葉室光忠

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葉室光忠
時代 室町時代後期
生誕 宝徳3年(1451年[1]
死没 明応2年閏4月29日1493年6月13日
官位 正三位権大納言
主君 後土御門天皇(→足利義材
氏族 藤原北家勧修寺流葉室家
父母 父:葉室教忠、母:葉室頼時
阿野季遠
頼継
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葉室 光忠(はむろ みつただ)は、室町時代後期の公卿権大納言葉室教忠の子にして、母は葉室頼時の女。室町将軍足利義材の側近公家衆として権勢を振るったが、明応の政変に敗れて細川政元の命により殺害された。

経歴

文正元年(1466年)3月右少弁、12月従五位上に叙任されたが、応仁の乱で父・教忠とともに西軍へ属したため、早くも翌年(1467年)1月解官されている。その後美濃に下向し、在国中に足利義視義材父子との信頼関係を築いたとみられる。文明11年(1479年)4月父の懇願から勅免が下り、再び京都での出仕を果たし、10月右中弁となる。同12年(1480年)6月蔵人に補された後は累進して、同18年(1486年)8月蔵人頭左大弁に転じた。長享元年(1487年)10月正四位上、同2年(1488年)9月弁官兼任のまま参議として公卿に列し、延徳元年(1489年)12月従三位に叙されている。

延徳2年(1490年)1月足利義材が後継将軍に内定すると、その意思を奉行衆に仲介する申次として活動を始め、室町幕府における政務決裁(御前沙汰)に関与する。申次を依頼した当事者から礼銭収入を得て財力を蓄えたらしく、同年8月義視・義材父子の御座所である通玄寺内の新邸に移り、10月には義材と三条西実隆の奏請によって権中納言に昇進した。その拝賀は殿上人10人が従うなど「希代壮観」であったという。同3年(1491年)8月六角高頼討伐のために義材の近江親征に従軍し、参陣中の12月に正三位に昇叙されたが、翌年(1492年)12月義材の凱旋に伴って帰洛している。明応2年(1493年2月1日義材の強引な奏請によって上首18人(現任8人、前官10人)を超越して権大納言に昇進。これは四条隆量を仕方なく罷免した上での措置であり、当時の公家社会では目を驚かすことであった。翌日に光忠は禁裏で猿楽を主催し、昇進の御礼として太刀などを贈っている。それから間もない2月7日には畠山基家討伐のために義材の河内親征が必定となり、15日光忠は再び従軍した。

ところが、義材の留守の機会を捉え、同年4月22日細川政元が清晃(後の足利義澄)を擁立してクーデターを起こした(明応の政変)。たちまち側近から離反された義材は閏4月25日に河内正覚寺で政元の部将上原元秀の陣に投降し、29日に光忠は元秀によって殺害された[2]。享年43。政元でさえ光忠の申次を通さずには義材に具申できない有様であり、このような将軍側近による政務の独占が旧来の幕臣層から恨みを買ったのであろう。なお、邸宅も細川方のために破却されている。

光忠は廷臣として宮中行事に参列して官職を望む一方、公家生活を脱して武家側にも手を伸ばし、短期間ながら、摂家寺院管領などを凌ぐ権勢を握っていた。このことが公武双方から異端視されたのであるが、中世の封建的秩序が破壊され始めるという戦国時代初期の風潮に乗った特異な公家であったと言えよう。

脚注

  1. ^ 諸家伝』・『弁官補任』による。『公卿補任』記載の年齢から逆算すると嘉吉元年(1441年)となるが、これは誤りであろう。
  2. ^ 自害説もある(『蔭凉軒日録』など)。また、『大乗院日記目録』は「天王寺地蔵堂」で殺害されたとするが、同寺は摂津にあるから地理が合わない。

参考文献

  • 設楽薫 「将軍足利義材の政務決裁― 「御前沙汰」における将軍側近の役割―」(『史学雑誌』第96編第7号 史学会、1987年7月、NCID AN0010024X
  • 木下昌規 「足利義稙期における葉室光忠と蔭凉軒」(『大正大学綜合佛教研究所年報』第32号 大正大学綜合佛教研究所、2010年3月、NCID AN00136611/改題所収:「足利義稙の側近公家衆の役割をめぐって」木下『戦国期足利将軍家の権力構造』岩田書院、2014年 ISBN 978-4-87294-875-2
  • 湯川敏治 「足利義材側近の公家、葉室光忠とその時代」(大乗院寺社雑事記研究会編 『大乗院寺社雑事記研究論集 第4巻』 和泉書院、2011年、ISBN 9784757605787

関連項目


先代
葉室教忠
葉室家当主
第16代
次代
葉室頼継