突利可汗

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突利可汗呉音:どちりかがん、漢音:とつりかかん、拼音:Tūlìkĕhàn、602年 - 631年)は、東突厥の小可汗。始畢可汗の嫡子で頡利可汗の甥。突利可汗(テリスカガン:Tölis-qaγan)[1]というのは称号で、姓は阿史那氏、名は什鉢苾(しゅうはつひつ)という。

生涯

602年、阿史那咄吉世(始畢可汗)の嫡子として生まれる。

大業中(605年 - 618年)、什鉢苾が数歳の時、父の始畢可汗はその東牙の兵を統領させ、号して泥歩設(でいほシャド:官名)とした。また、什鉢苾は隋の淮南公主を娶る。

武徳2年(619年)2月、始畢可汗が死去し、什鉢苾はまだ17歳と若かったので、国人たちは什鉢苾を泥歩設に任じ、幽州の北の東突厥東部に住まわせ、始畢可汗の弟の俟利弗設を立てて、これを処羅可汗とした。

武徳3年(620年)、叔父の頡利可汗が大可汗に即位すると、泥歩設什鉢苾は小可汗である突利可汗に封ぜられ、幽州の北に牙を建てた。

武徳6年(624年)8月、頡利,突利の二可汗は国を挙げてに入寇したので、李世民がこれを征討し、頡利,突利の二可汗は軍を引いた。その後、頡利可汗は突利可汗と夾畢特勤の阿史那思摩を唐に派遣して、和睦を請願した。

突利可汗は東突厥東部に在って、などの数十部を管轄したが、重税を課したため、諸部の多くはこれを怨むようになった。

貞観627年 - 649年)の初め、突利可汗の重税により、薛延陀,奚,霫などが東突厥から離反して唐に帰順してしまう。頡利可汗はそのことに怒り、次弟の延陀設(えんだシャド:官名)に北征させ、突利可汗を捕らえて鞭打ちの刑に処した。

貞観元年(627年)、陰山以北の薛延陀,迴紇拔也古などの諸部は相次いで反乱をおこし、その欲谷設を敗走させた。頡利可汗は突利可汗を遣わして、これを討伐させたが、敗北して軽騎で逃げ帰ったので、頡利可汗は怒り、突利可汗を十数日拘束した。突利可汗はこれにより怨みを抱き、内心で謀反を考えるようになった。

突利可汗は武徳(618年 - 626年)の時に太宗と兄弟の契りを結んでおり、太宗とは親密な関係にあった。そこで貞観3年(629年)12月、突利可汗は郁射設、蔭奈特勤らとともに唐に投降した。

貞観4年(630年)、突利可汗は唐より右衛大将軍を授かり、食邑700の北平郡王に封ぜられた。また、順州都督となる。

貞観5年(631年)冬10月、唐に召されて入朝し、并州に至ったところで病死した。享年29。太宗はこれを哀しみ、詔で中書侍郎の岑文本にその碑文を書かせ、子の賀邏鶻が後を継いだ。

妻子

    • 淮南公主
    • 阿史那賀邏鶻

脚注

  1. ^ テリスカガン(Tölis-qaγan)とは、テリス(Tölis)すなわち東部を管轄する小可汗のことで、東面可汗のこと。啓民可汗も即位前は突利可汗であった。これに対し西面可汗はタルドゥシュカガン(Tarduš-qaγan)という。

参考資料