藤原長忠

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藤原 長忠
時代 平安時代後期
生誕 天喜5年(1057年
死没 大治4年11月3日1129年12月15日
別名 石山大蔵卿
官位 従三位権中納言
主君 白河天皇堀河天皇鳥羽天皇崇徳天皇
氏族 藤原北家御堂流
父母 父:藤原能長
母:信子女王(清仁親王または昭登親王の娘)
兄弟 道子基長、長明、長忠、宗信、長覚、仁豪、覚仁、長寛
藤原宗実の娘
能忠顕能、円忠、藤原忠能室、藤原基隆
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藤原 長忠(ふじわら の ながただ)は、平安時代後期の公卿藤原北家御堂流内大臣藤原能長の次男。官位従三位権中納言

経歴[編集]

白河天皇の御世、後三条天皇擁立に功のあった藤原能信の孫である長忠は昇殿を聴され、兵衛佐に任官。従四位下に叙せられた。応徳3年(1087年堀河天皇の即位後しばらくは昇殿を止められていたが、康和3年(1101年)に権右中弁に任ぜられた後、再び昇進を始めた。

康和4年(1102年)右中弁に転じ、康和5年(1103年)従四位上に昇叙。長治3年12月(1107年1月)には左中弁に昇任し、率分勾当や装束使を経て、天仁2年(1109年)右大弁に進む。嘉承2年(1107年)に鳥羽天皇が即位した際には蔵人藤原為房と共に奉行役を務めた。備中権介を兼任し、天永2年12月(1112年1月)に参議に任ぜられて公卿に列し、翌年には鳥羽・白河両院の昇殿を聴された。天永4年(1113年越前権守を兼帯。

永久2年(1114年正四位下に昇叙。左大弁・大蔵卿勘解由長官周防権守など多く要職を兼帯し、元永3年(1120年従三位に昇叙される。同年末には権中納言に進むが、任官から僅か四、五日をもって子・能忠の権右少弁任官と引き換えに辞職する[1]

大治4年(1129年)10月に病のため出家。以降も重篤な状態が続き、11月3日に73歳で薨去した。

逸話[編集]

『十訓抄』によれば、堀河院の御会にて、長忠は歌の題を選ぶよう命ぜられて「夢の後の郭公」という題を選んだという。「夢の後」とは後生を意味するとして不吉とされ[2]、その後ほどなくして堀河天皇は崩御したといい、「禁忌の詞を除きて、越度なきよう思慮すべき」を説く際に、「禁忌の詞」の一例として挙げられている[3]

官歴[編集]

※以下、註釈のないものは『公卿補任』の記載に従う。

  • 白河院御時(10--年):昇殿を聴し、兵衛佐に任じ、従四位下に叙す[1]
  • 康和3年(1101年)2月9日:権右中弁に任ず[4]
  • 康和4年(1102年)6月13日:右中弁に転ず[4]
  • 康和5年(1103年)7月25日:従四位上に叙す(興福寺供養行事賞)[4]
  • 長治3年12月17日(1107年1月12日):左中弁に転ず[4]。12月28日:率分勾当・装束使に転ず[4]
  • 嘉承2年(1107年)正月-日:備中権介を兼ぬ[4]
  • 嘉承3年(1108年)2月5日:修理左宮城使に任ず[4]
  • 天仁2年(1109年)正月23日:右大弁に転ず[4]
  • 天永2年12月26日(1112年1月26日):参議に任ず[4]
  • 天永3年(1112年)2月11日:昇殿・院昇殿を聴す[5]
  • 天永4年(1113年)正月28日:越前権守を兼ぬ。
  • 永久2年(1114年)正月5日:正四位下に叙す(参議労)。
  • 永久3年(1115年)8月13日:左大弁に転じ、大蔵卿を兼ぬ。12月:勘解由長官を兼ぬ。
  • 永久5年(1117年)正月19日:周防権守を兼ぬ(弁労)。
  • 元永3年(1120年)正月6日:従三位に叙す(参議労)。12月17日(1121年1月7日):権中納言に任ず。大蔵卿如故。
  • -年(112-年)-月-日:権中納言を辞す。
  • 大治4年(1129年)10月5日:出家。

系譜[編集]

尊卑分脈』による。

脚注[編集]

  1. ^ a b 中右記大治4年10月12日条。
  2. ^ 俊頼髄脳』。
  3. ^ 十訓抄』一の四十六。
  4. ^ a b c d e f g h i 『弁官補任』。
  5. ^ 中右記天永3年2月12日条。