美田千賀蔵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
美田千賀蔵
生誕 1892年12月10日
日本の旗 日本 鳥取県
死没 1945年7月??
日本の旗 日本 沖縄県
所属組織 大日本帝国陸軍
軍歴 1923 - 1945
最終階級 陸軍少将
テンプレートを表示

美田 千賀蔵(みた ちがぞう、1892年明治25年)12月10日 - 1945年昭和20年)7月下旬(戦死日不明))は、日本陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。

経歴[編集]

鳥取県岩美郡牧谷村牧谷(現・岩美町)で、同村の素封家である沢田家の番頭の長男として産まれる。鳥取県立鳥取第一中学校(現・鳥取県立鳥取西高等学校)に進学する。

1912年12月1日、士官候補生として歩兵第55連隊佐賀市)に入隊し、1年後の1913年12月1日に陸軍士官学校に入校した。1915年5月25日の卒業後は見習士官として原隊復帰後、同年12月25日付で歩兵第56連隊久留米市)付として歩兵少尉に任官する。

歩兵第56連隊時代の1917年9月15日に陸軍戸山学校に入校した。1919年4月15日付で中尉に昇進する。

1925年5月1日付で歩兵第10連隊岡山市)付に転任し、翌6月10日付で連隊は満州に移動した。8月7日付で大尉に昇進し、中隊長となる。しかし、1927年7月26日に病気を理由に中隊長を免じられて大隊副官となった。1928年3月24日に帰国し、大隊付の将校として岡山県倉敷商業学校(現・岡山県立倉敷商業高等学校)の配属将校となる。

1932年8月8日付で連隊副官となり、1933年8月1日に少佐に昇進した。このあと、岡山県笠岡商業学校(現・岡山県立笠岡商業高等学校、1935年8月)・金光中学校(1936年4月)・岡山県玉島商業学校(現・岡山県立玉島商業高等学校、1937年9月)と岡山県下の中等教育学校での配属将校を歴任した。

1937年12月28日、南京戦で戦死した大隊長の後任として、歩兵第115連隊大隊長となる。1938年7月15日に中佐に昇進。

1939年3月9日、第8国境守備隊付として満州国海拉爾へ赴任する。1942年8月1日付で大佐に昇進した。

1944年6月15日、近衛歩兵第3連隊へ転出、その直後、独立混成第15連隊長に任命される。6月30日、独立混成第44旅団の配下に配属となり、沖縄県へ異動となる。

1945年3月10日付で少将に昇進。

1945年5月、沖縄戦シュガーローフの戦いで、日本側の指揮を執る[1]。6月下旬に南部戦線へ転進し、米軍に包囲された後、部下にゲリラ戦への長期抗戦を命じ部隊を解散、自身も副官と共に知念半島へと脱出を図る。7月下旬、玉城村で副官や当番兵と4名となり、遭遇した米兵と撃ち合いの後に戦死したと推定[2]

脚注[編集]

  1. ^ ジェームス・H.ハラス『沖縄シュガーローフの戦い―米海兵隊地獄の7日間』光人社〈光人社NF文庫〉、2010年8月30日。 [要ページ番号]
  2. ^ 戦後生還した小沢当番兵の証言[要文献特定詳細情報]