竹富島

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竹富島
竹富島では、沖縄の昔ながらの集落の様子を見ることが出来る。赤瓦がふかれた低い屋根、台風の風を防ぐための石垣、珊瑚のカケラを敷き詰めてつくられた白色の道
竹富島では、沖縄の昔ながらの集落の様子を見ることが出来る。赤瓦がふかれた低い屋根、台風の風を防ぐための石垣、珊瑚のカケラを敷き詰めてつくられた白色の道
所在地 日本の旗 日本沖縄県八重山郡竹富町
所在海域 太平洋東シナ海
所属諸島 八重山諸島
座標 北緯24度19分47秒 東経124度05分12秒 / 北緯24.32972度 東経124.08667度 / 24.32972; 124.08667 (竹富島)座標: 北緯24度19分47秒 東経124度05分12秒 / 北緯24.32972度 東経124.08667度 / 24.32972; 124.08667 (竹富島)
面積 5.42 km²
海岸線長 9.12 km
最高標高 33.1 m
プロジェクト 地形
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竹富島の衛星写真(2014年撮影)
沖縄本島と八重山列島の位置図

竹富島(たけとみじま)は、沖縄県八重山諸島にあるである。沖縄県八重山郡竹富町に属している。八重山の中心地である石垣島からは、高速船で約10分程(約6km)の距離にある。人口は361人、数165戸(2015年10月27日現在:「平成27年秋季清掃検査実績表」より。地縁団体法人竹富公民館調べ)。国勢調査によれば、262人(1995年)、279人(2000年)、330人(2005年)と漸増している[1]

「竹富」は近代になってからの当て字で、明治半ばまでは「武富」と表記されることが多く、かつてはタキドゥンと呼ばれていた。地元のテードゥンムニ(竹富言葉)では「テードゥン」という。

3つの集落が寄り添うように島の北西部に位置し、東集落は「あいのた」、西集落は「いんのた」、南集落は「仲筋(なーじ)」という。集落全体が、木造赤瓦民家と白が撒かれた道という沖縄古来の姿を保っている。

概要

竹富島には数多くの歌謡(民謡・古謡・わらべうた)、芸能、伝承、風習などの伝統文化を継承する文化遺産の島である。町並みは、重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。また、八重山ミンサーの一般的な「いつの世までも末永く」デザイン発祥の地である。島には「なごみの塔」「西桟橋」「小城盛」などの歴史的建造物が数多くみられ、また、保存状態が良好である。その他、「カイダー字」「藁算」「パナリ焼」(喜宝院蒐集館の収集物)など数多くの貴重な生活記録が保存されている。

さらに、島全体が西表石垣国立公園に指定されていること、日本最大規模のサンゴ礁である石西礁湖(せきせいしょうこ)に囲まれているなど、豊かな自然環境にも恵まれた島である。「星砂の浜」としてカイジ浜が観光名所として全国的に知られているが、最近は様々な蝶が飛び交うことから、「蝶の舞う島」とも称される(ただし、「竹富島憲章」では昆虫採取は禁止されている)。

温暖な気候、濃密な地域コミュニティ、年長者を敬う島民性、薬草が豊富に自生しており食べ方を熟知している、粗食や勤勉を貴ぶ習慣があるといった特色などから「長寿の島」としても知られている。そして、石垣島中心とした八重山諸島は日本で一番赤道に近い地域にある為、上空の空気も大気の揺らぎが少なく、屈指の星の綺麗な地域として知られている。

また、西側に位置する西桟橋から眺める夕陽はとても美しいことで有名である。西桟橋が現在の姿に整備されたのは1950(昭和25)年である。竹富島は隆起サンゴ礁でできているため稲作に適していない。しかし琉球王府時代の貢納対象は米であったため、島民は税を納めるために西表島へわたり通耕をしていた。米作りは1879年の琉球処分後も続けられていたが、1945年の太平洋戦争終結後、台湾や本土へ出稼ぎに出ていた出身者が大挙島に戻り島内の食糧事情は悪化した。島民の食糧確保のための桟橋整備は必須であり、近代的な桟橋を造ろうということで島を挙げて造られたのがこの西桟橋である。この西表島への通耕は本土復帰前後まで行われていた[2]。2005年には、隣りの島である黒島の伊古桟橋と共に、登録有形文化財に登録された。青い海に向かって一直線に伸びる桟橋は、夕暮れ時以外でとても絵になる美しい風景が楽しめる。

沖縄を代表する民謡「安里屋ユンタ」の主人公である安里屋クヤマ生誕の地である。

地理

島のほとんどが隆起珊瑚礁でできているため極めて平坦で、展望台を除けば、集落の屋根が島で一番高いところである。南北に長い楕円形をなしており、周囲は約9 km。

集落は島の中央からやや北西に位置しており、南には牧場が広がる。島の南部には県内有数規模の車海老養殖場があり、県外へと出荷されている。

島はサンゴ礁に囲まれており、島の西部には日本最大のサンゴ礁である石西礁湖が広がり、島北西部のタキドゥングチ、島南西部のシモビシ、南部の竹富南は西表石垣国立公園海中公園区域に指定されている。

竹富島憲章と赤瓦

島民は昔ながらの町並みや文化を保存しようとする意識が非常に高く、1986(昭和61)年に「妻籠宿を守る住民憲章」などを参考とした「竹富島憲章」を制定している。竹富島憲章には、「売らない」「汚さない」「乱さない」「壊さない」の島を守るための4原則と、伝統文化と自然・文化的景観を観光資源として「生かす」を加えた基本5原則をはじめ、島の伝統文化を大切にする精神や来島者を接遇する際の心構えなどが謳われている。また、同憲章の主旨にもとづいて、竹富島民の自治組織である地縁団体法人竹富公民館内に竹富島集落景観保存調整委員会(まちなみ調整委員会)を設置し、景観を保全する上で島民が直接参画できる制度を確立している。

細則の一例として、

  • 新しく家を建てる場合は必ず許可を得た上で、平屋の赤瓦の家(カーラヤー)を建てなければならない。ただし、赤瓦を葺く場合は補助金が支給される。
  • 窓ガラス等は見えにくいようにすだれなどで隠す。
  • 建物の外に看板などを露出させることは原則禁止。
  • 大規模リゾート開発を目的とした土地買収には応じない。
  • 珊瑚を砕いた白砂の道は、住民の毎朝の掃除によって美しい状態に維持されている。また白砂はアスファルトと違い、台風が来るたびに、少しずつ海に流れていってしまう。そのため、住民は砂浜で白砂を集めてきて、定期的に道を補修している。

などが挙げられる。これらの島民たちの努力の成果により、沖縄の原風景とも言える赤瓦屋根の集落が現在でも残っており、それがそのまま観光資源として生かされている。また、島のほぼ中心部にある赤山公園内のなごみの塔からは、赤瓦屋根の集落が見渡せる。

昔ながらの町並みだけではなく、自然環境も良好で、島の西側にはコンドイ浜海水浴場)や星砂(太陽の砂)で有名な、皆治(カイジ)浜などもある。しかし、現在では自然環境の変化などで星砂は少なくなった。

歴史

竹富島の出土品でもっとも古いものはカイジ浜遺跡の貝塚で紀元1000年頃と推定される。竹富町の史跡に指定されている島東北部の新里村遺跡からは陶磁器の破片や穀物の種子、石積みの跡が出土している。年代は竹富島最古の井戸といわれる花城井戸(ハナックンガー)を境に東側が12世紀頃、西側が14世紀から15世紀頃と推定される。竹富島中世の遺構として石積の状態も良好とされている花城・久間原遺跡は15世紀から16世紀頃と推定される。現在は茂みに覆われてその遺構は見学することはできない。

竹富島では、1500年のオヤケアカハチ戦争の際、宮古軍の総大将であった仲宗根豊見親が東集落南東部にある小高い丘に城を築いたと伝えられている。その地はトゥールングックと呼ばれ、豊見親の掘り当てた井戸をトゥンナーカーと云われている。また、そのオヤケアカハチ戦争の際に島の偉人として敬愛されている西塘は、首里王府軍の総大将であった大里親方に首里に連行されたと伝えられており、やがて西塘は石工として大成しその名を知られるようになった。首里城に建立されている園比屋武御嶽石門の扁額によると、園比屋武御嶽石門は1519年に竹富島の西塘が建立したとある。西塘は、1524年頃に琉球王国第二尚氏王朝第3代国王である尚真王より八重山の頭職である竹富大首里大屋子(たけとみうーしゅりうーやく)の官位を授かり、竹富島のカイジ浜に蔵元(行政府)を置き、八重山を統治すると伝えられている。

琉球王朝時代には、八重山地方の政庁(蔵元)が置かれていた時期もある。旧八重山村が分村し、竹富村(1948年に町制施行)が発足した当初も本島に村役場が置かれていたが、1938年に村外の石垣島へ移転して以来、現在も町役場は石垣市に置かれている。

稲作に向かない土地であったため、船で西表島に渡って耕作する、出作が行われていた。1945(昭和20)年の終戦後、台湾からの引揚者が帰島したため、一時は2,000名を超える人口がいた時期もある。その頃に島全体が畑と化したため、古来から保たれている森林は御嶽の周辺だけである。

文化

織物が盛んで、外村吉之助、柳宗悦、バーナード・リーチ、浜田庄司、芹沢銈介などの民芸運動家がこぞって絶賛したことから、「民芸の島」とも称される。芭蕉布の原料となるバショウや、麻布の原料となる苧麻(ちょま)があちこちにみられる。現在でも竹富民芸館を中心として、ミンサーぐんぼうなどが織られている。

竹富島で話される伝統的な言葉は「テードゥンムニ」と呼ばれ、八重山方言に属している。日本語の古語を残していると言われているが、テードゥンムニを含め八重山方言を日常で使う人は少なくなっており、ユネスコから2009(平成21)年に「消滅の危機に瀕した言語」に認定された。テードゥンムニを守り伝える活動も盛んで、島の子供達による発表会(テードゥンムニ大会)が1977年から毎年行われている(同種の催しは沖縄県内各地で開催されているが、テードゥンムニ大会が最も歴史が長い)[3]。2011(平成23)年2月に発刊された『竹富方言辞典』(前新透著・株式会社南山舎発行)は、足掛け27年に及ぶ地道な調査や、日本語・琉球語のルーツを探る上での貴重な資料として、公益財団法人日本文学振興会が主催する第59回菊池寛賞を受賞している。

祭事

赤瓦屋根の町並みと共にこの島の特徴となっているのが、一年を通して数多くの祭礼が継承されていることである。祭祀は大まかに「祈願祭」と「感謝祭」に分類することができるが、祈願祭は旧暦十干のツチの日、感謝祭は旧暦十干のミズの日を選ぶことが基本となっている。プイ(豊年祭)や結願(キツガン)祭節祭(シチ)といった八重山の各地で行われている祭に加え、世迎い(ユーンカイ)、十五夜祭(ジングヤ)など竹富島独特の祭もある。祭のなかで特に盛大なのは、国の重要無形民俗文化財に指定されている陰暦の9、10月中の甲申(きのえさる)の日から10日間に渡って行われる種子取祭(タナドゥイ)である。祭の期間は数々の神事が行われ、祭の7、8日目には多くの奉納芸能も行われる。期間中は多数の観光客も訪れて島は活況を見せる。種子取祭(タナドゥイ)が他の地域で行われる種子取祭と大きく異なる点は、粟を主作物としていることと、祈願の日を戊子(つちのえね)としていることである。つまり、粟と戊子は、竹富島の種子取の象徴ともいえる。ちなみに7日目の夜に執り行われる「世乞い」の道歌では麦、粟、米の順番で謡われるが、これは播種の順である。竹富島の祭主には地縁団体法人竹富公民館(2003年法人格認可)の館長が就任する。公民館長は毎年3月31日に開催される竹富公民館定期総会において島民から承認される。また、公民館長をサポートする2名の主事は、3集落の持ち回り制で2つの支会の会長が就任する。竹富公民館には議会が設けられており、多くの社会学者が称賛するほどの高度な自治能力を有している。議員は3支会から選出された2名をはじめ、3支会の顧問、踊り師匠、竹富町議会議員が就く。定例議会は年に6回(初議会、結願敬老議会、種子取議会、支払議会、生年議会、最終議会)あり、それ以外に公民館長が招集する臨時議会がある。議題は主に祭事行事の予算編成、島の諸問題の解決方法などを審議する。竹富公民館執行部は議会での提案権を有しているものの、議会での決議事項を遵守しながら執行している。

信仰

島内には28か所の御嶽(オン)が存在し、信仰の対象となっている。特に竹富島の始祖と云われる6人の親神を祀った御獄は六山(ムーヤマ)と呼ばれ、各種の神事の行われる最も重要な拝所とされている。竹富島の血縁者は必ず六山の氏子に所属する。ナーキヨイやプイなどの氏子が主体となる祭にはそれぞれの御嶽に集い家族の安寧や健康を祈願する。長らく竹富島に居住する移住者も島民に認められれば氏子になることができる。六山にはそれぞれ神と氏子の仲介役を務める神職、神司(カンツカサ)が存在する。神司は女性で世襲で引き継がれており、御嶽の香炉を預かる。さらに御嶽には、氏子を統括する責任者の殿居元(トゥヌイムトゥ)や氏子の世話役となるカンマンガーなどの役職があり、これらも世襲で引き継がれている。また、六山の御嶽とは直接関係はないが、種子取祭で奉納する芸能の統括者を長者(ホンジャー)といい、五穀豊穣・子孫繁栄の神とされる弥勒神(ミルク)の御面を管理する家、弥勒神の御面を着ける家とそれぞれ世襲で引き継がれている。さらに、西塘が園比屋武御嶽の神を招いた八重山唯一の首里王府ゆかりの国仲御嶽、島づくりの2神が祀られる清明御嶽を加えると八山(ヤーヤマ)、西塘の住居跡で現在は墓所となる西塘御嶽(沖縄県史跡)を加えると九山(クヌヤマ)と云う。

その他

白砂の道を行く水牛車。ガイドしながら集落内を一周する。

観光が島の主要な産業であり、島内には十数か所の民宿がある。また、旅館ゲストハウスがそれぞれ1軒、ホテルは「星のや竹富島」(2012年6月開業)、「ピースアイランド竹富島」(2012年8月開業)がある。石垣島の宿泊施設からの日帰りで島を訪れる観光客が大半であるため、島に宿泊すると、石垣島へ向かう船の最終便が出た後は昼間とは違う雰囲気を味わうことができる。

島民は年に4回(一般・祭事・結願敬老・種子取)の祭事行事を維持するため、竹富公民館の活動費を負担している。その負担額は老若男女や家庭の事情に合わせて竹富公民館議会にて決定している。それ以外にも、環境美化(道路の補修や観光客が利用する公衆トイレの清掃、海浜清掃など)の費用を賄うための環境美化費、車を所有している方や商売をしている方が対象の竹富公民館協力費を毎年支出している。これらは、3月31日に開催される全島民(18歳未満や居住1年未満の人は除く)が会員の竹富公民館定期総会にて予算決算の承認を受けている。島民ひとりひとりの努力により島が美しく保たれているという事由から竹富公民館では、少しでも島民の負担を減らすために竹富島へ取材(民宿や店舗、人物などの個別取材は除く)に訪れるマスコミ関係者に対し、公民館の活動に協力してもらうという趣旨で公民館協力費を要請している[4]。種子取祭や結願祭での奉納はテードゥンムニ(竹富島言葉)で口上するため、島民はテードゥンムニをとても大切にしており、竹富町立竹富小中学校PTAでは、毎年11月(2015年は9月4日)にテードゥンムニ大会を開催している(2015年で38回目)。

竹富小中学校は文部科学大臣賞を2回受賞している全国で唯一の学校である(2005,2011年度)。また、ソニー子ども科学教育プログラム(ソニー賞)を15年連続(2013年度現在)で受賞している。

年長者を敬う精神が篤く、毎年9月に数え年70歳を過ぎた高齢者を称える敬老会を開催している。竹富島の敬老会は2015年で92回を数える(1924年発会)。

竹富島出身者を中心とした親睦団体で、親島(竹富島)の活動をサポートする竹富郷友会(きょうゆうかい)という組織が石垣・沖縄・東京(本土)で定期的に活動している。その中でも東京竹富郷友会は最も古く、1925年に発足している。ちなみに、民俗学者の柳田國男や芸術家の岡本太郎は東京竹富郷友会の総会に出席したことがある。なお、各郷友会の総会は石垣・沖縄は毎年1月、東京は5月に概ね開催される。

星野リゾートが経営する宿泊施設「星のや竹富島」の建設計画が発表された際[5][6]、同計画に反対する住民および島外在住の竹富島出身者などによって構成された任意団体[7]「竹富島憲章を生かす会」が、同宿泊施設の建設による開発について島民の意見が反映されていないとしてより広く開かれた議論を行うよう提唱していたが、同団体の執行部は、竹富公民館長(当時)を相手取って2009年8月の竹富公民館臨時総会決議の履行、2010年3月31日の竹富公民館定期総会決議の無効を求めて提訴し、裁判問題へと発展した[8]。こうした動きに対して地縁団体法人竹富公民館では、改めて住民の総意を問うため2010年9月16日に竹富公民館臨時総会を開催し、同計画受け入れの是非を問う無記名による住民投票を実施する必要がないこと、さらに、同計画受け入れの承認を圧倒的多数で決議した。その結果、同団体は提訴を取り下げ裁判は終了することになり、竹富島は名実ともに「星のや竹富島」の建設を容認したという経緯がある[9]

文化財

国指定等の文化財

  • 「竹富島の種子取」 - 重要無形民俗文化財(指定 1977年5月17日)
  • 「竹富町竹富島」 - 重要伝統的建造物群保存地区(選定 1987年4月28日)
  • 「西桟橋」 - 登録有形文化財(登録 2005年12月26日)【*概要に記載の通り】
  • 「なごみの塔」 - 登録有形文化財(登録 2006年3月27日)
  • 「竹富島の生活用具842点」(喜宝院蒐集館収蔵品) - 登録有形民俗文化財(登録 2007年3月7日)
  • 「小城盛」(クックムイ) - 史跡(「先島諸島火番盛」のうち)(指定 2007年3月23日)
  • 「旧与那国家住宅」- 重要文化財(指定 2007年12月4日)

このほか、「八重山ミンサー織り」が経済産業大臣指定伝統的工芸品となっている(指定 1989年4月11日)

沖縄県指定の文化財

  • 史跡
    • 「蔵元跡」(指定 1959年12月16日)
    • 「西塘御嶽」(指定 1959年12月16日)

竹富町指定の文化財

  • 史跡
    • 「ミーナ井戸」(指定 1972年8月30日)
    • 「新里村遺跡」(指定 1991年9月11日)
  • 有形文化財(工芸品)
    • 「仲筋ぬヌベマの水がめ」(指定 1991年9月11日)
  • 無形民俗文化財
    • 「ササラ銭太鼓」(指定 1973年12月5日)
    • 「元タラクジ」(指定 1973年12月5日)
    • 「ジッチュ節」(指定 1973年12月5日)
    • 「祝鼓舞」(指定 1973年12月5日)
    • 「鍛治工主狂言」(指定 1973年12月5日)
    • 「しきた盆」(指定 1973年12月5日)
    • 「安里屋節」(指定 1973年12月5日)
    • 「真栄節」(指定 1973年12月5日)
    • 「種子蒔狂言」(指定 1973年12月5日)
    • 「仲筋ぬヌベマ節」(指定 1973年12月5日)
    • 「サングルロ」(指定 1973年12月5日)
    • 「タラクジ」(指定 1973年12月5日)
    • 「シドゥリャニ」(指定 1973年12月5日)
    • 「天使」(指定 1973年12月5日)
    • 「マミドーマ」(指定 1976年12月15日)

名所・自然

  • 西表石垣国立公園 - 1972年12月26日指定
  • コンドイ浜(コンドイビーチ) - 遠浅の海岸で竹富島唯一の海水浴場。コンドイビーチは2016年にトリップアドバイザーが発表した「トラベラーズチョイス世界のベストビーチ2016」の日本国内のランキングで5位となった[10]
  • カイジ浜 - 星砂の浜として知られる海岸。潮流が速いので遊泳は禁止されている。
  • 水牛車 - 水牛の歩く早さで街並を巡りながら、御者が観光案内を行う、途中では三線の演奏も行われる。民宿がコンドイ浜への送迎サービスを行ったことをきっかけに始められた。
  • 安里屋クヤマ生誕の家 - 民謡安里屋ユンタ』に歌われた安里屋クヤマの生家。
  • ンブフル - 牛が一夜にして築いたと伝えられる丘。
  • こぼし文庫 - 岡部伊都子が1972(昭和47)年5月15日に竹富島の子どもたちへ多数の蔵書とともに寄贈した竹富島初の児童向け図書館。現在は竹富小中学校PTAが管理運営している。
  • 環境省竹富島ビジターセンター竹富島ゆがふ館 - 2004年6月に開館した竹富島の資料館。環境省の施設であるが、展示内容は竹富島の文化遺産を中心としている。

交通

島外との交通

  • 八重山観光フェリー
  • 安栄観光
    • - 石垣港(離島ターミナル):所要10分 朝から夕方まで30分おきに就航。ほか、貨客船(フェリー)が週2便就航。
    • - 西表島大原港:大原港からの片道のみ、1日1便のみ就航(竹富寄港は不定期)。
  • 石垣島ドリーム観光
    • - 石垣港(離島ターミナル):所要10分、1日3便(石垣方向は他に2便あり)。ほか、高速フェリーが週2便就航。

島内の公共交通

竹富島交通路線バスを運行している。

竹富島を舞台とした作品

小説

映画

テレビドラマ

テレビアニメ

  • スティッチ! - 第2期までの舞台となった「イザヨイ島」はこの島がモデルになっている。

音楽

脚注

  1. ^ 日本の島へ行こう「沖縄県の島>八重山列島>竹富島(たけとみじま)」
  2. ^ 西表石垣国立公園竹富島ビジターセンター竹富島ゆがふ館ホームページ「今週のお知らせ」http://www.taketomijima.jp/blog/archives/000940.html
  3. ^ テードゥンムニ(竹富言葉)で思い出披露、沖縄タイムス、2013年9月7日。
  4. ^ 「竹富公民館定期総会資料」(毎年3月31日発行) 
  5. ^ 星のや 竹富2012年夏前開業予定)
  6. ^ 竹富島でリゾート開発計画 2010年の開業目指す - 八重山毎日新聞(2007年12月28日付、2010年10月3日閲覧)
  7. ^ リゾート開発に揺れる沖縄・竹富島の現状 - 日テレNEWS24(2010年5月8日付、同年10月3日閲覧)
  8. ^ 竹富島憲章を生かす会(トップページの「このHPについて」より。2010年10月3日閲覧)
  9. ^ 東京竹富郷友会(お知らせ 竹富公民館より裁判に関する正式報告 2011年1月20日閲覧)
  10. ^ 「日本のベストビーチ10選」2位以下は沖縄が独占! それでは1位は? 沖縄タイムス、2016年2月20日閲覧。

関連項目

外部リンク