藤原経通 (鎌倉時代)

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藤原経通 (鎌倉時代)
時代 平安時代末期-鎌倉時代前期
生誕 安元2年(1176年
死没 延応元年10月13日1239年11月10日
別名 高倉大納言
官位 正二位権大納言
主君 後白河法皇高倉天皇安徳天皇後鳥羽天皇土御門天皇順徳天皇仲恭天皇後堀河天皇四条天皇
氏族 藤原北家中御門流
父母 父:藤原泰通、母:四条隆季の娘
兄弟 経通国通、朝通、広通、覚愉、寛俊、道寛、信宗、女子(藤原兼良の室)、女子(三条公氏の室)
氏通、成恵、女子(藤原高実の室)
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藤原 経通(ふじわら の つねみち)は平安時代末期から鎌倉時代の公卿。正二位権大納言高倉大納言と号す。父は権大納言按察使藤原泰通、母は権大納言藤原隆季の娘。子は氏通、成恵、女子(藤原高実の室)がいる。家門として氏通以後は続かなかった。

経歴

以下、『検非違使補任別巻』、『公卿補任』、『尊卑分脈』の内容に従って記述する。

安元2年(1176年)、誕生。治承2年(1178年)1月15日、叙爵文治5年(1189年)1月18日、従五位上に昇叙[1]。同年7月10日、侍従に任ぜられる。建久4年(1193年)1月29日、加賀介を兼ねる。建久5年(1194年)10月13日、右少将に任ぜられる。建久6年(1195年)1月5日、正五位下に昇叙[2]。同年2月2日、越後権介を兼ねる。建久8年1月6日、従四位下に昇叙。少将は元の如し。正治2年(1200年)1月7日、従四位上に昇叙[3]。同月22日、伊予介を兼ねる。建仁2年(1202年)7月23日、右中将に転任。同年8月13日、左中将に転任。同年11月19日、正四位下に昇叙。元久2年(1205年)1月29日、土佐介を兼ねる。建永元年(1206年)、母の喪に服すが12月30日に復任。

承元2年(1208年)7月8日、蔵人頭に補される。承元3年(1209年)1月13日、尾張介を兼ねる。承元4年(1210年)9月30日、父泰通の喪に服す。同年11月25日、蔵人頭を止められる[4]。承元5年(1211年)閏1月、復任。建暦2年(1212年)5月11日、蔵人頭に還補される。

建保2年(1214年)5月10日、参議に任ぜられる。左中将は元の如し。建保3年(1215年)1月5日、従三位に叙される。同月13日、備前権守を兼ねる。承久2年(1220年)1月6日、正三位に昇叙。同月22日、伊予権守を兼ねる。同年4月6日、右衛門督を兼ね検非違使別当に補される。貞応元年(1222年)8月16日、権中納言に任ぜられる。右衛門督と検非違使別当は元の如し。同年12月17日、右衛門督と検非違使別当を辞した。貞応3年(1224年)1月23日、従二位に昇叙。5月20日、勅授を許される。嘉禄3年(1227年)1月5日、正二位に昇叙。同年4月9日、中納言に転正。嘉禎元年(1235年)10月8日、権大納言に昇進。11月には大嘗会検校を務める。同年12月9日、権大納言を辞した。嘉禎2年(1236年)4月8日、出家。延応元年(1239年)10月13日、薨去。享年64。

「中殿御会」に参加を許される

建保6年(1218年)8月に行われた「中殿御会」に経通は参加を許されていて[5]、歌人としての評価を受けていたと考えられる。この時の経通の詠歌は次の歌である。

  • 幾千代を秋に任せて池水も雲井の月の影宿すらん

脚注

  1. ^ 殷富門院元暦元年大嘗会御給による。
  2. ^ 中宮御給による。
  3. ^ 前皇太后宮による長寛2年朔旦御給。
  4. ^ 父泰通が薨去して喪に服していたためと考えられる。
  5. ^ 続日本の絵巻、第12所収、「中殿御会図」、中央公論社。

参考文献

  • 検非違使補任別巻』、宮崎康充編、続群書類従完成会。
  • 公卿補任』(新訂増補国史大系)吉川弘文館 黒板勝美、国史大系編集会(編) ※ 建保2年(1214年)に経通が参議となった時以降の記事。
  • 尊卑分脈』(新訂増補国史大系)吉川弘文館 黒板勝美、国史大系編集会(編) ※「藤原経通」および「藤原泰通」の項。
  • 続日本の絵巻、第12、「随身庭騎絵巻」、「中殿御会図」、「公家列影図」、「天子摂関御影」、中央公論社。