紫式部日記

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紫式部日記絵巻五島美術館蔵、国宝

紫式部日記』(むらさきしきぶにっき)は、紫式部によって記された日記とされる。

写本宮内庁書陵部蔵の黒川本が最もよいとされているが一部記載については他の写本がすぐれているとも。写本の表紙の表題は『紫日記』とあり、内容にも紫式部の名の記載はなく、いつから『紫式部日記』とされたかは不明。

全2巻であり1巻は記録的内容、2巻は手紙と記録的内容である。『源氏物語』の作者が紫式部であるという通説は、伝説とこの『紫日記』にでてくる記述に基づいている。

来歴

寛弘5年(1008年)11月1日に土御門殿で催された敦成親王(後の後一条天皇)誕生後の「五十日の祝い」の宴席場面。左衛門督藤原公任(画面右、室内を眺めやる人物)が「あなかしこ、此のわたりにわかむらさきやさふらふ(恐れ入りますが、この辺りに若紫は居られませんか)」と酔態で戯れに尋ねる。『紫式部日記絵巻』より(五島美術館蔵)

古写本には表題を「紫日記」とするものが多く、室町時代の源氏物語の注釈書「河海抄」には、「紫記」・「紫式部が日記」・「紫日記」・「紫式部仮名記」といったさまざまな名称で現存する紫式部日記に含まれる文章が引用されている。

寛弘7年(1010年)に完成されたとするのが通説である。13世紀(鎌倉時代)には『紫式部日記絵巻』という紙本着色の絵巻物が著された。作者は不詳である。なお、『栄花物語』と一部文章が全く同じであり、同物語のあとがきには日記から筆写した旨記されている。

中世の源氏物語研究の中では取り上げることがほとんど無かったが江戸時代に安藤為章紫家七論で取り上げて以降源氏物語の成立事情を考えるための第一資料とされるようになっている。

本書の1008年(寛弘5年)11月1日の記述が源氏物語が歴史上はじめて記録されたものであることを根拠として丁度千年後の2008年(平成20年)が源氏物語千年紀に、また11月1日古典の日に定められた。

内容構成

中宮彰子の出産が迫った寛弘5年(1008年)秋から同7年(1010年)正月にかけての諸事が書かれている。史書では明らかにされていない人々の生き生きとした行動がわかり、歴史的価値もある。自作『源氏物語』に対しての世人の評判や、彰子の同僚女房であった和泉式部赤染衛門、中宮定子の女房であった清少納言らの人物評や自らの人生観について述べた消息文などもみられる。

和泉式部に対しては先輩として後輩の才能を評価しつつもその情事の奔放さに苦言を呈したり、先輩に当たる赤染衛門には後輩として尊敬の意を見せている。特に清少納言への評では「清少納言と言うのはとても偉そうに威張っている人である。さも頭が良いかのように装って漢字を書きまくっているけれども、その中身を見れば稚拙なところが多い。他人より優れているように振舞いたがる人間は後々見劣りするであろう。(中略)そういう人間の行末が果たして良いものであろうか」などと、徹底的に扱き下ろしている。

本文

いくつかの校訂書が出版されている。

翻訳

関連項目

外部リンク