藤原季通

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藤原 季通(ふじわら の すえみち、生没年未詳)は平安時代末期の廷臣、歌人権大納言藤原宗通の三男。母は六条修理大夫藤原顕季の女。同母兄弟に伊通太政大臣)、成通重通らがある。正四位下左少将備後守、肥後守。

和歌の才のみならず、琵琶などの管弦に巧みであり、白河上皇の信任が篤かった。しかし、若年時に箏の弟子である藤原璋子(待賢門院、鳥羽天皇中宮)と密通したとの嫌疑を受け、その影響から官途の面では不遇であった。康治元年(1142年)には、弟の成通、重通より官位が余りにも劣っていたことを藤原頼長に憐れまれ、そのはからいによって正四位下に叙せられたという(『台記』)。保元3年(1158年)頃までは生存していたというが、その没年も明らかではない。

幼少の頃、兄の伊通とともに伯母の藤原全子の元を訪れた際、全子は「兄の方は将来大臣になるが、弟は凡愚で終わるだろう」と評したという(『古事談』)。果たして、政治面では生涯を通して非才・不遇であり、専ら文化・芸術面でのみ名を遺した人物となった。歌人としては永久4年(1116年)の鳥羽殿北面歌合に出詠。『千載和歌集』などに入選するほか、家集として『季通朝臣集』がある。