藤原兼経

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藤原兼経
時代 平安時代中期 - 後期
生誕 長保2年(1000年
死没 長久4年5月2日1043年6月11日
官位 正三位参議
氏族 藤原北家九条流
父母 父:藤原道綱
母:源雅信の娘
兄弟 道命兼経兼宗、斉祇、豊子
藤原隆家の娘
藤原明子(弁乳母藤原順時の娘)
藤原統理の娘
基家顕綱敦家時経
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藤原 兼経 (ふじわら の かねつね)は、平安時代中期から後期にかけての公卿大納言藤原道綱の三男。

経歴

母の姉妹である源倫子が叔父の藤原道長正室であった関係で、道長の養子として世に出る。寛弘8年(1011年)に元服するが、左大臣であった道長の子として従五位上直叙[1]侍従に任ぜられ、同年中に正五位下右兵衛佐に叙任される。

以後、寛弘9年(1012年左近衛権少将、長和3年(1014年)従四位上、長和4年(1015年正四位下、長和6年(1017年)右近衛中将と道長の威光を背景に昇進を重ね、寛仁2年(1018年)に19歳にして従三位に叙せられて公卿に列する。公卿到達年齢としては、道長の庶子である頼宗(19歳)・能信(20歳)・長家(18歳)に匹敵する昇進スピードであった。

治安3年(1023年)には参議に任ぜられるが、その後病のため昇進が停滞。長暦元年(1037年)に至ってようやく正三位に叙せられる。長久4年(1043年)4月25日に病気により出家し、5月2日薨去。享年44。

逸話

万寿元年(1024年)の豊明節会において、五節舞の舞姫を貢進するも、中納言藤原朝経従者頭中将藤原公成の名を騙って舞姫の控室に侵入し、「懐に抱く」との暴挙に出る。ここで兼経は自身でこの侵入者を捕らえ、検非違使に引き渡した。しかし、今度は兼経が舞姫のいる控室に籠もって出てこなくなる。さらに翌日になって、自分が監督すべき重要な朝廷神事が開催される予定であったにもかかわらず、の病を口実に控室から出ようとしなかったという[2]

官歴

注記のないものは『公卿補任』による。

系譜

尊卑分脈』による。

敦家の子孫は中級貴族として続き、院政期には季行定能父子が公卿に昇るが、室町時代に至り断絶している。

脚注

  1. ^ 『権記』寛弘8年8月23日条
  2. ^ 『小右記』万寿元年11月19日条,20日条
  3. ^ 『御堂関白記』寛仁2年10月22日条

参考文献