筑摩 (防護巡洋艦)

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左側が艦尾
艦歴
計画 明治40年度補充艦艇費[1]
発注 1909年7月13日製造訓令[2]
起工 1910年5月23日[3][注釈 1]
進水 1911年4月1日[4][5]
竣工 1912年5月17日[4][6]
除籍 1931年4月1日
その後 1935年頃 撃沈処分
要目
排水量 常備:5,000t
全長 144.8 m / 134.1m(垂線間長)/140.5m(水線長)
全幅 14.2m
吃水 5.1m
機関 イ号艦本式混焼罐×16基
カーチス式タービン直結方式×2基、2軸推進、22,500hp馬力
燃料 石炭1,128t 重油300t
速力 26.0kt
航続距離
乗員 414名
兵装 45口径15.2cm単装砲8門
40口径7.6cm単装砲4門
45.7cm水上魚雷発射管3門
装甲 舷側:89mm
甲板水平部:22mm
甲板傾斜部:57mm
司令塔:102mm
その他 信号符字:GQHP(竣工時)[7]

筑摩(ちくま)は、日本海軍二等巡洋艦[8]筑摩型1番艦である。艦名は筑摩川(千曲川、信濃川の上流部)にちなんで名づけられた。筑摩型は機関にタービンを搭載するなど、近代的軽巡洋艦への過渡的巡洋艦であった[9]

艦型[編集]

筑摩型は、日本海軍の巡洋艦として初めてタービン機関を採用した[10]。同型艦3隻(筑摩、平戸、矢矧)には性能実績を調査するためにそれぞれ異なるタイプの機関を搭載している[11]。筑摩の大型缶には過熱器が装備されている[11]。一般的に筑摩型は防護巡洋艦と認識されているが(日本海軍の法的な類別は二等巡洋艦)、舷側装甲を持っていた[11]

艦歴[編集]

仮称艦名「伊号二等巡洋艦」[8]。1910年(明治43年)5月23日、佐世保海軍工廠で起工[3]1911年(明治44年)4月1日、明治天皇皇太子(即位前の大正天皇)は御召艦鹿島(供奉艦は戦艦薩摩、第一艦隊司令長官上村彦之丞大将)に乗艦して佐世保に到着、筑摩進水式に臨んだ[12]。進水式には斎藤実海軍大臣や犬塚勝太郎長崎県知事ほか、海軍重鎮多数が参加した[13]。午前9時30分進水[5]、同日二等巡洋艦に類別された[14]。1912年(明治45年)5月17日、筑摩は竣工した[6]

同年(大正元年)11月12日、東京湾で海軍大演習観艦式が実施される[15]。大正天皇は横浜港で「筑摩」に乗艦、本艦を御召艦とした[16]。大演習統監は東郷平八郎海軍大将[16]。先導艦は駆逐艦海風、供奉艦は平戸矢矧満州であった[16]。横浜沖での観艦式終了後、天皇は戦艦安芸に移乗して午餐をとった[17]。その後、横浜港から東京へ戻った[18]

第一次世界大戦では[19]南太平洋南シナ海インド洋での作戦に参加した。1914年(大正3年)8月23日、日本はドイツ帝国に対し宣戦を布告する[20]。同時期、ドイツ帝国海軍東洋艦隊の巡洋艦エムデンはインド洋・南洋方面に進出し、英国船を襲撃していた。日本海軍はイギリスとの共同作戦により、筑摩と巡洋戦艦伊吹シンガポール経由でジャワ島方面に向かった。出撃の情報が到着の数日前にシンガポールで流布し、ドイツ側に察知されてエムデンを捕捉することができず、この間エムデンはベンガル湾で英国汽船5隻を撃沈、シンガポール日本領事館の駐在武官荒城海軍少佐が「シンガポールの在留日本人が噂を流したことで作戦が失敗し、英国に対して面目を失した」として日本語紙記者に住民に対し警告を発するよう求めたとされている[21]

1921年から1924年までおもに中国水域の警備活動に従事した。1926年より横須賀海兵団岸壁に繋留される。1931年(昭和4年)4月1日、除籍と共に廃艦第3号と仮称[22]。 1934年(昭和9年)1月19日、旧筑摩の後部マストが湊川神社に下附されることになった[23]

1935年頃、実艦的として撃沈処分された。

歴代艦長[編集]

※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。階級は就任時のもの。

  • 片岡栄太郎 大佐:1911年12月1日 - 1912年4月20日 *兼佐世保海軍工廠艤装員
  • 山崎米三郎 大佐:1912年4月20日 - 1912年6月29日 *兼佐世保海軍工廠艤装員(- 1912年5月17日)
  • 向井弥一 大佐:1912年6月29日 - 1912年11月13日
  • 小山田仲之丞 大佐:1912年11月13日 - 1913年12月1日
  • 井原頼一 大佐:1913年12月1日 - 1914年2月26日
  • 下平英太郎 大佐:1914年2月26日 - 1914年4月7日
  • (兼)小山田仲之丞 大佐:1914年4月7日 - 1914年5月6日[24]
  • 阪本則俊 大佐:1914年5月6日 - 1915年2月1日
  • (心得)松村菊勇中佐:1915年2月1日 - 1915年8月6日
  • (心得)田口久盛 中佐:1915年9月25日 - 1915年12月13日
  • 田口久盛 大佐:1915年12月13日 - 1916年1月28日
  • 田尻唯二 大佐:1916年1月28日 - 1916年12月1日
  • 牟田亀太郎 大佐:1916年12月1日 - 1918年2月12日
  • 中川寛 大佐:1918年2月12日[25] - 1918年6月1日[26]
  • (兼)飯田延太郎 大佐:1918年6月1日[26] - 1918年7月5日
  • (兼)大内田盛繁 大佐:1918年7月5日 - 1918年9月25日
  • 大見丙子郎 大佐:1918年9月25日 - 1918年11月1日
  • (兼)大見丙子郎 大佐:1918年11月1日 - 1918年11月25日
  • 末次信正 大佐:1918年12月1日 - 1919年8月5日
  • 横地錠二 大佐:1919年8月5日 - 1920年12月1日
  • 白石信成 大佐:1920年12月1日 - 1921年11月20日
  • (心得)永野永三 中佐:1921年11月20日[27] - 1921年12月1日
  • 永野永三 大佐:1921年12月1日[28] - 1922年11月20日[29]
  • 田岡勝太郎 大佐:1922年11月20日 - 1923年6月1日
  • 栗原祐治 大佐:1923年6月1日[30] - 1923年11月20日[31]
  • (心得)中原市介 中佐:1923年11月20日[31] - 1923年12月1日[32]
  • 中原市介 大佐:1923年12月1日[32] - 1924年11月1日[33]
  • 福井愛助 中佐:1924年11月1日[33] - 1925年1月15日[34]

同型艦[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ #海軍制度沿革11-2(1972)p.1061では、明治43年5月25日起工となっている。

出典[編集]

  1. ^ #戦史叢書31海軍軍戦備1pp.229-231
  2. ^ #筑摩矢矧平戸(6)画像37-39、明治42年7月13日官房機密第374号
  3. ^ a b #筑摩矢矧平戸(2)p.39〔佐廠第9号の519 明治四十三年五月廿三日 佐世保海軍工廠長黒井悌次郎 海軍大臣男爵斎藤實殿 軍艦筑摩起工ノ件 軍艦筑摩四十三年五月二十三日起工(キール据附)致候右報告ス 〕
  4. ^ a b #海軍制度沿革11-2(1972)pp.1057-1087、昭和3年2月14日(内令43)艦船要目公表範囲。
  5. ^ a b #筑摩矢矧平戸(5)画像23、電報「四十四年四月一日発 佐世保海軍工廠○ 本部長ヘ 軍艦筑摩午前九時三十分無事進水セリ」
  6. ^ a b #筑摩矢矧平戸(2)p.38〔明治四十五年五月十七日 佐世保鎭守府司令長官島村速雄 海軍大臣男爵斎藤實殿 軍艦筑摩竣工ニ付本日授受結了致候右報告ス 〕
  7. ^ #10月 画像1『達第百九號 軍艦河内外四隻ニ左ノ通信號符字ヲ點付ス 明治四十四年十月三日 海軍大臣 男爵齋藤實 信號符字 艦名 GQHM 河内 GQHN 攝津 GQHP 筑摩 GQHR 矢矧 GQHS 平戸』
  8. ^ a b #達明治44年4月p.1〔 達臺三十七號 佐世保海軍工廠ニ於テ製造ノ伊號二等巡洋艦ヲ筑摩ト命名セラル 明治四十四年四月一日 海軍大臣男爵 斎藤實 〕
  9. ^ 写真日本の軍艦 重巡(I) 1989, p. 245.
  10. ^ 写真日本の軍艦 重巡(I) 1989, p. 251.
  11. ^ a b c 写真日本の軍艦 重巡(I) 1989, p. 252.
  12. ^ 大正天皇実録第三巻 2018, p. 245a(明治44年4月1日)佐世保軍港御箸/軍艦筑摩進水式に御臨場
  13. ^ 大正天皇実録第三巻 2018, p. 245b.
  14. ^ #達明治44年4月p.1〔 達臺三十八號 艦艇類別東急別表中巡洋艦ノ欄内「利根」ノ次ニ「筑摩」ヲ加フ 明治四十四年四月一日 海軍大臣男爵 斎藤實 〕
  15. ^ 大正天皇実録第四 2019, p. 90a海軍大演習観艦式に臨御
  16. ^ a b c 大正天皇実録第四 2019, p. 90b.
  17. ^ 大正天皇実録第四 2019, p. 91a大演習関係諸員に陪食を賜ふ
  18. ^ 大正天皇実録第四 2019, p. 91b.
  19. ^ 大正天皇実録第四 2019, pp. 250–251世界戦争の発端
  20. ^ 大正天皇実録第四 2019, pp. 255–256独逸国に宣戦
  21. ^ 南洋及日本人社 著、南洋及日本人社 編『南洋の五十年』章華社、1938年、217-218頁。NDLJP:1462610/138オープンアクセス 
  22. ^ 海軍公報(部内限)第992号 昭和6年4月1日(水)海軍大臣官房」 アジア歴史資料センター Ref.C12070330200 〔○令達 官房第一〇六七號 當分ノ間除籍艦船ヲ左ノ通假稱シ部内限之ヲ使用ス 昭和六年四月一日 海軍大臣/舊軍艦利根ヲ廢艦第二號トス/舊軍艦筑摩ヲ廢艦第三號トス/舊軍艦阿蘇ヲ廢艦第四號トス 〕
  23. ^ #廃品無償下附pp.1-3〔官房第264号 昭和9年1月19日 海軍大臣 横須賀鎭守府司令長官宛 愛品無償下附ノ件訓令 横須賀海軍港務部保管舊軍艦筑摩ノ左記物品ヲ海軍思想普及ノ爲別格官幣社湊川神社宮司藤巻正之ニ無償下附方取計フベシ 追テ現品搬出ニ要スル費用ハ下附ヲ受クル者ノ負擔トス 記 一、後檣 一本(以下略) 〕
  24. ^ 『官報』第530号、大正3年5月7日。
  25. ^ 『官報』第1657号、大正7年2月13日。
  26. ^ a b 『官報』第1749号、大正7年6月3日。
  27. ^ 『官報』第2793号、大正10年11月22日。
  28. ^ 『官報』第2801号、大正10年12月2日。
  29. ^ 『官報』第3093号、大正11年11月21日。
  30. ^ 『官報』第3251号、大正12年6月2日。
  31. ^ a b 『官報』第3375号、大正12年11月21日。
  32. ^ a b 『官報』第3385号、大正12年12月4日。
  33. ^ a b 『官報』第3659号、大正13年11月3日。
  34. ^ 『官報』第3718号、大正14年1月16日。

参考文献[編集]

  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
  • 海軍省/編『海軍制度沿革 巻十一の2』 明治百年史叢書 第185巻、原書房、1972年5月(原著1941年)。 
  • 宮内庁図書寮 編『大正天皇実録 補訂版 第三 自明治四十一年至明治四十四年』株式会社ゆまに書房、2018年8月。ISBN 978-4-8433-5041-6 
  • 宮内庁図書寮 編『大正天皇実録 補訂版 第四 自明治四十五年至大正四年』株式会社ゆまに書房、2019年6月。ISBN 978-4-8433-5042-3 
  • 呉市海事歴史科学館編『日本海軍艦艇写真集・巡洋艦』ダイヤモンド社、2005年。
  • 千藤三千造他『造艦技術の全貌』興洋社、昭和27年。
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『海軍軍戦備<1> 昭和十六年十一月まで』 戦史叢書第31巻、朝雲新聞社、1969年。 
  • 雑誌『丸』編集部 編「巡洋艦の発達」『写真 日本の軍艦 重巡 I 妙高・足柄・那智・羽黒 巡洋艦の発達』 第5巻、光人社、1989年11月、235-252頁。ISBN 4-7698-0455-5 
  • 官報
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • 『明治44年 達 完/4月』。Ref.C12070062200。 
    • 『10月』。Ref.C12070062800。 
    • 『明治45年~大正1年 公文備考 巻27 艦船1(防衛省防衛研究所)軍艦筑摩、矢矧、平戸製造の件(2)』。Ref.C08020038400。 
    • 『明治45年~大正1年 公文備考 巻27 艦船1(防衛省防衛研究所)軍艦筑摩、矢矧、平戸製造の件(5)』。Ref.C08020038700。 
    • 『明治45年~大正1年 公文備考 巻27 艦船1(防衛省防衛研究所)軍艦筑摩、矢矧、平戸製造の件(6)』。Ref.C08020038800。 
    • 『公文備考 昭和8年 H 物品 巻1(防衛省防衛研究所)第1520号 8.4.8工校第16号教材保管転換の件』。Ref.C05022919700。 
    • 『公文備考 昭和9年 H 物品(除兵器)巻2(防衛省防衛研究所)第264号 昭和9.1.19廃品無償下附の件』。Ref.C05023638800。 

関連項目[編集]