豊島輝時

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豊島 輝時(としま てるとき、生年不詳 - 永和元年/天授元年7月7日1375年8月4日))は南北朝時代の武将。北条時行の子で豊島景村の養子。官位は従五位下兵部大輔。初名は小太郎景秀。子に景則

輝時の事跡は「泰盈本豊嶋氏系図」(江戸時代旗本豊島氏が作成した系図)や「道場寺過去帳」に現れる。

生涯

元弘3年(1333年新田義貞鎌倉を攻められて鎌倉幕府は滅亡し、最後の得宗北条高時は自害した。

建武2年(1335年)高時の遺児・時行は御内人諏訪氏らに擁立されて信濃国で挙兵して関東に向かい足利直義を破り鎌倉を奪還した。しかし、即座に足利尊氏・直義の反撃を受け、時行は敗れ鎌倉を奪い返された(中先代の乱)。

敗走した時行は豊島氏当主景村に匿われ、景村の館で一子をもうけた。その後、時行は南朝に属して北朝足利氏)と戦うが、正平8年/文和2年(1353年)に捕えられ、鎌倉で斬られた。景村には子がなく、時行の子を養子にして後継ぎとした。元服して初めは小太郎景秀、後に改めて輝時。

景村は新田義貞義興に属して南朝に忠勤して従五位下左近大夫に任じられる。輝時も従五位下兵部大輔に任ぜられた。

北条氏嫡流の血をひく輝時だが時節かなわず、足利氏の支配に属したようで、鎌倉公方足利基氏に謁して養父からの家督相続を許されている。

応安5年(1372年)に道場寺(東京都練馬区)を建立し、豊島氏の菩提寺とした。

輝時の子の景則(豊島修理亮)は貞治2年(1363年)付の足利基氏からの感状を受けている。景則には子がなく家系は断絶した。「泰盈本豊嶋氏系図」によれば、景村の甥の朝泰の家系へ宗家は移った(別説には景村は兄の子の朝泰の成人後に家督を返したともされる)。

輝時の事跡は典型的な貴種流離譚だが、より信頼性の高いと考えられる「豊島宮城文書」(豊島氏一族の宮城氏の文書類。ただし、系図は全面的に信頼できるものではない)にはその名は現れない。そもそも、中先代の乱の時点で時行は10歳程度(一説には3歳程度)の幼児であり、子をなすことはありえない。仮に正平8年/文和2年(1353年)の時行の死の直前(25歳前後?)に景村が輝時を引き取ったとしても(最大限でも輝時は10歳程度)、その10年後の貞治2年(1363年)に輝時のの景則が足利基氏から感状を受けるのは無理がある(輝時の推定15歳の時の子と仮定しても5歳にしかならない)。「豊島宮城系図」では、この感状を受けた「豊島修理亮」を泰宗としている。

いずれにせよ、北条時行の子が豊島氏の養子になったという輝時の事跡は江戸時代の家伝や寺伝にありがちな創作じみた話に過ぎない。

これらのことから、近年の豊島氏研究において輝時について語られることは少ない。

参考文献

  • 杉山博『豊嶋氏の研究』(名著出版、1974年)
  • 峰岸純夫, 黒田基樹, 小林一岳ら編『豊島氏とその時代―東京の中世を考える』(新人物往来社、1998年)ISBN 9784404026170