花山院長親

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花山院長親
時代 南北朝時代 - 室町時代前期
生誕 正平2年/貞和3年(1347年)?
死没 正長2年7月10日1429年8月10日
改名 子晋(道号)、明魏(法諱
別名 耕雲、芸巣、魏公、如住道人(別号)
墓所 京都市東山区華頂山か
官位 内大臣右近衛大将南朝
主君 後村上天皇長慶天皇後亀山天皇
氏族 藤原北家師実流、花山院家
父母 父:花山院家賢、母:某女
兄弟 長賢長親師兼簡中元要
伯厳殊楞、宗意 他
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花山院 長親(かざんいん ながちか)は、南北朝時代から室町時代にかけての公卿学者歌人禅僧。贈太政大臣花山院師賢の孫で、内大臣花山院家賢の子。母は出自不詳だが、歌人の「花山院長親母」である。南朝に歴仕、やがて出家して子晋明魏(ししんみょうぎ)と号し、将軍足利義持から厚遇された。別号の耕雲(こううん)でも著名。

経歴

正平21年/貞治5年(1366年)20歳の時に相次いで父と兄を喪い、家督を継承。南朝補任記録が残されていないために官歴の次第は明らかでないが、正平20年/貞治4年(1365年)には五位、その後公卿に列して三位中将左大弁を兼ね、建徳2年/応安4年(1371年中納言となり、程なく文章博士を兼ねて准儒宣旨を受けた。天授元年/永和元年(1375年左衛門督と見えるから、本官はなお中納言と思われるが、翌天授2年/永和2年(1376年)には大納言に進んでおり、弘和元年/永徳元年(1381年)には右近衛大将を兼任。元中6年/嘉慶3年(1389年)以前に内大臣に至った。

南朝における事績は判然としない。ただ、学芸と歌道の才能をもって後村上長慶天皇宗良親王から信任を得て、正平20年(1365年)の『内裏三百六十首歌』、建徳2年(1371年)の『三百番歌合』、天授元年(1375年)の『五百番歌合』などの和歌会でその作者となる。同2年(1376年)夏に発意された『千首和歌』の人数に加えられた際は、病気を理由に一旦辞退したものの、翌年(1377年)詠進して宗良親王からの加点を受けた(『耕雲千首』)。また、親王を助けて准勅撰集新葉和歌集』の撰定に尽力し、自身は同集に25首が入集している。この頃の歌風は二条派を脱して、本歌取り掛詞などの技法を駆使し、観念的な新古今調を目指したものが多い。

南朝末期には吉野を離れて流浪していたらしく、元中9年/明徳3年(1392年)の南北朝合一以前に上洛して妙光寺出家し、臨済宗法燈派聖徒明麟に就いて子晋明魏と号した。応永2年(1395年東山如住院へ移り、同5年(1398年)その付近に耕雲庵を結んで南禅寺塔頭とし、その庵号をもって耕雲とも称する。またこの前後に明麟の開いた同寺塔頭の禅栖院にも住する傍ら、『両聖記』・『霊巌寺縁起』・『衣奈八幡宮縁起』を執筆した。長親の歌人としての名声は京都でも聞こえ、やがて足利将軍の歌道師範となり、同14年(1407年)12月足利義満の十首歌へ批点を加え、翌15年(1408年)3月には歌論書『耕雲口伝』を執筆。同18年(1411年大内盛見に『古今集』を講じ、同20年(1413年将軍足利義持に『孟子』を進講した。同21年(1414年)2月義持の命で冷泉為尹宋雅とともに北野社十五首歌を詠進し、同年冬には足利満詮邸で「七百番歌合」(散佚)の判者を務めている。またこれ以降、義持の没する応永35年(1428年)まで厚遇を受け、奈良天橋立などの遊覧、北野・男山清水寺への参宮・参籠などにしばしば随行したが、同25年(1418年)9月の伊勢参宮に随行した際の紀行文が『耕雲紀行』である(翌春執筆)。その他、同26年(1419年伏見宮貞成親王仙洞歌会や歌合に参会し、同29年(1422年)5月『日御碕社造営勧進記』を記し、同32年(1425年)頃には正徹とも親交を得るなど、晩年まで幅広く活躍した。

正長2年(1429年7月10日薨去享年83か。これは『薩戒記目録』の同日条に「耕雲菴主明魏入滅事」と見えることによる。終焉の地に関しては遠江国耕雲寺説や上野国妙義山説もかつてあったが、長親が晩年地方に下ったとする史料はなく、やはり京都東山の耕雲庵にて薨去したとみる説が有力である。南朝廷臣の前歴を持ちながら、学芸を事として武家の知遇を得て、さりとて厳格な五山文学にも赴かず、世俗と交わって安穏な後半生を過ごした。こうした事情を反映してか、晩年の歌風には新古今調のものは少なく、二条派の枠組みに自身のあるがままの境遇を織り込んだ懐旧的な詠が多い。『新続古今和歌集』に「明魏法師」として6首入集する。

著作

長親の学芸への造詣は和歌源氏学・宋学など多岐に亘っており、今日に伝存する著作も相当多い。

また、長親の書写にかかるものに『源氏物語』・『仙源抄』などがあり、他に『御成敗式目追加』・『源経氏歌集』に加点したことがその奥書に見える。

系譜

脚注

  1. ^ 新葉和歌集』哀傷・1392の詞書に「右近大将長親、いときなき子におくれて侍りし比」とあるので、夭逝した1子のあったことが分かる。
  2. ^ a b 系図纂要』による。この他、『兵家茶話』などによれば、長親は天野経政女・周防との間に一男を儲け、これが経政の養子となって工藤重貞を名乗ったというが、史料による裏付けを欠くために信じ難い。また、後小松天皇後宮一休宗純を生んだ「南朝遺臣の女」を長親の女子に比定する説も出されている(平山朝治)。

参考文献

  • 福田秀一 「花山院長親の生涯と作品」(『中世和歌史の研究』 角川書店、1972年、NCID BN05823300
  • 村田正志 「花山院長親」(『国史大辞典 第3巻』 吉川弘文館、1983年、ISBN 9784642005036
  • 村田正志 「花山院長親と衣奈八幡宮縁起絵巻」(『村田正志著作集 第1巻 増補南北朝史論』 思文閣出版、1983年、ISBN 9784784203437。初出は1944年)
  • 井上宗雄 『中世歌壇史の研究 室町前期(改訂新版)』 風間書房、1984年(初版は1961年)、ISBN 9784759906066
  • 今泉淑夫 「花山院長親」(『日本史大事典 第2巻』 平凡社、1993年、ISBN 9784582131024
  • 山家浩樹 「<解説> 耕雲紀行」(東京大学史料編纂所編 『室町武家関係文芸集』 八木書店〈東京大学史料編纂所影印叢書〉、2008年、ISBN 9784840625036

関連項目