藤原斉敏
時代 | 平安時代中期 |
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生誕 | 延長6年(928年) |
死没 | 天禄4年2月14日(973年3月21日) |
別名 | 齊敏(正字) |
官位 | 従三位・参議 |
主君 | 朱雀天皇→村上天皇→冷泉天皇→円融天皇 |
氏族 | 藤原北家小野宮流 |
父母 | 父:藤原実頼、母:藤原時平の娘 |
妻 | 藤原尹文の娘 |
子 | 高遠、実資、懐平 |
藤原 斉敏(ふじわら の ただとし)は平安時代中期の公卿。摂政・藤原実頼の三男。
経歴
延長6年(928年)藤原実頼の三男として生まれる。当時祖父・藤原忠平が左大臣として権力を振るい、延長8年(930年)摂政となる。その長男であった父・実頼も蔵人頭になり、延長9年(931年)早くも公卿に列した。三男である斉敏は始め小舎人として出仕。天慶6年(943年)殿上にて元服し、長兄・敦敏や次兄・頼忠に次いで天慶7年(944年)17歳で従五位下に叙爵されている。
天暦元年(947年)に敦敏が早世し、頼忠が嫡男となる。斉敏は天暦4年(950年)左兵衛権佐に任ぜられ、天暦5年(951年)従五位上、天暦7年(953年)正五位下と順調に昇進。天暦8年(954年)美濃権介を兼ね、翌天暦9年(955年)村上天皇の五位蔵人となる。同年従四位下に昇り、右近衛権中将、美濃権守を歴任する。
天暦11年(957年)母の忌日によって春日祭使を辞退。天徳3年(959年)には病により中将を辞任する。その間に頼忠は参議となり公卿に列し斉敏は遅れをとっている。康保3年(966年)春宮権亮に復し、父・実頼が関白となった康保4年(967年)に参議に任ぜられ公卿に列す。守平親王(のちの円融天皇)の春宮亮を兼任し、正四位下に進む。伊予守、治部卿、左兵衛督を歴任するが父・実頼は天皇の外戚にはなれず恣に権力を握れずにいたため、昇進は停滞していた。
天禄4年(973年)従三位・伊予守に叙任されるが、同年2月に頼忠に先立って46歳の若さで薨去してしまったため、最終官位は従三位・参議止まりとなった。男子3人は日記『小右記』を書き記した実資を始め、全員が65歳以上を保ち、それぞれ公卿に列した。また、実資は実頼の養子になり右大臣まで昇り小野宮流を継いでいる。
官歴
- 天慶6年(943年)4月18日:殿上にて元服す。
- 天慶7年(944年)2月28日:従五位下(陽成院延喜八年御給)。4月14日:昇殿[1]
- 天慶9年(946年)2月7日:侍従 12月29日:昇殿[1]
- 天暦4年(950年)正月30日:左兵衛権佐[1]
- 天暦5年(951年)正月7日:従五位上(中宮御給)[1]
- 天暦7年(953年)正月7日:正五位下[1]
- 天暦8年(954年)3月14日:美濃権介[1]
- 天暦9年(955年)2月17日:五位蔵人[2]。11月22日(956年1月7日):従四位下。12月:昇殿[1]
- 天暦10年(956年)3月24日:右近衛権中将[1]
- 天暦11年(957年)2月2日:春日祭使に任ずると雖も母の忌日に依りて伴仲舒を以て代官と為す。
- 天徳2年(958年)正月30日:美濃権守[1]
- 天徳3年(959年)正月26日:辞中将(依病[1])
- 康保3年(966年)9月17日:春宮権亮[1]
- 康保4年(967年)6月14日:昇殿(踐祚)。10月7日:春宮亮、参議。10月11日:正四位下[1]
- 康保5年(968年)正月13日:伊予守 6月14日:治部卿[3]
- 安和2年(969年)11月11日:左兵衛督(去卿)[4]
- 安和3年/天禄元年(970年)正月28日:右衛門督、別当。5月18日:服解。7月5日:復任[5]
- 天禄4年(973年)正月8日:従三位 28日:伊予守[6]