裏原宿

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原宿通り

裏原宿(うらはらじゅく)は、神南エリア辺りまでを含めた東京都渋谷区神宮前から同区千駄ヶ谷に至る、原宿界隈の服飾洋品店等が集まっている一帯を指す通称、あるいは換喩

なかでも特に、竹下通りから明治通りを跨いだ先の原宿通りや渋谷川遊歩道(通称キャットストリート)沿いの南北に伸びたエリアを指す。略称は、裏原ウラハラ。原宿駅前から続く竹下通りよりも若者向けの店の進出が遅く、後から発展したことから「裏」原宿と呼ばれている。

日本では、1970年辺りまでは、「若者の街」「若者文化」の流行の発信地といえば、新宿だった。しかし1969年ベトナム戦争への反戦運動として新宿駅西口地下広場で行われていた無許可のフォークソング集会を警察が強制解散させ、その後の6月28日に若者達と機動隊が衝突して多数の逮捕者が出た「新宿西口フォークゲリラ事件」を機に、新宿に若者が集まることが困難となり[1]、同時に若者からも新宿が忌避されるようになった。[要出典]

一方、1973年渋谷PARCOの開店があり、渋谷駅からPARCOを経て渋谷区役所渋谷公会堂に至る「区役所通り」を「渋谷公園通り」と改称して再開発を実施したことで、日本における若者文化の歴史が大きく変化。その流れは「新宿から渋谷、または渋谷区一帯へ」(つまり原宿表参道代官山、裏原宿方面へ[2])と移り変わっていった。これは同時に、政治色の強いカウンターカルチャー[3]から商業主義的色彩の強いサブカルチャーへの変質でもあった[4][5]

裏原宿の若者向けショップの先駆けは、1993年にファッションブランド「GOODENOUGH」の藤原ヒロシ、「A BATHING APE」のNIGO、「UNDERCOVER」の高橋盾がオープンした「NOWHERE」[6]と言われている。また、このような若者向けショップから発展したファッションブランドは裏原系(うらはらけい)と呼ばれている。

道が入り組んで少々不便である事からテナント等の賃料が安く設定されており、竹下通りでは賃料が高く自分の店を出店出来ない若者が集中した事が裏原宿形成のきっかけとなった。

裏原系ファッションブランドの黎明期においては店舗がファッション雑誌の地図に載ることも無かった。

裏原系ファッションブランド商品はTシャツ等でも高価な物が多く、珍しい物は更に価格が高騰し、入手が困難なものも存在した。

特徴[編集]

2005年撮影

店舗には看板が無い場合(外の入り口の床にショップの刻印が小さく施されている等)や地下に店舗を構えている場合も多く、外見上から店舗と判断出来ないこともある。また、出入り口が複数ある店舗が多い。店内では店員と購買客との区別が付けにくく、積極的な売り口上も見られないことがある。

裏原宿の定義の変遷[編集]

テレビ番組等は1980年代から1990年代に掛けて、竹下通りの裏道にあたる「ブラームスの小径」を「竹下通りの喧騒とは打って変わって、静かな所にお洒落なカフェレストランがある」といった事例を取り上げ、「裏原宿」として紹介していた。一部では表参道を裏原宿として紹介することもあった。

ギャラリー[編集]

『裏原系』とされたブランド[編集]

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ この事件以後、新宿駅西口地下広場は道路交通法における「通路」とみなされるようになり、一切の集会が禁止された。現在までこの規定が維持されている。
  2. ^ 具体的には、「kawaii」文化の原宿、モード系の表参道、渋谷系渋カジなど「ギャルギャル男」も含めたストリート系の渋谷、洗練清楚系の代官山、ストリート系やサブカルチャー志向の裏原宿などといったカテゴライズができる。
  3. ^ 参考:1960年代のカウンターカルチャー
  4. ^ カウンターカルチャーからサブカルチャーへ、渋谷文化の歴史をたどる -vol.1-”. Fashionsnap.com. 株式会社レコオーランド (2017年11月9日). 2022年4月24日閲覧。
  5. ^ この一連の変化については、1974年に雑誌『ビックリハウス』を創刊して渋谷から若者文化を形成する一翼を担ったアートディレクターの榎本了壱が、「カウンターカルチャーからサブカルチャーの時代へ」と題した2017年のトークショーで解説を加えた。
  6. ^ NIGOによって企業化され、現在は中国企業「I.T.」によって経営。

外部サイト[編集]