艦内神社

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三笠の艦内神社

艦内神社(かんないじんじゃ)とは、軍艦艦艇などの内に設けられる小規模の神社のことである。

これらは法令上の根拠があるものではなく、関係者の任意によって設けられたものであり、専任の神職は存在しない。

概要

神社と呼ばれてはいるものの、陸の神社と比べ規模は小さく、潜水艦駆逐艦などの小型艦艇になると、大きい神棚程度のものであるとされている。

大体は艦長室か機関室、食堂付近などの人の集まる所に設置される。日本海軍時代には天皇の御真影・勅諭とともに安置された。 伊勢神宮より皇大神宮別大麻を奉斎する例もある[1]。 艦内神社と関連する神社から神主が当該軍艦に派遣され祭祀をおこなったり[2][3]、艦長や乗組員が参拝するなどの交流があった[4]

日本では古くから海上交通の安全を祈願するため、船霊を祭るという信仰が伝えられてきており、艦内神社もその延長線上に存在するとされる[5]が、艦内神社自体の成立が日清戦争後から日露戦争前にかけてとする証言もあり[6]船霊との関連は明らかではない。

船霊信仰

海王丸の船首像
空母ハリー・S・トルーマン 艦内の礼拝所

船霊(ふなだま)とは海の民が航海の安全を願う神。船玉とも表記する。地方により、フナダマサン、フナダンサン、オフナサマなど、様々な異名がある。

御神体が有る場合は、人形、銅銭、人間の毛髪、五穀などを船の柱の下部、モリ、ツツと呼ばれる場所に安置し、一種の魔除け・お守り的な役目を果たす。また、陸上に船霊を祀る神社をおく場合もある。近年では地上の神社のお札を機関室などに納めることが多い。

日本では船霊は女性の神であるとされる。海上に女性を連れて行ったり、女性が一人で船に乗ると、凶事があるとして忌む傾向がある。元来は巫女が入ったものと考えられ、その女性を指して「オフナサマ」といったためにこのようなタブーができたと考えられる

船霊を祀るのは漁民船大工などが主である。船が完成すると棟梁は船霊をまつる儀式を執り行う。

海外で船霊にあたるものとしては、中国の媽祖などが近い存在であるとされている。

西洋においては航海の安全を祈願しバウスプリットの根元から船首にかけて、フィギュアヘッド(船首象)と呼ばれる女神の像を取り付ける習慣があり、日本でも西洋式の帆船で採用例がある。現代の軍艦には採用されないが、アメリカ海軍空母には艦内にキリスト教の礼拝所が設けられている。

勧請する神社

日本海軍はその草創期から、艦艇の名称には人名ではなく、旧国名山岳名、河川名、気象名などを用いてきた。これは明治天皇が艦名に偉人の名前を冠することを嫌ったためである。 艦内神社がどの神社を祀るかについて、あるいは艦内神社の規模について、海軍として明確な規定があるわけではない[7]。大体はその艦名に関わりの深い神社が祀られることが多い。 艦長の意向によって決まる例もあった。特設水上機母艦「君川丸」の場合、民間船から特設水上機母艦になった際、艦長が主計長に「艦内神社を奉斎したい」と相談[8]。そこで市川主計長の父が宮司を務める川崎稲毛神社(主祭神武甕槌神)より分祀をおこなった[8]

艦名に関連する事例は以下の通り。

薩摩型戦艦2番艦「安芸」は艦内に安芸國一之宮である厳島神社[9]を勧請しており、これは当時の安芸艦長であった矢島純吉海軍大佐の発案であったという。

長門型戦艦1番艦「長門」であれば長門國一之宮である住吉神社扶桑型戦艦2番艦「山城」であれば両賀茂神社[10]、のように、旧国名という特徴からか戦艦にはその國の一之宮が祭られる傾向があったという。 扶桑型戦艦1番艦「扶桑」の場合、当初は男山八幡(石清水八幡宮)を祀っていたが、1932年(昭和7年)に伊勢神宮を合祀した[11]

しかし例外もあった。大和型戦艦1番艦「大和」の場合、戦艦であれば旧国名であるので、大和國一之宮大神神社を勧請すると思われるが、実際に艦内に祀られていたのは大和神社であるとされているように、艦によってさまざまであった。余談であるが、戦艦「大和」は沖縄特攻出撃時(坊ノ岬沖海戦)、艦内にあった「大和神社の図」を撤去したという。図会は現在江田島の教育参考館に展示されている。

また、重巡洋艦巡洋戦艦などは山岳名が艦名に用いられているが、金剛型戦艦3番艦「榛名」(竣工時は巡洋戦艦)は榛名神社妙高型重巡洋艦2番艦「那智」は熊野那智大社のように、艦名と同じ神社を祀る場合も多い。高雄型重巡洋艦1番艦「高雄」は、高雄山(京都市)に縁がある京都護王神社より御分霊を奉祀した[12]軽巡洋艦などは、艦名と由来のある神社から奉斎している。長良型軽巡洋艦4番艦「由良」の艦内神社は由良川河口の由良神社[13]。同型6番艦「阿武隈」の艦内神社は白河市の白河鹿島神社で、同社は阿武隈川の流域に位置する[8]

三菱重工業横浜船渠が建造した香取型練習巡洋艦4隻(香取鹿島香椎、橿原《建造中止》)の場合、艦名頭文字を『K』で統一した結果、それぞれ頭文字『K』の神宮(香取神宮鹿島神宮香椎宮橿原神宮)から分祀した[14]

駆逐艦の場合、艦名と祭神は基本的に一致しない。駆逐艦含め小型艦艇の場合、植民地神社に祀られる神宮大麻は大きいため搭載できず、1932年(昭和7年)を機会に伊勢神宮は特別の小型大麻を用意することになった[15][7]吹雪型駆逐艦」のように「電神社」が存在した事は記録に残るが[16]、勧請先については不明である。秋月型駆逐艦涼月」の事例では、坊ノ岬沖海戦で大破した際に艦内神社(涼月神社)を炎上喪失、内地帰投後に改めて伊勢神宮御神体を拝領したという[17]

浅間丸型貨客船「秩父丸」は、当初船名に由来する秩父神社の神霊を船橋内に奉安した[18]。後日「鎌倉丸」に改名した際、あらためて鎌倉宮から勧請している[18]。 氷川丸級貨客船3隻(氷川丸日枝丸平安丸)の場合、船名前頭文字を『H』で統一した結果、それぞれ頭文字『H』の神社(氷川神社(大宮)日枝神社(東京都千代田区)平安神宮)を勧請した[19]

神社から社殿の模型が寄贈されることもあった。 河内型戦艦2番艦「摂津」は、大阪市長(当時)植村俊平を通じて住吉大社摂津国一宮)の縮小模型が寄贈された[20][21]。 空母「加賀」(加賀型戦艦1番艦)は、白山比め神社加賀国一宮)より社殿を寄贈された[22]高雄型重巡洋艦3番艦「鳥海」は、鳥海山大物忌神社より宮殿を寄贈された[23]最上型重巡洋艦4番艦「熊野」には、和歌山県知事を通じて熊野本宮大社縮小神殿寄贈の申し入れがあった[24]球磨型軽巡洋艦2番艦「多摩」は大國魂神社武蔵国総社)より金属製社殿の寄贈を受けた[25]

現代の艦内神社

現行の海上自衛隊が保有する艦艇においても、艦内神社は存在している。これは日本海軍時代と同様、明確な規定がある訳ではなく、船員の私幣によって祀られているものであり、政教分離の問題には抵触しない。

海自艦はその艦名の殆どを従来の日本海軍の艦名から引き継いでおり、艦内神社もまた同じ神社を祀る場合が多い。一方で日本海軍時代とは異なる神社を勧請する場合もあるが、その多くはやはり別の視点から艦名に関わりの深い神社である場合が多い。

例として、護衛艦「ゆうばり」は日本海軍時代の軽巡洋艦「夕張」と同様に北海道夕張市に鎮座する夕張神社を勧請しているが、巡洋戦艦「金剛」に建水分神社が祀られていたのに対して護衛艦「こんごう」では、金剛山山頂に鎮座する「葛木神社」を祀っているというような違いがある。

脚注

  1. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)p.394『◎皇大神宮別大麻寸法ニ關スル件 昭和五年二月五日(軍務一二一)(軍務局長ヨリ關係各廰長宛) 首題ノ件ニ關シ内務省神社局長ヨリ左記ノ通申進有之候御了知相成度 記 昭和五年一月三十一日(四神司四九)(内務省神社局長ヨリ海軍省軍務局長宛)皇大神宮別大麻ヲ軍艦ニ奉齋スルノ件 軍艦ニ於テ大麻ヲ奉齋スル向ニ對シテハ從來神宮神部署ヨリ皇大神宮別大麻ヲ投與スル例ニ有之候處右別大麻ノ寸法ハ奉齋所設備上ノ参考ト可相成被存候ニ付左記ノ通御含置被下度此旨申進候 記 一 皇大神宮別大麻寸法{長 壹尺壹寸八分/幅 四寸八分/厚 参寸』
  2. ^ #高松宮日記2巻150頁『十月二日 午前、機能調査などする。午后、一時四十五分より高雄神社のお祭りをする。本家の護王神社から神官がきてやつた、それがもと侍従の小松〔小松行一〕だからおかしかつた。この五月に護王神社へかわつたのださうだ。諸競技の賞品授与式や奉納仕合あり。(以下略)』
  3. ^ #高松宮日記2巻289頁『八月十二日 午前、神宮から神主がきて、扶桑神社のお祭りをする。午後、夕方、貴族院や衆議院の議員数名と大蔵省の役人が見学便乗にきて、本艦へは役人が三人ほどとまる。』
  4. ^ #松永、ネイビーp.94『本艦にある陸奥神社は、青森県にある岩木山神社の御分神をお祀りしてある。「陸奥」総員は、陸奥湾入泊の機会に数班に分かれて、参拝隊を編成して参拝したが、それは氏子氏神様にお詣りする雰囲気と同様だった(以下略)』
  5. ^ 大原康男「旧日本軍をめぐる宗教的事象序説」
  6. ^ 『艦内神社』 朝日新聞 1944年5月22日朝刊2面。安保清種海軍大将および小笠原長生海軍中将の証言があるが、発祥が明らかでないとの記述もある。
  7. ^ a b 昭和7年7月16日(土)海軍公報 第1633号 pp.1-2」 アジア歴史資料センター Ref.C12070333600 『官房第二二七四號ノ二 昭和七年七月十六日 海軍省副官 關係各廰長殿 神宮別大麻ニ關スル件通知 本件ニ關シ左記甲ノ照會ニ對シ左記乙ノ通回答致置候條御了知相成度 記|(甲)賽別第一號 昭和七年六月三日 内宮神樂殿 艦政本部長殿 神宮大麻ニ關スル件 帝國軍艦ニ神宮神璽ヲ御奉齋相成候ハ眞ニ有意義ナル儀ニ有之 神宮ニ於テモ之カ神璽拝戴方御申出相成候節ハ特種ノ別大麻ヲ授與致來候處該大麻ハ殖民地ノ神社ニ鎭齋ヲ主トシ長一尺二寸幅四寸六分厚三寸ノ一種類ノミニ有之候軍艦ノ奉齋ハ製艦ノ際艦型ノ大小等ニ依リ神棚ノ寸法異ナリ候様子ニテ小型ノ艦形ニ在リテハ奉齋不能ノ場合往々有之候斯クテハ折角ノ御希望ニ副フコトヲ得ス甚ダ遺憾ニ不堪候ニ付将來之等小型ノ艦形ニモ適スル稍小型ノ別大麻一種ヲ設ケ度候ニ就テハ軍艦艤装規定ニヨリ艦別ニ從ヒ奉齋所寸法等御規定モ有之候ハヽ参考ノ爲相伺ヒ度最少ノ奉齋所寸法至急御内示相煩度過般漣艦ヨリノ別大麻拝受申請モ有之候次第ニ付此段得貴意候也 追テ左記寸法ニテハ小型軍艦ノ奉齋所ニモ奉齋方相叶候モノニヤ申添候 外測 長六寸幅二寸厚一寸一分』―『(乙)官房第二二七四號 昭和七年六月十七日 海軍省副官 三重縣宇治内内宮神樂殿御中 神宮別大麻ニ關スル件回答 賽別第一號ヲ以テ海軍艦政本部長宛御照會ノ首題ノ件左記ノ通ニ候條可然取御取計相成度 記 一.奉齋所ハ從來艦員自由ノ發意ニテ之ヲ設クル慣例ニ相成居候ニ付艤装規定程ニハ之ガ寸法等ノ規定ハ無之候 一.奉齋スベキ別大麻ハ大艦小艦共ニ御來意追書ノ通外測長サ六寸、幅二寸、厚サ一寸一分ノ小型ノモノニ一定方異存無之候』
  8. ^ a b c #日本海軍の栄光302-303頁
  9. ^ 当記事では大原康男「旧日本軍をめぐる宗教的事象序説」を参考に引用しているが、該当論文の引用に誤りがある。要検証
  10. ^ 当記事では大原康男「旧日本軍をめぐる宗教的事象序説」を参考に引用しているが、実際には石清水八幡宮が艦内神社であったとされる説が有力である。要検証
  11. ^ #高松宮日記2巻170-171頁『十一月二十四日雨(中略)今日は午前、扶桑神社(昨年大神宮を合祀す もともとは男山八幡だつた)のおまつりあり。後武技試合ありしも喪中だから参列せず。午後、配置教育、総合兵器額、第四回弾火薬庫装置』
  12. ^ #高松宮日記2巻318-319頁『軍艦高雄案内』より『一.艦名の由来と祭神 初代高雄の名を襲ひたるものなるが抑も此高雄の名は京都高雄山に因みしものなりと拝察す。艦内に鎮座しある高雄神社には高雄山に縁故ある京都護王神社の祭神たる和気清麻呂公の御分霊を奉祀す』
  13. ^ 永浜宇平著『言行三束』(昭和7年)。国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1209983 p.83『降テ大正十二年五月帝國軍艦由良艦長ノ懇請ニ依リ、當神社御分霊分與シ爾來同艦ノ守護神トシテ乗員ノ崇敬特ニ篤シ』
  14. ^ #三菱、20話27頁『船名の由来は神社の名前から』
  15. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)p.394『◎神宮別大麻ニ關スル件 昭和七年七月十六日(官房二二七四ノ二)(海軍省副官ヨリ關係各廰宛) 本件ニ關シ左記甲ノ照會ニ對シ左記乙ノ通回答致置候條御了知相成度』
  16. ^ #深雪電衝突関係(6)p.27『二.触衝後ノ処置(通信ヲ除ク通信第四項参照)|一八〇〇|(二)御勅喩並ニ電神社搬出ニ備フ』
  17. ^ #駆逐艦隊悲劇の記録245頁
  18. ^ a b #三菱、20話12頁『「秩父丸」から「鎌倉丸」へ船名変更』
  19. ^ #三菱、20話16頁『船名の由来は埼玉県神社』
  20. ^ #軍艦摂津住吉神社模型寄贈p.1『明治四十五年五月二日 大臣 庶甲第一一三五号軍艦摂津ヘ官幣大社住吉神社ノ模型寄贈ノ件許可ス』
  21. ^ #軍艦摂津住吉神社模型寄贈pp.5-6『呉海軍工廠ニ於テ御建造相成候帝國軍艦摂津、右艦名ニ因ミ摂津國一ノ宮タル官幣大社住吉神社ノ模型ヲ寄贈致度候朋特別ノ御詮議ヲ以テ御許可被成下度此段奉願候 明治四十五年四月廿二日 大阪市長 植森俊平 海軍大臣男爵 齋藤實殿』
  22. ^ #献納品pp.15-16『(略)一 加賀國白山眞景油繪額 壹個/一 加賀國白山比口羊神社社殿模型 壹個』
  23. ^ #第2863号寄贈品受領p.2『(略)一、宮殿(御神靈奉安殿)壹宇 寄贈者 國幣中社大物忌神社(以下略)』
  24. ^ #第5641号寄贈品受領p.5『昭和十二年十月二十九日 和歌山縣知事 海軍省經理局長殿 軍艦熊野近ク艤装終ヘ建艦工事完成セラルルハ慶祝ニ堪エザル處ニ有之候處本縣國防協會ニ於テ仝艦艦内神社トシテ鎮座セラルベキ熊野神社御神殿トシテ管下官幣大社熊野坐神社御本殿ヲ縮寫模造セル御神殿壹棟献納致度(以下略)』
  25. ^ #献納品p.2『大正十三年二月十五日 海軍大臣 一月二十八日進達多摩第四二號上申官幣小社大國魂神社模型(金属製)壱個受納ノ件』

参考文献

  • 倉橋友二郎『駆逐艦隊悲劇の記録 海ゆかば・・・』徳間書店、1967年6月。  著者は1944年6月~1945年5月まで駆逐艦「涼月」砲術長勤務。
  • 元「阿武隈」主計長海軍主計少佐市川浩之助『キスカ 日本海軍の栄光』コンパニオン出版、1983年2月。ISBN 4-906121-29-2  著者は昭和16年10月から昭和18年6月まで君川丸主計長。
  • 大原康男「旧日本軍をめぐる宗教的事象序説」、加藤玄智博士記念学会『神道研究紀要』第8輯
  • 高松宮宣仁親王著、嶋中鵬二発行人『高松宮日記 第二巻 昭和八年年一月一日~昭和十二年九月二十六日』中央公論社、1995年6月。ISBN 4-12-403392-3 
  • 松永市郎『思い出のネイビーブルー 私の海軍生活記』光人社NF文庫、1994年2月。  -松永は少尉候補生時、「陸奥」配属。
  • 三菱重工業株式会社横浜製作所『20話でつづる名船の生涯』三菱重工業株式会社横浜製作所総務勤労課、2013年8月。ISBN 978-4-7698-2098-7 
  • アジア歴史資料センター(公式)
    • 『軍艦摂津へ住吉神社模型寄贈の件』。Ref.C08020127800。 
    • 『事件 災害事故 衝突 深雪、電、衝突関係(6)』。Ref.C05023975500。 
    • 『第2863号 7.6.30寄贈品受領に関する件』。Ref.C05022179700。 
    • 『第5641号 12.11.6寄贈品受納に関する件』。Ref.C05110921000。 
    • 『献納品』。Ref.C08051234400。 
    • 『軍艦加賀へ木彫画額面献納の件』。Ref.C04016420500。 
    • 『献納品受納の件』。Ref.C04016421900。 
    • 『第3481号 9.8.4廃兵器無償下付の件 横須賀海軍軍需部 佐世保海軍軍需部』。Ref.C05023753600。 

関連項目