藤川孝幸

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藤川 孝幸
名前
カタカナ フジカワ タカユキ
ラテン文字 FUJIKAWA Takayuki
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1962-10-10) 1962年10月10日
出身地 神奈川県川崎市
没年月日 (2018-11-15) 2018年11月15日(56歳没)
身長 183㎝
体重 80㎏
選手情報
ポジション GK
ユース
1974-1976 川崎市立富士見中学校
1977-1979 読売ユース
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1980-1992 読売サッカークラブ 56 (0)
1992-1995 ヴェルディ川崎 26 (0)
監督歴
2006 甲南大学
2007 静岡FC
2010-2014 国際武道大学
1. 国内リーグ戦に限る。2018年6月23日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

藤川 孝幸(ふじかわ たかゆき、1962年10月10日 - 2018年11月15日[1])は、神奈川県川崎市出身の元サッカー選手GK)、サッカー指導者、経営者。

来歴[編集]

読売ユースを経て、1980年から読売クラブ1992年からヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ)でプレーした。PK戦の強さで一躍名を広めた。1995年引退[2]

引退後はV川崎で5年間、ヴィッセル神戸で4年間、ベガルタ仙台で1年間GKコーチを歴任し、2006年甲南大学サッカー部監督として関西大学2部秋季リーグ初優勝。2007年からはセレッソ大阪のコーチを務めたが、成績不振のためシーズン途中に都並敏史監督、西村昭宏ゼネラルマネージャーとともに解任された。2007年5月から静岡FCの監督を務め東海リーグで3年ぶりに優勝。2008年から2009年までアビスパ福岡のGKコーチを務めた。

都並敏史とは読売ユース以来の友人であり、2005年に都並が監督を務めたベガルタ仙台にGKコーチとしてスタッフ入りし、2007年にも都並が監督を務めたセレッソ大阪にコーチとしてスタッフ入りした。また、ニッポン放送のラジオ番組『都並クン・藤川クンのイエローカードなんて怖くない』で共にパーソナリティを担当、「オールナイトニッポンのパーソナリティー」にも出演。

2010年5月から国際武道大学の監督に就任。2011年千葉県春季大学リーグ・千葉県大学選手権で優勝[3]

2015年1月からソーシャルビジネス・総合スポーツサービス企業のリーフラス株式会社へ入社。アライアンス統括プロデューサー・上席セカンドキャリア室長をへて、取締役事業推進室長から常務取締役に就任[4][5]。2017年からはリーフラスが運営権を取得した北海道十勝スカイアースの代表に就任した[6]

2017年12月に東京都内の病院でステージ4以上の末期の胃がんであると診断を受け、抗がん剤治療を行っていると2018年4月に北海道十勝スカイアースの新体制発表会見で発表した[7]。その後、古巣のファン・サポーターがスタジアムで激励の横断幕を掲げた際には、自身のツイッターに「必ず癌を完治させまして、完全復活して参ります!必ず奇跡を起こします!」「皆様の思いを必ず結果と形にしまして、皆様に御挨拶に伺いたいと思います!」などとつづり、同年5月26日のJ2リーグ第16節・東京V―愛媛戦(味スタ)の試合前に行われた激励マッチにも姿を見せたが、同年11月15日、死去[8]。56歳没。

人物[編集]

JFA 公認S級コーチ

GKコーチ時代は、冬の寒いときにも欠かさずタンクトップ・短パンをはいてコーチをしていた熱血漢。本人曰く「魂が入るので寒くない」。

その脚から繰り出されるキックは強烈で、試合前や練習を見学しているサポーターからはどよめきが起こる。これは、現役引退(1995年)後、GKコーチとしての道を歩み始めてからキックの特訓をした賜物であり、スペイン1部リーグのFCバルセロナのGK練習を実際に見て、強く正確なシュートの必要性を感じ、「とにかく時間があれば練習した」と語っている[9]

所属するリーフラス株式会社が、『日経スペシャル カンブリア宮殿』に出演した際に、元プロスポーツ選手のスカウト部門を担当していると紹介された[10]

家族[編集]

妻と息子が4人いる。

本人の死後、三男の藤川誠人(桐蔭学園慶応大学サッカー部出身)は、プロサッカー選手のマネジメント会社を設立[11]。日本代表・板倉滉選手らの業務を担った。さらに2023年、未亡人となっていた妻が元横綱・貴乃花と再婚[12]。この縁から、息子の誠人が貴乃花のマネジメント業務も請け負っている[13]

所属クラブ[編集]

個人成績[編集]

国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本 リーグ戦 JSL杯/ナビスコ杯 天皇杯 期間通算
1981 読売 24 JSL1部 0 0 0 0 0 0 0 0
1983 1 0 0 0 0 1 0 1 0
1984 18 0 0 0 0 0 0 0 0
1985 12 0 4 0 2 0 18 0
1986-87 0 0 1 0 0 0 1 0
1987-88 6 0 0 0 1 0 7 0
1988-89 9 0 0 0 0 0 9 0
1989-90 11 0 0 0 0 0 11 0
1990-91 2 0 0 0 0 0 2 0
1991-92 16 0 0 0 5 0 21 0
1992 V川崎 - J - 2 0 0 0 2 0
1993 9 0 0 0 0 0 9 0
1994 6 0 1 0 0 0 7 0
1995 11 0 - 0 0 11 0
通算 日本 J 26 0 3 0 0 0 29 0
日本 JSL1部 56 0 5 0 9 0 70 0
総通算 82 0 8 0 9 0 99 0

その他の公式戦

指導歴[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 元V川崎のGK藤川孝幸氏が逝去…56歳、胃がんからの“完全復活”叶わず”. サッカーキング (2018年11月20日). 2020年7月25日閲覧。
  2. ^ “藤川孝幸さん死去 56歳、胃がん闘病 V川崎GK”. 日刊スポーツ. (2018年11月20日). https://www.nikkansports.com/soccer/news/201811200000419.html 2020年2月12日閲覧。 
  3. ^ 藤川孝幸~世界へ~”. soccer navi. 2016年7月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年11月30日閲覧。
  4. ^ 総合スポーツサービス企業のリーフラス株式会社へ、 元読売クラブ・ヴェルディ川崎の藤川 孝幸氏が入社  アライアンス統括プロデューサー、上席セカンドキャリア室長に就任 リーフラス(@Press) 2015年2月5日
  5. ^ 企業情報 リーフラス
  6. ^ ヴェルディ黄金期のGK藤川孝幸 指導者からビジネスマンへ、50代での華麗な転身 Football Zone 2017年8月29日
  7. ^ “元V川崎・藤川孝幸氏、末期の胃がんを告白「ステージ4以上の末期だった」”. スポーツ報知. (2018年4月19日). https://hochi.news/articles/20180418-OHT1T50226.html 2018年6月23日閲覧。 
  8. ^ “元V川崎GK藤川孝幸さん死去 56歳 4月に胃がん公表「必ず奇跡起こす」願い叶わず…”. Sponichi Annex. (2018年11月20日). https://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2018/11/20/kiji/20181120s00002000052000c.html 2018年11月20日閲覧。 
  9. ^ [1][出典無効]
  10. ^ パパ・ママ必見…現代っ子に“スポーツ”の楽しさを!~ニッポンを健康にするベンチャー企業~”. カンブリア宮殿. 2016年7月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年11月30日閲覧。 [ ] 2016年4月14日
  11. ^ 「ゴールキーパー・藤川」の息子が追う父の背中 プロになれなくても”. 朝日新聞社 (2021年11月19日). 2024年1月4日閲覧。
  12. ^ 貴乃花「再婚相手は初恋の人です」 17歳で出会い、50歳・独身同士で“奇跡の再会”を果たすまで”. 週刊文春 (2024年1月4日). 2024年1月4日閲覧。
  13. ^ 【ご報告】この度、貴乃花親方のマネジメントを行う事となりました。”. 藤川 誠人/Seito Fujikawaオフィシャル (2023年9月28日). 2024年1月4日閲覧。
  14. ^ 対談~藤川孝幸さん~ グースカンパニー

外部リンク[編集]