、二品に至る。延長2年6月19日(924年7月23日)に薨去した。享年55。南宮・東一条第の邸宅は後に藤原忠平に渡り、花山院として整備された[7]。
人物
古部春近または小部吉延に習って[8]琵琶・和琴・尺八などをよくしたが、管絃長者[8]・天下無比の名手[9]と称されるほどであり、「衆芸の人」で、肩を並べる者なしと評された[10]。中でも横笛を本として、穴貴という高名な笛を吹いた[11][12]。その音色は上霧(うわきり)と称されたという[10]が、穴貴は袖の雪を払う際に折れてしまったという[10][11]。
延喜11年(911年)から延喜20年(920年)にかけては勅命によって笛の伝授を行った。延喜20年(920年)、延喜21年(921年)にはさらに琵琶秘手の伝授を行った。この頃、『新撰横笛譜』『南宮琵琶譜』などを撰進し、後世の楽人たちに重視された。
また、長く日本での演奏が絶えていた幻の名曲、『王昭君』を復活させ[13]、その尺八の譜を横笛の譜にうつしたという[14]。
系譜
脚注
- ^ 『一代要記』「清和天皇皇子」。
- ^ 『歴代編年集成 十四』「清和天皇」。
- ^ 『日本三代実録』貞観15年4月21日条。
- ^ 『日本三代実録』元慶2年8月25日条。原典には「披香舎」とあり。
- ^ 『日本三代実録』元慶6年正月2日条。
- ^ 『日本三代実録』元慶6年4月28日条。
- ^ 『拾芥抄』『古今著聞集』。
- ^ a b 『懐竹抄』、『體源抄 五上』「笛物語」。
- ^ 『柳原家記録 百六』南宮長諸藝事」。
- ^ a b c 『続教訓抄』「吹物部」。
- ^ a b 『江談抄 三』雑事。
- ^ 『続教訓抄』では一説に敦明親王の笛であるとする。
- ^ 『龍鳴抄 上』雙調曲「王昭君」。
- ^ 『體源抄 十二』尺八。
参考文献
- 瀧浪貞子「貞保親王」(『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞社)、1994年。
- 荻美津夫 「貞保親王」『国史大辞典 第6巻』吉川弘文館、1985年