譚紹光

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譚 紹光(たん しょうこう、Tan Shaoguang1835年 - 1863年)は、太平天国の指導者の一人。

広西省桂平県出身、チワン族1851年金田蜂起に参加。その後、忠王李秀成の部将となり、1858年の江北大営撃破と蘇州杭州攻略に功績があり、1861年に建天義に、ついで慕王に封じられた。李秀成が天京の防衛に呼び戻されたため、代理として蘇州に駐屯した。1862年上海を包囲するがイギリス人とフランス人の連合軍に敗れ、劉銘伝率いる淮軍にも敗北を喫したため上海侵攻をあきらめ、太倉昆山を転戦した。

1863年秋、蘇州が李鴻章率いる淮軍とチャールズ・ゴードン率いる常勝軍によって包囲されると、部将の納王郜永寛らは譚紹光を刺殺して投降した。