讃岐国

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讃岐国

-讃岐国
-南海道
別称 讃州(さんしゅう)
所属 南海道
相当領域 香川県[1]
諸元
国力 上国
距離 中国
11郡90郷
国内主要施設
讃岐国府 香川県坂出市
讃岐国分寺 香川県高松市讃岐国分寺跡
讃岐国分尼寺 香川県高松市(讃岐国分尼寺跡
一宮 田村神社(香川県高松市)
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讃岐国(さぬきのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。南海道に属する。

国名

国名の表記として、「讃岐」のほか「讃伎」「賛支」とも表記されたことが木簡から分かっている[2]

現在でも香川県の地域区分として「東讃」「中讃」「西讃」という名称が使用されている。

沿革

律令制において、讃岐国造の領域であった現在の香川県四国部分と、おそらく塩飽諸島を範囲として成立した。江戸時代に小豆島と直島諸島が備前国から譲られた。

平安時代初期には真言密教を興すことになる空海が讃岐国那珂郡に生まれるなど畿外の地である割に文化が高かった。平安末期には瀬戸内海水運を握っていた平家が屋島を根拠地の一つとしていたが、源義経の奇襲に敗れて滅んだ。室町時代には細川氏が讃岐に根を張る南朝方を白峰合戦で破ると、讃岐阿波を中心として細川一族が四国を管轄した。

近代以降の沿革

国内の施設

全ての座標を示した地図 - OSM
全座標を出力 - KML

国府

讃岐国府跡(坂出市府中町)

国府阿野郡に存在した。現在の坂出市府中町(北緯34度17分36.97秒 東経133度55分06.25秒)において、2012年度(平成24年度)に中心施設が見つかっている[3]

国分寺・国分尼寺

神社

延喜式内社
延喜式神名帳』には、大社3座3社・小社21座の計24座が記載されている(「讃岐国の式内社一覧」参照)。大社3社は以下に示すもので、いずれも名神大社である。
総社一宮以下
『中世諸国一宮制の基礎的研究』に基づく一宮以下の一覧[4]

三宮以下は不詳[5]。一説に、多和神社(さぬき市志度、北緯34度19分17.97秒 東経134度09分54.49秒)では讃岐国三宮であると伝える。

地域

和名抄』には、小豆郡を抜いた11郡(刈田郡含む)が掲げられている。

江戸時代の藩

人物

国司

※日付=旧暦

讃岐守

讃岐介

  • 紀長谷雄(892年(寛平4年)5月23日-897年(寛平9年)5月25日)従五位上→従四位下
  • (権介)源頼家(1198年(建久9年)1月13日-1199年(建久10年)1月20日)従五位上→正五位下

守護

鎌倉幕府

室町幕府

戦国時代

戦国大名

  • 十河氏:在地の土豪で、阿波の三好氏と結び、勢力を拡大した。三好氏没落後、長宗我部元親に領土を奪われるが、豊臣秀吉により十河城周辺のみを安堵された。
  • 讃岐香川氏:讃岐守護代。鎌倉景政の子孫で讃岐西半分を支配したが、長宗我部元親に降伏し従ったため、秀吉により改易された。
  • 長宗我部元親:土佐の戦国大名。香川氏を従えさせ、1580年頃には讃岐の大半を平定、1584年には十河城を落とし讃岐を完全に平定(離島部を除く)(異論あり)したが、翌年の豊臣秀吉の四国侵攻により土佐一国のみ安堵される。

豊臣政権

武家官位としての讃岐守

江戸時代以前

江戸時代

讃岐国の合戦

脚注

  1. ^ 成立当初の領域には、小豆島直島諸島は含まれていない。
  2. ^ 讃伎国那珂郡調備頭打○二斗」、「賛支国□」(奈良文化財研究所木簡データベース)。
  3. ^ 讃岐国府跡探索事業(香川県埋蔵文化財センター)。
  4. ^ 『中世諸国一宮制の基礎的研究』(岩田書院、2000年)pp. 546-547。
  5. ^ 『中世諸国一宮制の基礎的研究』(岩田書院、2000年)p. -547。

参考文献

関連項目

外部リンク