臨済宗

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臨済義玄

臨済宗(臨濟宗、りんざいしゅう、Linji school)は、中国禅宗五家(臨済、潙仰曹洞雲門法眼)の一つで、日本仏教においては禅宗臨済宗曹洞宗日本達磨宗黄檗宗普化宗)の一つ。また、鎌倉仏教の一つである。曹洞宗が単一教団であるのに対して、十五派に分かれて活動している。

歴史

臨済宗は、その名の通り、会昌の廃仏後、末の宗祖臨済義玄(生年不詳 - 867年)に始まる。臨済は、中国禅宗の祖とされる達磨(5世紀後半 - 6世紀前半)から数えて6代目(六祖と呼ばれる)の南宗禅の祖・曹渓宝林寺の慧能(638年 - 713年)の弟子の一人である南嶽懐譲(677年 - 744年)から、馬祖道一(709年 - 788年、洪州宗)、百丈懐海(749年 - 814年)、黄檗希運(生年不詳 - 850年)と続く法系を嗣いだ。河北の地の臨済寺を拠点とし、新興の藩鎮勢力であった成徳軍節度使王紹懿中国語版英語版(生年不詳 - 866年、禅録では王常侍)を支持基盤として宗勢を伸張した。臨済は『喝の臨済』『臨済将軍』の異名で知られ、豪放な家風を特徴として中国禅興隆の頂点を極めた。しかし、唐末五代の混乱した時期には、河北は5王朝を中心に混乱した地域であったため、宗勢が振るわなくなる。この時期の中心人物は、風穴延昭である。

臨済宗が再び活気に満ち溢れるようになるのは、北宋であり、石霜楚円の門下より、ともに江西を出自とする黄龍慧南と楊岐方会という、臨済宗の主流となる2派(黄龍派楊岐派)を生む傑僧が出て、中国全土を席巻することとなった。

南宋になると、楊岐派に属する圜悟克勤(1063年 - 1135年)の弟子の大慧宗杲が、浙江を拠点として大慧派を形成し、臨済宗の中の主流派となった。

宋代大慧宗杲(1089年 - 1163年)と曹洞宗宏智正覚(1091年 - 1157年)の論争以来、曹洞宗の「黙照禅」に対して、公案に参究することにより見性しようとする「看話禅」(かんなぜん)がその特徴として認識されるようになる。

日本における臨済宗

宗門では、ゴータマ・シッダールタの教え(悟り)を直接に受け継いだマハーカーシャパ(迦葉)から28代目のボーディダルマ(菩提達磨)を得てインドから中国に伝えられた、ということになっている。その後、臨済宗は、宋代の中国に渡り学んだ栄西(1141年 - 1215年)らによって、鎌倉時代以降に日本に伝えられ、様々な流派が成立した。栄西が伝えたのは黄竜派の教えだが、俊芿(1166年 - 1227年)が伝えた楊岐派の教えは、禅宗24流のうち20流をまでを占めるまでになった[1]。なお、江戸時代に伝わった黄檗宗も元来、中国臨済宗の一派である。師から弟子への悟りの伝達(法嗣、はっす)を重んじる。釈迦を本師釈迦如来大和尚と、ボーディダルマを初祖菩提達磨大師、臨済を宗祖臨済大師と呼ぶ。同じ禅宗の曹洞宗が地方豪族や一般民衆に広まったのに対し、鎌倉幕府室町幕府という時の武家政権との結び付きが強かったのも特徴の1つで、京都五山鎌倉五山のどちらも全て臨済宗の寺院で占められているほか、室町文化の形成にも多大な影響を与えた。しかしその後、足利氏の権勢とともに臨済宗も衰退していった[2]。江戸時代になって、白隠禅師(1686年 - 1769年)によって臨済宗が再建されたため、現在の臨済禅は白隠禅とも言われている。そして、白隠は「中興の祖」として知られる。この時代、臨済宗で勢力を拡大したのは妙心寺派と大徳寺派であったが[3]、白隠も妙心寺派の出である。妙心寺派はこのほか、愚堂東寔一糸文守を輩出している。一方の大徳寺派では、沢庵宗彭が有名である。また、江戸時代は各宗派において学林が栄えた。臨済宗では妙心寺や大徳寺、京都五山、それに鎌倉五山などに学寮を設けられ、宗学の伝授と住職資格の付与を担った[4]

主な法嗣の系統

(なお、臨済宗外では、仏眼清遠から3代下った楊岐派7代目の蒙庵元聡の下で修行し、初めて楊岐派の法灯を日本へと伝えた真言宗泉涌寺派の祖・俊芿などもいる。)

その他の国における臨済宗

大韓民国越南(ベトナム)など漢字文化圏の国々に伝わっている。

伝統

法嗣という師匠から弟子へと悟りの伝達が続き現在に至る。師匠と弟子の重要なやりとりは、室内の秘密と呼ばれ師匠の部屋の中から持ち出されて公開されることはない。師匠と弟子のやりとりや、師匠の振舞を記録した禅語録から、抜き出したものが公案(判例)とよばれ、宋代からさまざまな集成が編まれてきたが、悟りは言葉では伝えられるものではなく、現代人の文章理解で読もうとすると公案自体が拒絶する。しかし、悟りに導くヒントになることがらの記録であり、禅の典籍はその創立時から現在に至るまで非常に多い。それとともに宋代以降、禅宗は看話禅(かんなぜん)という、禅語録を教材に老師が提要を講義する(提唱という)スタイルに変わり、臨済を初めとする唐代の祖師たちの威容は見られなくなった。師匠が肉体を去るときには少なくとも跡継ぎを選んで行くが、跡継ぎは必ずしも悟りを開いているとは限らず、その事は師匠とその弟子だけが知っている。新しい師匠が悟りを開いていなくとも、悟りを開いていた師匠の時代から数世代の間であれば、世代を越えて弟子が悟りを開くことは可能なため、その様な手段が取られる。師匠は、ひとりだけではなく複数の師匠を残して行くこともあれば、師匠の判断で跡を嗣ぐ師匠を残さずにその流れが終わることもある。いくつもの支流に分かれ、ある流れは消えて行き、その流れのいくつかが7世紀から現在まで伝わっている。

悟り

禅宗は悟りを開く事が目的とされており、知識ではなく、悟りを重んじる。 禅宗における悟りとは「生きるもの全てが本来持っている本性である仏性に気付く」ことをいう。 仏性というのは「言葉による理解を超えた範囲のことを認知する能力」のことである。 悟りは師から弟子へと伝わるが、それは言葉(ロゴス)による伝達ではなく、坐禅、公案などの感覚的、身体的体験で伝承されていく。 いろいろな方法で悟りの境地を表現できるとされており、特に日本では、詩、絵画、建築などを始めとした分野で悟りが表現されている。

公案体系

宋代以降公案の体系がまとめられ、擬似的に多くの悟りを起こさせ、宗門隆盛のために多くの禅僧の輩出を可能にした。公案は、禅語録から抽出した主に師と弟子の間の問答である。弟子が悟りを得る瞬間の契機を伝える話が多い。

公案は論理的、知的な理解を受け付けることが出来ない、人智の発生以前の無垢の境地での対話であり、考えることから解脱して、公案になり切るという比喩的境地を通してのみ知ることができる。これらの公案を、弟子を導くメソッド集としてまとめたのが公案体系であり、500から1900の公案が知られている。公案体系は師の家風によって異なる。

修行の初期段階に与えられる公案の例:

狗子仏性 - 「犬に仏性はありますか?」「無(む)」
この背景には、仏教では誰でも知っている「全ての生き物は仏性を持っている」という涅槃経の知識があるが、その種の人を惑わす知識からの解脱を目的としている。
隻手の声 -「片手の拍手の音」
弟子は片手でする拍手の音を聞いてそれを師匠に示さなければならない。知的な理解では片手では拍手はできず音はしないが、そのような日常的感覚からの解脱を目的としている。

宗派

建仁寺派

  • 1202年(建仁2年)、中国に渡って帰国した栄西により始まる。栄西は最初に禅の伝統を日本に伝えた。
  • 本山は京都の建仁寺[5]

東福寺派

  • 1236年、宋に渡り帰国した円爾(弁円)により京都で始まる。
  • 本山は京都の東福寺[6]
  • 戦国時代、毛利家の外交僧として活躍した安国寺恵瓊はこの宗派。

建長寺派

円覚寺派

南禅寺派

国泰寺派

  • 1300年頃、慈雲妙意により始まる。
  • 本山は明治時代に江戸無血開城の立役者として知られる幕臣・山岡鉄舟の尽力で再興した富山県高岡市にある国泰寺。谷中の全生庵も山岡鉄舟が建立しており、国泰寺派である[10]。文化庁によると、全国に寺は約77000あり、幕末からの官軍の人々を弔う場所は靖国神社があり、山岡は、官軍も、賊軍こと旧幕府軍もなく、国事に殉じた方々を分け隔てなく弔う場所を作りたいと考え、1883年(明治16年)に全生庵を創建したとされている[11]

大徳寺派

妙心寺派

  • 1337年関山慧玄により始まる。
  • 本山は京都・花園の妙心寺[12]。塔頭寺院には、桂春院・春光院・退蔵院[13]・隣華院[14]などがある。
  • 末寺3,400余か寺を持つ臨済宗最大の宗派。白隠慧鶴もこの法系に属する。

天龍寺派

永源寺派

向嶽寺派

  • 1380年抜隊得勝により始まる。
  • 本山は山梨県甲州市向嶽寺
  • 甲斐国塩山の向嶽寺を拠点とする向嶽寺派は鎌倉後期から南北朝時代にかけて武家政権と結んだ夢窓派と一線を画し、独自の宗風を築いた。向嶽寺派は無本覚心の弟子である孤峰覚明に師事した抜隊得勝により始まり、抜隊は永和4年(1378年)に入甲し、康暦2年(1380年)には守護武田氏の庇護を得て塩の山に向嶽庵(向嶽寺、山梨県甲州市塩山上於曽)を築いた。
  • 向嶽寺派は抜隊の遺戒による厳格な戒律を定めていることが特徴で、抜隊の生前から法語などが刊行されている。

相国寺派

方広寺派

佛通寺派

  • 1397年愚中周及により始まる。
  • 本山は広島県三原市の佛通寺[17]
  • 末寺は広島県内を中心に約50か寺。
  • 1905年(明治38年)までは天竜寺派に属した。

興聖寺派

葬儀式

臨済宗の葬儀は故人を仏の弟子にするための式であり、授戒・念誦・引導などの構成からなる。また引導を渡す儀式の途中に導師が「喝」と叫ぶことがあるが、これはこの世に対する未練を取り除き、邪悪を祓う意味がある。松明に見立てた先の赤い棒を投げるのも、光明を照らし、迷いを断ち切る意味がある。引磬・太鼓・妙鉢などが用いられることが多い。

脚注

  1. ^ 臨済宗 -コトバンク
  2. ^ 村上専精 『日本佛教史綱(下巻)』 創元社、1939年、245頁
  3. ^ 圭室諦成『日本佛教史概説』理想社出版部、1940年、360項
  4. ^ 圭室諦成『日本佛教史概説』理想社出版部、1940年、346項
  5. ^ 建仁寺公式サイト
  6. ^ 東福寺公式サイト
  7. ^ 建長寺公式サイト
  8. ^ 円覚寺公式サイト
  9. ^ 南禅寺公式サイト
  10. ^ 由来 全生庵公式サイト
  11. ^ “読売文化フォーラム 「山岡鉄舟と北陸」”. YOMIURI ONLINE. (2017年9月9日). オリジナルの2017年9月13日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20170913140635/http://www.yomiuri.co.jp/local/ishikawa/news/20170911-OYTNT50187.html 2019年7月13日閲覧。 
  12. ^ 妙心寺公式サイト
  13. ^ 退蔵院公式サイト
  14. ^ 隣華院公式サイト
  15. ^ 相国寺公式サイト
  16. ^ 方広寺公式サイト
  17. ^ 佛通寺公式サイト

関連項目

外部リンク