第1次伊藤内閣

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第1次伊藤内閣
内閣総理大臣 第1代 伊藤博文
成立年月日 1885年明治18年)12月22日
終了年月日 1888年(明治21年)4月30日
与党・支持基盤 藩閥内閣
施行した選挙 なし(帝国議会未設置)
衆議院解散 なし(帝国議会未設置)
内閣閣僚名簿(首相官邸)
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第1次伊藤内閣(だい1じいとうないかく)は、参議伊藤博文が第1代内閣総理大臣に任命され、1885年明治18年)12月22日から1888年(明治21年)4月30日まで続いた日本の内閣

太政官達第69号により太政官制を廃止し、代わりに創設された内閣制に基づいて成立した、日本最初の内閣である。内閣制の発足と同時にその運営について規定した内閣職権が制定された。

在職期間

概要

来るべき立憲体制に備えた国家機構の確立を目指した。いわゆる藩閥出身者が殆どを占め、長州藩薩摩藩出身者を各4名ずつ入閣させる(ただし、薩摩閥の中核と見られていた黒田清隆は当初入閣せず)などのバランス重視型の布陣となった。

陸軍ドイツ式組織への改革や帝国大学令小学校令などの制定に代表される学校令と総称される法案などの教育改革、市町村制の確立などが行われ、伊藤自身も井上毅金子堅太郎伊東巳代治憲法草案を作成するなど、立憲体制への準備が着々と進められた。

だが、伊藤の盟友である井上馨外務大臣が進めた条約改正案にあった「外国人裁判官」制度と鹿鳴館に代表される欧化政策が内外の反感を買い、1887年(明治20年)に自由民権派による三大事件建白書大同団結運動、保守中正派(天皇親政派)と見られた谷干城農商務大臣の辞任を招くなど、政府批判が一気に高まった(「明治20年の危機」)。そこで伊藤はやむなく井上を辞任させて、政敵と言える大隈重信と黒田清隆をそれぞれ外務大臣・農商務大臣として入閣させ、保安条例を制定して自由民権派の弾圧に乗り出したが、憲法・皇室典範の制定事業に専念するために、1888年(明治21年)に総理大臣を辞して新設の枢密院議長に転じた。

諸制度の改革

内閣は2年半で終わったが、手掛けた政策はその後の日本に受け継がれ、発展の基礎を固めた。

官僚制度

内閣始動と共に伊藤は官僚制度の構築を始め、人材登用の方法や各省庁の規則作りも行った。内閣制度と同時期に内閣法制局を創設して法律調査・審査を主として内閣の補佐組織に定めた。また、伊藤が閣議で発案し1886年(明治19年)2月に勅令第2号として各省庁へ指示した綱領『官紀五章』は「各省に局・課を設置」「官僚は縁故ではなく試験で採用する」「布告した法律の問い合わせや雑多で組織別の区別がついていない文書が多いため、問い合わせを少なくするため法案に説明文を付属、文書も区別をつける」など組織体制と効率化を目指した内容を記し、同月に勅令第1号として公文式が発布され法体系を作り、布告を官報で統一した。

官僚育成は3月2日に勅令第3号で公布された帝国大学令で東京大学帝国大学に再編成させて総合大学を誕生、ここに学生達を集積させて実現を図った。また、1887年7月には採用試験方法として文官試験試補及見習規則を定め、高等試験と普通試験の2方式に分け、合格者は前者を奏任官、後者を判任官として省庁に登用される道を開いた。ただし1888年10月に開始された試験は合格者が少なく、採用されても試補は3年研修を経ないと正式に官僚になれない、帝国大学は試験が免除され面接のみで採用、試験を受ける私立法学校の学生が採用される余地が少ないなど不満や欠陥が多数発見されたため、文官任用令を公布、改定試験である高等文官試験が採用された1893年(明治26年)の第2次伊藤内閣まで改善は先送りされた。

これとは別に1888年4月に伊藤の手で枢密院も作られた。当初の目的は憲法草案を審議するための機関だったが、翌1889年(明治22年)の憲法公布で枢密院は新たな役割を与えられ、明治天皇の諮問機関として活動した。天皇は強大な権利を持つ代わりに積極的な政治関与は控えるが、形式上は主権者であるため天皇の補佐を担うことになった[1]

教育

教育は伊藤が見込んだ森有礼文部大臣が制度を整えた。森はかねてから国民教育に熱心で伊藤の支持を背景に大規模な改革に乗り出していった。これには儒教漢学など道徳論を重んじ西洋化に抵抗があった明治天皇と側近の元田永孚宮中に籍を置く者が不満を表していたが、森や伊藤にとっては西洋学問の中で実学を学び、機械技術や生産活動などを取得し経済力を高める技術者養成や、漢学・洋学いずれも偏重せず人が元から持っている基礎能力(知育・徳育・体育)を発達させ自立心を育み、国家の一員としての自覚を持ち社会活動が出来る人間を生み出す教育こそが大切であり、儒教による天皇への忠義だけを高めても意味がないと考えていた。

森は1885年7月に従来の教育を批判し改善策を発表、構想に基づいて改革に邁進した。1886年3月2日の帝国大学令を皮切りに4月10日師範学校令・小学校令・中学校令を公布、小学校・尋常中学校高等中学校・帝国大学(または小学校・尋常師範学校高等師範学校)に進むルートを開拓する一方、しばしば地方の演説に出かけて実業を生徒に教え根付かせることの重要性を唱えたが、1889年に国粋主義者に暗殺され教育政策は未完成に終わった。森が作った教育制度や進学体系はその後も改正・追加を繰り返しながら多様化していった[2]

地方制度

地方自治制度の改革は内務大臣に就任した山縣有朋が手掛け、明治の大合併と呼ばれる地方の合併政策を推し進めた。明治時代の地方は戸長と呼ばれる民選で選ばれた人物が地方の行政を担い、中央政府から地方への政策実施は戸長を通して行ってはいたが、基本は地方放任で戸長に任せていた。中央集権を試み地方三新法などが制定されたが、実情に合わず改変・廃止されることがあった。

山縣はこうした地方のあり方を認めつつ政府との繋がりを強化する方針を定め、1888年4月25日に市町村制を公布(翌1889年に施行)、それに伴い町村合併も推進し、1888年から1889年にかけて約7万から1万5000余りと町村の数が激減した。これは地方に求めた負担増を解決するため財政が脆弱な区画を統合しようとしたからだが、合併後も旧町村との区別がつけられたままなど不完全な合併に多くの問題が残された。ただ、それでも地方と政府のバランスを取った他の政策は評価され、中央から行政または予算の執行命令を通して中央からのコントロールを受ける案も受け入れられ、町村会選挙も国政選挙に比べて条件が低かった。

山縣は国民の政治姿勢を向上させる狙いで地方制度を作り上げ、町村会など地方政治を通して行政の理解を深め、経験を積んで中央に進出する人材登用を考える一方、国民が政治を理解しないうちから無闇に普通選挙を導入して混乱をもたらすこと、地方議会が民権派の根拠地として過激な思想に走ることを恐れ、地方自治の確立で漸進的な国民の政治に対する成熟を実現しようとした。こうした目的は思うように実現しなかったが、山縣が第1次山縣内閣1890年(明治23年)に公布した府県制郡制で地方自治は更に拡大していった[3]

外交

不平等条約改正を目指した外交は井上馨が内閣誕生前の1879年(明治12年)から外務卿の職名で担当、内閣誕生で外務大臣と改称された後も外国交渉で改正に向けて努力を続けていた。西洋列強の歓心を買うため鹿鳴館を建設、西洋に日本は最先端の文明を取り入れ文明国の仲間入りを果たしたことのアピールを強調、華美な西洋文明模倣を世間から非難されるのを尻目に着々とイギリスなどを加えた列国条約改正会議で交渉を進め、1887年4月に合意がなされ改正の骨子が出来上がったかに見えた。

ところが、ここで井上は大きく躓く。改正案は外国人裁判官任用と引き換えに治外法権を撤廃する、西洋に倣った裁判制度と法典の確立および列強に通知するといった内容に反発したボアソナード井上毅が改正に反対し、政府内部から同調者が現れ反対運動が拡がったのである。7月には谷干城農商務大臣も反対を表明して辞職、世論も反対運動を煽りたて大同団結運動に発展、収拾がつかなくなった井上は改正会議で無期限延期を外国に通告、9月17日に責任を取り辞職し改正は失敗に終わった。外相は伊藤が翌1888年2月まで兼任した後、大隈に外相を譲り辞任、次の改正交渉は大隈が担当したが上手くいかず、改正はそれから6年後の1894年(明治27年)までかかった[4]

人事

国務大臣

出身藩閥:       薩摩藩       長州藩       土佐藩       肥前藩       幕臣 (発足時:長州藩4、薩摩藩4、土佐藩1、幕臣1)

職名 氏名 出身等 在職期間 備考
内閣総理大臣 1 伊藤博文 長州藩
伯爵
1885年(明治18年)12月22日
- 1888年(明治21年)4月30日
外務大臣 1 井上馨 長州藩
伯爵
1885年(明治18年)12月22日
- 1887年(明治20年)9月17日
-[A 1] 伊藤博文 長州藩
伯爵
1887年(明治20年)9月17日
- 1888年(明治21年)2月1日
2 大隈重信 肥前藩
伯爵
1888年(明治21年)2月1日
- 1888年(明治21年)4月30日
内務大臣 1 山縣有朋 長州藩
伯爵
陸軍中将
1885年(明治18年)12月22日
- 1888年(明治21年)4月30日
大蔵大臣 1 松方正義 薩摩藩
伯爵
1885年(明治18年)12月22日
- 1888年(明治21年)4月30日
陸軍大臣 1 大山巌 薩摩藩
伯爵
陸軍中将
1885年(明治18年)12月22日
- 1888年(明治21年)4月30日
海軍大臣 1 西郷従道 薩摩藩
伯爵
陸軍中将
1885年(明治18年)12月22日
- 1888年(明治21年)4月30日
司法大臣 1 山田顕義 長州藩
伯爵
陸軍中将
1885年(明治18年)12月22日
- 1888年(明治21年)4月30日
文部大臣 1 森有礼 薩摩藩 1885年(明治18年)12月22日
- 1888年(明治21年)4月30日
農商務大臣 1 谷干城 土佐藩
子爵
陸軍中将
1885年(明治18年)12月22日
- 1886年(明治19年)3月16日
-[A 1] 西郷従道 薩摩藩
伯爵
陸軍中将
1886年(明治19年)3月16日
- 1886年(明治19年)7月10日
-[A 1] 山縣有朋 長州藩
伯爵
陸軍中将
1886年(明治19年)7月10日
- 1887年(明治20年)7月26日
2 土方久元 土佐藩
子爵
1887年(明治20年)7月26日
- 1887年(明治20年)9月17日
3 黒田清隆 薩摩藩
伯爵
陸軍中将
1887年(明治20年)9月17日
- 1888年(明治21年)4月30日
逓信大臣 1 榎本武揚 幕臣
海軍中将
1885年(明治18年)12月22日
- 1888年(明治21年)4月30日
  1. ^ a b c 臨時代理。

その他の人事

出身藩閥:       長州藩       土佐藩       その他の藩 (発足時:土佐藩1)

職名 氏名 出身 在職期間 備考
内閣書記官長 1 田中光顕[B 1] 土佐藩
陸軍少将
1885年(明治18年)12月22日
- 1888年(明治21年)4月30日 
法制局長官 - 未設置 1885年(明治18年)12月22日
- 1885年(明治18年)12月23日
1 山尾庸三[B 2] 長州藩 1885年(明治18年)12月23日
- 1888年(明治21年)2月7日
2 井上毅 肥後藩 1888年(明治21年)2月7日
- 1888年(明治21年)4月30日

脚注

  1. ^ 鈴木、P328 - P332、伊藤、P204 - P207、瀧井、P69 - P71、清水、P150 - P171、P184 - P189。
  2. ^ 本山、P168 - P172、P193 - P199、P203 - P208、P213 - P240、鈴木、P328 - P336。
  3. ^ 鈴木、P87 - P120、P193 - P196、P320 - P321、松元、P94 - P140。
  4. ^ 鈴木、P284 - P伊藤、P212 - P216、犬塚、P138 - P142、P158 - P171、P180 - P188、P197 - P200、P203 - P207。

参考文献

外部リンク