西郷吉兵衛

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西郷吉兵衛
時代 江戸時代末期
生誕 文化3年(1806年)
死没 嘉永5年9月27日(1852年11月8日)
別名 隆盛(諱)、小吉、九郎
戒名 自覚院祖栄忠道居士
墓所 西郷家の墓(鹿児島市常盤二丁目[1]
鹿児島藩士(城下士)
父母 西郷隆充(父)
兄弟 大山綱昌(弟)
政佐
隆盛吉二郎、安、従道小兵衛
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西郷 吉兵衛(さいごう きちべえ、文化3年(1806年) - 嘉永5年9月27日1852年11月8日))は幕末薩摩藩鹿児島城幼名は小吉。通称は初め九郎、のち吉兵衛。は隆盛。

西郷隆充の長男。子に隆盛吉二郎従道小兵衛。弟に大山綱昌。また、夭折した姉妹もいた。 家格御小姓与。勘定方小頭を務めていた。

経歴

  • 文化3年(1806年)西郷竜右衛門隆充の長男として誕生。
  • 文化11年(1814年)8月28日:弟の西郷小兵衛[2]とともに藩主島津斉興に初お目見え。
  • 文政10年12月7日〈1828年1月23日):長男・小吉(のちの西郷隆盛)誕生。
  • 天保5年(1834年)1月26日:通称を九郎と改める。
  • 天保6年(1835年)6月19日:弟・小兵衛が大山綱毅の養子となる。
  • 弘化2年(1845年)11月15日:御勘定方小頭となる。
  • 弘化4年(1847年)6月20日:父の隠居により、家督相続。なお、「詳説西郷隆盛年譜」では4月に家督相続届けを出し、5月15日許可とある。また、当時の石高は47石余り。
  • 嘉永2年(1849年)3月15日:相続の御礼をなし、吉兵衛と改める。
  • 嘉永2年12月3日(1850年1月15日):お由羅騒動赤山久晋の死を見届ける。
  • 嘉永5年(1852年)7月18日:父・隆充死去。
  • 嘉永5年(1852年)9月27日:死去。戒名、自覚院祖栄忠道居士。墓所は曹洞宗松原山南林寺の墓地、のち常盤町のほうに改葬。なお、当時の石高は41石余り。

家族・親族

エピソード

  • 長男の吉之助の諱は本来「隆永」であったが、王政復古後の時に役所に名前を申請した際に手違いが起きてしまい、吉兵衛の諱「隆盛」で登録されてしまった。しかし吉之助本人は気にする事もなく、その名を使い続けた。
  • 吉兵衛はお由羅騒動赤山靭負介錯をしたという説があるが、これは誤りで、実際は剣豪家の加藤新平に頼んだという説もある。この誤説の原因は祖父の吉兵衛(諱は不明)が大山貞政の門人として当時の城下では名が知られていたらしく、このことによると思われる。
  • 吉兵衛は日置島津家の家来の四本氏が母のため、日置島津家とその庶流赤山家の家政上の世話をする御用人だった。赤山靭負の遺言を聞き、臨終を見届けて一切の処置をとった。また、赤山の血衣を持ち帰って吉之助に見せ、涙ながらに赤山の最後を語ったという。
  • 「西郷隆盛年譜」によれば、弘化4年に吉兵衛は吉之助とともに、薩摩郡水引郷(現在の薩摩川内市)の油問屋の板垣家を訪ね、100両借金した。翌年、板垣家の息子板垣休右衛門が西郷家を訪れ、さらに100両、合計200両を借りたという。
「詳説西郷隆盛年譜」によると、この借金はすでに売却した石高の買戻し[3]に使い、47石余りを超える高を買った。しかし、藩の規定で石高の購入時に追加で費用を必要とした事が後に判明。このため、当初予定の47石を下回る41石余りと借金200両しか手元に残らなかったという。なお、借金の完済は明治5年であった。

登場作品

テレビドラマ

脚注

  1. ^ 西郷家の墓 - 鹿児島市 2013年4月4日閲覧。
  2. ^ のちの大山綱昌の事。大山家に養子入りする前は小兵衛を称していた。
  3. ^ 薩摩藩では石高の売買が可能であり、これに関する法律まで存在した

参考文献

  • 「鹿児島県姓氏家系大辞典」(角川書店)
  • 宮下満郎「西郷家系図の紹介」(「敬天愛人」第23号別刷、西郷南州顕彰会)
  • 山田尚二「詳説西郷隆盛年譜」(「敬天愛人」第10号特別版別刷、西郷南州顕彰会)